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神影の彷徨 作者:ゆちゃあ
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第六話 少女達 / (終)「今私が好きと言ったらどう答えますか」

今私が好きと言ったらどう答えますか


 波の音が聞こえる。
 混じる少女たちの声。
 連なる戯れの喜びは、未だ遅れ寒さの海を温めていた。

 少女たちの周りにいるのは幾らかの海の者、そして迷い込んだ一匹の野良犬。その野良犬はビーチボールを追いかけて来た少女、梓の手を嗅いで一度吠える。梓はその鳴き声で目をぱちくりとするが、自分の足の間に頭を擦り込んでくる犬の温かさに歓喜する。犬と戯れる梓を羨ましく思ってか、椚は寂しそうに歩み近づくと未だ梓の足に自分の首元を擦りつけている犬の尾を撫で擦る。犬は梓の股を潜り通ると今度はしゃがんでいる椚へと飛び付く。
 人懐っこい犬ですね、椚は二人を追ってきた少女達にそう語りかけた。

 有は少しだけ怯えながらもその犬の頭をつつこうとするが、犬が俊敏に避けるので中々上手くは触れなかった。そんな姿を朱水が笑う。

 その少し遠くでは、椒と由音が腰を並べていた。椒は何をするでもなく広げられたビニールシートの上にその白黒い服を飾る。ビーチパラソルの下にいるからといっても日差しは照り返しにて容赦なく彼女を熱していた。それでも彼女は涼しげであった。暑さ寒さには滅法強いのであった。冷めきった目を伏せて砂粒を睨む。
 隣に座る由音は魂の抜けかけた椒を気にかけているのか、普段は見せない親密さで何かと椒に関わっていた。今までは声はかける事あっても能動的に椒に関わる事はあまりなかったのだが。
 椒はそんな由音の行為にも何を感じるでもなくただ受け付けて過ぎるだけだった。普段ならいぶかしげに眉をひそめるかなんなりするはずであるが、今日は自分の心に余裕を持ち合わせていない為か、飲み込む一方であった。

 椒の口にプレッツェルのチョコ菓子を挿しこむ由音は楽しそうだった。





「椒姉様?」
 目の前に椚のやや閉じられた目が並んで初めて自分が呼ばれている事に気付いた。
「どうかしましたか?」
 椒は答えず、椚の目をまっすぐと見つめる。しかしその視線には何も意思が籠っておらず、見るという行為意図だけに限られたものだった。
「もしかして何所かに不調が?」
 そもそも彼女達にそう簡単に『疲弊』という症状が現れるはずが無いので、椚は体の機能の停止を疑う。しかし椒の首の動きによって否定された。
「そう、ですか」
「平気よ。どこもおかしくないわ」
 心配するなと御菓子を口に含みながら器用に告げる椒。しかし椚は離れる事無く椒の隣に座る。
「お、それなら自分が梓さんと遊んできていいっすか?」
「はい勿論です。遊んでやってくださいな。あの子も喜びます」
「やったー」
 椚は由音の底抜けに楽しそうな声に口角を上げる。
 由音は跳ね立ち、最後に一本椒の口にプレッツェルを突き刺すと、手を大きく振って犬の周りにいる少女達目がけて走る。
「元気ですね」
「羨ましいわ」
 椒の意外な言葉に椚は思わずその顔に奇異の目を向ける。しかし椒の何処かへ意識が飛びかけている様を認めると砂へと視線を移した。椒は刺さったままの数本のプレッツェルを口から引き抜くと、一本一本食べ始める。
「美味しい」
「私にも一本頂けますか?」
「珍しいわね。椚が物を口にしたがるなんて」
 そう言いつつも椒は由音が残した菓子の箱を手に取り、椚へと差し出す。
「たまには世に触れてみたくもなります」
「そう、ね」
 椚は箱から一本抜き取ると、その先端を少しだけ食んだ。
「梓を放っておいて良いの?」
「今は梓よりも危なっかしい方がいますもの」
「そう……」
 椚は素足をビニールシートの上からはみ出させ砂の上で滑らせる。普段扱う砂とは違う質である事が愉快さを招くらしい。
「尼土様ですか?」
「……そうかもね」
 椚は椒が素直に認めた事に内心驚くが、最近の彼女からしたらそれくらいの変化はあって当然なのだろうと独り結論付けた。足についた砂の一粒を指でつまむとそれを弄ぶ。
「分かってはいるつもりだったのに」
「はい」
「初めから私が選ばれることなんて無いと分かっていたはずなのに」
「…………」
「でも、だめね。多くを望んでしまうのは愚かだと分かってはいたのだけれども」
「そうでしょうか」
 椚は摘まんでいた粒を片手だけで器用に遠くへ飛ばした。椒もそのかけらを目で追うが、当然姿形が類似した同胞に紛れたそれを見つける事は出来なかった。
「望む事に初めから恐れを抱くのは無意味だと思います」
「そうかしら」
「そうですよ。だって未来は『無い』のですから」
「……そうね、私達には未来なんて無いわよね」
 椒が落胆の音を込めて組曲げた脚に体を押しつけると、椚は慌ててその体を足から引き剥がす。
「そう言う意味ではありません。未来という物は『まだ無い』物なのですから恐れる必要は無いという意味で言ったのです」
 椒は脇腹を掴む椚の手を優しく、しかしどこか冷めた様子で外す。
生者(しょうじゃ)は常に見えている恐怖と見えていない恐怖に悩まされるもの。私達は生きてはいないけれど、『思う』事ができる以上この二つからは逃れられないのよ」
「……望むというのはある未来を求める事です。ですが姉様はそれを恐れています。それは未来に恐怖の影を勝手に抱いているだけに過ぎません。既にある物に対して恐怖を抱くなら分かりますが、まだ分からない未来に対して必要以上の恐怖を感じるなんておかしいです」
「その様な考えでは誰も動けないわ。未来を予想して初めて予防線が張れるのだから」
「矛盾しています。現に動けていない椒姉様は未来を予想しているからこそでしょう。動かない事が予防線になるというのはおかしいと思いになられませんか?」
「それは……」
「それに見えてない恐怖というのは『既存だけれども不可視』という物に対する概念です。未来はまだ無いのですから恐怖に思う必要なんて無いのです」
「…………違うわ。未来は必ずきっかけが繋がって起こる事。なら『在る』のと同じ、きっかけを作ってしまえるのならそれは既に存在する恐怖なのよ」
「では見えるのですか? きっかけから姉様は未来が把握できるのですか? 姉様の見ているその世界は確実な物でしょうか?」
「…………」
「確かにある程度の予想はつけられるかもしれません。ですが必ず一つの予想された世界に辿り着くだなんて一体何所の誰が言えるのでしょうか」
 椚は再度諭す様に椒の目を間近で覗きこむ。
「今一番したい事はなんでしょうか?」
「…………」
 椒は椚の手によって挟まれた両手に目を落として答えようとはしなかった。椚はこれ以上自分からだけの思いで進むのは止めようと思い、椒の口が開くのを待ち続ける。何より、今自分が抱いている思いが主に対してどれだけ失礼であるかも分かっていたから。
 椚は自分の言葉が如何に子供染みた勢いだけの言葉か理解していたが、それでも椒が動くきっかけになればと思い、口を動かし続けた。自分の言葉の泣き所を指摘すればどれだけの時間がかかるものか。閉ざしたくなる口を無理やりにでも開いた成果だった。沈んでいる姉ならば騙せると思ったのだった。

 椚にとって主と同等に、感情が揺らげばそれ以上に大切である椒の想いを無視する事は彼女には出来なかった。

「どうしたの二人とも?」

 そんな時に、この度椒の悩みの種である張本人が横から顔を差し出してきたのだった。手には三本の缶ジュース、その銀肌を流れる水滴は己が冷えている事実を物語っている。
「あ、えっと……」
「別に、何でもありません」
「えー。絶対何か隠したよ今」
 二人の不思議な行動を遠目で見ていた有は二人の後方に置かれたクーラーボックスから取り出した冷たいジュース缶を持って突入したのだった。白熱の余り二人は彼女が声をかけるまでその存在に気付けなかったようだ。
「椒ちゃん、教えてよ~」
 有は甘える様に椒のヒラヒラの服を引っ張る。それに対して椒はツンとそっぽを向いて断固拒否の構えを展開した。そんな光景を目にして椚は小さく安堵の息を漏らす。
「仲がよろしいですね」
「んあっ、そんな事無いわよ!」
「えー、椒ちゃん酷い」
 椚の言葉に二人はそれぞれの反応を示した。
(尼土様凄く嬉しそう。きっと姉様が距離を置きたがっていたから、それが怖かったのでしょう。私という存在が二人の言葉が混じるきっかけになれたのなら幸いです)
「私は梓の所へ行ってきますね」
「お、椚ちゃんこれこれ」
 立ち上がった椚に有は慌てて手に持つ缶を渡す。握った缶は冷え切っていた。
「ありがとうございます」
(私が離れる事に恐怖を覚えていない様、これなら平気だろうか)
 椚は二度大きく礼をするとビーチサンダルを履かずに裸足のまま梓達の下へと歩き出した。一度目は缶についての感謝の礼、二度目は姉をよろしく頼みますという意図であった。

 有は空いた椒の隣を埋める。椒を久しぶりに間近に感じられて嬉しいのか、舞い上がってしまって椒の分の缶を渡す事をすっかり失念してしまっていた。
「えへへ、椒ちゃんだ~」
「止めてください気持ち悪い」
「んー良い匂い」
 有が椒の髪の毛の匂いを嗅ごうとするものだから椒は抵抗して上半身を逸らす。しかし有も負けじとその頭を追う様に体を傾ける。
 ふと気がつくと、当然に二つの顔は横に並んでいた。瞼の開閉が妙に同調した二人はそのまま数秒間見つめ合う。
「……ねえ椒ちゃん。少しお話したいんだ」
 有は姿勢を正常に戻して口を横に結ぶ。椒は眉頭を一度上げると小さく頷いた。
 有の声色に椒の第六感がキリキリと反応した。やけに馴れ馴れしかったのはその隠し持った何かを覆う為の外套だったのだと。
「私さ、朱水と出会ってから色々変わったんだ。いや、色々なんて単語じゃ駄目だね。全部が、そう、全てが変わったんだよ」
 有が缶のプルを引っ張りプシュッと小気味好い音が立つ。そして缶を斜めにしてその飲み口から大量に口内へと中身を流し込んだ。
「今までびっくりするくらい人と関わった事無いんだ。……多分椒ちゃんが今思っている像以上に酷い有様だったと思うよ」
「それは……」
 椒は言葉に詰まる。何と声をかけたら正解なのだろうか、彼女には分からなかった。有のその運命は彼女自身の力の所為でもあり、また椒の主である朱水の所為でもあった。
 未だ遠くで犬と戯れ続けている主へと視線を送る。
「でさ、朱水が私を引っ張ってくれたんだ。多分真っ暗だった部屋から、陽の光が当たる屋外へとさ。だから私は今こうして椒ちゃんとお話出来てるの」
「はい。存じています」
「朱水は……私の両親を……その、消しちゃったけどさ」
 有は上手く自分の言葉を吐露できずに苦しみながら舌を動かす。
「私は馬鹿だからその事について何も思う事が無いんだ。人が聞いたら恥知らずとか親不幸者とか後ろ指さされちゃうだろうけど」
 有は力なく笑う。
「でもさ、私には実感が無いんだよね。両親がいたっていう実感が」
「…………」
「両親だけじゃ無いよ。友達だって出来なかった。クラスでも私は浮いていたんだと思う。いや、浮いても沈んでもいなかったんだろうな。多分他の人には見えてなかったんだろうね」
「…………そんな事無いです」
 椒は自分でも理解できない否定の言葉を口にした。有がそんな悲しいと思える過去を歩んできた事が悔しかったのだった。余りに自分の想像の及ぶ範囲から離れている為、同情の思いは浮かばなかった。
 有は椒の否定を無視して自分の言葉を続けた。
「周りとの繋がりが凄く薄いそんな私にさ、ある日突然一本の手が差し出されたんだよ」
「はい」
「その人はさ、私の知らない世界を連れて来た。そして私を更に知らない世界へと連れて行ってくれた」
「有様はそれをどの様に受け取っていますか?」
 有はゆっくり振り続けていた缶をシートの上に置いた。波の音以外の水音が消えた。
「嘘偽り無く、嬉しいと思ってるよ」
「そうですか、御主人様が聞いたらお喜びになられるでしょう」
 椒は再び主へと顔を向ける。朱水は由音を抱きかかえて楽しそうに遊んでいた。
「その世界で色んな人と会った。楽しい事もあったし、怖い事だってあった。普通の生活じゃ出会う事の無い、死との直面だってあった」
「はい」
「クラスの人ともお話するようになった。朱水といっつもいるから友達と呼べる人はいないけど、今までの私が見たらびっくりするような学校生活を送っているんだ」
「良かったです。本当に、良かったです」
 椒にとってその言葉は有が元の世界に戻りたがっている事は無いという証に思えた。
「学校の人以外なら友達だってもう出来ているんだと思う。私の一方的な考えじゃ無かったらだけど」
 有は遠くにいるもう片方のグループを見ながらそう言った。
「クラスでさ、私に好意を寄せてくれる人がいたんだ」
「そう、ですか」
 好意とはどの程度の物を指すのか、椒は有の言葉の先を少しだけもやもやした心を抱きながら待つ。
「この前直接、その……告白って言う物を受けたんだよ」
「…………そうですか。良かったですね」
 棘の生えかかった言葉を椒は吐く。自重するつもりはなかった。
「うん、正直嬉しかった。今までは空気と同じだった私に好きだなんて言ってくれる人がいたんだもん、嬉しくないはずが無いさね」
 有は置いていた缶を再び持ち上げると残っている全ての液体を飲み干した。
「でも、断っちゃった」
「それは……そうでしょう」
 御主人様とお付き合いなさっているのだから、椒は内心でそう呟く。
「不安だったんだ。だってお互い知らないんだから。知らない人を好きになるっておかしいもん」
「この世には一目惚れという言葉もあります」
「いや、そうなんだけどさ、一目惚れと実際に付き合うのとは別物だと思う。……皆みたいに『とりあえず付き合ってみよう』っていう発想には持ち込めないよ。慣れてないんだもん」
 椒はチラリと有の横顔を覗く。その顔は暗がりを纏っていた。
有の言葉は椒にとって矛盾を内包している物だった。何故なら有と朱水はお互いに一目惚れに近い形だったと聞いていたからだ。少なくとも主である一色朱水は一目惚れだったと推測している。
「そもそも有様は……御主人様とお付き合いされているのですから断るのが道理でしょうに」
「……んー」
 椒の言葉に、有は屈み曲げていた背を反らし、空を仰ぐ。
「まだなんだよね」
「まだ?」
 有は小さく呟く。笑顔に近い表情であったが、眉は困惑を表わしていた。
「付き合ってはいないんだよね。多分だけど」
「多分、ですか」
「うん。状況的にはお互い付き合っているとは思っているんだけどさ、言葉にはしていないんだなこれが」
「……ならちゃっちゃと言葉にするだけの話では? 御二方は相思相愛、間違いありませんもの」
 椒は自身の感情から苛立ちを濾過せずに言葉を吐き出す。彼女は酷く頭を煮やしていた。自分の性格を理解していて、また、自分の思いをしっかりと把握している彼女には、自分の感情が有に届いている事くらい分かっていた。その上でこの様な言葉を椒本人に投げかける有に怒りを覚えてしまっているのだった。
 有は眩しさに細めていた目を椒に向ける。
「ねえ椒ちゃん」
「はい」
「私の事、どう思う?」
 その言葉を耳にした途端、一瞬椒の体が冷えた。強烈な日差しに熱せられているにも関わらず、凍える程に。そして体が一度大きく震えると、次の瞬間熱が爆発した。
「……りません。分かりません!」
 椒は暴れる怒りを顔にして立ち上がる。歯を食いしばり、手を拳に握り。もう彼女には有の思考は理解できなかった。何故本人にその様な事を訊くのか、何故敗者と分かっている者に対してその様な言葉をかけるのか。
 椒は初めて有に対して本気の怒り目を向けた。今までのとは違って、赤の感情にだけ浸った火花飛び散る程の代物であった。思わずとも殺意すら混じり込んでいた。
 だがそれを真っ向から受け止めた有は、遠くに見える沖の様に落ち着いていた。
「……私さ、今日朱水に告白しようと思ってるんだ」
「……すれば……いいじゃないですか」
「うん。だからさ、椒ちゃんに言わなきゃいけない物があるんだ」
 椒の足が一歩また一歩と退く。走り逃げる事はなかった。その気力すら無かった。
「椒ちゃん……」
「嫌です……聞きたくないです」
「ううん、聞いて欲しいんだ」
 おぼつかない足を必死に動かして、されど進まぬ体に椒は絶望を感じる。
「椒ちゃん」
 有は腰を上げゆっくりと椒の前に立つ。椒は怒りの顔を悲しみの顔に塗り替える。

 だが直ぐには言葉が出なかった。有は次の言葉を作り出すのに何度も失敗し、唇だけが動いていた。そして何度も何度も空回りした後に、やっと喉を震わせた。

「私は……椒ちゃんの事大好きだよ」
 いつか椒に対して使うべきでないと理解した言葉、それを有はとうとう使用した。
「…………」
 言葉だけを受け止めれば何と歓喜されるべき響きなのだろうか。だがしかし、椒は瞳が捉える世界から絶望しか抽出出来ていなかった。
 有の顔は決して微笑んではいなかった。いつもの愛らしい顔ではなく、酷く冷たい顔だった。
「……私は……どの様に返答……したら……良いのですか」
 溢れだす混沌とした感情に椒は舌をうねらせながらも言葉を返す。
「教えてください、私がどの様に返答したら正解なのですか!」
 少女は心からの叫びを上げる。
 相手の考えが理解できなかった。
 嫌いだと言ってくれるならそれを優しさと捉える事は出来たのかもしれない。
 だが青の少女は自分の事を好きだと言った。
 理解できなかった。
 理解できなかった。

「有君……」
 側面から聞こえる声に有が振り向くと、そこには信じられない物を見たと言わんばかりの目を向けている由音がいた。
 有の視線から解放された椒は力を失う様に砂浜に崩れ落ちる。
「ごめんなさい……二人の様子がおかしかったもんで」
 二人のやり取りに遠目で気付いた由音は、ただならぬ様子に慎重に近づいていたのだった。
 由音が椒の方へと向かうと、椒は青ざめた顔を瞬時に俯き隠し、砂を巻き上げて走り去って行った。引かれる様に有の手が伸びたが、その足が動く事は無かった。
「何、してるんすか?」
「さあ」
「さあって有君」
 椒の危なっかしい走り姿を不安げに見守っている由音は、これまた俯いている有の腕を掴んでその肩を揺らす。だが力の消え去った少女にとってその干渉は過多であり、最後の柱であった足を崩してしまう。
 一度ぺたりと足を折ったと思うと、今度は上半身を砂に押しつけんとばかりに膝に密着させる。
「有君……」
「由音ちゃんごめん、お願いして良い?」
 顔を上げないまま有は椒が去って行った方向へと指をさす。由音は目の前の有を放置する事に多大な不安と抵抗を抱いたが、彼女が指を向けたまま動かないでいるのを視界に入れ続ける事の辛さが由音を動かしてしまう。
「有君……不器用過ぎっす」
 由音はそう投げかけると椒の後を追い始めた。

 由音の足音が耳から消えてから有は腕を下ろし砂へと預けた。
(知ってる……知ってるよ)
 顔を上げて遠くの方にいる朱水達を感情の無い瞳で映す。
(でもこれで、私は前に進む事ができるはずなんだ)



 それは突然の感情であった。
 愛している人の初恋相手が戻ってくるという出来事が彼女にその感情を生みださせた。
 突然置かれた小さな分銅は、だがそれでも天秤の揺れを強め、閾値へ辿り着かせてしまった。
 焦りが作り出す強迫的な感情に抵抗できないか弱い彼女は、その潰される程重い感情から逃れる為に、天秤を揺らす分銅の一つを無理矢理に突き放してしまった。
 相手の感情など考えもせずに。

 そうでもしないと支点柱が折れてしまうと思ったから。
 朱水との繋がりが細まると錯覚してしまったから。

 どだい無理な話であった。彼女に色恋沙汰についての察しや思いやりや技術を期待するのは、偶然に水中の小さいガラス球を見つける確率程に絶望的だった。
 無色透明なガラス球は向こうに存在する色を映す。だが例え見つけ出せても彼女の持つガラス球は中の粒子が色を潰してしまうのだろう。濁りを消す為の経験が彼女には余りに不足していた。他者との関わりが希薄だった彼女には。

 相手の為の嘘も吐けない、自分の為の嘘も吐けない、そんな濁りきった純粋が彼女にこの様な行為を強制させたのだった。

 許されるなんて思っていなかった。
 今の関係が壊れないだなんて思っていなかった。
 そこまで甘ったるい脳を持ち合わせてはいない。

 だから、覚悟はしていた。



 案の定、椒を傷つけて終わった。

 傷つかせないための嘘を吐く事は出来なかった。
 傷つかせないための柔軟な着地は出来なかった。

 彼女は幼すぎた。





「有、どうしたの?」
 喉の渇きに水分を求めて戻って来た朱水は、シートの上で膝を抱えている有を目撃する。漂う尋常ではないその渋みに朱水は有の隣に座るという選択をする。
「椒ちゃんを傷つけちゃった」
「……その言い方から察するに余程の事なのね」
 普段とは違う落ち込み様に朱水は事の重大さを察する。
「うん。多分もう椒ちゃんは私のこと嫌いになったと思う。二度と私に笑ってくれないよ」
 朱水は有の背に浮かぶ負の靄に眉をしかめ、その靄を払うかのごとく背を優しく摩った。
「好きだって、言っちゃった」
「好き?」
「うん。いけないのに、嘘吐けなくて言っちゃった」
「好きって言ったのに嫌われたの?」
 おかしな事を言うもんだと朱水は軽く笑うが、横の有の落ち込み様を再び目にして両唇を付ける。
「だってそうだよ……好きじゃいけないんだから」
「何よそれ。他者を好きになる事がいけないだなんておかしいわよ」
「おかしくないよ」
「そうかしら。私には分からないわ」
 朱水は自分の脳が考える言葉そのままを音にしたのだが、それに刺激された有は朱水に怨みの混じった意思を、視線伝えにぶつける。
「だって朱水じゃん」
 突然の有からの理解できない感情に朱水は戸惑いを浮かべる。
「朱水が……朱水が……」
 ポロポロと溢れだす涙、その意味の不明さに朱水は更に戸惑う。しかし痛みすら覚える姿を前に、理解できずともただ優しく受け入れてあげたいと少女を抱きしめる。
倒れかけている柱に手を差し伸べる。

 その重さを支えられる自信があった
 柱に施された彫刻を愛していたから
 守るためにどんな力だって使える気がした

「そう、私が悪いのね」
 温もりを含んだ音色に少女は興奮から覚める。
「あ……違う……そうじゃないの」
 手を相手との間に挿し入れて、自分の身を剥がそうとする。しかし、朱水は更に力を込めて有を逃がさない。
「いいのよ。きっと本当に私が悪いのよ」
 直撃した感情の熱によって、朱水は少女からとっさに零れ落ちた言葉に偽りが混じっていない事を察していた。例えそれが何を示しているのかが分かっていなくても、自身に責任がある事くらい理解できた。
「だから私にぶつけなさいな。私は強いから平気よ」
「違うのに……違うのに」
 嗚咽で口が回らなくなり始めた有を朱水はしっかりと、されど優しく抱きしめた。



「朱水……好き」
 嗚咽が止まり、有の呼吸が整い始めた頃、彼女はそう囁いた。繋がりの無い言葉に朱水は疑問符を浮かべる。
「どうしたのよ。自棄でも起こして私にも嫌われたいとでも考えた? 残念だけど私は貴女に好きと言われても嫌いになんてなれないわよ、絶対に」
「好きなんだよ朱水」
「……ほんとどうしたの?」
 理解できない意図に流石に薄らと嫌気が差した朱水は、思わず力を弱めてしまい有を離してしまう。
 目の赤い有はこの浜に流れる弱い海風によってでさえ崩れ流れてしまいそうに脆い印象を与えた。
 有は疲れ切った面持ちで呆然と言葉無く宙を見つめる。朱水はしばらく彼女を見守るが何も行動を起こさないので、自分一人では手に負えないと悟り面倒見の良い椚に助けを求めようと立ち上がった。倒れかかってくるのを押さえる事はできるが、倒れないよう補強する手立てを知らなかった。

 しかし朱水が立ちあがると有は飛びかかる様にその手を掴む。
 驚いた朱水はその狂気すら感じる瞳に引き込まれながら立ちつくす。
 ほんの一瞬だが、生理的な恐怖を感じ取った。不気味だと感じてしまったのだ。得体の知れない獣を前にしている、そんな気分だった。
 だがやはり動かない。これでは埒が明かないと思い手を解き放ってしまおうと決心した刹那、有が立ち上がった。
「ねえ朱水」
「…………」
 理解できない有にかける言葉は無く、朱水は彼女の言葉の続きをやや睨みを利かせて待つ。
「付き合ってください」
「……何よ」
 滑り落ちた言葉は予想を遥かに超えたものだった。
「だから…………付き合ってください。お願いします」
「それって恋人としての意味よね?」
 朱水の言葉に有は小さく頷いた。その目に力は無く、そもそも朱水を見てはいなかった。
「呆れた……酷くお粗末ね。私そこまでロマンチストではないけれど、せめてもうちょっと雰囲気良い状況で言って欲しかったわ」
 朱水は突き放す様に、オブラートに包む事無く自分の思いを告げる。
 しかしいつもの彼女らしい「ごめん」という重みの無い謝罪の言葉すら出てこない目の前の有に対して、それ以上辛く当たる事は出来なかった。
「……分かったわよ。と言うよりも断る訳無いじゃない。私だって好きなのだから」
 朱水の応えにようやく有は顔を上げる。だがそれは喜びに浸っていそうになかった。朱水はそんな有を見てため息を吐くと、今度こそ手を振り払って椚達の方へと歩き出した。
「待って!」
 朱水はその大声に足を止める。それは思ってもみなかった本気の叫びだった。
「大丈夫よ、直ぐに戻ってくるからそこで大人しくしてなさいな」
「嫌だ……置いて行かないで……お願いだから……」
 明らかに再び混じりだした嗚咽の徴候、しかし朱水は振り向こうとはしなかった。

 朱水は再び歩き始める。予想していた有の妨害は起きなかった。



「御嬢様……」
 どうやら椚達にも有の叫び声が聞こえていたみたいで、二人は心配そうに朱水を迎えた。
「椚、幼稚な子をあやすにはどうしたら良いかしら?」
「はあ……」
「直ぐに答えて。あまり時間が無いのよ」
「それなら……」
 椚は横の梓をチラリと見た後、彼女に聞こえる事の無い様に朱水に耳打ちで回答を告げた。恐らく今後の教育に支障の無い様にと思っての行動だろう。本人に教育方法を開示するわけにはいかないものだから。
 椚の答えを聞くと、朱水は何度目かのため息を吐いた。



「朱水……」
 戻ってみると有は再び涙を流して座り込んでいた。腕についた砂を払おうとすらせずに、ただただ彼女は言われた通りその場で朱水を待ち続けていたのだろう。
「有、私には正直今の貴女を理解する事は出来ないわ」
「…………」
「でもね、少しだけ分かる事はあるの。とりあえず貴女は私と付き合いたいと思っている。それも契約的に、ね」
 否定の言葉は無かった。彼女も自分で分かっていたのだろう。
『付き合っている』という確かな証を欲しているに過ぎないと両者感づいていた。
「……誰にだって不安定な時期はあるわ。私にだってあったもの」
 有は朱水の唇の動きを逃すまいと弱り切っている目をそれでも上げ続けている。
「だから今はただ貴女を抱きしめてあげる。だけど約束よ」
 朱水は有の背後に回って覆いかぶさる様にその弱り切った体を抱きしめる。
「何時かまた告白して。あれではいくらなんでも悲しいわ」
「……ごめん」
 その返しにいつもの有を感じ取った朱水は更に抱きしめる力を強める。
「なんだったら私からいずれするわ。どちらが言い出したかなんて関係ないのよ。私達はお互いを愛しているのだから」
 朱水にとって今の有の焦りは何所から来るかなど些細な疑問だった。大切なのは目の前の子が流れて行かないようにしっかりと繋ぎとめておく事、それだけだった。
「汚い顔」
 前に回った朱水は涙だけでなく鼻水さえも流れてしまっている残念な状態にある有の顔を嘲る。
「好きよ有、突き放したりなんてしないわ」
 そんな状態の有に朱水は優しく強く口付けをした。
「嫌にはなるかもしれないけれど、嫌いにはならないわ」
 恐らくだけどね、今度はハンカチで有の顔を拭った後、そう囁き再び唇を付ける。

 一つ目は愛情の証
 二つ目は親愛の証

「契約的な意味では無く、私はしっかりと貴女の傍にいるわ」
「うん」
「当然でしょ。恋人だもの」

 三つ目は恋人としての証

 三つ目の口付けは氷が融ける程に長かった。





 携帯電話で智爺に連絡を入れていると、恐る恐るといった様子で椚達が二人に近づいてきた。遠くから猛獣が落ち着いている姿を確認して、帰って来たのだろう。
「御嬢様……」
 朱水の電話が終わったのを確認してから椚は声をかける。その間一度たりとも有の方を見たりはしなかった。一方で梓は椚の横でずっと有に微笑みかけていた。
「ちょっとこの子を頼むわね。私はもう一仕事あるから」
 そうとだけ言い捨て、朱水は向こうへとささと行ってしまった。取り残された三人はお互いに言葉をどうかけようかと無言の牽制を展開してしまう。
 最初に口を開いたのは有だった。
「椒ちゃんには悪い事しちゃった」
 その一言で椚は現状を把握し、今はいない姉の悲劇を悟った。
「御嬢様と正式に御交際を?」
「……うん。初めから言葉にしておけばこんな事にならなかったんだろうね」
「…………」
 正直、椚はその言葉に同意してしまった。尼土有がもっと早く主と付き合っていれば、あるいは姉の心がここまで腫れ傷んだりはしなかったのかもしれない。
 しかし自分とて焚き付けた側の者、偉そうに外野から言える立場では無い。
「これからどうしよう。ねえ私どうしたらいいんだろう」
 それは決して椚にも梓にも問いかけた言葉ではなかった。

(可哀相に。この人は晴れて恋人同士となったのにこんなにも相を暗めている)

 椚は言葉が出ずに目を反らすしか出来なかった。今の自分にかけられる言葉なんて無かった。

 だが梓が口を開く。
「皆が皆を好きになればいいんですよ」
「梓ちゃん……」
「だってそれなら誰も悲しまないじゃないですか」
 幼い笑顔を咲かせている少女の分かってしまう努力に、二人は逆に心を沈めてしまう。
「そんな悲しい顔しないでください。私は尼土様の事大好きです。姉様達だって、勿論椒姉様だって尼土様の事好きなままです」
 梓は更に笑顔を強める。だがそれが反して眉の引きつりを招いてしまい、非常に痛々しかった。
「ごめんね、ほんとごめんね」
 有は梓を引き寄せると相手の華奢な体躯を考慮せず全力で抱き潰してしまう。
 それは見たくない物から視線を外す行為だったのかもしれない。
 梓は自分にかかる強烈な力に心の中で苦しんでも、笑顔は崩そうとしなかった。横にある有の頭に己の頬を擦りつけて相手をなだめようとする。
「尼土様」
 二人の様相に我慢できず声を上げる椚。その悲痛な相に有は自分の行為の稚拙さを悟り、弾ける様に梓から離れ退く。
 しかし梓がそれを追って今度は反対に彼女が抱きしめた。そして震え怯える青の頭を優しく撫でる。いつも姉がしてくれる優しさだけが詰まった行為を真似て、せめて自分の愛を与えようと。
 有の震えはゆっくりと治まっていった。



「何をしているんですか?」
 それはさも呆れかえったといった声だった。
 三人は強い視線を発信源に一斉向ける。それは仕方の無い事だった。何故ならそれは椒であったからだ。
「ほら帰りますよ。もう車を回してくださった長が着く頃です」
 三人が口を開けて固まっているのを尻目に、椒は荷物をまとめ始める。
 全ての荷物をしまい、後はシートを丸めるだけとなった頃にようやく椒は再度口を開く。
「ほらどいてくださいな。尼土様がそこに座っていられたままでは帰れないじゃないですか」
 椒は有の背を優しく押す。だが有は青ざめて意味無く首を振るだけだった。

 尼土様

 椒は確かにそう言った

 それは二人の間に再び壁ができたという事実を物語っていた

 あえて椒がそう示唆したのだ



 有は椒に隅へと押しやられると砂に体を投じる前に立ちあがり、ふらふらと、されどその足取りの割には速く道路の方へと歩き始めた。それを追うべきか、それとも目の前の傷を隠したつもりでいる姉を慰めるべきか椚は迷ったが、遠くにある主達の影が有の向かう方へと歩いているのを確認すると出かかった足を戻した。
「今のはどういった意味でしょうか」
「あら何が?」
「何がではありません。あれでは尼土様とは……」
 椚はそれ以上言葉を続けられず、唇を悔しさで噛む。梓は椚の陰へと身を隠していた。
「何を言っているのよ。これからお二人は恋仲なのだから私が親密な愛称を使っては迷惑でしょうに」
 椒は毅然とした面持ちで応えた。だが椚にはその仮面の内部が嫌でも見抜けてしまっていた。
「そんな……」
 椚は目の前の自棄を起こしている姉に言葉を探すがやはり見つけられはしなかった。何故なら姉の言葉に多少なりとも同調してしまったからであった。
 彼女達の主が選んだ世界に自分達が悪影響を与える訳にはいかないからだ。
「椚、色々とありがとう。でもこれからはもうただの過干渉よ。これが最良の答えなのだから」
 姉は終息を急ぎ、穴だらけの幕を張った。引っ張れば千切れ落ちてしまいそうな程に脆弱な代物であった。
 幕向こうの舞台では一体姉はどの様な劇を演じているのだろうか。しかし椚は容易に覗く事の出来るそれを確かめる気にはなれなかった。
「……分かりました」
 椚は怯える梓の手を強く握りしめた。目が合っても梓は微笑む事は無かった。





 行きとは異なり智爺の車での帰りとなった一行は、車の中で誰一人とも顔を上げる事無く過ごしていた。流れるクラシックのメロディが悲しく響いた。





 玄関に入るとそこには屋敷を出た時には無かった大きな荷物が連なっていた。
「あらお帰りなさいませ」
 荷物を運ぶための台車を運んで来た槐とタイミング良く出会う。少女達の沈んだ空気に気付かずに槐は嬉しそうに告げた。
「華苗様は既にご到着されていますよ」
「あらそう。御出迎えできなくて申し訳ないわね」
「気にした様子は御座いませんでした。以前もお越しいただいた際に朱水様がご不在であった事は多々ありましたし」
「それもそうね」
 朱水から視線を外した槐は次に椒の服装に目を留めるが何も口にしなかった。その後順に帰宅した妹達の姿をにこやかに確認していたが、最後尾の有の様子に気付くと目を閉じて一度口を強く結んだ。
「尼土様、ちょっと御荷物の件でお話があるのですがよろしいでしょうか?」
 槐は空虚な目をしている有の前に立ち、その手を強く掴む。
「よろしいですね? ではこちらへ」
 半ば強制的な同意取得であったが、それだけ今の有を放って置く気は無いという心の表れであった。
槐は首を縦にも横にも振ろうとしない有の手を引っ張り廊下へと導こうとする。その途中朱水が進行を止める為になのか、小さな動きを見せたが、槐の強い意志を感じ取ると上げた手を下ろした。

 有の部屋に続く階段を上らずに横切り、二人がやって来たのは槐の部屋の前であった。

「今アイシス様はいらっしゃいませんから」
 そう言って中に入るようにと手振りで示す。有はそれに大人しく従いのろのろとした動作で靴を脱ぎ畳へと上がる。
「直ぐに冷たい物を持ってきますので足を崩してお待ちくださいな」
 それを見届けた槐は相手を刺激しない程の声量で着座を促す。だが有は座ろうとはしなかった。一度で催促を諦めた槐は小さく鼻を鳴らすとドアを閉めて言葉通り台所へと飲み物を取りに向かった。

 扉なんて些細な足止めでしかなかった。有は逃げても良かったし、槐もそれを最も大きい可能性として捉えていた。あの精神状態ではそれも仕方あるまいと思ったのだ。

 だが有は残り続けていた。少し落ち着いたのか、槐が入ってくると顔を上げて少しだけ笑みを作った。
「りんごジュースです。とびっきり甘いですよ」
 グラスに注がれた黄乳白の飲み物を勧める。この屋敷でも梓だけが口にしたがるというくらいに甘さだけを詰めた飲み物だった。
「ありがとうございます」
 相手に聞こえるように努力をしたとは思えない小さな声を出して有はそれを受け取る。その手はもう震えてはいなかった。
「美味しいです」
「そうですか。梓が聞いたら喜びます」
 姉達の同意が得られなかった梓はいじけてりんごジュースをこれ見よがしに彼女達の前で飲むのだった。美味しい美味しいと連呼する訴えも加えて。
「甘いけど、酸っぱい」
「あら、そうですか? 酸味を感じ分けられるだなんて味覚が研ぎ澄まされていらっしゃるのですね」
 何度か梓に推されて飲んだ事があったが、一度たりともその中に酸味を掴んだ例は無かった。
「良く分からないですけど、なんだか酸っぱいんです」
「そうですか」
 有はまだ中身が半分ほど残ったグラスを畳に置くとため息を吐いた。
「今日はどうされたのですか?」
 この部屋に連れて来られた時点で覚悟はできているのだろうと考え、緩衝材を挟まずに核に話を直結させる。彼女の予想通り有は大きく反応する事も無く、するすると語りだした。
「今日朱水に告白しました。その前にけじめとして椒ちゃんに言ったんです……いや言ってないのか」
 苛立ちに頭をガリガリとかく。
「なんであんな事言っちゃったんだろ。私何やってるんだろう」
「何て、仰ったのです?」
 優しい声色で槐はそれを聞き出そうとした。後悔をしている者に対して刃物を近づかせる真似はしたくなかった。
「好きだって」
「……椒に対してそれを?」
「はい……頭の中がグジャグジャになっちゃって、おかしな事を言っちゃったんです。ただ単純に朱水に告白する旨だけを告げればよかったのに……椒ちゃんのあの顔を見たら……」
 繋ぎとめるという意図では無く、椒を否定している訳ではないと告げる言葉だったと、そう言いたいのだろうか。

 それはただただ蛇足だった。それも毒爪を生やしてしまった危険極まりない蛇足だった。

「これから朱水様に対して告白すると告げた後に、椒の事を好きだと仰ったのですか」
「そうです」
「……そうですか」
 妹の心に傷を、それも痕になる様な傷をつけた目の前の少女に槐は初めて怒りを覚えた。しかし同時に同情の気も沸き起こる。それ程までに少女は悲痛な顔をしているのだった。
「好きだけど駄目だったのに……分かっていたのに。何で……どうして……」
 自身への怒りの念に歯をむき出して唸る。
「私自身は経験した例はありませんが、やはり複数人を愛する事は許されないのでしょう。誰かを選ぶのなら他者を諦めなければなりません。そう言う物なのですから」
「……はい」
「…………おかしいですよね。分かりますよ、尼土様の思いが。貴方様が仰った事ですもの」
 槐はいつもの相手をなだめる笑顔を浮かばせる事は無く、無表情に語る。
「愛という物はあらゆる方向に向かうものだと。あらゆる人物に対して在るものだと。だけれども、最後には一つだけに絞らなくてはいけない。他をわざわざ黒い布で被わなくてはいけない。そうですよね?」
 槐の問いに有は答える事は出来なかった。有はその問いに応える事はおごりであると思ったのだ。
 槐も同じだった。試したのだ、悲痛を訴えかける少女の内を。もし頷いていたらこのまま彼女を放置する心づもりであった。
 頷いていたら、有を主に相応しくない小物だと認定しただろう。
 己を正当化するだけの雑魚であると。

「はっきり言わせて頂きます」
 咳払いをした槐は有の前へと移り、下がり切った頭を両手で包み、上げさせる。
「椒にした事は許すつもりはありません。尼土様は酷い事をされました。それを私は忘れません」
「はい」
「ですが貴方様は朱水様が選んだ御方。また私自身貴方様を好いております」
 槐は目を細め幼子を窘める様に言う。
「故に貴方様を助けましょう。あの子の心がより早く癒える為に努力しましょう。後は尼土様、貴方様次第です」
 椒との関係を修復するのは有だけに任す。だが椒が己の傷を見つめないように注意をそらさせる為に色々と施行してみる。
 それが姉として有に対して、椒に対して出来る物の最大だった。
「お願いです。あの子の性格からしてこれから暫らくは辛く貴方様に当たる事でしょう。ですがどうかあの子を見捨てないでやってくださいまし」
「おかしいですよ。見捨てられるのは私の方なのに」
「……では御自分でお確かめくださいな。あの子の本心を」
 保持していた有の頭を解放すると、一度だけその頭をぽんと叩く。
「では戻りましょうか」
 有の手を取り力任せにその腰を上げさせる。

「あの子達を、どうかよろしくお願いしますね」





 二人してゆっくりと廊下を歩き、廊下の静けさに身を晒していると、皆がいるであろう談話室に今誰かが入らんとしているのが見受けられた。
「あの方が華苗様でいられます」
 華苗だという人物はこちらに気付く事無く談話室へと入っていった。入れ替わりに槿が部屋から出て来た。その手には盆が収められている。恐らく紅茶を提供したのだろう。
「あらもう良いの?」
 すれ違いざまに槿は槐に問いかける。
「ええ。ねえ尼土様」
「は、はい」
「暗い顔してる女の子は可愛く映りませんよ~。ニコニコしましょう」
「そうですよ。何て言ったって今日はお二人の記念日になるのではありませんか」
「あらあらまあまあ。それって……そう言う事よね? そうなんですか尼土様?」
 有の顔を六本指で押し和らげながら槿は訊ねるが、頬を潰されたままで上手に答えられるはずが無く、有はひょゎいというよくわからない音を発する。しかしそれでも槿には十分に通じ、彼女の目を輝かせる事になった。
「おめでとうございます! まあ何てことでしょう。これはお夕飯にケーキを足さなきゃですね」
 そう言い捨て槿は急いで台所の方へと走り去ってしまった。残された有は夕食の際に出てくるケーキを見て椒が何を思うかを心配したが、いつまでも怯えているだけではどうにもならないと思い唇をキッと結ぶ。
「槐さん」
「はい」
「私、頑張ります」
「ふふ、期待してますよ」
 有は立ったままの槐を追い越し談話室へと歩き出す。それを見て槐は両手を合わせて胸にする。
「良い結果を待っていますよ」



 談話室に入ると有は目の前の状況に絶句を禁じえなかった。
 そこには何故か槿がいたのだ。
「あらこんばんは」
「こ、こん……えっ」
 しかしよく見れば見知ったはずである槿の容姿とはいくつか違う点が彼女には見られた。服が私服であり、何より髪型が違うのだった。だがそれ以外の点は雰囲気も含めて槿その物だった。
 だが有は直前の廊下でしっかりと槿と言葉を交わしている。故にここにいるのは槿では無いと頭では理解している。
 しかしそれでもなおその容姿では槿だとしか思えなかった。
「貴方がゆうゆう?」
「ゆ、ゆうゆう?」
「あら違ったかしら」
 目の前の槿似の女性に有は首を傾げる。
 ここまで似ているなら双子等の線を疑いたくなるが槿に双子の姉妹がいるなんて話は一度たりとも聞いた覚えは無かった。
 そこに奥のソファに坐している朱水が楽しそうに声をかける。
「あっていますわ。その子が尼土有ですよ」
「まあまあ。お会いできて光栄だわ~。お話聞いてるわよ~」
 有はその槿に似た口調に更に驚く。一体目の前の女性は何者なのか。
「華苗……さんでしょうか?」
「まあ、私の名前御存知なのね」
「え、ええ」
 廊下で槐が指摘した人物の横姿を思い出せばこの人物が華苗という存在なのは間違いなかった。しかしその槿との類似性に混乱してしまっている有にとって、二つの点を結ぶ線を引く事がなかなかできなかったのだった。
「私、四ツ橋華苗(よつはしかなえ)と申します~。今後ともよろしくですわ」
 本人の特定が終了して相手を観察するだけの落ち着きを取り戻した頃、有は更に幾つか槿との相違に気付く。
 何より彼女の方が大人びていた。椚によって彼女の年齢を事前に知っていた有は、ああ確かにとその年齢に納得してしまう。失礼な話だが。
「こちらこそ。朱水にお世話になっております、尼土有と申します」
「ゆうゆうね、よろしく~」
「……あ、ゆうゆうって私の事だったんですね」
「ん~? それ以外誰を指すって言うの?」
 本気で分からないと言いたげな華苗の表情に有は苦笑せざるを得なかった。
(想像していたのと大分違うなぁ)
「あけちゃん、えんち、むーちん、かたちん、あおちゃん、はじはじ、くぬぬ、あずちゃん。それから智さん」
 華苗は指を折りながら何かを呟きだした。恐らくこの屋敷の住人なのだろうと、最後の言葉から有は察する。
(智さんって執事さんか。なら、あけちゃん朱水、えんち槐さん、むーちん槿さん、かたちん……枳さん、あおちゃん梧さん、はじはじ椒ちゃん、くぬぬ椚ちゃん、あずちゃん梓ちゃん、皆のあだ名なんだろうか)
「ん~? どうしたの?」
「いえ、別に」
「ん~?」
 二人のやり取りをにやにやとした目つきで遠くから見ている朱水を有は怨みがましく見返す。
 二人が微妙に噛み合わない会話をしているとコツコツと靴音が鳴り、新たな訪問者の影を知らせる。槐と椒であった。
 槐は一礼をするとそのまま二人を横切り奥へと向かっていった。
「ようこそ華苗様」
「はじはじ、お久しぶりね。相変わらず可愛いわ~」
 入口に残ったのは未だいつものメイド服へと着替えていない椒であった。有はその姿をチラリと見た後直ぐに目を反らす。しかし思い直し再び顔を向けると笑顔を浴びせる。椒もその姿を見ていたがこちらは何も反応を表わそうとはしなかった。
「あらまあ。むーちんったらまたこんな服をはじはじに着せちゃって。ゴスロリって言うのだったかしら、ほんと好きよね」
「槿姉様の趣味にはついていけませんわ」
 そうは言いつつもスカートの裾を持ち上げて膨らまし、得意気に一回転して見せる。ドレス調であるゴスロリ服の厳かな黒フリルが空気を飲み込みながらなびく。黄髪の彼女には黒がとても似合っていた。
「可愛いわね~。私が着るには流石に年齢的に無理だから、飾る為にでもむーちんに作ってもらおうかしら」
「華苗様の美貌なら向こう二十年は平気ですわ」
「いやね~、はじはじったらそんな御世辞言う様な子になっちゃったのかしら」
「お世辞ではありませんわ。尼土様もそう思われませんか?」
「……え、あはい」
 予期していなかった椒による突然の振りに有は反応できる訳が無く、その場凌ぎの同意となる。まさか椒がこの場で自分に話しかけるとは微塵にも思っていなかったのだから仕方が無い。
「ほら見なさいな、ゆうゆう困っているじゃないの。もう勝手知ったる仲なのだから私に対してお世辞なんて使わなくて良いのよ~」
 華苗は椒の服を再度じっくり見渡すと、何度も頷く。
「良いわね~。やっぱ頼んでくるわね。むーちんはどちらに行ったのかしら?」
「私から伝えておきますわ。華苗様は御休みくださいまし」
「のんのん、これくらい自分で言いに行くわよ。これでも毎日社長として労働しているんだからね~。自分で出来る事は自分でやる主義なの」
 そう言って元気よく手を振って彼女は廊下へと出ていった。しかし直ぐに足を戻す事になる。
「聞き忘れちゃったわ。むーちん結局何処にいるのかしら?」
「そうですね今の時間なら……」
「あ、槿さんなら多分台所に行ってるかと」
「ナイス、厨房ね。ありがとうね~」
 有にウインクを残して華苗は再び廊下へと飛び出していった。今度は戻ってくる気配は無さそうだった。
 ずっと遠くでにやにやと眺めていた朱水がソファの横を叩く。座れという合図だろう。有はそれに従いソファにゆっくりと腰を沈めた。
「変わってるでしょ?」
「うーん、ちょっとね。皆にあだ名つけてるんだね」
「あの人昔からああなのよ」
 朱水は可笑しいでしょと手を振って笑う。
 もし今日の出来事が無かったら今の朱水の行為で有は腹水を溜めただろう。だがここにいる有は朱水の言葉を痛みとして受け取るなんて真似はしなかった。
「色々聞いたよ。社長さんなんだってね」
「喋ったのって椚でしょう? そうね、あの人はある意味この家の大黒柱なのかもしれないわね」
「でも朱水の方が会長なんでしょ?」
「あの会社では会長なんてただの飾りなのよ。御給料を吸い取っている寄生虫みたいなものね。まあ高校生故、会社の経営に口出しできるはずが無いのですから御飾で結構ですけど」
 卑下にまみれた嫌な言い方だと有は感じたが、朱水本人がそう比喩するのだから流しておく。
「高校卒業したらその会社に勤めるの?」
「どうかしら。今更のこのこと顔を出した所でひんしゅく買うだけでしょうね。ましてや私の年齢を知ってしまったら社員のやる気が削がれてしまうかもしれない」
「どうして?」
「決まってるじゃない。いつの間にか会長として居座っている、顔写真も載っていない名前だけの上司だった人物が、ある日いきなりぽんと現れ実は未成年でしたなんて言ってみなさいな。普通の頭をしている人間なら『この会社はおかしいんじゃないのか』って思うでしょうに」
「うーん、そうかもしれない」
「お情けで御給料を頂いているのが現状だけれども、いずれかは離れなくてはいけないのよ。それまでにあの人に色々教えてもらわないとね。当然有、貴女は私の部下として働いてもらうからね」
 朱水はじゃれて有の首を撫でる。
「二つの意味で部下なのだから当たり前よね」
「が、がんばるよ」
 自由は無いのだろうけれど、就職先が決まっているという風に捉えればそれも良いかもしれないと考える。
 だが有は納得していなかった。この屋敷全ての経費を会社一つから頂いているのだろうか? それは難しいのではないか? しかし一介の高校生でしか無い彼女はお金の話ができる程には知識が及んではいないので閉口継続を選ぶ。
 ふと視線を入口に向けると椒が立っていた。
(嘘、ずっと立ってたの?)
 その立ち位置は間違いなく華苗と言葉を交えた場所だった。つまり彼女は有が朱水の横に座ってからもずっと同じ位置に立ち続けていたのだった。談話室の奥には梓をあやしている椚、そしてそれを眺め楽しんでいる槐がいるのに、彼女はそちらに足を運ばず立ち尽くしていた。
 少し鈍いと自覚している有でもそれが構って欲しいという合図だという事くらいは気付けた。だがその合図の存在自体に気付く事ができずに彼女を放置してしまっていたのだ。当然有は冷や汗をかき、何かしなくてはと必死に頭をこねくり回す。
 こねくり回している最中に辿り着いたのは、彼女がそこに立っている理由の一つと思われる事情であった。彼女を連れて来たのは紛うことなく槐であろう。一緒にこの部屋へとやって来たのに入室の時間が彼女とあれ程開いたというのは、その間に彼女が何かをしたからに違いない。そしてその答えが椒であった。
 そして今も彼女は何かを待ってあそこに立ち続けている。
(行くしかない。槐さんに報いる為にも、椒ちゃんと仲直りする為にも)
「朱水、私達今日はもう帰るね」
「……え、どうしたの?」
「私馬鹿だから手段の選択肢があんまり浮かばないんだ。それに今すぐ謝らないともっともっと状況が悪化しちゃいそうだもん。だから、ごめんね」
「……そう」
 朱水は納得している様には映らなかったが、それでも有は椒を選んだ。それは朱水への信頼の裏返しであった。信じてるからこそ、今は椒を選んだのだ。
「梧さんと槿さんに謝らなくちゃ。急いで行ってくるね」
 有は立ち上がり朱水に頭を下げた。予想だにしていなかった朱水は当然目をパチクリさせる。
「記念日なのにごめん!」
「……記念日? 今日は何かの記念日なのかしら?」
「え、いやあれだよ……二人のさ……」
 有の言わんとしている事が分からないと朱水は小さな仕草で表わす。その姿に有は幾らかの安堵を掴みとった。
(記念日とかそういうのを気にしない人なのかな。なら良いか)
「いや、何でもない。じゃあ、また明日ね」
「そうね。また明日学校で合いましょう」
 納得したといった朱水に有は申し訳なさそうに手を振り、もう一度頭を下げると入口へと歩き始めた。
 有の前に不安に顔を染めている椒が迫る。
「椒ちゃん……帰ろっか」
「よろしいので? 夕食の準備はしていませんよ?」
「うん、良いんだ」
 動かない椒の手を取り強引に廊下へと進む。一度引かれ動いた小さな体は止まる事無くその力に身を任してくれた。
「今日は私が作るよ。だから由音ちゃん拾って帰ろうよ」
「……御主人様に申し訳ないとは思わないのですか?」
 椒の棘の生えた言葉に有は一瞬だけ足を止めるが、振り向きもせずに再び足を動かし始める。
「朱水以上に申し訳ないと思っている相手がいるからさ。その人に全力で謝りたいんだ」
「…………」
 返答する意思が無いのを察した有は手を握る力を緩めて椒を解放した。離れた手は一度だけ名残惜しそうに追い触れると、また離れていった。
 有が再び前へと歩き出すと椒もとぼとぼとそれを追ってくる。

 廊下の先を歩く有は辛うじて聞き取れる椒の靴音に心をなだめながら進む。相手に気付かれぬように少しずつ歩く速度を抑えていくが、椒がそれ見破っているのか一向に距離が縮まる事は無かった。何度か試した揚句諦めて一定の速度で歩く事を決心する。自分の速度に合わして歩くと言うのなら、速度を一定にしても離れないと考えついたのだった。
「尼土様」
 椒の突然の声に有はこけそうになりながら止まる。
「そちらは尼土様の御部屋に向かう経路です」
「……ああそっか。まずは台所行かなきゃ」
 慌てて階段にかけた足を下ろし、取り繕う様な笑顔を浮かべて椒の前を通過する。
「尼土様」
 椒はまた有を呼び止めた。
「多大な思い上がり、失礼します」
 椒は一歩前に出、有を見つめる。それはこの屋敷に戻ってきて初めて意思が正面から噛み合った瞬間だった。
「もしかして尼土様は罪滅ぼしの感覚でこれからの行動に移ろうとされていらっしゃるのでしょうか?」
「……そうかもしれない」
「ならば私から訂正させて頂けなければなりません。そもそも尼土様は決して気に病む必要は無いのです」
 有は椒の強張った相をまじまじと見返す。その鋭い切っ先にも椒は耐えた。
「あの時は感情が高ぶってしまい失礼な事をしてしまいました。私の様な者が何を勘違いしたか一丁前に恋心などを抱いてしまい、ご迷惑をおかけした事を深くお詫びいたします」
「……なにそれ」
「言葉の通りです。私は失念していたんです。自分達が生き物では無い事を」
 最近まで椒は自分の事を生物ではないと自覚しているつもりだった。しかし日常を過ごしている間に自分が一般的な生活を実行しているからか、まるで自分が周りの魔や人間と同じなのではないかと錯覚してしまっていた。
「……そんな事言うのよしてよ」
「いいえ、これは事実なのです。尼土様の前にいる存在は鬼神城と言う人形に過ぎないのです」

 自分が何者なのかを再び思い出せたのは今日の主の御蔭だった。

 有から逃げた後、大きな岩陰に隠れていた所を由音に見つかったが、暫らく放っておいて欲しいと懇願した。由音はその切な要求に根負けして椒からは死角となっている場所に移動すると、ここで待っていると告げ腰を下ろした。椒はもっと離れて欲しかったがそれ以上周りに気を向けるのは苦痛だった故、無視をした。
 しかし暫らくすると新たな追跡者が現れた。一色朱水、彼女の主である。
 朱水は椒を見つけるとその頬に手を添え、ごめんなさいと謝った。

 その言葉は椒にとって一つのスイッチとなる。

 何故己は主の心を痛めつける真似をしているのか、何故主の愛を裏切ろうとしているのか。怒りが全身を駆け巡る。椒はひざまずいて主の手を取り両手でそれを包んだ。
 朱水はその行為が何を示すのかを悟り、彼女がしたいがままにさせた。

 椒の中で感情が渦を巻き一つの塊へと凝集した。



「正直に言います。私、尼土様の事好きです」
 椒は今までの彼女では考えられない程に素直に自分を伝えた。
「だけど駄目なんです」
「駄目って」
「尼土様もお気づきになられている通りの理由です。敢えて口にはしませんが、この件に関しては私が導いた答えが最善だと理解していただけるはずです」
 椒の意思の固さを象徴した眼光に有の息が詰まる。
「もちろんこれからも尼土様をお守りします。使命と言う意味でも、私自身の望みとしても」
「…………」
「ですから尼土様は御主人様と……」
「やめて!」
 有は堰を切った様に突然大声を出す。反動で息を飲み込んで体が跳ねた。
「もうやめてよ……その尼土様って言うのやめてよ」
「これは私の覚悟です。それと、けじめなのです」
「嫌だ、そんなの絶対に嫌」
「嫌と申されましても」
「絶対に嫌ぁ!」
 声を荒げ凄む有は、幼子が駄々を捏ねるか如く身を震わせる。
「嫌ぁ!」
 高校生ともなる人物が、廊下の真ん中で誰かに手を差し伸べてもらうのを待つかのように大声を上げる。自分の意思を拾ってもらおうとする為に感情を体で表現する。
 癇癪、この単語が完全に当てはまっていた。

 その姿に椒は有の根源に眠る幼さを嗅ぐ。

「……分かりました。では尼土様と言うのはやめましょう。今まで通り有様とお呼びします」
 椒は自分よりも大分背の高い少女を今一度観察する。
 涙をいっぱいに溜めている少女。

 目の前のこの魔は真に幼き心を抱き続けているのかもしれない。
 だからあのような言葉を自分にかけたのではないか。
 嘘のつけない程に幼い彼女が精いっぱい考えた結果の行動だったのではないのか。

 その幼さの原因は何なのか?
 決まっている。彼女自身の能力に起因している。
 他者との摩擦を経験する事が少なかった彼女は、故に幼稚なのだ。

 彼女がよく使う一人称である『お姉さん』とは、自身の幼さへの無自覚な対抗心から来る物なのかもしれない。

 椒は自分の心が揺れているのを感じ取る。その精神の揺らぎは肉体の同調として表面化する。ふらふらと軽い目眩が椒を襲い、その足が二三歩下がった。
 有はそれで凍らされた様に急激に停止した。椒が自分の愚行に萎えたのだと思ったのだろう。
 しかし椒は頭を指で支えると穏和な声で言った。

「私、絶対に有様を守ります」

 気付いてしまった。
 新たな感情が芽生える。

 椒は己に芽生えた温かさに戸惑いながらも、有に触れる。怯える有はその指先を自分に触れるまで目で追った。
「椒……ちゃん」
「行きましょう。そして一緒にお料理をしましょうよ」
 椒の頬が自然に緩む。それは今まで有へ向けた事の無い笑顔だった。





 有達が廊下へと消えていったのを見計らって槐が腰を上げる。
「よろしいので? 先程まで記念日だと嬉しそうに仰っていたそうじゃありませんか」
「良いのよ……それに本当の記念日がいずれ出来るのだから。今日のあれではちょっと記念というには弱過ぎたのよ」
 朱水は悲しそうに呟く。決断にあたる心情を考えると槐はそれ以上続ける気にはなれなかった。
「智爺にあの子達を送るよう伝えておいて。由音ちゃんも多分一緒でしょう」
「承知しました」
「……あの子達上手くやれるのかしら」
 独り言のように呟かれた言葉に、槐は応じるべきか迷ったが答えた。
「尼土様はどうやら関係修復に乗り気みたいですし、問題は椒の方ですね。ですので私がちょちょーっとお手伝いなんかをしてみようと思っているんです」
「いえ……」
 朱水は槐の計画を聞くと小さく首を横に振った。
「その必要は無いのよ」
 それは椒の変化を知ってしまった朱水のやるせないというため息だった。





 槿が楽しそうにクリームを泡立てている所に有が帰宅する旨を告げると、槿はクリームの中へ脱力した右手を落としてしまった。飛び散ったクリームが槿とその横にいた梧を汚す。その姿を見て有は全力で謝罪し、なんとか槿の臍を曲げさせずに帰宅の報告を終える事に成功した。それでも槿はせめてケーキを持ち帰ってもらおうと二時間程待ってくれないかと食い下がったが、梧がその口を塞ぎ有達を逃がしてくれた。有が申し訳ないと告げると梧は「私達で消費しますから」とだけ口にし目を閉じた。



 次に由音に一緒に帰宅するかどうかを尋ねに彼女の部屋を訪ねた。
「へ、もう帰るんっすか?」
「うん……今日は私が料理したいなって。勿論由音ちゃんの分も作るつもりだよ」
 由音は居心地悪そうにしている椒をチラリと盗み見すると親指を立てる。
「了解っす。自分は全然オッケーっすよ」
「そっかぁ良かった。じゃあ私達も荷物まとめたら由音ちゃん拾いにここに来るから、その時までには準備しておいて欲しいな」
「はいはーい」
 このひたすらに明るい少女と言葉を交わす事で有は傷んだ心を少しだけ癒す。
 ふと由音は椒に目を向けた後、思い出したと左手を右手で打つ。
「そうそう有君、面白いネタを手に入れたんっすよ」
 椒に聞こえない為にと、有に耳打ちで話しかける。
「ネタ?」
 由音は厭らしく笑って口を猫の手で覆う。
「先程四ツ橋華苗って人物を見て不思議に思ったんでアイシスさんに電話で訊いてみたんです」
「不思議にって、何が?」
「いや、だっておかしいじゃないですか。あんなに槿さんと似てるんっすよ? これは何かあるなって思ったんで詳しそうなアイシスさんに訊ねてみたら……」
 由音は有の食い付きを待つ為にわざとらしく深呼吸をする。勿論有もそんな事をされたら喉の奥から痒みが湧いて出てくる訳で、由音の期待通りの食い付き振りを見せた。
「早く早く、もったいぶらないで~」
「ふっふっふ、それはですね……なんと彼女自身が槿さんのモデルだからだそうですよ」
「モデル?」
「そうっす。彼女達の容姿はその主である朱水さんに影響されるっていうのは御存知でしたか?」
「あー、確かそんな様な話しを聞いた気もする」
「アイシスさん曰く槿さんまではモデルがいるんだそうです。つまり四ツ橋さんを槿さんに投影したんっす」
「へー」
 由音のとびっきりの話に有は関心と驚きを大いに抱く。そしてある一つの点に気付く。
「槿さんまでって事は……」
「そうっす。槐さんにもモデルがいるんっすよ。誰だと思うっすか?」
 有は槐と容姿が似ている人物を探し出そうと一瞬脳を開こうとしたが、答えなんて考えるまでも無く導きだせた。
「簡単だね。絶対朱水でしょ」
 しかし由音は腕でバツ印を作ると楽しそうに跳ねた。
「大間違いっす。正解は……なんと一色景(いっしきけい)っすよ!」
「一色……景?」
「分からないっすか? 朱水さんの母親っすよ」



▽▽▽▽▽



「まあこんなもんで良いだろ」
 一つの死体を前に二人の人間が佇んでいた。
 炎の赤を揺らめかす女性は、虚ろな目を死体に向けている少年に誇らしげに言葉を投げかける。褒めろ褒めろ、彼女は猫目で無言の催促をする。
「ありがとうございます……」
 少年は嫌悪を滲ませた声で応えた。

 別に加々美の事を嫌っているわけでは無かった。単純にこの状況が不愉快なのである。何故なら無残な死を迎えた自分の死体を目の前にしているのだから。

 警察がこれを見たらどういう案件として処理するだろうか。安直な発想なら自殺、そうなるはずだ。

「分かり易い死に方だろ? 首吊りなんて自殺以外の可能性の方がかなーり低いってもんさ」
 そして分かりやすく縄購入の際のレシートを財布の中に忍ばせる。実際に買って来たのは死んでいない方の彼なので、例え警察が跡を辿ればますます自殺の臭い漂う演出になっている。

 ただ動機が無いのが多少不安ではあった。まあそこは突発性の心の病とでも解釈してくれるだろうか。

「こんな顔になるんですね……」
「どうだろ? ウチ自身は首吊り死体なんて見た事無いからね」
 え、と少年は当然眉をゆがめる。自信満々に死体を用意してやると言っておいてその言葉なのか、宇津井一は初めて加々美に失望した。
「まあ安心しな。正解に限りなく近い状態になってるはずだから」
「そうなんですか」
「ああ、実際に首括って死んだ人間の最期をちょっと拝借したからさ。間違いはないはずだ」
 またこの人はおかしな事を言う、一は心の中でそうぼやいた。



 それは加々美からの提案だった。
 このまま行方不明の扱いになるのは家族の負担になるだろうからと、「死んだ方が良い」と言って来たのだった。当然一は最初何を言っているのか分からず不安げに睨み返すだけであったが、加々美の淡々とした説明を聞くうちに彼女の言わんとしている事が把握できた。

 要は偽物の死体を用意して自殺した事にしてしまおうという話だった。



「これならきっと家族も余計な心配をしなくてすむと思います」
「そうだと良いな」
 死を受け入れる事自体が大きな衝撃なのだが、永遠に帰らない息子を待つよりは終わりあって良いだろう、そう思って一は受け入れた。
「こういうの、慣れてるんですか?」
 それは彼が加々美の手伝いとして初めてした彼女の仕事に関わる質問であった。
「こういうの?」
「死体を用意するとかです」
 加々美は「ん」と答えになってない音で小さく応えた後、暫らく一の顔を凝視する。一は慣れていない他人からの異常な注目に、抵抗する事無く目を背けた。
「ハジ、魔法使いの素質って分かるか?」
 ハジ、それは星井加々美が宇津井一を呼ぶ時に使う名前だった。加々美にとってはあだ名と言うほど親密な手段ではなく、単純に三文字より二文字の方が呼びやすいからという怠け者の最たる意思が働いての名付けだった。
「いえ、分かりません」
 そもそも一にとって魔法使いというのは物語の住人であったので、今まで一度たりとも真面目に考える事が無かった人物達である。素質と訊かれて直ぐに答えを出せるものでは無かった。
 加々美は宙吊りの死体を前後に押し揺らしながらゆっくりと喋る。
「魔法使いの一番の素質はさ、『嘘吐き』なんだゾ。だからウチがこんな死体を用意する事ができるのは当然のことなんだわ」
「嘘吐き?」
「そうだ。世界を騙せる能力に長けている者だけが魔法使いになれるのさ」
 加々美はいつもとは違った笑い方をした。「悲しいだろ?」そう語りかけている様だった。

 道理で、一は今一度吐き気催す己の死の結果を見直す。

 道理で嫌な気分になるわけだ。

 なけなしの正義感が騙すという行為に抵抗を示していたのだった。
 嘘は、好きじゃなった。



▽▽▽▽▽



 今私が好きと言ったらどう答えますか
 そんな悪戯染みた言葉を吐きそうになった
 余裕が生まれたのかもしれない
 不思議と落ち着いていた
 相手の困った顔を見たくなった
 私を困らせたのだ
 それくらい見せてもらっても罰はあたらないはず

 心と言うのはふとしたきっかけでまるで違う物になる
 オセロゲームの様に一枚の駒でくるくると局面が変わっていく
 小さな丸い白を置いただけで周りの黒が白へと変わっていく
 心はマスが一億も二億もあるオセロゲームなのかもしれない
 私の中で何かが変わった
 憐れみという白い駒がマスへと落ちて来た所為で

 今なら言える
 私は尼土有が好きだ
 だけど今までの感情とは違う
 これはきっと愛だ
 間違いなく愛情だった



 もう、恋ではなくなった



 罪悪感が薄れ
 熱も冷め
 衝動も消えた

 出来るならば己の心を撫で褒めてあげたい



 これでいいのだ
 もう恋ではないのだから
 私はまだあの方の従者でいられる

 あいつとは違うのだ





                        (第六話 完)





お久しぶりです。受験(と言っても国家試験ですが)まっただ中の作者です。大変申し訳ないのですが、なにぶん今後の人生がかかっている試験ですので勉強故に執筆にかける時間がほとんどありません。
しかし最後まで書くと言う所存は変わっておりません。必ずや続ける所存であります!
温かい目で見守りくださいませ。
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