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第六話 少女達 / 6



 賑やかな昼食が終わり、食器洗いをする梧さんのお手伝いをした後に食堂に戻ってみると、そこは物の見事にもぬけの殻だったとさ。ぐすん。

 独り寂しく窓際に持ってきた椅子に座って日光浴をしていると、台所から梧さんが出てきた。梧さんは目が合うと一礼してくれたものの、両手に提げたゴミ袋を自身の背後へと隠しながらそのまま食堂を後にしていった。寂しいという心と共に暇だという理由からお手伝いの続きをしようと立ちあがったけれど、彼女は私の足音を聞き取ると再び食堂に戻ってきて手伝いは不要であるという意思表示をした。出端をくじかれた私は必然的にそのままお尻を椅子にくっつける事しかできず日光の温かさと心の寒さを味わう。

 何もせずただ時を過ごしていると、とたとたという小さな足音が聞こえてきた。その間隔の狭さからそれが誰のものであるかは明確だった。私は椅子ごと体を入口の方へ向けて彼女の登場を待ち構える。

 しかし少し様子がおかしかった。

 確かに足音の正体は梓ちゃんで正解だったが、彼女は食堂内を覗きこむ形で首から上だけをこちらに見せていた。その目は何所か怒っているのかいじけているのか、そんな子供の目だった。

「梓ちゃん?」

 手招きをしてみるが彼女は同じ顔のままじっと私を睨んでいる。一体どうしたのだろうか。

「どうかしたのかな? こっちにおいでよ」

 何度も何度も呼んでみるとやっと足をゆっくりと滑らし始める。だけど私の目の前に来ても梓ちゃんは頬を膨らませて無言の訴えを続けていた。一体何なのだろうか。

「私何かしちゃったのかな?」

 彼女は私の言葉を無視して私の首元へと飛び込んできた。小さな衝撃と共にふわふわした髪の毛が首をくすぐる。痛くはなかったが驚きでしばらく反応が出来なかった。

 静かな空気の中に何か特徴的な音が聞こえる。それは何かを嗅ぐ様な鼻の音だった。梓ちゃんが私の首元で何かをかぎ分けているのだった。

「やっぱり尼土様もだ」

 やっぱりとは何の事だろうか。梓ちゃんは素早く離れると再び頬を膨らませる。

「甘い匂い」

 彼女はボソと呟いた。成程、梓ちゃんも食べたかったのか。その膨らみきった柔らかな両頬を指で押し潰すと「ぶー」と空気を漏らした。

「実は生地が余ってるんだけど梓ちゃんも食べる?」

「ほ、ほんとですか! やったー」

 梓ちゃんはぴょんぴょんと跳んで喜ぶ。使い魔さん達の中で一番食に興味を持っているらしい梓ちゃんは、廊下に漂う甘い匂いに釣られてきたんだろう。アイシスが全然食欲を示さなかった為に生地の余りが沢山あったのだから何といいタイミングなのだろうか。梧さんも処理に困っていたし勝手に作っても怒られないだろう。

 何より梓ちゃんの喜ぶ姿を見ると何でもしてあげたくなるってもんさね。ほの温かな食堂に少女の声は橙に響き渡った。



 洗ったばっかりのホットプレートを再び箱から取り出し電源を入れて加熱を開始する。その間に梓ちゃんは冷蔵庫からボウルに入ったホットケーキの生地を持って来た。ニコニコ顔の梓ちゃんは涎を零さない様に口を真一文字に閉じながら生地を菜箸で弄くり遊ぶ。そうこうしている間にプレートが適温となったため生地を落とす。私は普通に丸い形を作ったが梓ちゃんは何かしらの動物の形をスプーンで微調整しながら作っていた。

「猫さんかな?」

楕円の上に小さな円が二つ、これだけで特定するのは至難の業であろうけどこういうのは大抵犬か猫か熊だと決まっているので一番それっぽい猫だと思ったのだった。だけど鼻歌交じりな梓ちゃんの思考は斜め上を行っていた。

「ケロケロですよ」

 つまり蛙の事だろう。悲しいかな、私は爬虫類両生類を苦手としていて、それを食べ物で形作るというだけで微かな抵抗感を抱いてしまうつまらない者だったりする。なので手が止まってしまった。敏感な梓ちゃんは私の仕草から感じ取ってしまったのか、少しだけ眉尻を下げてしまう。

私は申し訳無さに自分が作った丸に五つの半島を追加した。

「尼土様のそれは何ですか?」

「亀さんのつもりなんだけどちょっと失敗しちゃったね」

 数少ない好意を抱ける爬虫類である亀を作ってみようと思ったが、出来たのは何とも表現し難い物体であった。右手と左足が細長く、その他三か所が丸みを帯びていた。これでは生地の追加投入でも修正は不可能だろう。諦めてそのまま焼こうと決心付けると梓ちゃんが私の袖を引っ張った。どうしたのかと顔を向けると彼女は亀になり損ねた物体の頭部の反対側を指差した。

「尾っぽ忘れてますよ」

「おおさんきゅ」

 せめて尻尾くらいは成功させようと綺麗な三角形を梓ちゃんのスプーンを借りてこしらえる。満足のいく物が出来上がると梓ちゃんは拍手をしてくれた。

 なんだか梓ちゃんを喜ばせる為にやっているのに自分の方が楽しんでいるのは気の所為だろうか。

 反転は梓ちゃんがやりたいと言ったので私の分もやってもらう事にした。彼女は難なく華麗にひっ繰り返して自慢げにしたり顔を作る。私がその頭を撫でるとくすぐったそうにはにかんだ。

 出来た二つの作品をお皿に載せると梓ちゃんは不思議そうに声を上げる。

「お皿分けないんですか?」

「うん。だって私さっきまで食べてたし、これ以上はさすがに無理かな」

 主に体重の方面でね。

 梓ちゃんはそれが嫌なのか、私の体に巻きついておねだりの甘い声を作る。

「一緒に食べましょうよ~。独りはやだです」

 そうは言ってもお昼に雰囲気と甘い誘惑に負けて多めに食べてしまった私にとって、目前の亀未遂亀は最早毒の域に達していた。

「どうしても……駄目ですか?」

 おねだり声の甘ったるさを更に強めて来る梓ちゃんの魔力を辛うじて振り切ってごめんと断った。

「じゃあ横にいてくれますか?」

「それならお安い御用さね」

 親指立てて答えると梓ちゃんは巻きつく手をするりと離してお皿とフォークを手に取った。私はバターとメープルシロップを冷蔵庫から取り出すと梓ちゃんの背中を軽く押して食堂の方へと誘導した。彼女はそれすら楽しそうに受ける。子供って可愛いなぁほんと。

 机にお皿を置くと梓ちゃんはここに座れと言わんばかりに椅子を撫でる。私は従ってその椅子に座ると、今度は梓ちゃんがその私の上に座った。急な事で最初は戸惑ったけれど梓ちゃんが気にせずバターを滑らせているので私もその姿勢のままでいた。以前由音ちゃんに座ってもらった時と同じで抱きしめたくなる愛しさをにわかに感じる。これが母性本能って言うものなんだろうね。

「美味しい?」

「はい。甘くておいひいでふ」

 口いっぱいにケーキを詰め込みながら無理に喋ろうとするから上手く口が動いていないが、むしろそれが梓ちゃんの気持ちを鮮明に表わしていた。


 叔母さんがいるから寂しいと感じた事は無かったが、初めて妹が欲しいと感じた。家族、それは私にとって触れる事叶わない領域だった。周りがにぎやかになって初めて、私は親愛を知り家族と言う物を考える様になって来た。手に入らないと分かっていてもだった。


「甘い物、好きなの?」

 自然に少女の白い髪に伸びていた私の手はその細い流れの間を泳ぐように滑っていた。慈しみ故にの思わずな行為であった。もう少し両親が長生きしていたなら私に妹がいたのだろうか、そんな無意味な考えが浮かんできてしまう。


 違う、無意味じゃない。それはとても怖い考えなんだ。


「はい! チョコとかクッキーとかとかとか、甘い食べ物大好きです」

 私の上で梓ちゃんは美味しいと揺れる。その姿に私はふとある考えを思いつく。

「ねえ、だったら今度お姉さんと一緒に美味しい物食べにいかない?」

 年下だから、妹の様だから、色々な「だから」が交わって私はそれを口にした。無性に彼女に美味しい物を食べてもらいたかったんだ。

 しかし梓ちゃんはフォークを止めてしまった。

「ごめんなさい。私はこの屋敷から独りで出る事を固く禁じられているんです」

 その声色からかなり厳しく言い付けられている事がはかり取れた。

「固く、なんだ」

「はい。姉様達と一緒でなければいけないんです。これは絶対厳守なんです」

 固く禁じる、絶対厳守、それは幼子が口にするにはやや重たい言葉だった。何かあるのだろうか。しかしそれを訊き出すなんて出来やしなかった。

「ほら、あーん」

 気まずさにフォークで彼女の口元にケーキの欠片を近づける。それを躊躇い無く口に含む様を見ると私は安堵に肩の力を抜いた。

「なら今度お土産に美味しいお菓子持ってきてあげるね」

 梓ちゃんは体を捻って私に再び抱きついてきた。その小さな体を大事に受け止めて、手を再び少女の長い髪に当てる。手入れの行き届いた綺麗な流れをした髪だった。






 うとうとと眠りかけていた梓ちゃんを椚ちゃんに届け渡した帰り、とある部屋の前で立ち止まった。部屋のドアが開いていて、そこから二人の声が聞こえていたからだ。

「こんにちは。書道ですか」

 覗くとそこでは椒ちゃんと槐さんが筆を半紙に踊らせていた。部屋は和室で、二人の横に敷かれている新聞紙には数々の作品が並べ乾かされていた。彼女達は低い和机を前に正座をしていて、その(なり)はいつものメイド服であったが白いエプロンだけは流石に外されていた。

 今まさに槐さんが筆を入れる直前だったみたいで、私の声を聞くと筆の墨汁を硯で絞り取って机に置いた。

「はい。たまにやっているんですよ」

「渋い趣味ですね」

「趣味と言える程立派ではありませんよ。朱水様のお付き合いで始めたのでお遊びです」

 そうは言うけれどもその横にある作品はどう見たって『お遊び』で書いた物とは思えない程の出来だった。まあ素人の私が判定できるかという点では疑問符を捺したいけどね。字の川を目で泳ぎ進んでいくと先にはそこはかとなく期待を含ませた椒ちゃんが座っている。ほんと分かり易い子なんだから、もう。

「椒ちゃんも? すっごい上手だね」

「ありがとうございます。まあ、私は槐姉様の見様見真似ですが」

 こちらも大層綺麗な字をお書きになられる。いやはや、自分の丸文字が情けなくなるよねこれじゃ。

「お暇でしたら一緒にどうですか?」

 槐さんはまだ使っていない白い毛の筆を取り出して立ちあがる。私はチラリと椒ちゃんを覗き見るがその顔は好意的な色を示していた。

「それじゃお言葉に甘えて。でもド素人なので教えて頂けると嬉しいです」

「ええそりゃ手取り足取り」

 槐さんはにこやかに言うが私はその微笑で昨夜のお風呂での彼女から受けた行為を思い出す。私を座らせようとする彼女に腕を掴まれた時には思わず体が跳ねる。

「あら、酷く冷たい。寂しい反応されるのですね」

 槐さんは私がどうして今の態度を取ったか十分理解していて、それでいて知らないふりを決め込んでいた。その証拠に彼女は同じ顔を作り続けている。

 椒ちゃんが不思議そうにこちらを窺っているので迂闊な事は口に出せず、ジト目で槐さんに抗議するが彼女は手を離さない。むしろ更に私の背にまで手を回しやや強めに座らせようとしてきた。私だって元々筆を握るのはやぶさかでは無かったので押されるままに膝を折る。

「では朱水様が使っていた手ならい本をお手本にして書いてみましょうか」

 目の前に随分と古めかしい本が差し出される。墨による点がいたる所に出来ていた。

「これは朱水様が小学生の頃に使用していた物なのだそうです。この頃は習い事をしていられたんですね」

 口調から察するに使い魔さん達は朱水が小学生の頃にはこの屋敷にはいなかったらしい。

「ではこのページの文字から一緒に書いていきましょうか。書くだけでも心静まりますよ」

 そう言って今度は背中に手だけでなく体を密着させてきた。彼女の意図が分かるので逃げるわけにもいかずただ大人しく従う。多分今私は酷く顔が赤いはずで、椒ちゃんと目を合わせる事すら出来ないでいる。何故か後ろめたかった。

 手の力を緩めてと言われてその通りにすると、槐さんは私の手越しに握った筆をすらすらと教本通りに滑らせる。良く分からないけどその文字は先程まで彼女が書いていたそれとは違って、本当に「教科書通り」に書かれた物だった。趣味で書く文字はやはり人それぞれに癖や趣向が現れているのだろう。

「感覚掴めましたか?」

 半紙を十枚ほど消費した後に彼女は私の手を開放して横に座り直した。正直に言うとどうやって書くかは分かったのだが、いざやってみるとなると間違いなくイマイチさんしかでき上がらない自信がある。うん、駄目な方向に。

 椒ちゃんは寂しいのか、槐さんが私から離れると膝歩きでするりと私の横へと向かってきた。

「止め跳ねに気をつければ平気ですよ」

 椒ちゃんはアドバイスを交ぜて私が今筆を落とそうとしている半紙を覗きこむ。すると椒ちゃんに見られている所為で、私の中にやる気と同時に怖気が生まれてしまった。下手な文字書いて椒ちゃんに笑われたらどうしよう。

 半紙を視界の中心に捉えながらでも、緊張で手が止まってしまった私を二人が不思議そうに眺めているのが容易に想像できる。その想像が余計に私を固めてしまっていた。

「椒、ちょっとお茶を用意してもらって来て。椚によ」

 どうやら槐さんは気付いてくれた様で椒ちゃんを私から離してくれた。ウインクしてるって事は確かだろう。

 椒ちゃんはほんの少しつまらなそうに唇を尖らせるが、しぶしぶと言った仕草を見せる事も無く、機敏に動いて廊下へと出ていってしまった。

「ありがとうございます。横で覗かれると緊張しちゃって」

「初めはそうですよね。私も朱水様と最初にした時は朱水様が余所見をしている内に書いた半紙をぐしゃぐしゃにしたものです」

 にこりと微笑む槐さんはもう完全に女神様だった。何もかも知っているかの如き年長の余裕が滲み出ていて、凄く頼れるお姉さんに見えた。

「ささ、今の内にどうぞ。あ、私は教官なんですから勿論覗かせてもらいますよ」

 まあ槐さんになら平気だろう。それに誰かが直してくれないと永遠に上手くなれないもんね。

 今さっき触れた書の感触を頼りに筆を滑らせる。墨汁は二の足を踏んでくれない。紙に触れればそのまま白に跳び移ってしまう。失敗と分かってもそれを直す事は出来ないのだ。なので慎重に慎重を重ねゆっくりと筆を動かした。

「……どうでしょうか」

「あら結構お上手じゃないですか」

 よかった……思っていたよりも形になっているじゃないか。小さな拍手が槐さんの方角から聞こえる。

「これなら私が教える必要無さそうですね」

「え、ちょっとそれはいきなり過ぎでは」

「いえいえ、止め跳ねが出来て手ならい本通りに筆を運ぶ事が出来るなら私のアドバイスなんて不要ですよ。自信を持ってくださいな」

 そうは言ってもですね……。しかし槐さんは本気だったみたいで自分の筆を持つと半紙を一枚自分の前に敷いてしまった。こうなったら頑張るっきゃないと、気合いを入れて目と手を必死に動かした。せめて張りぼてでもまともに見えたら良いやとの思いで。


 椒ちゃんが戻るまでには結構な時間があった。槐さんはこの時間椚ちゃんが掃除をしている事を把握した上であんな事を言ったんだろう。椚ちゃんを指名していなかったら椒ちゃん自身がお茶を淹れてしまうため数分で帰ってきてしまうはずだが、椚ちゃんが淹れるとなるとまず椚ちゃんを捜す所から始まるのだった。そしてその結果が二十分以上の所要時間だった。

 お茶を盆にて運んで来た椒ちゃんは、私の横ににょっきり生えた紙の山に驚く。自分でも数多く描けば上手くなれるものでは無いとは頭では分かっていた。そう甘くないってね。でも書いたという結果が目に見えていると少しだけ上手くなっていくという感覚があり、どうしても手が動き続けてしまったのだった。ほら、努力って言葉があるじゃない? あれあれ。

 椒ちゃんは墨汁まみれの私の右手を優しく濡れ布巾で拭いてくれた。しかしそんな物ではやはり落ちないので、諦めてそのままの手で受け取ったお茶を飲む。やはり椚ちゃんが淹れた物と分かる味だった。一息ついている私の横で椒ちゃんは作品と呼ぶにはお粗末な物を一枚一枚じっくりと眺めていた。

「どうですか先生」

「そんな。教えられる程私自身腕が良いわけじゃないです。そう言う事なら槐姉様にお願いしてくださいな」

 全てを見終わると綺麗に整えて再び山へと戻す。私はその山を再度手に取り、先程から自分の世界に入っている槐さんの横へと立つ。槐さんは集中していたがしっかり周りは見えていたのか、私が向かい始めた時には既に顔を上げ、筆を置いていた。

「添削ですか? 朱墨が欲しい所ですね」

 そう冗談めきながら半紙の束を受け取ると、こちらも一つ一つ丁寧に目を滑らせていった。始終無言だったので内心ドキドキしたが彼女が半紙を再び厚くすると微笑んだので、それだけで私は握りしめていた手の力を緩められた。

「良いじゃないですか。良かったらこれからも私達と一緒にやりましょうよ。椒も喜びますよ。ねぇ?」

 槐さんが同意を求める様に椒ちゃんに話を振るが椒ちゃんはツンとそっぽを向き、顔をこちらに向けようとはしてくれなかった。槐さんも返事をさほど期待していなかったのか、筆を持つと再び作品を生み出していった。私は興味があったのでその場に居残り黒を追ってみた。

「今は一文字の作品をやっているんですか?」

 槐さんの横にある半紙の大半は漢字一文字の作品ばっかりだった。

「そうですね。折角だからと私も基本に戻ってみようかと思いまして」

 基本、ねぇ。そこにある文字達が「基本の形」ならば私の字の何と奇形な事か。自分の字の拙さが恥ずかしいよほんと。


 それから槐さんは横にいる私を気にせずすらすらと作品を生産していった。

「そう言えば恋は下心、愛は真心と言いますね」

 恋の一文字を書きながら槐さんはポツリと呟いた。

「どう思いますか?」

「どう、ですか」

「あら、尼土様くらいの女子ならこの手のお話が好きだと思っていたのですけれど外れちゃいましたか」

 いや間違っては無いと思います。ただ私が消極的なだけなんで。

「そうですねぇ。その言葉って要は恋よりも愛の方が高尚だって言いたいんですよね?」

「額面通り受け取ればそうなりますね」

「私は恋の方が何と無く上に思うんですよ」

 こういう話を他人とするのは滅多にないのでかなり恥ずかしいが、槐さんが持つ優しい雰囲気に呑まれてしまい口が動いてしまっていた。因みにどれくらいこういった話に免疫が無いかと言うと、『恋バナ』という略語を口にする事すら恥ずかしいという残念な子です。

「それはどうしてですか?」

 槐さんは筆を止めて静かな眼差しを私に向ける。ついでに後頭部から熱い視線が私に降りかかっているのもしっかり感じていたりする。

「えっとですね、『愛』って沢山あるじゃないですか」

「そうですね。親愛、親子愛、多くの人が指す意味であろう恋愛と、沢山あります」

「つまり一人から放射状に愛は飛び出しているんですよ」

 槐さんは私の言葉を絵にしようとしたのか、半紙に愛の文字を書いてから丸で囲い、その囲いから線を放射状に伸ばした。いが栗みたいな感じかな。

「一方で恋って言うのはやっぱ好きな人にだけ伸びる物じゃないですか」

「確かにそうですね。あら不思議、こう見ると確かに恋の方が一途って感じで素敵です」

 いが栗の横に、一本線が生えた恋と言う文字が並ぶ。どうやら私の言わんとしている事が伝わった様で、槐さんはうんうんと頷いてくれた。しかし後ろから異を唱える声が上がる。

「そもそも優劣を決める事自体がおかしいと思います」

 それは何かに駆り立てられている椒ちゃんだった。焦りを隠し切れていない彼女は興奮気味に声を上げる。

「恋も愛も同等です。そこに優劣をつける必要なんてありません」

 私は椒ちゃんが何に反応しているのかが分からず、興奮気味の彼女を視界に捉える事しかできなかった。

「そうね」

 だけれども槐さんは流石で、椒ちゃんの心の中にある真意を汲み取ったみたいだった。立ちあがって椒ちゃんの前にゆっくりと膝を下ろすと、彼女の頭を優しく抱いた。

「ごめんなさいおかしな話をしてしまって」

「……私こそごめんなさいです」

「そう、ならどっちもどっちだったって事で」

 離れた後に槐さんが頭を撫でると椒ちゃんは嬉しそうに目をつぶった。

 椒ちゃんの真意が理解できない私はただその行為を外野から目にするだけだった。やはり私には踏み込めない領域があるのだろうか。少し、悲しい。

「少し休憩しましょうか」

 槐さんは振り返ってそう言った。私が頷くと彼女は部屋の奥にある戸棚に歩み寄り、中から何かの缶を取りだした。

「日本茶にクッキーと言うのは少しおかしいですが」

 それは何とも高そうな菓子箱に入ったクッキーだった。中のクッキーも金色と間違える程に輝いていてとっても美味しそう。在り来りに言うなら宝石の様だった。

「朱水様が何時来られても平気な様に用意しているんです」

 そっか、使い魔さん達は基本的に自ら食べ物を口に入れる事は無いんだもんね。梓ちゃんは例外だけど。

「その前に尼土様は手を洗わなきゃいけませんね」



「うわ、これすっごく美味しいです」

 ホットケーキを何枚も平らげてしまった事を無理やり忘れて目の間に並べられたクッキーを口に含む。上品な甘さという言葉が至極簡単に理解できる味だった。

「御主人様が好きな銘柄なんですよ」

 椒ちゃんも美味しそうに齧っている。うんうん可愛い子が美味しそうに物を食べているのを見るのは幸せだね。

 そんなおじさんな発想をしていると槐さんがクッキーに手をつけていない事に気付く。ダイエットと言うわけではないだろう。

 ……あや、今自分の考えに傷ついたよ。

「食べないんですか?」

 槐さんは私の問いに困った様に微笑んで答えた。

「御存知の通り私達は物を食べる必要はありません」

 その一言で椒ちゃんの手が止まったのは当然だった。同じ使い魔さん、しかも姉の言葉だもの。

「あら、いいのよ椒は食べて。貴方は尼土様と一緒の生活をしているのだから物を食べる事を普通と思いなさい」

 椒ちゃんは気まずそうにだが再び手に持っていたクッキーを齧る。しかしそれを食べ終えても新しいクッキーに手を伸ばす事は無かった。

「私だって朱水様の前ではしっかり食べるわ。その役割を椒、貴方が尼土様の前で担いなさい。一緒に食事できる人がいるというのは嬉しい事なのよ」

 椒ちゃんは姿勢を正してコクコクと頷く。従者とはどうあるべきなのか、そんな話なのかな。ちょっと仕事の様に聞こえておかしいと感じてしまうけれども。

「そうだ、良かったら皆さんの事について教えてくれませんか?」

「皆さん、ですか。それはどういった意味で?」

 槐さんは私が言葉を省いてしまった所為で誤解してしまっているみたいだ。きっと使い魔さん達個々の個人情報を教えて欲しいという意味に捉えてしまったのだろう。

「皆さんと言うか使い魔さん達、つまり『鬼神城』と言うモノを知りたいんです。槐さんなら詳しいかなって思って」

 それならば主である朱水に訊けばいいとの意見もあるだろうけど、朱水だと言葉に煙を撒いてしまいそうなんだよね。どうやら私に隠したい所がある様で常に何所か中心をずらした解答しかくれなかったんだ。なので本人に聞いた方が実は詳しい情報が聞けるかもと思ったので、長女である槐さんに問うたのだった。

「そういった意味だったのですね。……そうですね、朱水様も尼土様が訊ねてこられた時は話してしまっても良いと仰っていたので頃合なのかもしれませんね」

 うわ、完全に読まれていたのか。流石朱水、何枚も上手だった。

「椒、貴方ももしかしたら知らない所があるかもしれないからここに来なさいな」

 椒ちゃんは呼ばれた様にちょこんと私の横に座り、とろけさせる匂いを私に振り撒いた。

 槐さんはコホンと咳払いを一度すると私の目を真っ直ぐ射抜いて言葉を紡ぎ出した。



▽▽▽▽▽



 私達は魔ではありません。勿論人でもありません。この世に存在する者で私達と同等の位置に存在する者はいないのです。何故なら私達は鬼神城という別個の種族、存在なのです。そう、鬼神城と言う名の器に入った存在ですね。

 はい? ええ、器です。私達を指す『鬼神城』という言葉は私達の人格ではなくこの肉体、器を指しているのです。魔王の家系に残る四宝の一つである鬼神城と言うのは、主を守る為の城壁となる人形なんです。ですので鬼神『城』なんですね。

 では私達、つまり体の中にいるこの人格は誰なのかという話をしますね。実は私達はかつて世に存在していた有力な魔の生まれ変わりなのです。正確には生まれ変わりとは違うのですけどそう言った方が分かりやすいかと。

 生まれ変わりとは言いましたが過去の記憶は皆微かに覚えている様です。私も確かにこの目では見たはずの無い情景を覚えています。きっと妹達も同じでしょう。

 椒、そんな自慢げに言わないで頂戴な。かつての私がそうであっても今の私はただの従者なのよ。

 ……はい、そうなんです。椒が漏らしたように、確かに私は姉妹の中で唯一魔王と呼ばれた存在の生まれ変わりです。いえいえ、そんな大事ではありませんよ。魔王と言えど、かつての時代では玉座を温めるだけの存在であり、末期にはただのお飾りに過ぎませんでした。私の前身みたいに力無くともその立場に居座ることだって出来たくらいです。

 椒、貴方が私の事を思ってそう言ってくれるのは嬉しいけれど、これは事実なのだから良いのよ。ふふ、貴方は本当に優しい子ね。

 はぁ、魔王と言うとそんな印象が付きまとうのですか。そうですね、確かに尼土様が仰る様な、力で全てをねじ伏せる事で頂点に辿り着いた者もいました。しかしそれは魔の短い歴史の中のごく一部の時期です。ほとんどの魔王は血で選ばれましたから。

 魔と言う物の本質は御存知でしょうか? ええ、本質です。はいそうですね、人間を減らす為に作られた存在であると言われています。朱水様から聞かれたのですね。昔の魔の本能は権力よりも破壊に向いていました。これが幸いして権力争いが少なかった理由とされています。

 あら話が脱線してしまいましたね。ええと、何所まで話したのでしたっけ? 確か魔の生まれ変わりだという所は説明しましたよね。そうですか、では続けますね。

 私達の名前を漢字で書くとどういう文字かご存知ですか? そうですね、この様に全てに木偏が付いています。これは名付け親である朱水様の趣味と言うわけではなく、風習なのです。ですので朱水様の前に鬼神城を使用した方も、その鬼神城達に私達の様な名前をつけたと記されています。どうして木偏なのか、ですか? それは私達の本来の姿を知れば納得されるでしょう。しかし私達がある場所はこの屋敷の中で特に厳重に守られている場所です。尼土様でも入る事は許されないでしょう。

 簡単に説明すると樹木なのです。はい、樹木です。木、です。

 意外ですか? しかしこの国では昔から大木には神が宿ると言うじゃないですか。それと似たものです。もっとも、私達何ぞを神と同等に扱うなんて酷く図々しい話ですが。

 ふふ、椒が嫌そうな顔をしているので進めましょうか。

 私達の本来の姿は先程言った通り樹木なのです。種類ですか? (さかき)の一種です。今の時代に生えている榊とは少し違っていて葉色は紫なのですけど。この紫葉の唯一の榊を魔は鬼樹と呼称しています。ああ、樹木と言いましたが実際の姿はまだ幼木と言える程の小さい木です。そうですね、土から出ている部分は尼土様の掌より少し大きい程の長さです。幹から枝が生えていて、その枝に七枚の紫色の葉が生えています。

 もうお分かりですね。そう、その葉こそが私達なのです。

 伝承では鬼神城の母体、この榊は育つ事も枯れる事も無く、また折る事が出来ないとされています。その為私達には死と言う概念がありません。この体が破損してしまっても使用者、私達だと朱水様ですね、朱水様が再びこの鬼樹を用いて召喚を行うと一切身体的損傷を受けていない状態で復活する事が出来ます。それまでは死体としてこの世に残留していますけど。

 椒が言っていた内容と違いますか? ええ、一体何所ら辺がでしょうか。成程、確かに母体と言う表現が統一されていませんね。正確な母体と言うと確かに椒の言う通り地球なのでしょうか。でしたら鬼樹の事を母樹と呼びましょうか。地球が母体、鬼樹と呼ばれている紫色の葉を生やす榊が母樹ですね。

 話を最初に戻しましょう。鬼神城と言う存在についてですね。今まで述べてきた内容の中には一度も鬼神城と言う名を持つ物体は出てきませんでした。実はですね、鬼神城と言うのはこの霊術その物を指しているのです。

 ええ、確かに最初に言った内容と矛盾していますね。ですがこれで正解なのです。本来は鬼神城と言う単語はこの霊術全体を指したのですが、『鬼神城』と言う響きが何所か物の名前を表わしている様に聞こえる為この肉体を鬼神城と呼ぶ様になってしまったのです。

 お分かり頂けたみたいで幸いです。これで鬼神城という存在の説明は粗方できたでしょうか。何か気にある点などありますか?

 どうやって生まれてくるか、ですか。私は妹達の受肉の瞬間に立ち会っていますのでお教えできますよ。朱水様が鬼樹を土から抜き取り、特別な清水を溜めた大釜に浮かべて呪文を唱えるとその刹那水面が目映く光り、妹達の体が浮かび上がってきました。いえ、一人ずつです。大釜と言っても人が一人入るくらいの大きさですので。その際には既に服は着ていましたね。はい、私達は生まれた時からこの服を着ていたのです。私達の容姿は朱水様の思いによって描かれていますので、この服は朱水様が造形したと言えますね。

 他に何かありますか? 戻り紐、ですか。良く御存知で。ああ椒から渡されたのですね。そうです、仰る通りあれはこの地球と私達を繋いでいた臍の緒です。ですが生まれた時は臍についていたのではなく、歯で噛んでいました。

 鬼神城が戻り紐に力を込めるとたちまち本人がこの世から消えてなくなります。そして辿り着くのが私達が生まれた清水の大釜です。召喚と違うのは使用者の呪文が要らないという点でしょうか。その代わり肉体の損傷などはそのままです。

 尼土様が使うとどうなるか、ですか。それは実は分からないのです。あら、椒も同じ答えを? そうですね、実際に行ってみないと分からないのですよ。

 他には有りますか? 椒の方は平気? そう、分かりました。



▽▽▽▽▽



「長い話で退屈でしたでしょう」

「そんな。凄く面白かったです」

 普段触れている彼女達がそんなすごい存在だったなんて。話を聞いているだけで私はドキドキしていた。冒険譚とはまた一つ違う、しかし続きを聞きたくて前のめりになってしまう、そんなお話だった。きっとそれは目の前にしているからなのだろう。

「そろそろお仕事に戻りましょうか、結構な時間が経ちましたから」

 時計を見ると確かに思っていた以上に時間が過ぎていた。

「そうですね。今日は面白いお話をして頂いてありがとうございました。習字ももうちょっとやってみたいのでまた来ても良いですか?」

 槐さんは勿論ですと快諾しくれた。椒ちゃんにもよろしくねと挨拶しようとするが、彼女の何所か遠慮がちな視線にぶつかり舌が止まる。どうしたのだろうか。しばらく顔を合わせていると椒ちゃんは何かを諦めたように肩を丸めた。

「有様、その……そんなに食べて平気でしたか?」

 何の事かと始め疑問に思ったが、彼女が指差す辺りを見るとクッキーがごっそりと減った缶箱がもっと食べてと言いたげにその体を輝かしていた。






「おやつなんていか……」

「不可能です!」

「ひゃんっ」

 部屋に戻って火曜日に提出しなければならない宿題を持って来た事を思い出した私は、再び忘れてしまわぬ内に手をつけ出した。暫らく数字と格闘しているとコンコンという小さなノックと共に槿さんが顔を見せた。その手にはお盆があり、どうやらおやつを持ってきてくれたみたいだった。だけど、今甘い物を口に入れるわけにはいかないんだ……いかないんだっ!

 開口瞬後に否定された槿さんはいじけた風にしながらも私の横に来てくれた。

「折角美味しい物作って来たんですけどね~」

 ちらちらと私の視界を遮るようにお盆を動かす。その上には確かに美味しそうなモンブランケーキが載っていた。よくある黄色い物じゃなくて白くてふわふわしたとっても美味しそうな物だった。

 しかし……食べる事は絶対に許されない。うん。

「はぁ、やんごとない乙女の事情があるのですね。悩み多き乙女は素敵ですわ~。諦めて私だけで頂きましょうか」

 ベッド横にある一脚テーブルの上に二つのケーキを置いて彼女はいそいそと紅茶を用意しはじめた。既に抽出は終わっていたのでティーポットからカップへ移すだけであったが、その琥珀色の紅茶から立ち上る爽やかな香りが私を釘付けにした。

「凄くいい香りですね」

「何の香りだと思いますか?」

「多分ですけど、ジャスミンですか?」

「正解ですよ~。そこにほんのちょっぴりのレモンともう一つ隠し味が入ってます」

 隠し味が何なのかと訊いてみたが槿さんはニタリとするだけで答えてくれなかった。

「せめて紅茶だけは飲んでくださいな。でないとここに来た意味がありませんもの」

 紅茶か……多分紅茶ってカロリー全然ないよね? だってただの植物の抽出液だよ? そう言って自分に言い聞かせてから彼女に飲むと伝える。

「はいどうぞ」

「頂きます」

 手渡された紅茶の香りを鼻を近づけて楽しむ。成程、確かに少しだけレモンの香りもしている。槿さんが再度一脚テーブルに戻り自分の分の紅茶を淹れている間に、私は少しだけ口をつける。しかし午前に飲んだ椚ちゃんの緑茶を基準に考えていたので、口内に侵入してきた茶色の熱さに目をひんむいてしまう。

「あぢっ、あぢっ」

「あらあら、冷まさずに飲まれてしまったのですか。このポットは見た目こんなですが中は魔法瓶になっていて高温が長時間保てるんですよ」

 槿さんが言うには紅茶の香りをより楽しめるように超高温のままで運んでいるのだそうだ。椚ちゃんが淹れてくれた緑茶は実はあれでも結構低い温度だったらしく、あの緑茶と同じ感覚でこの紅茶を口に入れると火傷物らしい。舌先がまだひりひりしている。

「ケーキを食べると痛さ治るかもしれませんよ。軟膏薬みたいに舌に塗りたくるんです」

 槿さんはお手製のケーキを食べて欲しい為か再び強引な結び付けで勧誘を開始した。例え火傷しても私は糖分脂肪分を口にするわけにはいかんのですよ槿さんや。

「むぅ、仕方ありませんねぇ。ちょっと舌を見せてくださいな」

 言われた通りに舌を見せる。槿さんは立ったまま息が私にかかる程に近くで私の舌を観察する。私の顎を軽く支えて慈愛の顔を浮かばせた。上から覗かれるという状況で返し見る槿さんは何だかとっても大人で、その細まった目の魅力に惚れ酔ってしまう。

「いけませんね……そんな蕩けた目をされてしまうと無性に襲いたくなっちゃいますよ」

「駄目……です」

 辛うじて出た言葉だった。

 槿さんは唇端を上げると私を抱きしめた。

「ああん、可愛いですね~。朱水様の恋人でなかったら私が頂いていたのに~。残念でなりません。血涙が出ちゃいます、よよよ」

 ……いけない、今のはほんと危なかった。槿さんがおどけた反応をしてくれなかったらどうなっていたか。私って年上に弱いのかも……朱水も同級生なのにお姉さんっぽいもんね。

 槿さんは私を開放すると少しだけ真剣の色を混じらせる。

「尼土様、今みたいな顔は朱水様の前以外ではやっちゃいけませんよ~。御自分の容姿を御理解くださいな。あんな顔されたら性別問わず落としてしまいますもの」

 彼女のそれは凄く大人な意見だった。私くらいの高校生がする様な考え方では無く、色恋を何度も通り抜けてきた者の捉え方だった。

「それに私は自分が可愛いという事を自覚している女の子って素晴らしいと思いますよ~」

 小悪魔的って言うんでしたっけ、槿さんは小首を傾げながらそう言った。さっきの発言の後ではその仕草ですら計算づくされた行為なのかと思ってしまう。

 未だ大きな鼓動を続けている心臓を隠す為に一度槿さんから離れたかったが、そんな事を言ってしまうと槿さんの事だ、きっと寂しいと言いながら抱きついてくるだろう。もう槿さんの行動は大体見抜けるようになって来ていた。今抱きつかれたら心臓が破裂してしまいそうなのでそれだけは避けなくてはいけない。

「えっと、今宿題をしているんですよ」

「あらあらそうだったのですね。なら続けてくださいな」

 宿題と言う単語は思っていた以上に効果的で彼女はあっさりと引き下がってくれた。


 槿さんは紅茶の香りを楽しみながらベッドに座り込む。とりあえず距離の確保成功だ。


 彼女はシャープペンシルの芯一本分の間ずっとベッドを温めていた。最初は見られているという自覚の所為で上手く集中できなかったが、次第に彼女と言う異分子を柔らかく捉える事ができてきた。それにしても槿さんは勉強している私の横にいて何が楽しいのだろうか。ずっと不思議な笑みを浮かべているのだった。毛先が内側に向かっている赤紫色のショートヘアーは彼女の明るい印象を更に強めている。そんな人に温かい視線を送られているというのは意外と心地よいものだった。

「槿さんって」

 私が口を開くと彼女は嬉しそうに立ち上がった。

「はい何でしょう」

 軽い気持ちで口にしたのにこんな大仰にされるとは思わず、こちらも手を止めざるを得なかった。まあいいや、また休憩って事で。

「槿さんって一人だけ髪が短いですよね」

「そうですね。槐も妹達も皆結構長いです」

 真正面から見ると梧さんと椒ちゃんも短そうに見えるけど、二人とも後ろ髪は結構長いんだよね。使い魔さん達の中で肩に届かないのは唯一槿さんだけだった。

「その髪って切られたんですか?」

「いえいえ。朱水様から授かったこの姿をいじる気はありませんよ~。始めからこの長さだったんです」

 ふむふむ、朱水はショートもイケる、っと。脳内メモ帳に書きこんでおこう。

「他の姉妹と違うって事で結構気に入っています。ほら、七人もいると個性って欲しくなるじゃないですか」

 そう言う物なのかなやっぱ。それにしても槿さんが自然に『七人』と言った事に少しだけ安堵した。

「尼土様はかなり長いですよね~。お手入れなど大変なのでは?」

「うーん、一応ちょっとずつ切って伸ばしてますけど後は普通ですよ」

 伸ばしっ放しだと毛先が残念な事になっちゃうから、ちょっとずつ切って伸ばした結果が今の髪だった。幸い私は髪が伸びやすい体質らしく、普通の人よりも早くベリーロングと呼ばれる程の長さに辿り着いた。

「少し触っても良いですか?」

「どうぞどうぞ」

 興味深げに槿さんは私の毛先を手の甲で持ち上げてふわふわと弄ぶ。

「結構重いんですね~」

 やはりこれくらいの長さになってしまうと無視できない重さだった。

「どうしてこんなに伸ばしたんですか?」

「どうしてかですか。なんか理由があった気がするんですけどね」

 たしか大きな理由があったはずだった。


 湿っぽい理由が

 他人に言えない理由が


 叔母さんの顔がちらりと浮かぶ


「覚えてないですね。そんな大きな理由じゃなかったはずです」

「そうなのですか~。でもここまで伸ばすのって覚悟必要だったんじゃないんですか?」

「ですね。普通に生活しているだけで髪の毛が邪魔になる事があるんですよ」

 でも気に入っているから絶対に切らないけど。

「素敵ですね」

 槿さんは気持ちよさそうに私の髪を指で梳く。冷たい触感が楽しいらしい。

「所で今は何の教科をやっていられるんです?」

 槿さんは髪を指でしっかり保持しながら私の肩に顎を優しく載せて覗きこんだ。首筋にピタリと触れた所が人肌温くてこそばゆかった。

「……鳥肌が立ちますね」

 一瞬で声のトーンが落ちる。

「数学苦手ですか?」

「見たくもないです。ああ……朱水様との勉強会が思い出されます」

 地獄でした、そう辛そうにため息をつく。曰く、最低限の知識として高校受験レベルの知識を知っておいて欲しいという理由で槐さんから梧さんまでの四人と朱水とで勉強会が開かれたらしい。一応彼女が言う地獄の日々は終わりを告げたが、数式アレルギーと言う後遺症を罹患してしまったのだそうだ。

「嗚呼、蕁麻疹が~」

「そんな大げさな」

 しかし彼女は本当に腕を掻き始めてしまった。……本当に肉体的に症状が出ているのだろうか。一歩一歩後ろに下がってベッドに辿り着くと一脚テーブルにカップを置いてベッドに倒れ込む。そしてこちらに薄らと顔を向けるとわざとらしく言う。

「ああ、これは看病が必要ですわ~。心が痛いですわ~」

 この人は構って欲しくてこういう事を分かりやすくやってるんだろうなぁ。なんだかほんと可愛い人だ。私はまだまだ途中のノートを閉じてうつ伏せている彼女の横に座る。すると槿さんは私を押し倒して覆い被さって来た。早業過ぎて私は抵抗する事叶わずそのまま両腕を抑えつけられる。

「何するんですか」

 と言っても槿さんだからじゃれたいだけだろうと分かっているので強くは当たらないでおいた。槿さんはまたニンマリとすると悪戯の打ち合わせでもするかの様にコソコソと喋る。

「尼土様はこういうのは好みですか?」

 彼女の目が一瞬異色に光ったと思うと全てがぐにゃりと捻じれ始めた。既視感と共に微かな吐き気がこみ上げる。

「これって……」

「そうです。以前にも見せた力ですね~」

 目の前の全てが白に変わる。世界が眩しくて私は強く瞼を閉じた。

「もう目を開けても平気なはずですよ」

 優しい声が上から降りかかる。

「これってやっぱり槿さんの力なんですね」

 声に従って瞼を退けると目の前には確かに槿さんがいた。

「そうです。私の力は幻覚を相手に与えるというものです。そしてその幻覚は私も共有する事ができます」

 槿さんは私に覆いかぶさっていたままだった。上から声がしたと知覚したので、幻影の世界に居ても三半規管は正確であるみたいだ。顔を左右に動かして辺りをよく見るとどうやら私達は海の中にいる様だった。柔らかいベッドは消えていて代わりに私達は仄かに輝く砂の上で重なっていた。幻覚だからなのか、空気も吸えるし、会話だってできる。

「こんなの普通の生活では体験できませんよ」

「でしょう……ねぇ」

 その幻想的な世界に息が漏れる。空気は吸えるのに、漏れた息は泡となって上へと昇って行った。泳ぐ小さな魚の群に手を伸ばすが届く前に散り散りに分かれてしまう。しばらく同じ事を繰り返していると細い指が私の視界を遮る。

「私の事も見てくださいな」

 槿さんはそのまま私の右頬と海底の砂の間に手を差し入れ顔を向き合わす。温もりの籠った瞳と、その背後に映る水面の輝きが私を照らす。細い指が私の頬をなでるとゾクリと体が縮まった。だけど決して不快では無かった。むしろ……

「その顔はやっては駄目と先程申しましたでしょう。いけない方ですね、ふふ」

 頬から唇へと指は流れる。

「このグロスは尼土様の好みの色なんですか?」

 違いますよね、彼女は小悪魔的に微笑む。そっか、やっぱり槿さんはこういうの上手なんだ。

「朱水様の好みですよねこの色って。ふふ、いじらしい子ですね~」

 私は普段は色つきグロスなんてつけないけれど、朱水の屋敷に泊まるというので持ってきていたのをつけてみたのだった。朱水がいない今で周りの反応を試したかったのかもしれない。自分なりに冒険した結構発色が強いグロスで、口紅なんてまだまだつけられない私でも最大限のアイテムだった。

「やっぱ私には似合っていませんか?」

「ふふ、それは朱水様の答えを待ってみてはどうでしょうか」

 うう、いきなり朱水の感想だなんて怖すぎる。似合ってないなんて言われたら死んでしまいそうだ。あの人そういう所はっきり言う人だから。

「お願いします槿様ぁ」

「あらあら。そうですね、なら私のお願いを一度だけ聞いてくれますか?」

 すごく優しい口調でどぎつい交換条件を突き付けられた。うっかり安直に頷きそうになってしまう声色だったけど辛うじて思いとどまれた自分を褒めてあげたい。鈍く光るその目を見る限り安請け合いは止めるべきだ……と言いたいけど、恐らく一番そういった方面に強いであろう槿さんの感想がもらえるなら多少の犠牲は仕方ないのかもしれない。

 だけどこちらもただで頷くわけじゃない。

「お願いって何ですか? 事前に教えてください」

「あ、先に聞いちゃいます?」

 それじゃ面白くないじゃないですか~、槿さんはそんな恐ろしい事をのたまった。このお姉さんは一体何をさせる気だったのだろうか。

「聞きますよそりゃ」

「そうですね~、私が作った衣装を着てくれませんか?」

「衣装、ですか」

 何だ思っていたよりも簡単な……っと危ない、朱水と言う身近な良い例を忘れていたよ。服だから布があるとは限らないんだった。布が極端に少ない服とかあるんだよね、はは……。

「肌色が少ない奴なら」

「あはは、そんな感じの代物じゃないですよ~。むしろ肌なんて全然見えません」

「全然、ですか。一体どんな感じのですか?」

「椒ちゃんの私服用に作っていたパーツがあるんで、それを尼土様のサイズに仕立てなおそうかなって思いましてね~」

 パーツ? 槿さんが言わんとしている物が何なのか全く理解できなかった。そもそも私は椒ちゃんの私服を見た事が無いんだよね。あの子はメイド服に誇りを持っていて、どんな時でもあの服を着ているのだから。この前の湖でのピクニックでも一人だけあの服のままだったくらいだ。朱水達は一切椒ちゃんの格好について触れなかったけど、やはり周りの人達は奇異の視線を向けていたもんだ。

「まあ完成したらお知らせしますよ。ではどうします?」

「のり……ます。似合いますか? それとも違う色が良いですかね?」

 槿さんは私を抱き起こして互いの顔が水平に並ぶ状態にした。水中にいながら水平と言うのもおかしな表現だけど。

「大丈夫ですよ、似合ってます。ただ普段の尼土様を知っているとその差の大きさから違和感を覚えてしまうかもしれませんね」

 普段まともに化粧してないとそんな風に思われるんですね。良い勉強になったね、うん。

「後は朱水様に気付く敏感さがあるかですわ~。あの方結構そういった方面に鈍い時がありますので」

 そうなのか、ますます不安になって来たよ。

「グロスを塗っているというのは気付いても、その色の意味を察するかはちょっと保証できません。折角の尼土様の乙女心ですのに~」

「いや、そんな」

 そんな言い方だとこっちが逆に恥ずかしくなりますって。

「もし反応してもらえなかったら私の所に来てくださいな。その時は私がいっぱいいっぱい褒めて、甘えさせてあげますから」

 艶やかな声色を耳元でささやかれると私は背中の力が抜けてしまい腕で上半身を支える。凄い武器をお持ちですねほんと。クラクラとする頭を持ち上げて赤紫色の小悪魔を見上げる。相変わらずの温かな表情のままであった。なのにその口から飛び出る音の威力は優しいという物じゃなかった。感情に直にぶつけてくるような感覚があったんだ。

 だけど唐突に彼女は私と距離を取った。舞い上がる砂がうねりを作る。

「あらあら、来客ですよ~」

 彼女がそう言うとこれまた唐突に世界が終った。今までいた魚も海月も海星も、そもそもそれらを飲みこんでいた海水も一瞬の内に消えていった。そしてまばたき一回で世界を移動した私は、ベッドの上にいる私達の横に誰かが立っているのに気付くまでにさほど時間を要さなかった。

「槿、何しているのかしら」

 私の横で槐さんが少しだけ怒っている様子で仁王立ちしていた。

「その幻覚は一体どういう意味があるのかしら」

 今までに見た覚えの無い槐さんだったので、私の体はその微かな威圧感に潰されて縮こまった。槐さんがこんな風に表面的に怒りを表わすなんて事あるんだ……。

「別に良いじゃないの。それに尼土様だって嬉しそうだったもの」

「そういう問題じゃないの。ただでさえ朱水様がいらっしゃらないこの日に、貴方の力が発動したら誰だって不安になるわ」

「敵意の源は無いのだからそう焦らなくても」

「まさか、本気で言っているの。槿だって……」

 だが槐さんは途中で何かに気付き、目を見開いて私を凝視した。間違いない、今槐さんは私から何かを隠した。やはりこの屋敷には私が関わってはいけない問題が多々あるのだろうか。

「とにかく、事前許可の無い力の実行はよしなさい。良いわね?」

「わかったわよ~」

 眼前に迫る槐さんの威圧的な波にたじたじと後ろに反る。二人は見た目同じくらいの歳だけどしっかり上下関係はあるみたいだった。

「ところでどういった経緯で力を使ったの?」



「そんな理由なの……?」

 呆れ口調に槐さんは槿さんの頭を揺する。

「だって尼土様があまりに可愛らしいのですもの~」

 うわぁ、面と向かって言われるなら少しは嬉しいけれど、第三者に対してそんな風に言われると恥ずかしくて顔が焼けるよ。

「槐だって分かるでしょこの弄りたくなる衝動が!」

「……酷く分かるわ」

 二人は目を合わせた後に同時に私に振り向いた。

ドウイウナガレデスカコレ

「尼土様、どうせならお姉さん達に挟まれてみませんか?」

「きっと楽しいですよ~」

 ふふふと二人は妖艶に笑む。結局似た者同士って事なのね……。


 そして私は二人の間に半強制的に引っ張り納められる。身長的には私と大して変わらない彼女等だけれど、二人から滲み出てくる大人の雰囲気に呑まれて体が火照ってきた。そんな私を肴に二人は舌を動かしていた。



「あ、そうでした。紅茶の隠し味って結局何だったんですか?」

 槐さんが戻った後に自分もそろそろ帰らなくてはと、空になったカップをティッシュで拭っている槿さんに、脳中に再来した疑問を投げかける。彼女は紅茶と聞くと顔を明るく輝かせた。大変に嬉しそうだ。

「飲んで少しピリッとしませんでした?」

「あーやっぱするのが正解だったんですね。てっきり私の舌がおかしいのかと思っちゃってました。これって何ですか?」

「胡椒ですよ~」

「胡椒? 紅茶に胡椒って入れる物なんですか」

 甘いケーキに合わせて少し辛味が入った紅茶を用意したのだそうだ。紅茶に胡椒って結構合うらしい。

「女性も同じ、包み込む深みだけでなく時には弾ける辛さも必要ですね」

 吹き出しちゃうくらいのしたり顔をしている槿さん、「上手い事言った」って言いたげだった。こらえたはずなのだけれどどうやら少し漏れていたのか、槿さんは私と視線を合わすと顔を真っ赤にする。

「尼土様のいけずさんめ~」

「すみません」

 この人は大人と子供の二つの顔を持っているんだなぁ。叔母さんと同じタイプなんだろうね。その為なのか、使い魔さん達の中で椒ちゃんの次に親しみを感じる。

「槿さん」

「何ですか」

 少し怒った口調で応える。

「ポット、持ちますよ」

 槿さんは私の意図を察してくれたのか、何も言わずに渡してくれた。

「ちょっと重いですよ~」

「これくらいへっちゃらですよっ」

「頼もしいですね~。惚れちゃいます」

 槿さんは私の肩に頭を乗っけて甘い声を出す。


 いやいやそこで跳ねちゃダメでしょ私の心臓さんってば






 二人で食堂に入ると大きな音が響いた。なんだろうと奥の方を見てみると、大きなテレビにかじりつく二つの影があった。椚ちゃんと梓ちゃんだった。二人はどうやら映画を見ている様で、テレビの置いてあるカーペット敷きの一角にて、座っている椚ちゃんの膝に梓ちゃんが重なっていた。梓ちゃんが膝から落ちない為になのか、椚ちゃんは梓ちゃんの細い体を抱きしめている。

「ここまでで結構ですわ。本当にありがとうございました」

 ポットを受け取った槿さんは一礼して台所の方に去って行った。

 私が何と無く遠目に見ていると椚ちゃんがこっちに気付いた。梓ちゃんに私の存在を知らせると、その知らせを聞いた梓ちゃんは跳び起き、私へと襲いかかって来た。

「元気いっぱいだね」

「はい、もっちろんです」

 梓ちゃんはいつかの様に私の肩に飛び乗った。これによって私はあの時感じた違和感の正体にやっと近づく事が出来た。そうだったんだ、いくらなんでもこんなに軽いわけ無いよ。だって肩に女の子一人乗っけた状態で普通に立っていられるわけ無いもの。多少は重みを感じるけれど、私の足は震えずに立ち続けている。

「ねえねえ梓ちゃん、梓ちゃんってすごく軽いね」

「尼土様の為にですよ」

「私の為に? どういう意味?」

 私の疑問に梓ちゃんではなくいつの間にか私の横に立っていた椚ちゃんが答えてくれた。

「私達は体重、いえ正確には質量と言う概念が無いんです」

 うん、その差が分からない。

「えっとですね、固定的な重さが無いと言えば伝わるでしょうか」

「ああそう言う意味なのね。……ってそれって凄いよね」

 だって体重自由自在ってことでしょ! 何と言う女の夢!

「普段は同等身長の人間達の平均体重を保っていますが、場合によって意図的に体重を変えています。例えば今の梓の様にですね」

 私から見て逆さに映る梓ちゃんは自慢げに破顔する。

「羨ましい……」

「ですが筋力は一定ですので体重の増加に比例して体の動きは鈍くなっていきます。腕や足に砂袋を結び付けている像を思い浮かべてもらえれば幸いです」

 ほうほう。と言う事は椚ちゃんはもっともっと重い体重になれるのかな。凄い怪力の持ち主だもんね。

「ほら梓、何時までも乗っているんじゃないの」

「はーい」

 私の肩からぴょんと跳び下りると梓ちゃんは椚ちゃんの胸に顔をうずめる。ほんとこの二人は仲がいいね。

「今映画を見ているのですが良かったら一緒に見ませんか? 丁度見始めたばかりなんです」

「あーちょっと待ってね」

 脳内で目的を達成できたかを確認する。勿論使い魔さん達と触れあうっていうあれね。

「うん、私も一緒に見たいな」

「やったー。ほら尼土様こっちこっち」

 梓ちゃんは私をテレビ前に連れていく。今度は結構な力だった。多分体重を変えているんだろう。靴を脱いでテレビ前に着くと私を無理やり座らせて、今度は私の上に重なった。

 追いついて隣に座った椚ちゃんは私の上の梓ちゃんを惜しそうに見る。椚ちゃんはこの状況が忍びないみたいだった。そんな彼女に気付かないで梓ちゃんは嬉しそうにリモコンを弄くっていた。

「そうだ、お姉さん良い案思いついたよ」

「良い案ですか?」

 梓ちゃんは頭出しした映画を止めて私に振り返る。

「うん。とりあえず梓ちゃんはちょっと立ってくれないかな」

「はーい」

 梓ちゃんは素直に立ちあがってくれた。そして私はあぐらのまま隣の椚ちゃんに膝を叩いてアピールする。

「はいどうぞ」

 椚ちゃんは理解してくれた様でゆっくりと私の上に乗ってくれた。彼女がさっき言っていた通りで、驚く程にその体は軽かった。便利だねぇ。

「んでその上に梓ちゃんだ」

 椚ちゃんは私が言う前に手を伸ばして梓ちゃんを捕まえていた。これで私の上に椚ちゃん、その上に梓ちゃんという図となった。

「これで皆幸せだ」

 私は自信満々に言った。だけれども二人には意外に不評だった。

「やはりこれは失礼でした」

 椚ちゃんはそう言うと梓ちゃんを抱えたまま立ちあがってしまった。抱えられている梓ちゃんも少しだけ暗い顔をしている。

「あうー、良い案だと思ったんだけどなぁ」

 二人が何を気にしているのか分からなかった。

「えっと何所ら辺が駄目なのかな?」

「それは……やはり二人が乗るというのはちょっとよろしくないと思います」

「それにこのままでは尼土様が画面見え辛いです」

 あーそう言う意味だったのか。きっと私が『お客様』って言う立場だからそんな事気にしているんだろうね。私は一向に構わないのに。

「じゃあ直列じゃなくて並列になればいいんだ」

 ここは少し変更をしてみよう。

「椚ちゃんは私の右膝に、梓ちゃんは左膝に。これならどう?」

「……よろしいのですか?」

「全然お構いなくだよっ」

 私が胸をポンと叩いてみせると二人はお互いに見合わせて頷き合った。

「では失礼します」「失礼しまーす」

 二人は私の二個目の案通りに座ってくれた。これなら二人の頭の隙間からしっかり画面を見る事ができるもんね。椚ちゃんは梓ちゃんの手を取っているので満足そうだし、私も二人を抱っこできるから嬉しい。やっぱり膝上に誰かを乗せるのって気持ちいいね。

「で、これ何の映画なの?」

「えっと、これです」

 椚ちゃんがDVDのパッケージを渡してくれたが、それを見た途端私は絶句してしまった。それは何とも禍々しい絵面のジャケットだった。

「これってホラーだよね。梓ちゃん平気なの?」

 普通ならこんな映画は子供には厳しいはずだ。しかし梓ちゃんは元気よく「はい!」と頷いた。何て強い子なんだろうか。

「スプラッター以外のホラーならこの子は平気ですよ、むしろ好んでいるかもしれません」

 椚ちゃんは「ねぇ」と言って梓ちゃんの頭を撫でる。ホラー好きとか凄いね……私なんててんで駄目だよ。

「ホラーが一番好きなの?」

「うーん、SF系の方が好きかもです」

 そうなのか。まあホラーもある意味SFに近いもんね。宇宙人と幽霊って今の所は同じ『名前だけ存在する物』だから。

「尼土様はホラー駄目なんですか?」

 使い魔さん()の末女様は無邪気に訊いてきた。やばい、ここで無理だと答えたら負けだと思う。何に対しての敗北かは分からないけど。

「平気だよ~。お姉さんは結構こういうの見てきているんさね」

「そうなんですか!」

 やばい、なんか梓ちゃんが異様に喜び出したぞ。これは絶対まずい展開になる。一旦話を変えよう。

「椚ちゃんはどういうのが好きなの?」

「私は……お恥ずかしいですけど、その……恋愛物が」

 おお、乙女さんだね。堂々と言えないなんて初々しいなぁ。趣味も女の子女の子してるし、ちょっと内気な所もあって椚ちゃんって完璧な乙女だよね。髪の両サイドの編み込みがこれをさらに増長しているって感じ。

「恥ずかしがる必要無いって。私だって好きだよ」

「そうですかね」

「うん。女の子なら結構普通だと思うんだ」

 まあそんな事言っている自分はコメディ系が好きなんだけどね。

「ん、じゃあそろそろ見ましょうか」

 どうやら梓ちゃんの仕事開始時間から逆算すると今から見ないとぎりぎりとの事だった。梓ちゃんは私達の同意を確認するとリモコンのボタンを押した。


 嗚呼、恐怖の時間が始まってしまう……




 やっと、終わった……。ほぼ半目で出来る限り画面の隅をぐるぐるとなぞるように見ていた私は恐怖の時間を逃げ出さずにやり過ごす事に成功した。膝上の二人は食い入るように鑑賞していて私なんて気にしていなかったからばれてはいないだろう。梓ちゃんなんて、幽霊が人を襲うシーンになると手を握り締めて静かな興奮状態になっていた。悪戯であの時の彼女の目を覆ったりしたら一生嫌われてしまっただろうねぇ。

「結構面白かったですね」

 梓ちゃんが仕掛けてきた。全力で回避しなくちゃ。

「そ、そうだね」

「ですがバランスが悪かったですね」

 椚ちゃんは冷静な口調で語り始める。これはチャンスだ、相槌でやり過ごそう。

「ちょっと幽霊の出現するシーンの割合が中途半端すぎました。やはりホラーの系統として王道である、最後の最後に姿を現すもしくは結局始終姿が出てこないという感じの日本的な物だったり、逆にずっと出てきて追いまわされたりする洋画的な物の方が楽しめますね」

「だねー」

「そうですね」

 うん、良い感じに潜り込めてるぞ。

「解決できていなかったというホラーお約束の落ちは好感を持ちますが、出現時間の所為で緩急が塊となっている為か、分かりやすい安全展開があったのはいただけません」

「だねー」

「私はあまりそこは気にならなかったですね。それより撃退が物理的な方法だったのがちょっと……」

「そうね、狂人から逃げる作品ならそれで正解なんだろうけど、やはり幽霊物なら撃退不可能故の回避展開でないとね」

「だねー」

 ……おおぅ、中々濃い論議が展開されてしまっていますがどうしたらいいのでしょうか。


 彼女達は私の相槌を横に熱く語り合っていた。それはもはや今見ていた映画の感想を飛び出して、ホラー映画全体の話に移り変わっていた。だけれどもこれなら相槌だけが盾になるわけじゃない。私だって生まれてこの方一度もホラーを見た事が無いってわけじゃないんだから。

 しかし運の良い事に彼女達は熱くなりすぎて私を忘れて膝の上で熱中し続けていた。彼女達は普段は私を客人として捉えているので何かと構ってくれるのだが今は忘却の白泡で遮られているみたいだ。


 しばし相槌すらやめて彼女達の言葉に耳を傾けていると唐突に彼女達の舌が止まった。何かと思って目を開くと二人は私に対して何かを知らせる様な笑みを向けている。一体なんだというのだろうか。

「尼土様、玄関に向かいましょうか」

「いいですね! 行きましょ行きましょ!」

 私は立ちあがった椚ちゃんの力強い引っ張りによって無理矢理に立たされ、梓ちゃんの有無を言わせぬ背中押しで部屋を追いだされた。

「あうー、どうしたのさ? お姉さん見当もつかないよ」

「今に分かりますって!」

 理由を訊いても答えは返って来ず、私は背中を押す梓ちゃんとその後ろでニコニコしている椚ちゃんによって玄関へ運ばれて行く。

 だけど着いてみても一切変わった所は無く、何故ここに連れて来られたかが未だ判明しなかった。

「あ」

 橙色の光に満たされた空間でしばらく待っていると、梓ちゃんが何かに反応し玄関の扉を開ける。開かれていく両開き扉の隙間はまだほの明るく、真ん前の道に誰かがいる事が確認できた。その誰かは私達に気付いたのか足を速めた。

「あ……」

 黒髪が揺れる。

「朱水」

 私が一番会いたかった人が目の前を小走りに進んできた。

「朱水」

 私の足も勝手に一歩一歩戸惑いながら進む。

「有!」

 目の前に朱水がいる。

「ちょっと何泣きそうな目してるのよ」

「泣いてないよぉ」

「はいはい」

 朱水は私の頬を一度撫でるとその手を肩の後ろへ回す。

「久しぶりの有だわ」

「……うん!」

 久しぶりの朱水はとても温かかった。






 夕食は朱水と私、それと由音ちゃんとアイシスの四人だけが参加した。その時の会話はそれぞれの立場が影響してか、差障りの無い内容となっていた。しかしピリピリとした空気であったわけではなく、お互いに気にしないでおこうという意思の下に支配された場だった。


 夕食後は食堂の隣にある部屋にて由音ちゃんとお話をした。他の二人はイソイソとどこかへ行ってしまったのだった。由音ちゃんは私が二人の背中に注いだ視線を遮って声をかけてくれたのだ。おかげで寂しい思いをしなくてすんだからありがたいよね。


 部屋に向かう途中、誰かが私の後ろを追って来ている事に気付く。誰かと思って振り返ると予想していた人物では無かった。梓ちゃんか椒ちゃんかと思ったのだが、映ったそれは朱水だった。常に朱水は堂々としていて誰かを追うなんて真似滅多にしないのに。

「有、貴女の部屋に行きたいのだけれど」

 何かをしてきたのか、少しだけ息を切らせていた。

「うん、いいよ」

 私は朱水の横に並んで一緒に歩く。不思議とお互いに声を上げなかった。でも顔はお互い向き合っている。凄く心地好い雰囲気だった。


 部屋に朱水を置いてから歯を磨きにトイレへと歩く。するとばったりアイシスに出会った。二人は相手の持つそれぞれの歯磨きセットを見て目的地が同じだと把握した。

「これからもまた本を読むの?」

「はいその通りです。今は無限休暇ですがいつ有限に転じるか分かりませんので」

「無限かぁ、その間って本当にお仕事できないの?」

「仕事はありませんが給与はその間でも十割払われますよ」

「へー、太っ腹だね」

 アイシスは私の言葉が可笑しいらしく、足を止める。

「違いますよ。知の流出を防ぐための犠牲なんですよ。金だけならマグマの如く湧きますが、知識者は簡単には生まれませんからね」

 うわぁ、結構どころかかなり大人な話なんだね……。

「アマヅチはこれからどうするのですか?」

「私? 私は……ああ!」

「どうしました?」

「宿題しなきゃ。今完全に忘れてたよ」

 アイシスは宿題と聞くと急に教師の顔になった。

「宿題と言うのは義務と思って消費する物ではなく、機会と思って挑みなさい。その様な心構えではいつまでたっても向上できませんよ」

 何とも厳しい事をお言いになられる。やっぱりアイシスは職場では厳しい教師なんだろうかね。

 言い返す言葉も無く、私は再び歩き出したアイシスの後ろをとぼとぼと歩く。歯を磨いている間もなるべくアイシスから視線を逸らしていた。目が合うとまた厳しい教師に叱られると思ってしまったのだ。だけどアイシスはもう叱る気は無かったみたいで、磨き終えた歯を見せびらかす。

「うわ、真っ白」

「ふふふ、ボクは色素など色々いじくっていますからね。もしかしたら後天的な沈着も勝手にいじくられてしまっているのかもしれませんね」

 よく分からないけど要は魔法で綺麗なままでいるって意味なのだろう。なんて羨ましい。

「私にもそれやって欲しいな」

「ああ、これは魔法じゃないですからアマヅチには無理です」

「ああ、あれか。レイって物なのね」

 歯ブラシの水を切っているアイシスは私に視線を送るだけで答えを出しはしなかった。レイでも無いのだろうか。

「ではボクはここで」

「あ、うん。頑張ってね」

 私の呼び掛けにはにこやかに応えてくれたけれど、やっぱりアイシスとは大きな隔たりが横たわっているみたいだった。

「目標変更、かな」

 この三連休で使い魔さん達と仲良くなるって目標を立てたけど、もうちょっと拡張してみようかな。

「えへへ、なんか楽しいな」




「おまたせ」

 部屋に戻るといつの間にか緑茶が用意されていた。どうやら椚ちゃんが用意してくれたものを槐さんが運んできてくれたらしい。

「はぁ、和むわ」

 朱水は私の手を取って目を瞑る。手を持たれたまま私は朱水の隣に座って肩を並べる。

「そんなに大変だったの?」

「そうね、ちょっと今回は大事だったわ」

「そっか」

 私は一体なんて声をかけるべきなんだろうか。知らない世界が多い自分が迂闊に言葉をかけても良いのだろうか。


 いや、朱水なら良いんだろう。怖くない、朱水だもの。


「ねえ、何があったの?」


 大丈夫、私と朱水なら壁なんて無いんだ。


「…………」

 朱水は私が詳しく聞き出そうとした事に驚きを隠せなかった様で、手を離した。私はその少しだけ見開かされた目を見つめ返す。もっと知りたい、その思いで。


 怖くなんて、ない。


「貴女と同じ様な存在がね、知り合いの領地に住んでいるの」

 朱水に私の思いが通じたのか、朱水は言葉を濁さず喋ってくれた。

「私と同じ?」

「そう、削強班が『危険因子』と認定している存在ね。ああ、有は認定されていないから安心してね」

「え、うん」

 安心してと言われてもねぇ。私の意識が及ぶ範囲の話じゃないんだよね正直さ。

「その子達がね、何者かに狙われちゃったのよ」

「子?」

「そうよ、私達と同年代の姉弟よ。姉と弟」

 へー、朱水以外の魔に出会った事無いから気になるな。しかも同じくらいの年齢だなんてますます会ってみたいや。その二人に出会えれば、今まで朱水だけが具体例だった魔という存在に新しい像を取り入れられるのだろうか。

 でも待てよ、少しおかしいよね。

「でも危険因子だっけ、それに認定されているって事は……」

「そうよ。貴女の言う通り本来なら排除されていなければならないのよ。でもね、あの子達は例外、認められた危険因子なの」


 朱水はその姉弟の事を詳しく教えてくれた。未来視に過去視、そしてその重要性故に生かされているという現状等を。私はその話が進む程、何所か陰鬱な気分になっていった。


「それで今回あの子達が襲われた為に私達領主が呼び出されたって訳なのよ」

 そう言う事だったのか。彼女達がいかに大事な存在なのかが分かる話だった。

「襲われたって、その人達亡くなられたの?」

「ぴんぴんしてるわ」

 何故か朱水は髪の毛を弄りながら呆れ口調で答えた。一体どうしたのだろうか?

「まったく、自分達の価値を理解していながら自己管理をしないなんて本当お手上げだわ」

 うわ、今度は腿を指で小突き始めた。一体朱水の中で何が起こっているのやら。

「と、とにかく無事だったんならよかったよ」

「そうね。それはその通りよ」

 苛立ちを飲み込もうとして椚ちゃんが淹れた緑茶を飲む。朱水は椚ちゃんと違って音を一切立てなかった。一気に飲み干してやっと落ち着いたのか、やや崩れていた姿勢を座り直す事で正して再び口を開いた。

 だけどその顔は決して明るくは無く、怒りがただ消えていっただけの素の面に過ぎなかった。

「私はね、あの子達に出来る限りの自由を与えたかったの。持って生まれた物を考えると大抵の物を取りあげなくてはならないけれど、それでも彼女達に温かい血が流れる様にしてあげたかった」

 その為に朱水は何度か姉弟の上に立つ領主に頭を下げたという。遠い他人であるはずの二人に朱水は何故そこまでしてあげるのだろうか。彼女の顔にある暗闇がその答えなんだろうか。私には分からなかった。

「有」

「……何?」

 朱水は吐き出す様に私の名を読んだ。私は応える為に、いかにもまた触れて欲しそうにしている朱水の手に自分の手を重ねる。ピクリと、下の手は跳ねた。

「有、貴女は私が守るわ」


 そっか……守るって、そっちの意味だったのか。


「うん、ありがとう」

 ぽとりと水滴が私の手の甲に落ちる。

「守るから」

「……うん」

 どうして朱水は泣くのだろうか。

 私が弱いから?

 私が頼りないから?

 朱水の思い通りにならないから?


 私が私だから?


「馬鹿ね私。本当、愚か」


 朱水が朱水だから?


 誰も答えてくれない。きっと朱水も知らない。答えなんて無いのかもしれない。

 ただ分かるのは、今の朱水には私がいなくてはいけないという事だった。


 悲しいけれど、手放してくれても良かった

 私が私である為に朱水が傷つくなら

 いっそ永遠に交わる事の無いようにしてくれも良かった

 だけど朱水は私を求めた

 だから私は朱水の横にいる

 私は朱水が好きだから

 絶対に離れない



「ごめんなさい。こんな事を話す為に貴女に会いに来たわけじゃないのに」

 自分の手に重なる私の手をするりと滑らせ除ける。そして朱水の太股の上に落ちた私の手に今度は朱水のが上になる様に手を重ねた。重なる手には力が入っていて、少しだけ痛かった。

「ねえ有、ここ二日の事私に教えて」

「うん、私も朱水に喋りたい」

 知ってもらいたい。朱水に私の事を知ってもらいたい。それで朱水が満足するなら、それで私の事を好きでいてくれるなら。




「そう、あの子達と仲良く出来たのね」

「うん、いっぱいお喋りできた」

「良かった」

 朱水は私の耳下を人差し指の側面で撫でる。くすぐったくて思わず声と共に首が曲がる。それが気に入った様で朱水は何度も同じ事をしてきた。

「他にも由音ちゃんともお話したんだ。それに昨日は由音ちゃんと……」

「どうしたの?」

「いや、多分気の所為だ」

 まずい、何て事を口走ってるんだ私ってば。朱水は気にした様子も無く私の次の言葉を待っている。良い感じに誤魔化せたようだ。選りにも選って朱水に対して由音ちゃんと一緒に寝ましたなんて言うだなんて、凍った水面に走り込む様なもんだ。見えてる危険、回避するに越した事は無い。

「アイシスとは上手く噛み合わなかったからあんまりお話出来てないんだよね」

「なら明日すればいいわ。時間がまだまだいっぱいあるんだもの、焦る必要はないわ」

 そうだね。私達はまだ高校二年生、自由な時間であふれているんだもの。でもせっかく朱水が帰って来たんだからちょっと何処かへ行きたいな。

「ねえ朱水、もうへとへと?」

「平気、そこまで疲れてはないわ。どうしたの?」

「明日何所かに行かない? この前のピクニックの時みたいにさ」

 一拍の沈黙の後、朱水は首を縦に振ってくれた。

「やった!」

「何所へ行きたいの?」

「えっとね、海に行きたい」

 槿さんが見せてくれた幻覚で先に中から見た世界を知ってしまったけれど、やっぱり一度は自分の目で本物を見てみたかったんだ。

「前にお昼休みに海に行こうって話したけど結局行ってなかったし、良い機会だからさ。あの時は四人でって話だったけど、折角だから皆で行こうよ」

「そう言えばそんな話もあったわね。でもこの大所帯で海に行ってどうするの?」

「あーうん」

 そう訊かれると答えに詰まるのが正直な所だ。どうにか大人数で行く目的を思いつかないかと脳に鞭を打つ。

「釣りとか、どうかな?」

「残念だけど釣り道具はこの屋敷には無いわ。明日買うにしてもまず槐が許すかどうかね」

 うーむ、昨日の話からして槐さんは無駄と思われる出費にはとことん鬼らしいから一時の娯楽の為に釣り道具一式そろえるなんて絶対にしないだろう。というか私もお金無いし、始めから意味の無い提案だった。レンタルって言う手もあるだろうけど、そこまで釣りをしたいわけじゃないから黙っておこう。

「やっぱ散歩だけって言うのはおかしいかな?」

「おかしいとは思わないけれど、皆で行くほどの物ではないでしょうね」

「そっかぁ」

 ならやっぱ少人数で行く事になるのかな。アイシスも屋敷から離れたく無さそうだったし、仕方ないか。

「じゃあ後で皆に訊いてみるね」

「あら、まず最初に訊く相手がいるでしょう?」

「ん? 誰?」

「デートのお誘いはしっかりね、リップの素敵なお嬢さん」

 朱水は私の唇を爪で優しくはじいて、惚れ惚れする程のかっこいいウインクを決めた。






 昨日とは違って独りで寂しく広いお風呂に入る事になった。朱水は槐さんと入るらしく、私はそこに入り込む勇気など到底持っていなくて、その結果が孤独な入浴であった。由音ちゃんやアイシスを誘いに行ったのだが、由音ちゃんは見つからず、アイシスは独りで入りたいとの事だった。外人さんはやっぱり他人と入る事に抵抗があるのかな。

 正直な話、私は由音ちゃんとお風呂に入る事に関して、期待していると同時に、避けたいという正反対の気持ちを持ち合わせていた。期待というのは彼女にもっと近づきたいからだ。そうすればきっと由音ちゃんはもっと笑ってくれると思っているんだ。だけど避けたいという気持ちがある。それはあの子が本当に肌を他人に曝け出す事を嫌悪している節があるからに他ならなかった。一度は許してくれけれど、あれで懲りたかも知れない。私はあの子の心を覗く事は出来ないからどっちなのか分からなかった。

 いや、そんなの当たり前だよね。誰だって相手の心なんてそっくりそのままを理解するなんてできない。確かなのは彼女の体にある無数の生傷は彼女の過去であり、それを見られるのは彼女にとって苦痛であるという事実だけだ。

 触れなければ傷がつく事はない。だけどこれが正解なのかと考えると、私は鉛筆で塗りつぶしたくなる。弱い私は由音ちゃんがいないというのを盾に、どちらも選ばなかったと結論付けるしかなった。そうしてもやもやした気持ちを抱いたまま私は湯船に浸かったのだった。


 部屋に戻る途中、廊下の向こうから槐さんがこちらに向かってくるのが見えた。彼女も私に気付いたのか小さく会釈すると小走りで私の下へとやって来た。

「尼土様、その、申し訳ございません」

 槐さんは開口一番、謝罪の言葉を出した。

「どうしたんですか?」

「つい口走ってしまい、昨晩尼土様が菅江様と一緒に床に就いたと朱水様に知られてしまいました」

 な、なんですとぉ……と言うか何で槐さんがそれを知っているだろうか。

「椒は私に対して色々な事を教えてくれますから」

 先程までの申し訳無さそうな顔は何所へ行ったのか、誇らしげに彼女は微笑む。椒ちゃんから槐さん、槐さんから朱水に情報は流れるというのだろうか、なんとも恐ろしい話である。

「私を部屋から追い出すとその足で廊下を突っ切って行かれました。恐らく尼土様の御部屋へと向かわれたのでしょう」

 槐さんからは出来る限り早く会って欲しいとお願いされた。寝間着のまま出ていったので体に障らないか心配らしい。もうとっくに夏なのにここ数日は異常気象なのか肌寒い夜が何度も訪れている。今日だって少しだけ寒い。

「分かりました。まっすぐ帰ります」

「本当に申し訳ございません」

 槐さんは今度は深々と頭を下げる。

「そんな、気にしてませんって」

「…………」

「いや、ほんと頭上げてくださいって。全然気にしませんから」

「本当ですか?」

 一転、彼女の声色が変わる。何所か笑いをこらえている様な、そんな声だった。

「そうですよね、失敗は誰にだってあります。それにこれで尼土様はめでたく朱水様と一緒に床に就くチャンスが得られたんですもの、むしろ得ですよねぇ」

 …………ああ、つまりわざと漏らして朱水を焚き付けたって訳だ。この人は何て恐ろしい人なんだろうか。

 槐さんは手を振りながら颯爽と去って行った。多大な無力感を全身に帯びながら私も廊下を再び歩き出す。この後にひと波乱あると思うと滅法気が重いよ。


 私の部屋の前が見える廊下に着くと、成程朱水の姿が視認出来た。朱水は扉の前にある椅子に座って待ち構えていた。槐さんは知らなかったのだろうけど実は部屋の鍵はかけていないので中には入れたから、朱水が風邪をひく事は無いと思っていたのだけど、どうやら槐さんはその先まで読んでいたみたいだ。朱水が例え鍵がかかっていなくても勝手に入る事を良しとしない為に、夜の空気に肌を晒すと見越していたのだろう。流石朱水お付きのメイドさんだ。

「朱水、とりあえず中に入ろうか」

 私を見つけると何か言いたげに立ち上がったが、私はそれを制するようにして部屋に招き入れた。朱水は少し肌寒かったのか、あっさりと従ってくれた。

「ねえ朱水、今日よかったらどっちかの部屋で一緒に寝ない?」

 たまには積極的に行っても良いよね? 槐さんの後押しも折角頂いたんだし。

「え、ちょっ、な、」

 朱水は出端どころか何も行動を起こしていない内に全てを封じ込める真似をされた為に固まってしまう。面白いなぁ。

「どっちがいい? このまま私のベッドに入る?」

「そ、そうね。少し冷えてしまったので直ぐに温まりたいわ」

 強がりで落ち着いた体を見せつけようと頑張っている朱水は本当に可笑しくて、可愛かった。そんな可愛い朱水をベッドまで押して行き、終いにはそのままのしかかる様にして押し倒した。

「有、どうしたの?」

「別に。どうもしてないよ」

「そ、それならいいわ」

「うん、全然問題ないよ」

 たまには積極的に、そう自分に何度も言い聞かせる。

「寂しかったんだ」

「私もそれは同じよ」

「だから今はいっぱい朱水を感じたいなって」

「な、何恥ずかしい事言ってるのよっ」

 やだ、朱水ってばまっかっか。でも私もきっと同じなんだろう、さっきから耳と鼻が焼ける程に熱い。

 覆い被さったままでいた体を朱水の横に置いて、二人がベッドの中央に横になっている様にする。

「ねえ、足借りるよ」

「足?」

 朱水の了承を取る前に私はお互いの足を絡める。ふくらはぎの微かに柔らかいお肉が気持ち良い。他人の足というのはこんなにも熱く感じる物なのかとびっくりした。多分まだ冷たいベッドの中だから余計に熱く感じるのだろう。朱水は戸惑ったみたいだが、私がついでに手を重ねると赤いままの顔でいっぱいに微笑んでくれた。

 暖かい

「明日楽しみだね」

「そうね。結局私達と由音ちゃん、それに椚と梓だけが同行するというので合っているのね?」

「うん、椒ちゃんは行きたくないって」

 私が何度誘っても椒ちゃんは頑なに断った。その時の表情は非常に硬く、何かを堪えている様だった。

 いや、きっと私は理解しているんだ。だけど深く考える事を止めているだけ。

「残念ね」

「うん……うん」

 残念、なのかな。多分そうなんだろうね。

「ねえ朱水」

 私はどうしても話題を変えたくて強引に言葉を投げる。

「なあに?」

「朱水って普段何時に寝てるの?」

「うーん、決まってないわね。その日の気分で、と言うよりも眠い時に寝るって感じかしら」

 だから眠くない時は三時間しか寝ない日もあるの、だそうだ。私からしたらそんな睡眠時間信じられないや。

「じゃあ今はどう?」

 朱水は少し考える間を置いてから私の手を朱水の心臓辺りに置いて、照れ照れになって答えた。

「体が寝かせてくれなそうね」

 そうだね。

 明日はいっぱい歩くっていうのに私達は寝不足になってしまいそうだった。でも良いんだ、お互いが眠いなら一緒に歩けばいい。そうすれば遅れないもの。

 明日は一緒だよ、朱水。






 コンコンというノックが聞こえる。いつもよりも大きな音だった。

「おはようございます」

 扉が少しだけ開いて椒ちゃんの顔が現れた。

「起きていらっしゃってたんですね」

「うん、おはよう椒ちゃん」

 一応眠りに就く事は出来た様で、私は椒ちゃんが来る少し前に目が覚めた。遮光カーテンを閉じていなかったので朝日が顔を撫でた為に、睡眠不足な癖に早起きだった。

「御主人様は?」

「ああ、ここにいるよ」

 どうやら朱水が私の部屋で寝ている事は皆に知れ渡っている様だった。私の陰に隠れて見えていない隣の朱水の膨らみを指差す。

「起こした方がいいよね」

「いえ、念のために起こしに来ただけですので必ずしも起床なされる必要はございませんよ」

「そっか。ならまだ寝かせてあげて」

「はい、分かりました」

 昨日とは違う椒ちゃんがそこにはいた。間違いなく距離を取ろうとして、硬い表情を無理やりに浮かべている。それが分かっていても私にはどうする事も出来なかった。

「有様」

 暫しお互いに視線を絡めさせていると椒ちゃんは姿勢を今一度正して、少しだけ声を張り上げた。

「昨晩ずっと考えました」

「うん……」

「やはり、私も行きます」

「……うん!」


 それを嬉しいと感じるのだと、私は私の心を知る事が出来た。





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