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第五話 貴女と私 / 6



 俺は思った。今後二度と『地獄』という言葉を口にするまいと。


 地獄というのは死者が相応の罰を受ける所なんだ。つまり死者は地獄では生きているってことだ。罰を受けるには生きていなければいけないのだから。


 だからここは地獄じゃない。そう、この世には地獄なんて無いんだ。目の前の状況を目から取り入れ続ける脳はそんなくだらない事を考えていた。




死者は生きてはいないんだ。そんな当たり前なことを俺は知った。初めて死を目の当たりにしてだ。




 床一面に広がる人々の死体は生きていない。そりゃそうだ、ああされれば誰だって生きていられない。だから地獄じゃないんだここは。なら今俺は一体どこにいるんだ?


 そもそも目の前の肉塊は本当に人間だったのだろうか……そう疑問に思うほど原形を留めていなかった。


 現実とは思えない……しかし地獄ではない。どこか離れた世界、そこに俺はいた。


 そう言えばここには地獄じゃなくても地獄に相応しい者はいたんだった。


 そいつは俺の首筋に一本指を突きつけてそう言った。

「見物料ちょーだい? お前の命で良いからさ」

 そう言う、目の前の何とも落ち着いた顔をしている女は先程までの暴力の嵐には似合わない、静かな雰囲気を持っていた。しかし待ってくれ。こいつはさっきまでは確かに……人間じゃなかったんだ……。姿がどうという意味じゃない、あれが人間の仕業ではないということなんだ。


 それはまるで本の中にだけ存在する鬼だった。姿かたちは人間だけれども、その中には残忍で非情な赤い獣が隠れているんだ。


 そいつは腰を抜かせてへたれている俺の姿にクックとニヒルな笑みを浮かべ、その血まみれの足を俺の太ももに押し付けてきた。その痛みは鈍麻になった俺の感覚を賦活させる。その痛みと共に先程まで見ていた肉の飛び散る光景がフラッシュバックした。


 夢なら覚めてくれ、そう良くあるフレーズを何度も何度も心の中で叫んでいたんだ。


▽▽▽▽▽


 由音ちゃんの家から出ると既に空は黒い布を纏っていた。色味の悪い壁も暗闇を削る橙の灯りのおかげで少し綺麗に見える。

「ねえ椒ちゃん」

 外通路にて暗い夜空に何かを感じているのか、ただ押し黙る少女に話しかける。

「椒ちゃんって由音ちゃんのことどう思う?」

 敢えて二つの意味でとれる様な質問を投げかけた。

 椒ちゃんが由音ちゃんを少しでも好意的に捉えているならそれでいいし、もしそっちの答えが返ってこなかった場合でも私はそのまま頭からその考えを洗い流してしまっても良かった。いや、少なくとも嫌いではないだろうと半ば確信めいていたのかもしれない。だからどっちでもよかったんだ。それに私が首を突っ込む事でいつもの椒ちゃんの天邪鬼が発生しないとは限らないからね。

 椒ちゃんは数秒口を不動にし、クスリと唇端を曲げるとそのまま階段を下りてしまった。

「あや~、その反応は予期してなかったよ」

 私は心が見透かされた様に思えて少し恥ずかしくなり、ちょっとの間顔を見られたくないと追えずにいた。二人が仲良くなっている事に嬉しさを覚え舞い上がってしまった事を当事者に指摘されたものだから。既に階下にいる椒ちゃんが私を見上げただただ待っているのが視界の端にぼんやりと映っていた。

 通路の手すりに体を預け夜風を髪に誘う。空高くには綺麗な星空が広がっていた。夜の人は黒い布だけでは満足しないのだった。

「うん、帰ろうか」

 頬の紅潮の治まりを確認すると私は階下にいる椒ちゃんに手を振った。


 由音ちゃんが元気を取り戻したのを確認すると執事さんは一人で車に乗り込み朱水の家へと向かった。本当は私達二人を送ってくれると言ってくれたのだが、椒ちゃんは家に夕食のための食材が不在である事を思い出し、帰りがてらお店で調達するからと断ったのだった。


 数歩先にある黄髪の左右の棘が上下に揺れる様はどこか楽しげで、聞こえぬ鼻歌が耳に触れた。いや、その実彼女は軽やかな足取りで自身の気分の良さを表わしていた。

「由音ちゃんが元気になってよかったね」

 椒ちゃんが楽しそうだと自然に私の心も浮かれてくる。暖かい空気に乗ってそのままお空へ浮かんでしまいそうな雰囲気だった。

「そうですね。あの方の騒がしさはどこか落ち着く所がありますから」

「ありゃ~」

 相変わらずの反応だなぁ。

「明日からまた由音ちゃんが来ると良いね」

 それらは何気なく放った言葉だった。いや、その言葉だけじゃない、少し前からの言葉全てがそうだった。

 椒ちゃんはこちらへと振り返るといつもの何所か不機嫌そうな顔で、尚且ついつも以上の眉間の皺をこさえて私にジロと視線をぶつけて来た。

「……有様は随分と菅江様の事を気にかけていらっしゃるのですね」

 あからさまな不機嫌口調である。間違いなく先程までの上機嫌は塗り潰されてしまって、今少女の胸にあるのは私に対する怒りだけだった。


 その赤い目を見た瞬間自分が何ともお馬鹿な事をしていたと気付かされた。椒ちゃんはきっと由音ちゃんの回復を喜んでいたのではなく、否、それもあっただろうがそれ以上にこの時間が嬉しかったのだ。それなのに私は由音ちゃんの事ばかりを口にしてしまった。そりゃいくらなんでも怒るよね。


「二人で歩くだなんて久しぶりだもんね」

 そうだった、最近私は椒ちゃんと二人きりで長い時間を過ごす事は出来ていなかったんだ。折角仲良くなれた……はず……なのだからもっと椒ちゃんと近づきたいと思っていたのに。それなのにあの時から私は由音ちゃんの事ばかり気になってしまい椒ちゃんとの関係は流れに甘んじていただけだったのだ。思えば四六時中由音ちゃんの事を考えていた自分がいた。椒ちゃんでも朱水でもなく、由音ちゃんをだ。


 朱水の事は大好き、椒ちゃんだって好きだ。でも由音ちゃんへの感情は二人とは違うんだ。好きという単純な言葉では表せない物を私はあの小さな頑張り屋さんに対して抱いているんだ。朱水に対する憧れでなく、椒ちゃんに対する親しみでなく、そう、それはまるで子愛だった。母性本能というのだろうか、私という母親を知らない女でもどうやらそれは宿る様で彼女を見るたびにそっと頭を撫でてあげたくなるのだ。


「そうですよ……」

 零れる言葉は湿った重みに耐えかねて直ぐに落ちていった。心の奥底に潜り込んでいた感情だったのだろう。

「……今くらいは私に構ってくれたって……いいじゃありませんか」

「……………………」

 はい?

「今なんて?」

「っ……知りません!」

 今度は私ではなく椒ちゃんの頬が紅くなった。

いやはや椒ちゃんがあんな殺し文句を習得しているとは思わなんだ。その可愛い後ろ姿をそのまま抱きしめたい衝動に駆られたが、(すんで)の所で押しとどまった。


 由音ちゃんに対する愛情とはまた違う物を椒ちゃんに感じていた。それは可愛い物を愛でる気持ち、連れ添ってその姿をずっと眺めていたかった。

 始めは苦手だった。

 でもそれは次第に愛情に変わった。

 それは彼女を理解し始めたから。

 私は椒ちゃんをもっと知りたかった。

 でも彼女はきっと自由にさせてくれない。

「椒ちゃん」

「……何でしょうか」

 先程より大きく離れてしまった距離を言の葉が渡る。静かな屋外では私の呟きの様な声さえも彼女に届いてしまった。


 夜の住宅街は家庭から漏れる薄い灯りと頼りない小さな街灯だけで照らされている。ここは田舎と言う程寂びれてはいないが都会とは決して言えない、そんな場所だ。それでもぽつぽつと私達以外の人々が道を往来する。皆家を目指して足を運んでいた。


 薄ら明かりに照らされる人形の様な少女は私の言葉が続かないのを不審に思い、足を止めてこちらへと目を配らせた。

「何かありましたか?」

 どうしよう……言いかけた言葉の危険性に気付いて口を噤んだ所為でうまく言葉を探せないや。どう続ければいいのか、その赤い目を見返しながら必死に考える。口が動かない理由である焦りはその言葉の危険性から来ていた。


 言える訳が無かった。

 「好き」なんて無責任な二文字をこの口でこの雰囲気で言える訳が。

 私は嫌な奴だ。繋ぎとめようとしてその言葉を使おうとしてしまったんだ。

 確かに椒ちゃんを好きなことは変わりない。でもそれは由音ちゃんだって同じ事だ。二人とも好きだ、でも違うんだ。


 私だって分かっている。椒ちゃんから好かれているであろう今の私が「好き」だなんて言葉を使ったら冗談では済まなくなる事くらい十分承知している。

 椒ちゃんがどういう反応をするかは分かっている。そして心の中でもどういう反応をするかさえも。だから軽々しく口に出せない。うっかり言ってしまったとしても彼女は大きく捉えてしまうかもしれない。


 嘘ではない、しかし否定しなくてはいけない言葉になるから。


 私が本当に「好き」と言える相手は一人しかいないのだから。口に出して、そして一切の飾りつけも要らない素の「好き」でいられる相手はただ一人だけなのだから。

 私は今でも彼女に恋している。あの黒髪を揺らす姿を見る度に胸がときめき、あの主張し続ける瞳に見つめられる度に手を握りしめてしまう。その艶やかな唇から零れる声を聞く度に心地よくなり、その手に触れる度に私は彼女に魅了される。



 椒ちゃんに対してとも由音ちゃんに対してとも違う感情、

それはきっと『恋』


 尼土有は一色朱水に恋してる



 愛情だけなら二人に対してだって沢山持っている。だけども朱水に対してだけはもっと別の大きな物を孕むんだ。自分の物だけにしたい、全てを知りたい、人様には決して言えない黒い物だって心の隅っこにこっそりと隠し持っている。お互い恋人と言える存在になった今でも私は彼女に恋しているんだ。


 愛は沢山の人に振り撒ける物

 恋は本当に好きな人にしか差し向けられない物


 だから、椒ちゃんに対して「好き」なんて言葉を使う訳にはいかなかった。


 私は三人をそれぞれ違った感情で好きになっていた。庇護愛、親愛、恋愛、三人をそれぞれの理由で愛しているんだ。


「えっと……その……」

 私がずっと意味の無い繋ぎの単語を連ねているため椒ちゃんの眉は次第に吊り上がってくる。その様子を見て幾人かの通行人は二人の顔を何事かと交互に注視していた。


「だから何なのでしょうか」

 強まる声が夜の空気を震わせる。


 そこにもう一つの震えが加わった。


「久しぶりね椒」


 それは数秒前には絶対に感じられなかった存在、しかし今ははっきりと色濃く目の前にいた。


「……どういうつもりですか?」


 椒ちゃんの強まっていた声は急に小さくなった。しかしそれは無理やり感情を抑えたような響き、今にも留め金が外れて中身が零れ出しそうな小箱を雁字搦めにしている蔦の軋みだった。

 椒ちゃんは一度瞼を深く閉じ、ゆっくりと私とは逆の方向へ体を向けた。


 椒ちゃんの目線の先には驚く程に長い桃色の髪の女性が立っていた。背丈はその靴底の厚みを差し引くと私と椒ちゃんの間くらいだろうか。その太ももにさえも髪先が届いている程の長さだった。


「枳」

 彼女は不思議な事に私達以外の誰にも気づかれていない様であった。その洋服の奇抜さたるや誰もが足を止めると言っても過言ではないくらいなのに、誰も見やしないのだ。一方でメイド服という目を引く服を着ている椒ちゃんは当然の様に通る人全てに一度なりとも顔を向けられていた。


 目の前に立つ少女はまるで私達にしか見えていない幻だった。


「姉様、そう付けてはくれないのね」

 響く声は鈴の音の様に他者を惹きつけんとする。しかし、誰も振り向かないのだ。

 その手に持たれている傘は不思議な形をしていた。広がる骨は三本しかなく布地は三角形を形作っている。その三頂点には長細い宝石の様な物が垂れ下がっていた。傘が揺れる度にその宝石も大きく揺れ動く。

「……何か御用で?」

 再びの小さな声と共に椒ちゃんから何か恐ろしい物が溢れ出していた。目に見えないそれが私を包むと、私の足は嘆傷(たんしょう)のごとく震えだした。怒りという言葉では不十分な表現となるであろう。普段の椒ちゃんには無い、赤黒い物が漏出していた。

「久しぶりに妹の顔を見に来ただけよ」

 そうか、これが彼の枳さんなのか。考えのすれ違いから朱水の下を離れ、そしてその際に槐さんに呪いをかけた人物、かつては椒ちゃんと仲が良かったはずのあの枳と言う人物なのか。

「御冗談を。貴女が考えも無しに行動する者じゃない事くらい姉妹なら全員知っています」

 椒ちゃんから攻撃的な風が吹くが枳さんはそれを気にも留めない様子で平然と受けていた。

「そう。なら良いわ」

 興味が無いと言わんばかりの適当な返しでその威力をいなす。

「……有様にそれ以上近づいたらただじゃおきませんよ」

「ふふ」

 私と枳さんの間に立って視界を遮る。

「最近朱水様の周りにまとわりつく存在がいるから顔を拝みに来たのよ」

「……消えなさい。それと、有様に手を出したら姉妹全員が貴女のお相手をして差し上げますよ」

 二人は互いの腹を探る様に睨みあう。椒ちゃんの顔は私からは見えないけど恐らく今までに見た事の無い様な顔をしているのだろう。私の前に立っている事がむしろ幸いだったのかもしれないと、少しばかり失礼な事を考えてしまっていた。

「尼土有」

 急に聞き慣れない声で名を呼ばれたため反射的に姿勢を正してしまった。枳さんが私を指さす。

「いずれ邪魔が入らない場でお会いしましょう」

 私はその言葉にたじろいでしまい何も返せずただ椒ちゃんの頭越しに枳さんの顔を見ていた。

「……失せろ」

 椒ちゃんの声が一層低くなり、滅多に聞けない音を漏らした。

「ふふ、怖いわね」

 長髪の訪問者は小さく手を振って踵をめぐらせた。去っていく際も誰にも視線を配られず道のど真ん中を闊歩している。きっと何かの魔法が働いているのだろう。

「今のがあの枳さんでいいんだよね?」

「……ええそうです」

 未だ肩を強ばらせて息荒くしている椒ちゃんは何とか平常に戻ろうと深呼吸をしていた。その行為が終わるのを横で待っていると彼女は急に振り返り私の目前へと顔を突き出した。

「有様、あの女の誘いには絶対に乗らないでくださいね。彼奴は他の姉妹と違います。有様をどう思っているかなど私達には到底知り得ない事なのです」

 声の強さから察するに相当危険な人物らしい。普段落ち着き払っている椒ちゃんがあの状態だ、私だけでは絶対に近づいてはいけないと言う事は分かった。

「……今のでお腹がすきましたね。早く夕飯を作っちゃいましょう。小母様もお腹をすかせているでしょう」

 私の緊張が伝わったのか話題を変えて表情を和らげた。確かに緩んだ空気に晒された途端にお腹がぐうと鳴りそうになる。

「うん。今日は何を作るか決まっているの?」

「はい。極一般的な家庭で最も好かれる料理と聞くカレーを作りたいのです」

 おお~好いね!

「中辛と甘口の一対一が私の好みだよ」

「中辛とは何ですか?」

 歩きながら不思議そうに首を傾げる椒ちゃん。もしかしたら市販のカレールウの存在を知らないのかもしれない。朱水の家だもの、スパイスから作っていても何らおかしな話ではないよね。

「椒ちゃんはカレーのレシピを誰から習ったの?」

 そう尋ねるとごそごそとエプロンドレスの裏から四つ折りに畳まれた紙を出し私に見える様に広げてくれた。そこには少し乱雑な文字でカレーの材料と思われる品々が書かれていた。

「カレー一つ、ジャガイモ四つ、ニンジンは不味いから入れないで……」

 ああ分かった、間違いなくこれを書いたのは梓ちゃんだな。しかも「カレー一つ」って書き方じゃ初心者の椒ちゃんには理解できないよ。それに「作り方は箱の裏に書いてあるやつを見てください」か。

「とりあえずここに書いてある通り大体の市販カレールウなら裏に作り方書いてあるからそれに倣って作ろうか」

「そうなんですか。便利なんですね」

 便利というか、むしろ書いてない方が少数派だというか。

「そろそろスーパーに着くから後はそこで考えようよ」

「はい」

 私達は大通りに出て人々の隙間を縫う様に歩いて行った。






「これが『るう』なのですね」

 椒ちゃんは初めて見るであろう長方形の小箱をカタカタと鳴らして中身を確かめる。

「これを溶かすだけでカレーができるのですか。不思議ですね」

「正確にはこれだけじゃ駄目だけどね。後は具が要るんさね」

 裏に書いてあるレシピをよく勉強し指を折って必要な物を考えていた。

「それも買うんだからそれを持ち歩いて材料揃えればいいと思うよ」

 ひどく長い間ルウと睨めっこしているものだからちょっとしたアドバイスをしてみる。カゴに入れておけば何時だって見られるもの。

 機転の利かなさを恥じたのか私に大きく開いた目を向けると顔を真っ赤にして野菜売り場がある方へと逃げて行ってしまった。

「もう、ほんと可愛いなぁ」

 にやける口を指で押し戻しながらその軌跡を追う。しかし野菜売り場には椒ちゃんの姿は無かった。何処に言ったのだろうと外回りの太い通路に顔を出すと鮮魚売り場にて試食品を配っている店員の小母さんに掴まっていた。普段なら会釈だけで通り過ごしていたはずだけれども、今回捕まった相手は強敵の様で通路を通る人の目の前に試食品を出すものだから思わず手に取ってしまったのだろう。

 日本人は試食品を手に取ると買わないといけないのではないかという薄らとした脅迫観念を持ってしまう気がする。礼儀というか義理というか。おまけに子供が食べてしまうとおねだり攻撃をする裏切りの伏兵となってしまうから怖いよ。

椒ちゃんもそれが分かっている様で買わない物は試食品があっても見向きもしなかった。そんな娘の足を止めるとはなかなかの兵だ。

 そのやたらと目立つ格好をしている人物の背後に立つと、少女は配られたプラスチックの小さなトレーを私に差し出した。

「ん? 貰ったら食べた方がいいよ。戻すのはマナー違反だ」

 勿論そんなマナーなど無いが、要は回転寿司での皿戻しと同じで手を触れた物を戻さないってことだね。

「有様……」

「何かな?」

 椒ちゃんはトレーの中身を見て不思議そうにしている。私もそれを覗くが別に至って普通のマグロの刺身だった。爪楊枝が刺さっていて御丁寧にワサビまで添えられていた。

「この黄緑色のは何ですか?」

 その細い指先が指すのはツンとくる刺身定番の御供だ。

「ワサビだよ。初めて見たんだ」

「はい。私はそもそも食べ物には疎いもので……」

 そういやそうだった。最近では椒ちゃんが毎日物を食べているから忘れていたけど元々朱水の家では食事を取る必要が無いからという事で特別な機会が無いと食べ物を口にしないんだった。

「初めてか~。ならそれを口に入れる際には覚悟してね」

「覚悟ですか?」

 意味が分からず眉を上げるが私がそれ以上何も言わないため疑問に思ったまま爪楊枝で黄色い物体を持ち上げそのままぱくりといってしまった。あちゃー、そもそも他の物と一緒に口にするという発想すら無かったか。

 ワサビを生まれて初めて口にした椒ちゃんは目に涙を浮かべて私の腕を掴む。

「な、何ですかこれ。ベロの根っこが痛いです」

 そりゃそうだ、塊でいったら普通はそうなる。試食係の小母さんもワサビを多く入れ過ぎたと思ったのだろう、椒ちゃんの様子を見て既に用意してあったトレーからワサビを半分ずつ取り除く作業に没頭していた。

「はー」

 空気を通して本能的に揮発性物質を消そうとしているのか、鼻を摘まみ口からゆっくりと押し出すように息を吐いていた。

「どう? 初めてのワサビの刺激は」

「…………これって一般の人間でも手に入るのでしょうか?」

 はい? どういう意味かな?

 しかし椒ちゃんは私の答えなど待つことも無く体を九十度回す。

「これ、欲しいです」

 そう言って作業を終えた小母さんに向かって小机の上にある練りワサビのチューブを指さす。

 あらら、意外すぎる反応だや。

 店員の小母さんは最初目を点にしたが鮮魚売り場の隅にあるチューブが大量に刺さっている箱を示した。椒ちゃんは跳びつく様にその場へと駆け寄りワサビのチューブを数本一掴みで抜き取った。

「気にいったんだね……」

 その凄まじい速度に呆れすら覚えるが椒ちゃんに新たな好物ができた事には素直に拍手を送っておこう。おめでとう。

「有様、カレーの材料を早く揃えますよ!」

 俄然やる気が出た(と言うよりも帰る気が出た)椒ちゃんはカレールウの小箱の裏を見てその通りに急いで材料をカゴに入れる。もはや私に一瞥もくれず、ただただ材料を選んでカゴに落とす作業だけを繰り返していた。



「さあ帰りましょう」

 やっとその目が私の方を向いた時には既に両手にスーパーのレジ袋がぶら下がっていた。

「カレーよりワサビの方が楽しみでしょ」

「ま、まぁ」

 こしょこしょとレジ袋の取っ手を弄くって音を立てる。

「カレーには入れちゃ駄目だからね」

 そう言うと一時目を丸めた後こくりと頷いた。しかしその頷き方は私には了解と言うよりも「成程その手があったか」と言う頷きとしか捉えられなかった。椒ちゃんが気に入ったのがワサビの風味なのか辛さなのかが問題だ。後者なら熱い物に入れてしまうと和らいでしまうからね。


 帰り道、時々レジ袋の商品の上の方に置いてあるワサビチューブの束を嬉しそうに確認する椒ちゃんがいた。


 家に帰ってみると叔母さんがソファーの上で空腹を訴えていたので、急いでカレーを作り三人で美味しく頂いた。椒ちゃんにとっては初めてのカレーなので余計なアレンジはせず箱にあるレシピ通りに作ってみた。ここからのアレンジは彼女自身に任せた方が良いだろうから、我が家なりの作り方と言う物を伝授する必要は無いとの叔母さんの判断だ。確かに料理を覚えてきた椒ちゃんなら自分で調整できるだろうから。


 食後のデザートとして私と叔母さんがプリンを食べている横で、椒ちゃんはワサビのチューブをしゃぶっていた。

 その行為に愕然とした叔母さんだが「ワサビ、好きなのね」と一言だけ言葉にして後はそのリスの種喰いの様な光景を甘いプリンと共に美味しそうに平らげたのだった。


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