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神影の彷徨 作者:ゆちゃあ
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第六話 少女達 / 8




 それでも彼女、椒ちゃんは何所か遠慮がちに動いていた。いつもなら振り返る事の無い廊下での一緒の行動、しかし今日の椒ちゃんは私を遠くから眺める様にちらちらと振り返り見る。お互いの立ち位置的には数歩も離れていないのに、凄く遠かった。
 私は彼女の揺れる跳ね毛に視点を合わせながらも口を開く事はしなかった。多分椒ちゃんは私と目が合ったと思っているのだろうけど、その実私は彼女の瞳を見ていなかった。視界に収めていたが直視する事を避けていた。

 また跳ね髪が揺れる。

 ぎこちないというのだろうか、私はどうにも椒ちゃんと言葉を交わせずにいた。彼女から流れてくる緊張が私を呪っているのだろう、口を開いた所で息は止まる。だが生きる為に呼吸をしなければと、思いだしたように生命活動をやり直し、そして黙るのだった。

 食堂の前に着くと彼女が止まる。私もそれに釣られて止まる。まるで距離を保ちたがっているみたいだ。

 キリと鋭く赤い目が私を射抜く。しかしそれでも彼女は口を開かなかった。彼女の瞳を覆う色は困惑に近かった。



 昨日と違って今日は食堂に先客が二名仲良く座っていた。
「おはよ二人とも」
「おはようっす!」
「ええ、おはようございます」
 横に並んで座っている二人は黄と白に輝いていた。二色は混ざらない印象があったけれども不思議に馴染んでいる。
 あ、由音ちゃんが真っ黄っ黄な可愛い花で、アイシスが白い今にも融けてしまいそうな花って事で。
 表情豊かで賑やかな由音ちゃんと、静かに世間を観察するアイシス、随分とタイプの違う二人だけど割りと気が合うみたいだった。きっとお互い専門分野が被っているから話が合うんだろうね。
「有様……」
 入ったら直ぐにドアの脇に滑ってしまった椒ちゃんは、部屋を出てから初めて声を上げた。
「私はちょっと用事がありまして……」
 一歩、また一歩ドアへと近づく。その体は私に向けながら、だけれども心はドアの外へと向かっていた。
「う、うん。そっか、なら仕方ないね」
 嘘をついている、分かってしまう自分が憎い。彼女の陰の落ちた繕い笑顔は直ぐに後ろ姿へと変わる。
(はぁ……私何してるんだろう)
 自己嫌悪程ではないが自分に対する失望は抱かざるを得なかった。こんな時でも私から椒ちゃんにいっぱいいっぱいに寄り添っていけば上手くいくかもと考えている自分もいたけれど、私の足はそんな勇気を持ち合わせていなかった。
 見えている好意というのはこんなにも人を鈍らせるものなのか。贅沢な悩みだとは分かっているけれど、それでも迂闊に動けないというのは辛いものだった。
 今まで好意を受けた事の無い私がどうしてこうなったんだろう。
「椒さんは食べないんっすか?」
 床を踏みしめている感覚を得られない足を擦り動かして何とか椅子に辿り着いた私に由音ちゃんはそう訊いた。
「うん、用事だって」
「そうなんすか。もう用意してあるんっすけどね」
 なるほど確かに、机の上には五人分の食事が用意されていた。
「アケミはどうしたのですか?」
 私がアイシスの前に座ろうと椅子を引くと、アイシスが不思議そうに尋ねる。私と一緒に朱水が来ると思っていたのだろう。
「朱水はもうちょっと寝たいみたい。結構疲れていたみたいだね」
 一度は起きたんだけれども、私の顔を見るとおはようとだけ言って再び頭を枕に置いてしまったのだった。
「へー、あの鬼神さんでも疲れるんっすね」
 由音ちゃんは楽しそうに危なげな事を言う。ここに椒ちゃんがいなくて良かったよほんと。
「なら三人で頂きましょうか」
 アイシスは俊敏にフォークを掴んで見せびらかす様に(もた)げる。余程お腹がすいているのか。
「あ、執事さんは良いのかな?」
 自然に五人前の食事を受け入れていたけれど、よくよく考えたら執事さんだって食事を必要とする体なんだから、並ぶべきは六人前が妥当なんじゃないか。しかし事情を知っている口ぶりでアイシスが答えてくれた。
「あの人は良いのです。どうにもアケミと食事をとるという行為に抵抗がある様でして」
 根っからの従者気質だそうで、たまに開かれる朱水と使い魔さん達の食事会にも参加しないという徹底ぶりだそうだ。なら仕方ないのかな。
 戴きますの言葉の後に各々食事に移る。今日は人数が多いのであらかじめ全てのメニューが小皿に分けられて一人一人に配られていた。
「そう言えばスガエはアケミと一度だけ協力したと聞きましたが」
 アイシスはぺろりと全ての小皿上の有機物を平らげると、その速さに驚いている私達を見返した後に由音ちゃんに訊ねた。
「協力っすか?」
「ええ、第一との戦いにおいてアケミと削強班が協力したと聞きました」
 ああ、この前の事を言っているんだな。私が初めて自分の力を理解して使った時だ。
「正確にはあれは第一じゃないんっすけどね。まあ確かに自分達は朱水さん有君とチームを組みましたけど」
「その事について少しお聞きしてもよろしいですかね?」
 アイシスは机に頬杖をついて片頬を潰す。
「うーん、まあ多少なら」
 由音ちゃんは乗り気では無い事をその声で表わす。しかしアイシスがどうしてもという念を込めた視線を送るので由音ちゃんは頭を傾けながら頷いた。
「アケミがいると訊けない事があるのでこういう機会があると逃がす訳にはいかないのです」
 成程、朱水がいるとまずい話なのか。でもそれなら昨日すれば良かったのにという当たり前の疑問が浮かぶ。
「自分達に関わる事は答えられないっすけどそれで良いなら」
「ええ、構いません。必要なのはその特殊な第一についての知識なので」
 咳払い一つ。
「まず始めに、(かげ)とやらは一体何なのでしょう」
 アイシスが言った影というのは、あの「(けい)」と対となる「(えい)」とは別物で、黒い生き物の事だ。多分だけどね。
「それが実はまだそれほど分かっていないんっす。かつてこの世に存在しいていた第一の姿を模した物、しかしその本性は大分違っている、という事は間違いないです」
「ならば奇跡はどうなっているのですか?」
 奇跡とは多分霊力とか魔法みたいな力の事を指しているんだろう。
いやはや、私はそっちの方面には全く知識が及んでいないので彼女達がこれから始めるであろう会話について行ける自信が無かった。
「持っています。ですけどそれも史書に書かれているくらいの大掛かりな物ではなく、大体が体内に秘める物ばかりっす。この前の麒麟を模した影は結局すばしっこいだけだったですし、人間の体に寄生していた時だって体が伸びたり縮んだりしていたに過ぎないっすから。まあ形の異常性と、触れないという特性は明示すべき特徴ですね」
「そう、そこなのです」
 アイシスは待っていましたと言わんばかりに仕込み網を引き揚げる。
「物理的干渉ができない存在をどうやって排除したのですか。そこが知りたいのです」
 アイシスの求めている物はどうやら影を倒した方法だったらしい。だけどいったいその知識を仕入れてどうするというのだろうか。
「はあ。ですけどそこは分からないとしか言えないっす」
「分からない? それはどういった意味で?」
「いや、だって見てないんっすもん」
「見てない? でも貴方達が対処したのでしょう?」
 どうやらアイシスは朱水から最後までは聞いていないみたいだった。いや、さっきの口ぶりからして、あえて朱水が話をぼかしたのかもしれない。だから知識を譲ってはくれない朱水がいない今を狙ってアイシスは聞き出しているのだろう。
 由音ちゃんは少しだけ顔を真顔に近づける。どうやら彼女も二人の間で交わされたであろう流れを推知したみたいだ。
「自分達では無いっす。最期を見届けたのは鬼神さんとそこの有君の二人だけっす」
 アイシスは由音ちゃんの視線を追ってその赤い目をこちらに寄越す。椒ちゃんと違って異様な程に赤いその瞳は私を研究対象として映している様だった。直観的に理解できた。
「ああそうだったのですか。アケミはそこをうやむやにしてボクに教えてくれないのですよ」
「それまたどうして?」
「さあ、分かりかねます。普段ならボクに何でも相談してくれたりするんですが、どういう訳か影との事件に関しては奥底に引っ込めてしまうのです」
 触れて欲しくないのでしょうか、アイシスはちょっとだけ眉尻を下げる。もしかしたらアイシスには知って欲しくない情報なのかもしれない。でもあの時の状況で何か不味い事なんてあるとは思えない。それに元々由音ちゃん達と一緒に行動する筈だったんだから、私以外の誰かに知られては不味い事なんてするはずない。私と朱水しか知らないというのも、たまたま他の三人が遠くに行っただけなんだから。
「それにしても意外です。貴方達がそう言った所を『知らないままでいる』だなんて」
 その言葉に由音ちゃんはへへと笑う。
「自分も一応鬼神さんに訊いてみてはとは言ったんですけど、先輩方がその必要は無いと仰るもんでして」
 そう言って片手で器用に畳んだ生ハムを口に入れる。その必要は無い、か。矢岩君達にとって必要な情報はあの黒い物が消えたという事実だけなのだろうか。
「では今、目の前にいる当事者に訊いてみるというのはどうでしょう」
 アイシスは私を手で指し示す。話の流れからこっちに剣先が向かって来るとは思っていたけれど、由音ちゃんを味方につけてからだとは思わなかった。アイシスが単体で来るなら由音ちゃんを壁にして何とか逃げられるかもと考えていたのに、二人に求められたら答えるしかないよ。
「というわけでアマヅチ、良かったらその時の状況を我々に教えてくれはしませんかね?」
「自分も多少の興味はあるっす。あ、その事は上に報告する事は無いんで安心して欲しいっす」
 ビシリと敬礼の構えをとって元気良く宣誓する。既に終わった事案であり書類の提出は疾っくの疾うだから、今更加筆修正する必要性が無いからとの話だ。赤の他人なら信用するには頼りない言葉だけれども、由音ちゃんなら信じられそうな気がする。今だって一応は私を守るために傍にいてくれるんだから。それにさっきも同じ事を言ったが、元々知られるはずだった物を教えるだけなのだから。
 朱水だってどうしても口外して欲しくない情報だったのなら釘をさしているだろうし。
「わかったよ。でも何から話せばいいのかな。私って何も知らないからどういった物が重要なのかとか分からないよ」
「そうっすね。なら鬼神さんが鬼化した後からを教えてください」
 き、きか? きかって帰化? 色々音は該当する言葉を知ってはいるけれどどれも当てはまりそうにない。
「きかって何?」
 聞いた覚えの無い単語にのっけからつまずく。こんな私の供述が果たして有識者二人を満足させられるのだろうか。
「そっか。有君って鬼って物を知らないんっすね」
「え、鬼ってあれでしょ。角生えて虎の腰巻の赤い怪物」
 青い鬼とかもいるよね。黄色はいるのかな?
「丑寅の鬼門から生まれた姿ですね。それも確かに鬼です」
 アイシスは私の言葉でクスリと笑う。どうやら二人が言っている物と私が思っている物は別物らしい。でも鬼って言ったら誰しもあの姿を思いつくと思うんだけどなぁ。
「自分達の言う鬼というのは第二なんす」
 第二、つまりそれは私達の事だ。
「なら私も鬼なの?」
「いいえそれは違うんす。ちょっと分かりにくいと思いますが、『第二』という分類に含まれる存在には複数種あるんっす」
「その大部分は単純に『第二』と呼ばれる存在、つまりアマヅチがそうですね。そして他にもいくつか別の種類がいるのです。いわば種族ですね。例えば人魚、あれは第一と勘違いされ易いですが歴とした第二なんです。つまりアマヅチのお仲間なのですよ」
 本当に? 人魚が私達の横に並ぶだなんてちょっと信じられないや。
 人魚という単語を耳に入れて、かつて朱水が半魚人と発言していたのを思い出してしまいつい吐息を漏らしてしまう。二人は私の不自然な思い出し笑いに首を傾げた。
「同じ第二なのに種族名が付いているのとそうでないのがあるというので、慣習的にアマヅチ達の様な存在を『魔』と呼ぶのです」
「へーそうだったんだ。第二イコール魔じゃないんだね」
「そうなんす。まあでも普通は第二として指摘されるのは魔ですから、この事を知らなくても間違いはしませんからね。そしてっすよ、魔の中にちょっと特殊な存在がいてですね、その魔達を更に分けて『鬼』って呼んでいるんっすよ。鬼神さん、朱水さんがこれに当たるんですね」
「特殊?」
 特殊ってどういう事だろうか。朱水は私と大して違わないと思うんだけどなぁ。そりゃ持っている力は全然違うだろうけど、人魚と私ほどの開きがあるとは思えない。
 そしてふと朱水の下半身が人魚の様に魚になっている様を妄想する。……黒髪人魚、アリかも。
「鬼に化けると書いて鬼化。有君は鬼化を目の当たりにしたはずっす」
「あ……」
 確かに私は朱水の姿が変わっていくのを目撃している。あれが鬼化って奴なのか。
「じゃああれが『鬼』の姿なの?」
「それは違います。鬼の姿はまちまちで、鬼として固定の姿は定義できず、外見で決めることは不可能なのです。『鬼』という分類の根拠はその変身能力なのです。以前教えた形と影の関係は覚えていますか?」
「う、うん。多分平気」
 確か形が見える姿の事で、影がイメージだったはず。緩く捉えると確かそうなるはず……はず。虚とかいう単語も聞いた覚えあるけどそんな物はもう覚えてないっ。
「鬼という種族は形が後天的に変化できる存在を指すのです。形というのはその者の本来予定されている姿を指すのです。生まれた時の姿、成人した時の姿、今わの際の姿、どれも違うはずですがどれもその人物の姿としては『彼』であり、唯一つなのです。つまりその人物にとって『形』は一つなのです。連続体としてですが」
「う、うん」
 正直、全く分からんですもんもー。多分だけど、形という物は変わらないのが普通だって言いたいんだろう。
 アイシスがあまりに難しい事を言うもんだから、私は脳に糖分を回そうとパンに塗るジャムを更に追加した。うん、梧さん特製ジャムはやっぱり美味しい。
「ですが鬼は形を変える事ができるのです。魔の中で後天的に形を変える事ができるのは極一部だけであり、鬼として分類される彼等はその冠だけで強者として扱われる程です。何故なら鬼化は異形に近づく、つまり第一に近づく現象であり、第一は第二よりも強力とされているからです」
 ほうほう、今のはちょっと理解出来たぞ。要は人間と猛獣の関係と同じなんだろうね。猛獣に変身出来ればそりゃ強いさね。でも朱水の変身後の姿ってそこまで「異形」って感じしなかったけどなぁ。
「ちなみに先程出た人魚ですが、あれは異形と認識されています。その為この世界を闊歩できずに、我々の認識から外れた地域に居を移しています。人の姿から外れたモノは人間側の圧力から、人から離れて生きる事を強要させられている。聞いた事がありますか?」
「うん。朱水から聞いた」
 やっぱりそれって日本だけの話じゃ無いんだ。世界各地で同様の決まりが発生して、異形の者は排除されてしまったんだね。
 それにしても意外なのは人間であるアイシスが第二の肩を持つような発言をする事だった。由音ちゃんもアイシスの今の発言を驚いた顔で受けていた。まあ、学者さんだから多角的に多視点的に物事を捉えられるのかもしれない。私も正直な所、長い間人として生きて来たから、異形とされている第二達が排除されるのも分かってしまうのだった。人間個々の力は小さいからその場その場では間に合わないはずで、自分達を守るためには集団で力を纏い、事前に対処をするものなんだと。異形というのが力の象徴なら、まずそれを集団で排除するのが一番効率的なんだと。
 はは、こんな事を朱水の前で言ったらきっと首を絞められてしまうね。でも朱水のひきつった顔って言うのも興味があるかも。ま、試さないけどね。
「かつての第二は人体を補給しないと生きてはいけない体をしていたのです。しかしとある切っ掛け、日本では共存提言を機に第二が人間を捕食する回数が一気に減少しました。まあ人体の中で再生が容易な血液の採取だけは許された場合が多いですが、それでは量が足りません。ましてや異形の者達は人里に近づけませんから無理難題を押しつけられたのです。また、血液だけの採取が許されたのは『生かさず殺さず』の考えが合った為でしょう」
 全滅に近づけば必ず危険因子の大量発生に近づきますからね、アイシスは淡々とそう言った後、小休止の為に牛乳を注いで一気飲みをした。
 いつしか私はアイシスの言葉の裏に潜む人間不信の様な暗がりが、その小さな体から滲み出てくるのを目撃したくないが為に、アイシスと由音ちゃんの間に目を避けてしまっていた。一体アイシスの身に今まで何があったのだろうか。魔法院というのは大変な所だと聞くから色々溜まっているんだろうか。
「力の及ばぬ海外に逃げるという手段もあるにはありましたが、結局は現地の魔狩り者達によって締めあげられるだけでした。つまり本来ならばこの時点で第二、大部分は魔とされている者達の多くは淘汰されるのが当然でした。しかし世界が彼等を救ったのです。たった数年でそれぞれの国の第二は進化と呼べるほどの補正を受けました。そしてそれは異形の者達にも適応されたのです。世界の選択は危険因子の増産ではなく、全体の改変だったのです」
 ……なんとも凄い話だ。つまりアイシスの言葉を信じるなら人魚はまだこの世界の何所かで、私達の知らない地域で生き延びているのか。人魚だけじゃない、他の魔以外の第二だってこの世に生き潜んでいるのだ。夢があるのか畏怖されるべきなのか。
 由音ちゃんはコホンと小さく可愛い咳払いをすると無理矢理に話を元に戻した。
「それで、朱水さんは姿が変わった後にどうやって影を排除したんすか?」
 削強班である彼女にとってアイシスの発言は良い印象を掬えないんだろう。だけど由音ちゃん自身今ここにいる理由からその言葉を訂正させる意味が無く、そもそも前々から朱水の家に通っているアイシスであるため、由音ちゃんもあらかじめ多少は覚悟していたのかもしれない。折角気が合っていた様なのにもったいない。いや、それを乗り越えてこその友情かな。アイシスだけじゃなく、由音ちゃんのあの大人っぷりならできそうな気がする。
「そうでした、その様な話でしたね」
「うん」
 アイシスは自分でも口が滑りすぎたと思ったのか、こちらも咳払いをして誤魔化す。なんだろう、ついでに私も不慣れな咳払いをお見舞いしておいた方が良いのかな。
「アマヅチ、続きをどうぞ」
「うん。えっとね私が足止めして、朱水が消したの」
「はぁ、消した、ですか」
「うん、良く分からないけど手を突っ込んだら消えていったの」
 そうとしか表現できない現象だった。
「手、っすか」
 由音ちゃんは小さい掌をグーパーグーパーと開閉する。
「うん、朱水があの真黒なお腹に手を突っ込んだら煙みたいに消えていったの」
「それだけっすか……ほんと凄いっすね」
 確かに凄いとしか言えないのかもしれない。鏡さんのあの魔法にすら何ら反応を示さなかったのに、朱水にかかれば一突きだったんだから。
「アマヅチ、その消え方について教えて頂けないでしょうか」
 由音ちゃんが目を輝かせているのとは対照的に、アイシスは珍しく非常に険しい顔を作ってみせた。なんだろう、アイシスは朱水の行為に対して怒りを覚えているみたいだった。
「消え方?」
「ええ、煙の様にと表現しましたね。それはつまり真上へ上っていったのですか?」
 いや、そう言えば違ったかも。確か……
「そうだ、地面に消えていったんだ。確かに煙みたいになったんだけど、驚く事に、その後地面に吸われていったんだよ」
 まるで雫が大地に吸われるみたいに、アレは吸いこまれていったんだ。重力とかによるきれいな落下じゃなく、何所かに吸われる様に落ちていった。
「そんな……馬鹿な」
「アイシス?」
 アイシスは怒りに震えた様に更に眉を立たす。どうしたのだろうか。
「アケミがどうしてボクに詳細を教えてくれなかったか分かりました」
「どういう事っすか? 全然見当がつかないっす」
「押し戻したのですよ。層を無理矢理に突き破って」
 アイシスの言葉に由音ちゃんも息を呑んだ。お皿にフォークが落ちた際の金属音が響く。
 やばい、恐らく一番重要な点のはずなんだけど発言の意図している意味が全く分からない。層という言葉は恐らく初めて聞いたはずだった。
「そんな馬鹿な! いくら鬼神さんが強力だからとして、どうして層を弄くれるんっすか」
「弄くった訳ではないのです。自分の身を削って押し戻したんでしょう」
「そんな出鱈目な……」
 どうしよう、話が見えないんだけど。二人の口ぶりからとてつもなく重要かつ深刻な話だというのは理解できるけど、如何せんその内容が汲み取れない。
「ああ、有君は理解できないっすよね」
 そんな私の顔を見て察してくれたのか、由音ちゃんが説明してくれるみたいだ。お皿の上に最後まで残っていたニンジンをちょっとだけ覚悟の表情を作ってから飲みこむと、フォークを置いて私に顔を向けた。
「層という物は御存知っすか?」
「いいえ、です」
「層って言うのは三つあるんす。神層、霊層、物層の三つっす。これらの中で自分達が生きているのは物層ですね」
 ポケットに入っていたボールペンとメモ帳を取り出して、同心円を四重に描く。そして一番内部の円に神層と書き、そこから外側に向かって霊層、物層、虚と各円に書きこんだ。
「ここっすね」
 そして物層の円に棒人間を書きこんだ。これが私達の位置という意味だろう。
「層というとやっぱ何を思いつきます?」
「うーん、その絵を見るとバームクーヘンを思い出すかなぁ」
「おお、いいっすね。じゃあそのバームクーヘンだと思ってくださいっす。この周りの虚以外を層と呼んでいるんですね。虚はバームクーヘンから見た空気って感じっすかね」
 そう言うと由音ちゃんは再び絵に何かを書きこみ始める。神層の円の中に『神』と、霊層の円の中に『霊体・第一』と、物層の円の中に『生物・物体』と加えた。
「一般的に、まあ自分達魔法使い達にとっての一般的ですが、こういう風に層という物を捉えているんです」
 そして由音ちゃんは虚と物層の境目の円から神層の円までを太い線で結んだ。
「そして虚が全ての層に届くようになっているっていう考えっすね」
 アイシスは由音ちゃんの描いた絵を横から静かに眺めているが、その目は賛同も否定もしていない様だった。ただ眺め、無言で過ごす。
 私もじっくりとその絵を観察する。そしてとあることに気付いた。
「神……様?」
「ああ、これっすか」
 神層という円の中には確かに神という文字が書かれていた。それってつまり、神様が確かに居るという事が分かっているっていう意味だろう。
「有君が考えている様な神様とは別物っすよ。これは宗教的な神ではなく、概念的な神の事っす」
「う、うん」
「えーっとっすね、有君は神様っていると思うっすか?」
 神様かぁ。日本は宗教に関わりの無い人々が多くて私もその一人だけど、だからと言って神様が絶対にいないという否定の心は持ち合わせてはいないかな。宇宙人と同じで実際に見てはいないけれどいてもおかしくないかなって感じ。世界としてはいるのが当たり前で、たまたま私達が発見してなかっただけなのかもしれない。まあ神様も宇宙人も実際に見てしまうと大混乱が起きると思うけどね。
「いないとは思うけど、やっぱいてもおかしくないと思う」
 自分でも曖昧な答え方だと苦笑する。しかし由音ちゃんは私の答えがむしろ良かったらしい。指をパチンと鳴らし私にウインクをする。
「それですよ。それが共通意識にある絶対的存在の感知なんすよ」
 な、なんですと?
「絶対……感知?」
「絶対的存在、それが魔法使いが捉えている神の在り方なのです。人類は常に、どんな時代においても絶対的存在をその肌に感じてきました。それは一派にとっては神なのかもしれないですし、他派にとっては先祖の霊かもしれませんね。大山もそうでしょうか」
「つまり『よく分からないけど大きな存在』、って事?」
「素晴らしい答えです」
 どうやら正解の様だ。アイシスは満足げに頷き、由音ちゃんはパチパチと手をたたく。年下二人に褒められるというのも不思議な感覚だや。
「それは空だったり、大地だったりするんす。母なる大地、父なる天っすね。人間は人間以上に強大な存在を何所か求めている傾向があるんす」
 へー、確かに憧れ的な感情もあるかもしれない。怖いって言う感情よりもありがたみという感情の方が勝っているかな。でもそれは宗教観の違いから来るものかもしれないね。
 あ、そっか、宗教的な話じゃないんだっけか。
 でもやっぱりその存在がいるという状態でこの世界が回っているんだとしたら、やっぱりありがたみを感じてしかるべきという考え方もできるか。
「ここに書かれている神は我々が予想しているに過ぎないっす。ですが願望だけで公言している訳でもないんっすよ?」
「へぇ。どういう理由からなの?」
「スガエ、それは……」
 私が由音ちゃんに更に詳しく訊こうとするとアイシスは難色を示した。由音ちゃんもしまったと手を口に当て、誤魔化しににっぱりと蕩け笑みを作る。どうやら深くは教えられない模様だ。
「そっか、なら層について教えてよ」
「助かるっす~」
 由音ちゃんは作り笑みを解き、それでもまた微笑む。こっちの方が由音ちゃんらしくて可愛い表情だった。
「神と同じで霊というのも存在していると考えられているんす。それがここっすね」
 由音ちゃんは霊層という円に描きこまれた霊体という文字を指で摩る。
 あ、思い出した。そういや昔、朱水も層がナンタラカンタラって言っていたや。あれは確か掃除の時間に、幽霊についての話の時に一瞬だけ。
よくまああんなちょっとの出来事を覚えていたもんだ。こういう記憶力をテストに使えない私ってほんとお粗末だや。
「そして霊と同等の位置に第一がいると考えられています」
 アイシスの言葉に合わせて由音ちゃんは指を横に動かし、今度は第一の文字を摩った。
「つまり幽霊と同じで見えないって事?」
「素晴らしい、アマヅチは招待したくなる程に優秀ですね」
「そ、そうかな」
 御世辞と分かっていても褒められる事は気持ちの良い物だね。
「物層と霊層の関係は上下左右等の位置的なものではなく、裏表の関係に近いです。神層を含めると三重的に存在しているのです。同じ世界が三つ存在し、それぞれに違った物が泳いでいます。そしてその三つの世界は同じ所に重なり合っているのです」
 むむむ、優秀と褒められたばかりなのに全然理解できない自分がいる。
「互いの層の住人は自分の層以外を覗きこむことはできません。ましてや干渉もできません。……というのが基本の考え方です。ですが実際には覗く事も干渉することもできます。アマヅチもテレビ等で見た事があるでしょう」
 ああ、それが霊能力者って人達なのか。その、層の違いとやらを乗り越えて見てしまう目を持っているが為に、見てはいけない物を見てしまっているって事だろう。除霊という行為は層への干渉って事で良いのかな?
「果たしてテレビに映る霊能者が本物かどうかは置いておいて、実際に霊能者は存在しており、我々と通じています。院の教授にも何人かいますね」
 アイシスが言うにはその人達の御蔭でこの層という概念ができあがったらしい。見えていない物を否定するのではなく、何故見えていないかを研究する姿勢の果てに掴み取った果実だとアイシスはべた褒めしていた。研究者としての尊敬が向かうのだろう。
「しかしアケミは決して層に干渉したわけではありません。何故なら彼女は純血の魔だからです。魔は地球によってつくられた存在、その身に層への干渉能を与えられるはずがありません」
「つまりアケミは除霊的な事をした訳でもないんだね?」
「除霊、ですか。ああ干渉の事をそう解釈したのですね。確かに除霊も霊層に留まる霊体に干渉している事ですから正しい解釈です。少し話は脱線しますが、悪霊という物も層の違いを乗り越えてしまった例として挙げられますね」
 なるほど確かに。こっちからあっちに干渉するのが除霊で、あっちからこっちに干渉するのがポルターガイスト現象だったり憑き物だったりするんだね。
「また補足的に述べると、同じ霊層の住人である第一という者達は古代において実際に人間達の目の前に姿を現しています。これは第一が層の転移を可能としている為だと考えられています。悪霊は物層に姿自体は現さずに層を越えての干渉のみを行っていますが、こちらは姿までも現しているのです。ただこれは受肉を行っているので層を越えての干渉とは言えないですね」
 ああ、確かに今までの説明だと壁画に第一とされている生き物が描かれている事が矛盾点になってしまうもんね。つまり幽霊よりも第一の方が上等という訳なのかな。
「物層に姿を現すという事はつまり、こちらからの干渉も可能となるのです。そして運よく崩壊に導く事が出来たなら、物層では死という状態を迎えるのです。霊層からはもう存在を転層という行為によって消し去っていますから、完全に消える事になりますね。しかし、今回現れたその第一の影とやらはどうやら干渉ができないと聞きます。これを基に、ボクはその者達が第一よりも霊体に近い存在だと推測します。何故ならそれらは霊層に留まりながらも、物層に姿の『影』のみを映し、そして干渉を行っていたと考えられるからです。故にこの事実に気付いたアケミはその様な暴挙に出たのでしょう」
「成程……その考察、上司に伝えても平気っすか?」
 由音ちゃんの要望にアイシスは未だ眉を微妙に吊り上げながらも快く了承の意を伝える。流石は学者さん、実際に目の前にした出来事ではないのに誰よりも状況を把握してしまっていたみたいだった。それなのに微塵も得意気な雰囲気を醸し出さないんだもの、本当にできた子だ。
「じゃあ朱水は何をやったの?」
「そうですね、先程言った通りアケミが行ったのは端的に言えば押し戻しですね」
 押し戻し、か。イメージで言うなら朱水が層と層の間の壁にあの麒麟を押しつけている絵が浮かぶ。ちょっと暴力的な絵面かもしれないけど、朱水っぽいと思ってしまいにやけてしまう。
「押し戻しっすか……正直聞いた事の無い方法っすね」
「それは恐らく実例が殆ど無いからでしょう。第一と向かい合った第二なんてそうそういませんからね。今回の影とやらは性状としては霊体に近い様ですが、本質はやはりその姿の通り第一でしょうからね」
「ああ確かに。第一の存在期間と被っていないっすからね」
「アマヅチ、再び問いますが形という物は何だったでしょうか?」
 アイシスは急に私に問いを投げる。その顔はやはり微かな怒りが滲んでいた。
「え、形って言うのはさっき言っていた通りその人物の姿その物なんじゃないの?」
「正解です。……アケミはですね、その形を削ったんですよ」
 形を……削る? 私にはアイシスの口から出た言葉の意味が理解できなかった。しかし由音ちゃんはしっかり理解した様で、口を閉ざし目を伏せた。
「えっと、形って姿その物なんだよね。だったら朱水の体の何所かが無くなっちゃったって事?」
 もしかした朱水の裸を見ると私は驚愕に膝を崩す事になるのだろうか。だけどそんな嫌な想像はアイシスの首を横に振る動作でかき消してもらえた。
「形という物が姿なのは正解です。ですが肉体という意味だけの姿ではありません。アマヅチ、例えば貴方はアケミにどのような形容詞を用いますか?」
「け、形容詞? え、そりゃ綺麗とか、美人とか、ちょっと……暴力的?」
 私の思いきって言ってしまった最後の単語でアイシスは少しだけ頬を和らげる。なんだか朱水を渡し板にして繋ぎ合えた感じがして嬉しい。人の噂話ばっかりしている人はきっとこういう感情に溺れたいんだろうなと理解してしまった。
「そうですね、時にアケミは暴力的になります。まあそこは置いておいて。姿というのはこう言った風格も含むのです。そして形という定義まで行くと、その存在価値、存在意義、可能性までもが内包されます。そして魔においてはその霊力の大きささえも形として認識されます」
「それってつまり……」
 朱水は自分の力を犠牲に麒麟を消した、って事なのか。
 待ってよそれって……
「それって!」
「はい」
 つい自分を制御できずに立ちあがって、机に乗り出してアイシスに迫ってしまった。無関係のアイシスを責めているみたいで馬鹿なだけだと分かってはいるけれど、せざるを得なかったんだ。不安と怒りが私を熱する。
 ああ、アイシスをさっきから支配していた感情がこれなのだろうか。
「それって朱水は大丈夫なの? 健康体でいられるの?」
「……わかりません」
「分からないって……アイシス学者さんなんでしょ?」
「専門ではありません故」
「そんな……」
 したくない、こんな事したくない、だけど私は熱せられて弾けてしまう。
 そんな私を黙って見守っていた由音ちゃんが冷ましてくれた。
「有君、まずは座りましょう。ね?」
「……うん」
 ありがとう、言葉にせずに脳内で由音ちゃんへの感謝を響かせる。
今は高ぶっていて無理そうだけど、いずれアイシスにも謝らなきゃ。手作りお菓子も持って行ったら許してくれるかな。甘いもの好きだと嬉しいな。
「専門ではありません。しかし現在のアケミは平常と言える様ですし、大きな影響があったとは考えにくいです。彼女とて領主なのですから考えて行ったのでしょう。緊急時には領民の保護のために牙を剥かなくてはなりませんからね」
「そう、ならいいんだ」
「こんなにアマヅチに思われているアケミは幸せ者でしょう」
 アイシスはあんな態度を取った私に対しても温かい表情を見せてくれた。如何に私が幼いか、いや如何に彼女が大人なのか思い知らされる。器の大きさが段違いだった。
「形というのは虚から作られ、再度虚に戻せます。それを……そうですね、分かりやすく言えば虚をエネルギーにして麒麟の影を押し戻したのです」
「押し、戻した? それってつまりまた戻ってくることもできるって事?」
 アイシスはしばらく下くちびるを指でつまんで考察し、ゆっくりと頷いた。
「安い言葉になってしまうのですが、『可能性は否定できない』です」
「そんな、代償を払ったのに結局は元に戻って来られちゃうだなんて」
「しょうがないんっすよ。相手が相手っすから」
 由音ちゃんも目を空の皿に向けながら小さく呟いた。

 第一を相手にするってそれ程の事なのか、私は今初めてその恐ろしさを知った。



 しばらく無言で誰も彼もが時を貪っていた。虚無感とも少し違う不思議な感覚が私を覆う。朱水が無事だったという安心と、朱水は常に危険な選択肢を持っているという不安が私をかき混ぜる。
 だけどいつまでもこうしている訳にはいかない。ここは年齢的には一番のお姉さんである私が動くべきだ。
「アイシス、お願いだからこの事は朱水に黙っててくれないかな」
 この事とは、私達が朱水の行為に気付いたという事実である。
「どうしてでしょうか?」
「朱水だって覚悟の上でやった事だし、危険な事だって自覚があるからアイシスに伝えなかったんだもん。だからその事で責めるのは止めてあげて欲しいなって」
 アイシスは私の目を三度の瞬きを混ぜて注視した。
「分かりました。しかし全く動かないという訳にはいきません。アマヅチへの焚きつけをしておきましょう」
「焚きつけ?」
 アイシスは人差し指を一本立たせ左右に振る。
「ええそうです。アマヅチ、貴方がアケミの傍に立ってあの人を制御してあげてください。アケミは無茶をする御仁です。その役を担うのがボクでないなら、もう選択肢は貴方しかいないのですから」
「うん……わかった。私頑張る!」
 期待されるのは嬉しかった。私自身の力には全くと言っていい程に自信は無いが、朱水に対して言葉をかける位ならお安い御用だ。
「アイシス」
「はい、何でしょう」
「さっきは、ごめんね」
 予定通り後でお菓子を持ってアイシスに会いに行こうとは思うけれど、今ここでも言うべきだと確信した。きっと彼女の包容力なら私のごめんも今受け付けてくれるだろうと思って。
「自分も有君にあれくらい心配されたいっすね~」
「何言ってるのさ、由音ちゃんだって同じだよ。だから余り無茶しないでね。お姉さん心配しちゃうからさ」
 自分でも真っ向からこういうセリフを吐くのは恥ずかしかったけれど、今は気が大きいから何だって言える気がする。
 由音ちゃんは可愛く頬を染め上げて応えてくれた。


「お話中失礼します」
 いつの間にか食堂に入って来ていた梧さんが急に声を上げたので、私達三人は驚きで座高を高めることとなった。
「ど、どうかしたんですか?」
 礼儀正しい梧さんが他人の話を遮るだなんて珍しく、つまりそれは何かあったのだと推測できる。
「アイシス様が以前に御依頼されていたので、その件についてご報告を。今から来られるそうです」
「……今からですか?」
 梧さんのよくわからない言葉でアイシスは椅子から慌てて立ち上がる。その顔は切羽詰まっていた。
「はい、あの方が来られるそうです」
「……ボ、ボクはちょっと出かけてきますね。アオギリ、彼女は一体何日ほどの滞在でしょうか?」
「一晩こちらに御宿泊されて、明日には御帰りなられるそうです」
「ならば一日だけ何所かで遊んできますね」
 そう言い捨て、アイシスは走ってそそくさと食堂を出ていった。一体何なのだろうか。あれ程までに本に執着していたアイシスがあっさりと本を放り出して退散するだなんて、余程の人物が来るのだろうか。
 梧さんは報告を終えるとそのまま帰ろうと体を回転させる。しかし今の会話から察するにここに『危険な』誰かが泊まるというのだから、私としても無関係ではなく、恐れと好奇心を纏いながら質問しても許されるだろう。
「梧さん、一体誰が来るんですか?」
 やはり梧さんは律義に足を止め、再び体を回転させて私達に顔を向けてくれた。
「御嬢様のお知り合いの方です」
 うん、それは大体分かる。だけどあのアイシスの反応の異常性ときたら。
「どういう人なんですか?」
「……あの方に関しては私ではなく槐姉様にお聞きになられるとよろしいと思われます」
 梧さんはそうとだけ言い置いて私達のさらなる問いかけの出だしを無視して、飛び出ていってしまった。もしかして梧さんにとっても苦手な人なのだろうか?
「どうする? やっぱここに泊るって事は私達も関わるんだろうね」
「うーん、一応ああ言われたのですし槐さんに訊いてみるのもありかと」
 だよねー。気になってしまったのだからしょうがない、例え後悔する様な話になってもここで引くよりかは気分的にましだろうに。だって、必ず訪れるんだから。
 私達はお互いに頷きあって立ちあがると、ちゃちゃっと食器を整え、とりあえず槐さん捜索へと旅立ったのだった。





 この広い屋敷では行き違いも連鎖するのか槐さんはなかなか見つからず、捜索中に本当に屋外へと出ていくアイシスの後ろ姿なんかを見つけたりして時を過ごす間、由音ちゃんは私にぴったりとくっついて来てくれた。妹という物にちょびっと憧れる様になって来た私にとってその行為は正に弱点であり、槐さんの姿を探すよりも実は由音ちゃんの姿を眺めている時間の方が長かったりする。由音ちゃんはまじめに探してくれているみたいだから正直申し訳ないです。でも、嬉しくてつい見ちゃうんだよね。
 そうしている間にも刻々と出発予定時刻は迫って来てしまっているので、槐さん未発見の状態のまま出発の支度の為に解散する事になった。やっぱりアイシスのあの態度が気がかりではあったけど、遅刻はいけないもんね。
 とは言っても支度なんてもうとっくにしている為、お互いに身だしなみ整えて荷物を持つだけだった。まずは由音ちゃん、それから私の部屋に二人で訪れてそれで終了、非常に短時間で済んだ。ついでに由音ちゃんの部屋を覗くと、そこには何故か巨大なクマのぬいぐるみが備えてあった。部屋を決めたのは朱水だろうから、このぬいぐるみは由音ちゃんの為に置いてあるのだろう。まさか常備してあるわけではなさそうだし。由音ちゃんはそのぬいぐるみの頭をポンポンと叩き、行ってくるっすと声をかける。何てほほえましいのだろうか。
 槐さんを探すのを一度諦めてしまった私達は、鞄を持ったまま玄関近くの副応接間として使われている待ち合わせの部屋でのほほんと時を待つ。流石に鞄を持ったまま屋敷を歩き回るのは気が引けたためだった。
 ここにはテレビは無い為、お互いにお喋りするしか無く、二人で幾つか言葉を交わして過ごす。私の隣に座る少女は足を上げたり下ろしたりして暇を潰していた。
 由音ちゃんはいつもの鞄だったけれど、その中身までどうやらいつも通りの様で結構な大きさに膨れていた。よかったら鞄の中見せて欲しいという好奇心から以外の何にでもない要望に由音ちゃんは快く応えてくれ、目の前で鞄の口を開いてくれた。
 鞄の中にはかつて見た大きなクリアファイルが二つそっくりそのまま入っていた。
「由音ちゃんこれ今日持って行くの?」
 流石に不要なんじゃないかと思ったのだけれど、
「一応緊急時に必要な書類ですし、ここに置いて行くというのも気が引けるというか」
と言う由音ちゃんの答えに納得したのだった。なるほどね。
 キレイ系よりもカワイイ系と表現した方が良い化粧ポーチの中には多少のメイク道具が詰めてあった。そこまではよくある普通のポーチだったんだけれども、得意気に由音ちゃんが一度閉じて再び開くと、何とそこにはポーチにぎりぎり入るくらいの長いナイフが仕込まれていた。こっちとしては自慢げに見せられても反応に困るんだけどね、はは。
 その後由音ちゃんが取り出したのは、以前に彼女の部屋で見たあの高いフレグランスの小瓶だった。
「由音ちゃんよくそんな高いの買えるね」
「まあ自分の就いている職業なんて命擦り減らしている物っすからね。高給なのは当然っすよ」
 成程、警察とかそういうお話じゃないもんね。まともに死因にぶつかっていく職業なんだもん。
「汚い話だけど、実際幾ら貰えるの?」
「んー、教えて欲しいっすか?」
「欲しい欲しい!」
 あ、そこ、決して私はお金にがめついわけじゃないかんね!
「具体的な給料額は無いんっすよ」
「どういう意味?」
「貯水槽方式なんっす。常に一定額が預金通帳内に表示されているんっす」
 んーっと、それってつまり……
「給料無限?」
「まあ形式上はっすね。でもやっぱり使い過ぎると文句言われますから」
「うへぇ」
 いやいや、それでも凄いよ。何ってこったいその財力は。
「だとだと家とか買い放題なんだ建て放題なんだ」
「だから使い過ぎは駄目っすよー。怒られちゃいますもん。それと不動産は所持禁止っす」
 どうやら処理が面倒ならしく、家等の買い物は禁止されているとの事だ。処理というのは……その人物の死亡後のやり取りを指すらしい。死に直面しているのが分かりきっているので、簡単に動かす事の出来ない建物などを財産として所持する事はあらかじめ禁止しているから、そう由音ちゃんは何の事は無いという口ぶりで語っていた。なんだかそんな彼女を見ていると切なさが込み上がって来たのだった。
「だから自分含め、全員が賃貸物件なんっすよ」
「へー」
 私はそれ以外にも口外して良いと由音ちゃんが判断した裏ネタを幾つか教わったりした。何と言うか私が知る由の無い世界だから仕方ないのだろうけど、凄い刺激的な内容ばっかりだった。中には本当に口外して良かったのだろうかという話もあり、後で由音ちゃんが怒られないか不安だった。


 出発時刻まで後二十分になると使い魔さん中で一番の仲良しカップルが現れた。
「お待たせしました」
「今日は天気良くて最高ですね!」
 椚ちゃんは梓ちゃんに引っ張られる形での登場であった。梓ちゃんは物凄く張り切っている様子で、腕をぐるぐる回すスピードがいつもの三割増しだ。
 外出というので、二人共私服だ。梓ちゃんはどちらかというと男の子向けのハーフパンツを履いていた。多分梓ちゃんが海に突っ込んで行くのを見越しての椚ちゃんの選択だろう。上着はシャツに可愛い感じの薄手カーデを重ねている。椚ちゃんはいつも通りにロングスカートの落ち付いた服装だ。スカートと同じ色のチュニックにアームカバーをつけている。
「梓ちゃん嬉しそう」
 私の言葉に梓ちゃんは顔をさらにほころばす。そのまま頭をクシャクシャになる程撫でてみたい欲求に駆られる程の威力だった。
「だってお出かけですもの!」
「そっかぁ。お散歩楽しいもんね」
「はい!」
 梓ちゃんは椚ちゃんの手を離すと由音ちゃんの隣の椅子に大きな鞄を置いた。その大きさは由音ちゃんの鞄ですら入ってしまいそうだった。一体何を詰め込んでいるのやら。
「ねえねえ椚ちゃん」
 梓ちゃんの耳に届かない様に小さな声で椚ちゃんに語りかけると、椚ちゃんも空気を読んで小さな声で応えてくれた。
「はい」
「あのさ、梓ちゃんって外に一人で出かけられないの?」
「はい、その通りです」
「でもあれくらいの大きさの子なら結構普通に外出歩いているよね」
 梓ちゃんは確かに他の使い魔さん達から見たら小さいけれど、でも幼稚園児程に小さいわけでもないんだから一人で出ても良いと思うんだよね。それに人間と違って皆と同じ様に何か特別な力を持っているはずなんだから。梓ちゃんだって一人でも外出したげだったもん。いや、椚ちゃんと一緒の方がもっと嬉しいかもだけれど。
「そうなのですが、如何せんあの子は特別でして」
「特別?」
 特別、か。一体この屋敷で聞く何度目の特別という音だろうか。由音ちゃんの横で鞄の中身を全部取り出して確認している梓ちゃんを見るに、さほど特別な何かを感じる事は無いけれど。
「あの子、人を寄せ付けるんです。それも異性だけを」
「うわ、何それ」
 ちょっとびっくり、お姉さん引いちゃったよ。
「私も良く分からないのですけど、あの子の力は『誘惑』だそうで。その……ちょっと御外に一人で行かせるわけにはいかないんです」
 う、うん、そんな事情なら仕方ないね。……でも、『誘惑』、か。
 再び目線を梓ちゃんに戻すと、彼女の幼い笑顔が咲き乱れていた。こんな子が誘惑って。一体どんな事になるんだか。
「その、やっぱロリコンさんとか付いてきちゃうの?」
「いえ、相手の趣味嗜好は関係無いみたいなのです。年齢も幅広く、幼子や御年配の方までふらふらと自分の意思に関係なく吸い寄せられてしまうと」
 うわ、大変だそりゃ。だからお姉さん達が必ず付いて、寄って来る人達に帰ってもらっているのか。梓ちゃん一人だとうまく離脱できなそうだもんね。
「難儀だね」
「はい、相当です」
 私達はしばらくあどけない梓ちゃんの横顔を見つめてその苦労の生き道を考えていた。そんな二人を横に彼女は由音ちゃんと楽しそうにおしゃべりを続けていた。
梓ちゃんが荷物の確認を終え、再び仕舞い終わると大体出発予定時刻になっていた。時計が鐘を打つ。
「朱水と椒ちゃん遅いね」
「御嬢様はお電話に出られています」
「ああもしかして今日来るって人の?」
 椚ちゃんはコクコクと頷く。もしかしてずっと通話しているのかな。さっきの探索中も朱水を一回も見ていないからね。椒ちゃんはチラリと見かけたけれど、遠くにいたので声はかけられなかった。
「あのさ、その人ってどういう人なの?」
 槐さんに訊けとの指示だったけれど、見つからないんだからしょうがない。果たして椚ちゃんは答えてくれるのだろうか。
「華苗様ですか。そうですね、大変賑やかな方です」
 おお、どうやら椚ちゃんにとっては普通に答えられる存在みたいだ。
「賑やかかぁ。何歳なの?」
「二十七歳だったと記憶しております。素敵な方で、御嬢様の憧れの方です」
「へー。……へ?」
 あこが、れ?
「憧れってどういう事?」
「…………」
「おーい、椚ちゃーん」
 答えが返ってこないのでその顔を覗きこむと、椚ちゃんは私から思いっきり目を逸らして何かを考えていたみたいだった。
お姉さんには分かるよ、きっと今君は何味のオブラートに包もうか悩んでいるんだろうよ。
「大丈夫大丈夫、椚ちゃんを責める事は絶対に無いから安心して吐露ってね」
「は、はい」
「で、どういう事なの?」
「えっとですね、その……かつて御嬢様が憧れを抱いていた方でして、今現在では御嬢様が実質的所有権を持っている会社の社長を若くして務められている御方です」
「へ、朱水って会社持ってるの?」
 まずそれが驚きだよ。なんてことだい。
「はい。大企業ではありませんが立派な物をお持ちになられています」
「もしかして朱水の生活費、というかここの運営費ってそこから抽出してるの?」
「その通りです」
 うへぇ……朱水ってどんだけ凄いんだよ。その人が社長なら、朱水は会長とかそういった役職なのかな。朱水の謎な収入源がひょんなところから発覚したなぁ。

 ってまた思わずにお金の話になっちゃってるし。私が意図的にそんな話にしたんじゃないんだからね!

「華苗様は御親戚の方でして、不安定な頃の御嬢様の様子を見にとよくこちらに足を運んでくださったのです。御嬢様も華苗様を姉の様に慕い、その、何時しか姉妹愛と呼ぶには大きすぎる感情を持っていられた時期が御座いました」
 もっとも今では尼土様が御嬢様の愛を一身に浴びている事は間違いのですが、椚ちゃんはそうやってフォロー気味に言葉を締めくくった。
「ねえ椚ちゃん、それ以前に朱水が好きになった人っている?」
「……この様な主の情報はあまり口外すべきでは無いとは分かっているのですが、私自身が尼土様には知っておいて欲しいのかもしれません」
 椚ちゃんは唾を飲んで一呼吸置く。彼女にとって朱水の私事を口外する事は心を削る行為なんだろう。先程からちらちらと横の二人がこちらに耳を傾けていないかの確認をしているくらいだ。
「私が知る限りでは御嬢様の心を引き寄せたのは華苗様、そして尼土様の御二人だけです」
 ほうほう。……という事は、朱水の女好きはその人が原因なのかもしれないなぁ。
「んで、その人今日泊まりに来るんだよね?」
「はい左様で」
「そっか」

 朱水の初恋の相手が、今日来るんだ……。

「尼土様、大事な点が一つ御座います」
「ん?」
「御嬢様は恐らく華苗様に抱く感情を理解しておりません。自覚しておられないのです。故に御嬢様自身に対してこの件に関しての発言は控えて頂きたいのです」
「そう、なんだ」
「はい。間違い無く気付いてはいられないでしょう。ですが確実に一種の……大きな感情を抱いてはいらっしゃいました。もしかしたら……」
 いつも通りに目を少しだけ閉じている椚ちゃんは二回言い淀んだ。一つ目はきっと恋心という言葉を私の前で使うのを避けたからだろう。でも二つ目、一体彼女は何を言いたかったのか。

 もしかしたら、まだ……

 私が話を深める覚悟を中々決められずに椚ちゃんと床とを交互に見比べていると、椚ちゃんは何かを察知したように背筋を伸ばした。
「来られました」
 それは私の体をも痺れさせる言葉だった。
「もう、来たの?」
「も、申し訳ございません。来られたのは御嬢様の方です」
 私の反応が大きかったために誤解をしたのが伝わったのだろうか。椚ちゃんは大きく頭を揺らして謝った。
「いや、良いって。それに朱水だったんだから平気だよ」
 何が平気なのかは言及せずにいたかった。

 椚ちゃんの言葉通りに直ぐに朱水は登場した。
「遅れてごめんなさいね」
 その顔を見ると私の胸の辺りで何かが軋んだ。
「電話が長引いてしまって」
 その笑顔で私の何かがキシキシ鳴った。
「どうしたの有?」
 朱水はにこやかに私に問いかける。
「朱水、嬉しそう」
「何を言っているのよ。当然じゃない」
 当たり前な事を訊くなと、朱水は言う。
「尼土様?」
「嬉しいんだ……」


 嬉しいんだ、朱水



 直後トタトタという音を響かせ朱水の後を追って来たかの様に椒ちゃんが入室した。
「申し訳ございません、槿姉様に捕まってしまいまして」
 ………………
「こんな服、無理です」
 椒ちゃんは私と目が合うと顔を真っ赤にして体を両腕で隠そうとする。
「槿さんの趣味、なのね」
 私の驚きの隙間から辛うじて引き抜き出せた言葉を、椒ちゃんは全力で身振りをもって肯定した。
「嫌だって言ったのですけど」
 黒と白。ごてごてしたフリルが主張激しい。

 その椒ちゃんの様相に私の中の黒は吹き飛んでしまった。




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