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神影の彷徨 作者:ゆちゃあ
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第七話 イキトシイケルモノⅡ / 1



 ごめんなさい

 ごめんなさい

 お願いだから今は我慢して

 お願いだからそんな目で私を見ないで

 必ず助けるから

 必ず助けるから

 許してください


▽▽▽▽▽


「ええ、そうです。はい、はい」
 ウチは彼女の電話が終わるのを待っている間に、先程からずっと手をつけられていなかったホットサンドを口に放り込んだ。恥ずかしい程に腹が鳴ってしょうがなかった。目の前に餌があればどんな犬だって涎を垂らすってもんだ。
 それにしても何とも長い話だ、先に食事を済ませてから会えば良かった。
「……ふぅ。これで好し、ですね」
「どうしてそんな話をしてたんです?」
 その人は電話を切ると満足げに機体を机に置いた。ウチと接触しているというこの状況で携帯電話の電源を入れたままでいた事に呆れはしたが、まあ知ったこっちゃない。
「種を仕込んだんですよ」
「種、ですか」
「ええ、とびっきり危険な奴を」
 ふんふん、どうやら電話先は結構重要な相手だったらしい。あまり首を突っ込むものではないとは分かっているが、どうにももう一方の雇い主と比べてしまい、こっちの雇い主の優しさには甘えてしまうのだった。
「一体誰だったんです?」
 その人は置いた携帯電話を再び持ち上げて指で弾いた。
「凄いですよ。何と件の組織と繋がりができたのです」
「……本当ですか?」
「ええ、たまたま一緒になったのですよ。あそこに所属している割に大変人懐っこい子です。ですので彼女を好意的に捉えていますよ」
「で、その好意的に捉えているっていう相手に種仕込んだんですか」
 聞いて呆れる。やはりこっちの世界で名を広めている人物にはまともな性格を期待するだけ無駄なんだな。
「……まあそう言わないでください。彼女がアレの密接な関係者でなければこの様な真似はしませんでしたよ」
「失礼、どうにもウチは口がひんまがっている様で」
「いいのです、自覚していますから」
 その人は風貌にまったく似合って無いオヤジ臭い食べ物を手に取る。金を持っている癖に何でかファミレスに入りたいと言っていたのはこれが目的だったのかもしれない。おかしな人だ。
「それ、好きなんですか?」
「いえ、好きとは思えませんでした。ですがたまたま昨日食べたのが口に合わなかっただけかもしれませんので、新しいサンプルを採取したかったのです」
 何て言うか……科学者って感じなのな、この人って。
「で、美味しいですか?」
「意外に美味しいです。昨日のがやはり塩っぽかっただけだったんですね」
「あの屋敷で焼き鳥なんて出るんですか?」
 その少女はにやりと笑うと串の両端を二つの指で挟み持つ。
「ボクがリクエストしたんです。この国には小さな串に刺したまま出す肉料理があると聞いていたので興味深かったのです」
 ウチの前ではアイシス・クラスエンと名乗っているその少女は、もう一本串を持ち上げると鳥肉を一つ一つ箸で外しながら食べる。
 何と言うか、ほんとおかしな人だ。
「ではカガミ、報告を聞きましょう」


▽▽▽▽▽


 それは久しぶりの親からの電話だった。私ではなく、『私』の。
「分かった。今度の休暇に取りに戻るね」
 両親と話すなんて何日振りだろうか。この魔法院に来てからは片手で数えられるくらいにしか連絡を取った覚えが無かった。彼等の前では私が私でいられないから苦手だった。ロシアの山奥と島国イギリスの距離以上の壁は大変に高く、好都合であった。
「それにしても、実家に手紙ですか」
 受話器を下ろしてからため息を吐く。演技を無事に終えた安堵のため息だった。

 私に対して手紙が来る事はさして珍しい事ではなった。全国からあらゆる言語で手紙は私のポストを埋めにかかる。皆天才と呼ばれる私に対する何らかの感想だった。好い方でも悪い方でも。たまに非公式な仕事の問い合わせと思われる代物も紛れ込んでいたが、私にとってそれは価値の無い物であり、周りの紙束と一緒にゴミ箱へと投げ捨てている。私が読めない言葉で送ってくるのが悪いのだ。解読に付き合う時間はとても勿体なく思えた。それに大事な内容ならば院公式のポストの方に投げ込まれるだろうから今まで不都合は発生しなかった。
 だがそれは魔法院にある私のポストの話だ。

 連絡を受けた手紙は私の実家をどうにかして調べ上げて届けられたものだという。親が読めない言語ならあの地に住む者ではないだろうし、多国籍であっても魔法院関係者ならば直接この院での共通言語と定められている英語で言ってくるだろう。ならばやはりどうでも良い内容の手紙であると推測できた。
 しかし私は実家に顔を出す理由としてそれを摘まみあげたのだった。たまには顔を出さないと本来まともな娘を持つはずだった両親に対して申し訳なくなる。私の様な者に娘を支配されて何とも可哀相だ。あんなに過保護に育てていた娘なのだ、さぞ手元に置けないのは苦しかろう。
 『私』の顔がステンレスカップに映る。この暗い顔の少女を私は悲しい目で見てしまっていた。



 久しぶりの実家は相変わらず草の匂いに満ちていた。私の仕送りで初めて導入された数々の電化製品が音と熱を生みだしている。それを両親が自慢げにポンポンと叩き渡る。余程嬉しいのだろう。
 魔法使いである『私』の両親ははっきり言って貧乏だった。まあ魔法使いとしての話ではあるので、その日の食に困るという状況ではなかったが。それでもやはり知り合いの魔法使い達からは随分と酷い扱いを受けていた。何かと仲間外れにされ、家で沈んでいたらしい。聞いた話だ。
 幼い『私』はそんな両親を見て世を呪った。そしてその怒りを両親のいない合間に周りの家具などに当たり散らして発散していた。血の所為で生まれつき弱い体に鞭打ってまで怒りを表に排出しないと自分が壊れてしまいそうで怖かったのかも知れない。
 彼女の手の届く範囲に一番危険な物が転がり落ちていた。
 それは自分の体だった。ある日彼女は怒りのままに木に腕を叩き付けた。その時は両親が家にいた為、彼等の心をこれ以上痛めない様にと音が届かない家から離れた所だった。
 その様な事は既に何度かしていた。大体は物を投げたりして発散していたのだがたまに殴りつけたりという事も確かにしていた。殴りつけるという動作は肉体に衝撃が伝わる行為である。それでも問題は起きなかった。
 だがその時は運の悪い事に樹皮に釘が刺さっていた。彼女は出血する事になる。その赤さと鋭い痛みに『私』は酷く興奮した。欲情といっても過言では無かった。流れる血を綺麗に舐め取り、痛む傷口を指で押さえつけたという。
 その日から彼女は怒りを発散する方法を変えた。その為に傷を癒す方法を両親の持つ書物から学んだりもした。
 これが彼女から聞いた過去である。それよりも前の話はあまり教えてくれなかった。記憶の共有は出来ない為、知る術も無かった。



「これがその手紙なの?」
 母親に自分の部屋の机に置かれていた一つの封筒を見せる。どうやらこれが件の目的物らしい。
 それは封筒がはち切れそうなばかりに詰まっていた。余程何かを訴えたいのだろうか。封筒には確かに開けた跡が残っている。まあ私に連絡すべきかの判断を彼らなりにしたのだろう。
 私はその手紙を鞄にしまい、壁に飾ってある幼少の『私』の写真をしっかりと焼き付けた後、両親に別れを告げた。もう行ってしまうのか、父はそう言いたげだったが私は気にせず背を向ける。やはり苦痛でしか無かった。『私』と両親の為とはいえ、長時間演じるのは難しかった。

 彼等の愛は確かだった。しかし私が宿った後からはその愛は形を変えてしまっていた。急に聡くなったわが子に距離を感じてしまったのだろうか、それまでは何かと触れていたらしい母の手が遠くなった。『私』が言うのだから確かなのだろう。
 私にとってそれは好都合だった。この体に住まう私は人という熱が苦手だった。触れれば吐き気が込み上げ、言葉を交わせば心臓が跳ねる。
 最近は幾分か後者の症状は慣れという薬で解消されて来たが、未だに握手となると吐き気との勝負だった。
 その原因を考える事は無かった。それは分かり切った答えで、それと同時に考えるだけで嫌になるからだ。
 もう考えないと誓った。誓った相手は勿論『私』だ。彼女は私がそれを考える事で起きる現象を酷く嫌った。



 タクシーの中で封筒から中身を取り出す。それは中国語であろうか、たまに見る四角い形をした言語だった。
『中国語読めます?』
  『読める訳無いでしょ』
『でしょうね』
 タクシーの運転手は相手が子供だからか、鼻歌を混じらせて運転していた。勿論彼には私達の会話など聞こえていない。
  『で、どうするのよ』
『読んでみようかなと思っています』
  『どうして?』
『わざわざ実家に送って来たくらいですから。念の為ですよ』
  『ふーん』
『……いや、ちょっと待ってください』
 私は手紙をぱらぱらとめくって最後のページの裏に英文が書かれている事に気付いた。英文ではうまく自分の思いがつづれないので自国の母語で書いてしまったと書かれていた。
『……日本からですね』
  『あのタツノオトシゴみたいな国ね』
『タツノオトシゴ……ああ確かに』
 手紙を丁寧に折り戻し、封筒の中に戻そうとした時、中々上手く入らないので何かと思い覗きこんでみると一枚の栞が入っていた。
『驚きました』
  『何が?』
『これ、日本の魔からの手紙です』
 それは魔を表わす二つの点だけで作られたシンボルが描かれていた。恐らくこの手紙の主は自分が魔であるという事をまず先に知らせたかったのだろう。
『面白そうですね』
 私はその栞を今読んでいる小説本に挟み、手紙は鞄の方へと再び仕舞った。これで忘れる事は無いだろう。緑の中を大揺れで進むタクシーの中で私は不思議とこの手紙がもたらす影響に期待を抱いていた。私は初めて魔から手紙を貰った。それは「変化」だった。



 と、言っても一から言語を理解するというのは厄介な物である。私は天才ではないのだからパッと辞書を見て言語を理解できるなんて事は無い。周りの連中は私をそんな怪物の様に捉えているみたいだが。
「試してみる事としましょう」
 それは一つの可能性だった。

 書物というのは必ず読んだ人間の思いが溜まる。非常に眠気溜め込んだ人間が始終その眠りかけの状態で読み切ったという滅多に起きないであろう場合を除いて、必ず文に対する何らかの反応が付きまとう。
 ならばその影を引き出してしまえば良いのではないか。しかし魔法ではどうにもうまくいかない。先人でも試した人物は幾らかいたようであるが、それらは全て失敗に終わった。
 当然だった。引き出す事は魔法で可能であっても、それを受信する事が出来なかったのだ。
 しかしある可能性が見出された。ある犯罪者が人の記憶を喰うというのだった。その者は対象の命と同時に記憶を奪い去ると噂されている。
記憶というのは影の分かりやすい例である。学生にも基礎学にて影を教える際に記憶を例にあげる事が多い。
 ではなぜその犯罪者は影を吸収できるのか。それはその者が所謂「地球錯誤(ほしのあやまり)」の一人だからだ。つまり本来許されていない形を持つというのだ。
 その話を聞いた途端、私は研究を進める一つの方法を思いついた。

 簡単だ、肉体そのものを作り変えればいい。そう、これが『レイ』なのだ。

 受信できないのなら受信できるよう肉体を変えてしまえばいい。そういう形を作ってしまえばいいのだ。

 人間に許されていない形の後天的拡張、それを私は研究している。

 私の中に眠る『私』の名前を取ってレイと名付けられたこの術系は意外にも先駆者がいなかった。人の長い歴史に置いてこれほどまで単純な発想を当たり前に出来る者が現れなかったのだと思うと嘆かわしい。いや、便利すぎる魔法を手にすると当たり前の事が当たり前に捉えられないのかもしれない。
 当然だ、いつでも自由に魔法で形を作成できる魔法使いが、何故地道に形を拡張していこうだなんて考える。

 では『私』の中に生まれた私が、何故レイという物を思いついたかというと、それは『私』の習慣からヒントを得たからであった。私が目覚めた頃、『私』はその体を傷つけて創傷を暫らく放置し、その滲む痛みを楽しんだ後に癒す為の魔法を自身にかけていた。彼女にとってそれはリセットの合図となっていた。治癒が完了すれば、また彼女は快楽に酔う為に再び傷を作る。傷害の快楽と疼痛の快楽を一度に楽しむ方法だった。残虐、ただただ残虐な欲を持った女であった。不愉快極まりない。
 その過程をそれこそ本人の目線で見て来た私は、体の自由を奪ってからその略奪の罪の大きさに気付き、体を返す方法を考える過程でこの記憶を利用したのだった。毎度魔法をかける事くらい造作も無い事ではあるが、どうせなら最初から魔法がかかる体にしてしまえばいい。そう言う発想だった。

  『本当に大丈夫なのよね』
「どうでしょう。正直な所不安の方が勝っています」
  『ちょっと、私の体を変な事にしないでよね』
「さあ。形の拡張自体は今まで通り成功するでしょうが、受信した後が不確定ですから」
 それは賭けに近い試行だった。形の拡張は以前からも何度も挑戦していた為自信はあった。

 そもそもこの研究室を設ける事ができたのもこれがかつて通っていた学園の園長の目に留まったからであった。元々私はその学園に特例として在籍していたので常に教師達には目を向けられていた。私の入学以前には存在しなかった「特別成績者」という、学費免除と一定の研究許可を合併させた制度であった。
 ある日図書館で疲れから眠りこけてしまっていた私のノートを、調べ物をしていた園長が盗み見たのだった。以前から奇行として図書館に住み着いていると噂されていた私の持つノートだ、園長とて気にはなったのだろう。それから園長とは親しくなり、何かと助けてもらったものだ。私はその時期の研究で健全と言える肉体を手に入れる事に成功している。もう脆弱な肉体とは離別したのだ。
 そして形の拡張が実証できるようになってから私に大きな転機の兆しが舞い降りた。何と園長は魔法院への招待状を用意してくれたのだった。最高学府である魔法院の一つに私が通うことになる可能性が突然に発生した。しかしやはり問題は経済面であった。

 今でも覚えている。魔法院に行けるかもしれないと告げた夕飯時の両親の顔を。驚愕、歓喜、絶望、目視で確認できるほど鮮やかな変化だった。鮮やか過ぎて嫌に私は覚えてしまった。

 当然のことながら私にそんな金は無かった。また、今まで学費を免除してくれていた学園長はあくまでその学園の長であり、魔法院の長ではない。教員でもなく、関係者ですらない。そんな分かり切った事に私は怨みを抱いた。手に入らない絵画をちらつかせて無駄な期待を抱かせないで欲しかった。

 しかし私は妙な形で入学する事になった。魔法院の助手としてだった。

 日の半分を午前講義に費やし、残りを睡眠と助手としての仕事に費やす事になる。私の事情を知らない周りの学生は、ひときわ背が小さく赤目の目立つ私を講義に顔を出さない怠惰な者だと嘲笑っていた。それでも私はその合間合間に魔法院の図書館に通う事を忙しさに忘れたりはしなかった。学友など一度も出来なかった。
 前例が無いという事は私に知識を授けてくれる教員がいないという事でもあった。故に自分で選んで吸い込むしかなかった。

 それは今までと何ら変わらない状況であった。魔法院であっても、私は結局自分で勉強したのだった。

 だがそれでもこの院にやって来た価値はあった。確かに自由な時間は極端に減ったが、院が誇る蔵書の重みは私の研究に置いて段違いの糧であった。

 目が文字を吸いこんで行く内に私は助手という身分から、どういった訳か、教員としていつの間にか教鞭を執っていた。時がさほど経っていないのはカレンダーの数字を見る限り確かであった。しかしその短い間に私はいくつもの経験を積み、新しい世界で泳いでいたのだった。

「形を拡張した後に本に眠る影を受信したとします」
 問題はその後だった。
「しかし影を私の肉体はしっかりと知識として還元できるでしょうか。そこだけが不確定なのです」
 あくまで作れるのは影を受信する形であって、もしかしたらただその時の記憶をそのまま脳内に埋め込まれるだけに過ぎないのかもしれない。つまり「読んだ状況」を記憶の上で一瞬で追跡するだけの結果だ。それでは私は日本語を理解する事は出来ない。理解できない記号の列を読んだという事になるだけだからだ。私が欲しいのは辞書の利用者が何かを読んでいる間に、当人が思い浮かべている日本語で構築された内容なのだ。決してその経験が欲しい訳ではない。
「いつまでもこうやって無駄な時間を過ごす訳にはいきませんね」
  『待って、本気なの?』
「本気ですよ。それにここで怯えていては私の最終目標にはたどり着けるとは思えませんもの」
 そう、『死から始まる命』、肉体の破損の無い魂の変換、そんな技術が私は死ぬ程に欲しかった。嗚呼、死ぬ程だ。私は『私』にこの体をそっくりそのまま返さなくてはいけないのだ。その為には私は魂として死ななくてはいけない。そしてその魂が消えた後にもしっかりと『私』が入るように仕向けなくてはいけない。私が死んだ時点でその術が止まってしまってはいけないのだ。それではただの死亡であるから。返すまでが私の目標なのだ。

 しかし最近になってとある現象に気付いた私は少しだけ目標にブレを抱いている。どうやら私の精神が弱まった状態では、この肉体を『私』が支配できる様なのであった。ならば魂の交換ではなく私の魂を薄めるという方法でも辛うじて成功に近い形になると思い始めた。無論それは完全な返却ではなく、異分子が混ざったままの返却になる。いずれ『私』、ミレイミルが求めた場合には完全返却を出来るようにしておかなければならない。だから予備目標として同時研究をしているに過ぎない。やはり主題は完全返却、『死から始まる命』であるのだ。

 今回の身を挺した実験は主目標に近づく為には避けては通れない技術を使用している。故に試さざるを得ない。
「もし駄目だったら……いえ、よしましょう」
 今更謝った所で何も変わらない。彼女からその体を奪い取ってしまった罪人である私が口にする謝罪など無価値であった。

 深夜の図書館には誰もいなかった。施錠されていたが司書と関わる内に手に入れた鍵を使って進入した。まあ元から夜に入るという事は伝えておいたのだが。
 あまり利用される事の無い区画へ私は進んで行った。辞書が並んでいた。私の浅い蔵書知識を利用して日本語で書かれた物といって思いつくのは辞書くらいだったからだ。

 全ての院での共通言語である英語で書かれた辞書及びその逆の辞書は、司書が居座っているカウンターの横にあらゆる言語との組み合わせで別に用意されている。他の言語同士の辞書は利用者の少なさから隅に追いやられていた。これを使う人物は私の様に各国から手紙を貰う、余所から来た教員達だ。母国語が英語以外の者は英語に慣れるまで母国語で書かれた辞書のお世話になるはずだ。まともにそれらの手紙が解読できないのであるから。いや、やけにプライドの高いこの院の教員の事だ、学生の視線に不様な姿は晒せないと、辞書くらい自分の研究室に自費購入しているのかも知れない。学生は共通言語及び母語以外の言語で書かれた何かが手元に届く可能性は低く、そのためカウンターの上に並ぶそれで間に合う。
 今回のレイの実験に必要なのはカウンターに置かれた物ではなく、利用者が少ない物である。つまり、学生含めある程度の人数が使うであろう日本語で書かれた英語の辞書でも駄目だった。日本語で書かれた、英語以外の言語について書かれた辞書こそが答えだった。それは純粋な影を抽出する為だ。教員によって作り出せる影、更に利用者の少なさからより混じりの少ない物が期待できるからだ。
 私は日本語で書かれたイタリア語の辞書を選んだ。これを手に取ったのはイタリアが園長の生まれ故郷だからだ。度々彼は自分の故郷の話をしてくれ、私はその都度手を止めて聞き入ったものだ。
「これなら平気そうですね」
 手垢など無く、日焼けによる変色だけが起きていた。
「……始めますね」
 私は階段を一つ上る為に必要な実験を開始した。上手くいく自信はあった。理論が正しければどんな言語を媒体にしていても、単語と文法を自然に理解できるはずであった。





「ふふ……ふふふふふふふふ」
  『どうしたのよ……』
「何て書いてあったと思います?」
  『理解は出来ないわよ、貴方わけのわからない言葉を喋っていたんだから』
「そうなのですか? なら教えてあげましょう。これ、ただのファンレターです」
 そう、そこに書かれていたのは私が期待した日本の魔からの特別な招待や今まで触れる事の無かった仕事の依頼では無かった。ただ単に、私の活躍を聞き付けた若い魔の女性が書いて寄越した「お手紙」だったのだ。思い返してみると確かにこの手紙の裏に書かれた英文はその事を表わしていた。
「ふふ……これは早速お返事を書かなければいけないですね」
  『貴方が返事を書くだなんて珍しいじゃない』
「だって面白いじゃないですか。こんなに期待したのに中を覗いてみればただのご感想ですよ。天才ミレイミル・クラスエンの表面的な活躍話の、ね」
 わざわざ実家を調べ上げて送りつけて来た手紙が一番私の必要としない駄文をつづった物であったのだ。
「これは和紙とかいう種類ですかね? ならば早速私も和紙を購入しなければなりません」
 そう、私も和紙に感想を書かなければいけない。勿論相手の気分を害する様な内容にはしない。私だってそこまで子供ではない。ただこの手紙の内容と同じ、感想の感想を書いて送るだけだ。
「イッシキアケミ、か。ああ日本ではファーストネームはアケミの方でしたっけ」
 だが待てよ、何故ただの魔が私の実家に辿り着く。
「まあいい。感想の感想の感想が届いたら訊いてみる事にしましょう。ふふ、何て刺激的な内容だ」
 私は手紙を丁寧に封筒へ戻し、いつも持ち歩いている勤務用の鞄の一番奥にそれをしまった。

 それは私が今さっき思い知った感情だった。

 嬉しいのだ、こんな駄文が。

 今まで開いた感想文となっている手紙は例え英語で書かれていても一度も最後まで読み通す気にはならなかった。しかし今回はもしかしたらもしかしたらと最後まで読み進めてしまった。結局そこには何も価値のある文章は書かれていなかった。

 毒にも薬にもならない内容、だけれども私が初めて読んだ他人からの思いは私に熱を与えた。

 人から受ける熱で不快にならない物はこれが初めてだった。


 もしかしたら、もしかするのかも知れない。


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