第四話 イキトシイケルモノ / (終)「好きと嫌いと」(終)
二人は急いで学園の敷地に入った。燃えているのは校舎だけの様だ。寮や衛生館に火の手は見受けられなかった。
「あそこに人が沢山いるわ」
確かに鏡が指さす方向に生徒の群衆が存在していた。皆燃えさかる校舎の方を見て口々に何かを話し合っている様である。
その時、誰かが叫んだ。
「おい、奴だ!」
炎に照らされる生徒達の顔が一斉にこちらを向いた。赤く染められてもなおその色はまるで何かに怯えている様であった。炎の揺らめきか、はたまた何かしらの鼓動が彼等を支配していた。
「奴って何よ?」
「分からないね。でも、どうやらウチ等は恐ろしく歓迎されていないみたいね」
加々美がそう考えてしまう訳はその生徒達の行動にある。
皆、手に杖等を持ち、間違いなく二人に向かって構えているのだ。誰一人明後日の方向へと向けず、二人を確実に捉えていた。
「動くな」
生徒の一人が大声で叫ぶ。その力み過ぎて震えている腕を限界まで伸ばして二人を威嚇する。
「どういうことよ」
「わかんないってば! 取り敢えず動かないが吉みたいだけど」
「同感ね」
じりじりと生徒の群衆と二人の間が縮まっていく。無論生徒達が歩を進めているのだ。
「囲むぞ」
先程の生徒が皆に命令を下している。近くで見るとその生徒の顔がようやく把握できた。その男は間違いなくこの学園一の優等生で、鏡も何度かその生徒と特別講義で顔をあわせていた人物であった。更には生徒会長という肩書をも持つ。
生徒達の内数人が二人を囲む様に広がって立つ。鏡がチラリとその顔一つ一つを確認すると、どれもこれも一度は見た事のある顔であった。つまり幾分か他の生徒たちよりも優れた集団に囲まれたという事を理解する。
「万事休す、ね」
「訳が分からないままに死ぬのは嫌よ」
二人はただ立ち呆けている事しかできなかった。自分達の身に覚えに無い何かしらの罪によって怒りを買っているのは、ひしひしと彼等の目から届く視線で分かった。だが自分達が慣れ親しんできた「現実」からかけ離れていたため、どう動いて良いのかすら思いつかないのだった。生まれて初めて感じ取った明確な「殺意」は二人の心を大きくかき乱していた。
「星井加々美、気でも狂ったか」
二人を囲んで立つ生徒の一人が言葉を放つ。その怒りに煮える声は炎に身を委ねる校舎に反響した。
「どうやらあんたが目的みたいね」
「らしい。でも皆目見当がない」
加々美が首を振るのを見ると群衆達は更に睨みを鋭くさせた。
「巫山戯るな! お前がしたことは全部こちらに筒抜けなんだぞ」
そう言い、男は何かを取り出した。
「先生達を殺し回っているのは君だろ」
それは水晶球であった。一部の講義で使われる学生用に簡易化された魔法具である事はその大きさと刻印で優に分かり得た。
「会長が飛ばした使い魔によって私達は貴方の行動をしかと見させていただきました」
囲っている内の一人である女は、その落ち着きに似合わず槍などと言う物騒な得物を深く構える。
「少なくとも我々は先生四人の殺害を目撃した。星井加々美、君には驚かされたよ」
他の、斧を持つ男もその得物を振りかざす。加々美を殺す気だ、殺意がその瞳に宿っていた。
「まさか学園長にまで打ち勝つとはね」
そして二人は確実に追い詰められる状況になった。
誰もが加々美に向かって殺意の籠もった目と個々の武器を向けている。
「悪いけど会長の言葉は信じられませんね」
しかしその状況でも鏡は凛として立ち向かっていった。彼女が一歩前に出るだけで周りの群衆に緊張の風が舞う。何かおかしな行動を見せてしまったら即座にあらゆる武器がその威力を示す結果を招くであろう。
「鏡君、君はどうしてその女と行動を共にしている」
生徒会長である男はひと際声を張り上げる。内心の恐怖心を掻き消そうとしているのが明々であり、それは加々美と鏡が落ちつきを取り戻すのを多少なりとも手助けしてしまった。
「それは簡単な話です。一緒に買い物に行ってたんです。つまり私達はさっきまでこの敷地内にいませんでした。因みに証拠もきちんとありますよ」
そう言って帰りに立ち寄った店でお菓子を買ったときの領収書を丸めて会長の足下へと投げた。
二人で仲よく食べようと思って財布とあまり相談せずに沢山買ったのに、この空気では絶対にそんな夢にたどり着けない。そう、二人は同様の悲しみを心の片隅に抱いていた。
会長は足元に落ちたそれを恐る恐るといった様子で広げたが、一瞥するだけで直ぐに捨ててしまった。
「こんなのいくらでもねつ造できるだろう」
「そりゃまあ」
いいか、と会長は自分の目を指差して声を荒げる。
「我々はこの目で見たのだ。この目がある限り君達の下らない嘘にひっかかったりはしないさ」
「はあ」
まずいね、と二人は同時に囁く。
会長は一度咳払いをする。
「鏡君、取り敢えず君はその女から離れてくれないかい? そうでないと君まで巻き込んでしまう事になる」
「いえ、もう十分巻き込まれていますけどね」
鏡は不敵に笑った。この状況でその様な顔を作れるとは如何に大物であるかが分かる。
「何にせよ、私が加々美から離れるわけ無いんですけどね」
「どういう意味だ?」
会長の眉が吊りあがる。それだけでは無い、二人を囲っている者皆の眉が動く。
「こういう意味ですよ」
そう言って夕方に使った魔法の粉が入った袋を取り出し、中身を空中に振りまいた。
鏡の大胆な動きに驚愕の表情を一瞬に浮かべた生徒達は、しかしそれでも手を動かす事叶わずただ見るだけしかできなかった。いや、殺す覚悟が無かったというのが正しい表現になる。他の誰かが仕留めてくれる、そういう考えがここにいた誰しにもあったのだ。当然だ、いくら魔法使いの端くれだろうと学生の身分で人を殺そうと思える狂者はいない。戦闘訓練を受けていない者が他人に簡単に致命的傷害を与える気にはなれないのだ。
例えその瞳に殺意が映ろうとも、実際にその殺意を現実に導く事は理性が妨げてしまうものなのだ。無論、一度でもその理性の更新が起きていると妨害は発生しなくなるが、その様な人物はこの学園からとっくに追い出されているだろう。
「さて、どうするよ?」
動かぬ世界で二人は顔を見合わせる。
時が止まったよう見えるが実際は『そう見えているだけ』なので二人はその位置に立ったまま相談し始めた。
周りの生徒達は二人を囲っていたことを忘れたかのように、自分達が何故ここにいるのかを互いに問い合っている。
その光景は鏡と加々美には見えていない。
数十秒唇で指を食み思考していた鏡は、名案思いつかず焦りを含ませて口にする。
「未だ効果時間残ってるけど……取り敢えずここから逃げましょうか」
こちらも何も思いつかない加々美はその言葉に力無く賛同する。加々美の方は精神的疲労が見て分かる程に滲んで出て来てしまっていた。
「だね。ここにいても損しか生まないみたいだし」
二人はお互いに手を絡めあって、決して離れぬようにと注意しながら、囲まれたままで景色が止まっているその場から走り去った。勿論、何所に誰がいるか分からないのでゆっくりと動きながらであるが。
「あんた、変なことした覚えない?」
「悪いけど貴方と違って外向けは結構大人しい人間なんでね。そんな覚えはないさ」
「……余裕ね〜」
「ま、焦っても仕方ないからね」
燃えさかる校舎の直ぐ傍で二人は物影に隠れていた。会長達も二人が逃げるにしてもまさか炎の真っ直中に逃げるとは思わなかっただろう。そこを逆に衝いて二人は今いる物影へとやってきたのだ。
「とにかくウチの姿をした何かが教員達を殺して回っていたって事は確からしいね」
「メタモルフォーゼかしら? でもそんな物使える輩は限られているわね」
霊力が影を影のまま現実に影響を及ぼさせる現象ならば、魔法とは影を形にする現象である。つまり思い浮かべた「現実」を作り出すということだ。よってその想像をより自分に信じさせる事ができる者こそが優秀な魔法使いとなる。また形とは本質、つまり姿を変えるという事は自身を変えるという事だ。しかし自身を塗り替える事が出来る者は同時に絶対の自身を持っていないと存在崩落することとなる。自分を騙せる事ができ、尚且つ自分を描ける者だけが扱える魔法がメタモルフォーゼという高度魔法なのである。
「ああ。そして間違いなくそいつはとんでもない化け物レベルの魔法使いだって事も判るね」
会長はその者が学園長にも敵ったと言った。この学園で最高実力者である学園長にも敵った言うことは魔法使いの中でも上位の方にいる人間だと言うことになる。
「ま、とにかく今はこんな所で思慮にふけているより行動を起こすしかないわ。少なくとも寮に行って私達の荷物の一部を持ち出さないと逃げることも出来ないわ」
「間違いなく寮の中にも生徒達がいるだろうね」
「分かってると思うけどもう実力で何とかするしかないわよ」
鏡は魔法の粉が入っていた袋を叩く。既にほとんど使い切ってしまった後なのでただただ粉が巻き上がるだけであった。
「『姿隠し』なんて高度な魔法は二人とも使えないし、手詰まりね」
「そうだな……」
二人は黙るしかなかった。その間にも炎は校舎を飲み込み続け、真昼のように世界を照らし続けている。
その時、鏡が何かに気付いた。
「ねえ加々美」
「うん?」
「あんた映画って好きだったわよね?」
鏡があまりにひょんなことを言うものだから加々美は顔を上げてその顔を覗く。
「こんな時にそんな話? まあそれなりに見ているさ」
「これ程の炎が上がっているくせにさっきから何所も崩れない建物って映画とかでもあった?」
そう言って炎にまみれる校舎を指さす。
「……確かにおかしいね」
「でしょ? でも熱は確かに感じているわ。これはちょっと試す価値あるわね」
鏡は近くに落ちていた木の枝を持ち、木に燃え移っている炎に先端を差し込んだ。炎は枝にも燃え移ったが、鏡が枝を振って鎮火すると、
「やっぱりね。これ、幻術か何かね」
枝には何一つ焦げた跡が出来ていなかった。
「でも確実に熱は感じてるわよ?」
「う〜ん、そう言う魔法もあるんじゃない? この世界には魔法の系は沢山あるんだからどんな魔法でもその存在の否定は出来ないわよ」
そこで何を思ったか鏡はすくと立ち上がると校舎の中へと入り込もうとした。加々美は当然の反応としてその手を取って止めさせる。
「ちょっと、正気?」
「正気よ」
「そう、なら元から馬鹿だったのかね。今も中に犯人がいるかも知れないんだぞ?」
「いないかも知れないじゃない。それに荷物が無くとも校舎の中にある代物をちょっと失敬すれば逃走金にもなるじゃない。どうせ他の人間はこの炎に気付くまでまだまだ時間かかるわよ」
それはそうだけど、と言う加々美を置いて鏡は嵌め殺しの窓を割り、中へと侵入した。
「あんたはどうするの?」
窓越しに手を差し伸べる鏡の顔は楽しそうであった。自分の状況なんて何のその、普段では味わえないスリルに酔っている様だった。
「……行くよ。まさか自分が火事場泥棒になるとは思ってなかったわぁ」
加々美もそれに続き、中へと入り込んだ。
「熱いわね」
熱風だけは確実に存在しており、それだけでも二人は先に進むのを諦めそうになった。簡単な話である。熱風の所為で目がまともに開けられないのだ。
「どうするの?」
加々美は呆れたように呟く。
「…………」
自分から言った手前、やっぱ止めようとも言えず鏡は黙り込んでしまった。自分の口から「できない」と言う単語を出すのは彼女のプライドがやはり許さなかった。
そこで呆れ気味にその手を加々美が取り、堅く握った。
「悪かったね。本当は解決方法知っているんだわ」
そして加々美は教員の研究室がある方向へと歩き始めた。目を細目にし、さらに熱風を目に直接当てないように手で護りながらという苦し紛れの方法で辛うじて歩けている程度だが何とかなるようだ。
「そうか、あそこなら確実に防炎ゴーグルが備え付けられているわね」
「ねえ……」
前を歩いている加々美が立ち止まった。
「貴方の目にはあれが何に見える?」
加々美は何かを指さす。それは他の大きさが統一されている扉と違って一つだけ小さく、材質も違っていた。見るからに古めかしく、黴すら生えていそうな扉であった。
「扉、ね」
「よね? でさ、貴方ここでこんな扉見たことあった?」
鏡はブンブンと首を横に強く振った。
ここは何度も通っているが一度たりともこのような扉に気付くことはなかった。恐らく封印がされていたのだが、それが何故か今姿を見せてしまっているのだろう。
「どうする?」
加々美は少し興奮したように息を荒げて問うた。火事場泥棒の行為は彼女の冒険心を煽ってしまっていた。
「何にせよ今はゴーグル優先よ。このままだと間違いなく目が潰れるわ」
二人は名残惜しそうにその場を離れる。
二人がその廊下の角を曲がるとその扉がたちまち消えてしまったことに二人は気付いていなかった。
「よしこれね」
鏡は壁に掛かっていたゴーグルを二つ手に取り一方を加々美に投げた。ここは魔法の研究用の特別な形をした陶器を作る場所である。しかし実際はそういう用具品は外部から購入している物がほとんどで、本当は教員達の趣味の部屋であるが表向きはそうなっている。授業で使うのも一人の生徒で在学中に一回程である。その上教員達の研究室のさらにその向こうに構えてあるため生徒は一層寄りつかない。
「これが在れば何ともないわ」
「そうな。気道が焼けるほどの熱風でなくて良かった」
ゴホンゴホンと加々美は空咳をあげる。
「で、さっきのところに戻るの?」
「興味は大いにあるかな」
二人はにんまりと悪い顔を合わせ、再び来た道を戻った。
が、そこに扉はなかった。
「しくじった。まさか封印じゃなくて移動式だったとは」
鏡の推理では時間によって出現位置が変わる扉らしい。
「ここで待っているはいささか愚かね。いくら何でも時間の無駄よ」
「ならどこへ行く?」
「そうね、普通に考えたら展示室かしら?」
展示室とは魔法使いの間で有名な絵画が飾られているギャラリールームである。あるのは普通の人間ではその価値を見いだせないような代物ばかりで、魔法を囓ったことのある人間だけがその価値が理解できると言われている。
「駄目ね。いくら何でもあそこの物は買い取ってもらえないね。何てったってここにしかない物なんだから直ぐ通報されてしまうさ」
「だったら……」
鏡は目ぼしい物を思い出そうとするが普段からそういう事を考えて生きている訳ではないのでなかなか思いつかず貴重な時間を沈黙で浪費してしまった。
「そうだ、付いてきて」
鏡の横で同様に悩んでいた加々美は何かを思い出したのか、駆け足で燃えさかる炎(と言っても実際は幻影であるが)の中を進んでいった。
「火事場泥棒の適正は私より加々美の方が高そうね」
鏡は苦笑しながらそれを追った。
付いてこいと言った割には速く走るので、鏡は辛うじて加々美の後ろ姿を見失わないのがやっとであった。これは二人に体力的な差があるためだ。それに幻影の炎の所為で視界が悪いので余計に追うのが困難であった。
しかし、その追いかけっこは急に終わりを告げた。
階段を上った先にあった光景に鏡は驚愕と緊張のあまり階段の最上段で立ち止まってしまう。
そこには加々美が二人いた。
「まずいわね。阿呆みたいに金目の物に集中した所為で完全にそいつのことを失念していたわ」
自分の失態に悔やむ言葉をあげるが既に時遅し、出会ってしまったからには何とかして逃げなくてはならない。汗でべとべとになりかぶれの痛みすら走る背中に新しい汗が噴き出た。
しかし加々美は一切焦っていなかった。
「鏡、こいつ動いてないよ」
加々美は目の前にいるもう一方の加々美の頭をこんこんと叩く。確かに動く気配はなかった。その様子に鏡は胸をなで下ろす。
「焦ったわよ。死に目って奴が今訪れたのだと覚悟したわ」
鏡もその動かない加々美に近づき、その姿を頭のてっぺんからつま先まで観察する。
「良くできてるわね。間違いなくこれが動いていたらあんただと勘違いするわ」
そうね、と加々美は動かない加々美を弄くりながら応える。
「これから走るの禁止ね。なるべく直ぐに隠れられるようにしながら進むわよ」
「了解」
そして再び加々美は先を進み、それを鏡が追う。しかし先程と違いお互いに無言で慎重に歩き、時々周りを観察し合っている。警戒においては二人いることはとても便利なのである。
「あれ、まただ」
先往く加々美は再び立ち止まった。
「また知らない扉だ」
「さっきのがここに来たのかしら。入ってみる?」
「判断は君に任せるさ」
「そう……」
鏡はゆっくりと扉へと近づき、そのノブへと手を伸ばし捻った。鍵はかかっていないようで、押すとゆっくりと開いていった。
「暗いわね」
「そうだな。まあこんなの灯りが在れば良いだけのことだし」
加々美は自分のポケットからライターを取り出した。
「あら準備が良いわね」
「必需品さ。魔法使いなら持っとけって本に書いてあった」
加々美がライターに文字のような記号を指で描くとそのライターは着火せずとも火を放った。
その明かりはまるで大きなランタンのそれのように明るく、部屋を隅々まで照らしてくれた。
「本がいっぱいあるだけね」
「待って」
加々美はしょぼくれた様に辺りを見渡したが、鏡は何かを思いついたのか緊張した顔を見せた。
「ここってもしかすると禁書とか言う物があるんじゃないの?」
「いや、流石にこんなに安易な場所にあるわけ無いでしょ。ま、金目の物があるならそれに越したことはないけどね」
「ならお互い手分けして高そうな本を探しましょ。あと、禁書とかそれっぽい物を見つけた時は呼び合うこと、良いわね?」
加々美は頷き、二人はバラバラに辺りを弄くり回った。
その部屋は広く、どう考えても床から天上までの距離はこの校舎の一階分の高さを遙かに超えていた。魔法という物は何でも有りと聞くが、ここまで自由な物なのかと鏡は感心していた。しかし何時までも魔法の優秀性に驚いている訳にはいかなかった。ある目的のために鏡は行動していた。
時が経つ。
「ねえ、この本とか禁書っぽくない?」
鏡が本の隙間を逐一探していると、加々美が何やら古くさい本を持ってきた。
「どうしてそう思うの?」
「いや、古そうだし、表紙も何だかそれっぽいじゃない」
「でもきっとそれは違うわよ。何なら開いてみると良いわ」
「あーほんとだ」
鏡の言うとおりそれはただの本であった。加々美はがっくりと肩を落とすが再び本の背表紙を調べ始める。
「ねえ、今日は楽しかった?」
それはつまらなそうな鏡の言葉。
「勿論さ」
それは楽しそうな加々美の言葉。
「指輪有り難うね」
それはつまらなそうな鏡の言葉。
「気に入ってくれたのなら嬉しいわ」
それは楽しそうな加々美の言葉。
「高かったでしょ?」
それはとてもつまらなそうな鏡の言葉。
「う〜ん、そこまで高くはなかったよ」
それは楽しそうな加々美の言葉。
「そう」
それは鏡のため息。
「ねえ、それ本気で化けてるつもり?」
「え?」
「そんな物でさ、私の目が誤魔化せると思った?」
鏡はその手に持つ魔導書に自分の感覚を重ねる。
これが所謂魔法具の『展開』である。本来魔導書はただ魔法が説明されていたり、その探求の歴史が書かれていたりするのが主であるが、古い魔導書には魔力が宿るので、それに自分の魔力を注ぐだけでその魔法を行使出来るようになっている。
だが誰でもが出来るわけではない。
鏡は既に実家にあった伝家として管理されている古の魔導書『レデエ』に幼い頃から触れていたために、幼くして魔導書と自分を重ね合わすことが出来るのである。
余談だが、この学園においても彼女以外に生徒の身分で魔導書を扱える者は在籍していない。彼女が色々と優遇されているのにはこういう理由もあるのだ。
「レデエは門外不出の所為で持ち歩くことは出来ないけど、ここにも魔導書があって助かったわ」
鏡は右手を加々美へと向ける。
「そもそもね、貴方初めから大きなミスしていたわよ」
「…………へぇ」
加々美の様子が豹変する。嘗めるような目線で鏡を威圧する。
「あんた、姿形は真似てもフレグランスの匂いまでは真似できないみたいね」
偽物と思っていた加々美に近づいた時にいつもの彼女の匂いが薫った時点で既に鏡はどちらが本物か気付いていた。
「ふふ、何だ初めから気付かれていたのか」
偽の加々美は楽しそうに破顔すると空中へ浮いた。
「まあね。でもあの時点ではこっちに武器がなかったから大人しく騙された振りをしていただけ」
鏡は手に持つ魔導書を叩く。
「でも、もうこれが在れば少なくとも貴方に負けるわけ無いわ」
「あははは、凄い自信ね」
「そりゃそうよ」
自信に満ちた顔を見せる鏡が呪文を唱え始める。鏡は自分の力に確信を持っていた。以前加々美と一緒に行った実験での魔力の暴走は間違いなく絶命に及ぶ威力があった。つまりそれだけ鏡自身に眠る想像のふり幅の遊びは大きいらしい。あれを緩衝魔法無しでここで放てば間違いなく相手は御陀仏だと考えた。無論自身の身を守る緩衝は行うがそれを先にしてしまうと感づかれてしまうためにギリギリのタイミングで行うしかなった。これが本当の生死をかけた戦いなのだと少女は身を興奮で震わせた。
しかし、その詠唱は何者かがドアを開く音で途切れてしまった。
(っち、仲間がいたか)
入ってきたのは本物らしき加々美を抱えた男であった。その出で立ちは物語に出てくる『吸血鬼』の様で、赤い眼が冷たく光り、白銀に輝く長髪麗しき青年であった。だが鏡にはその者が放つ魔力の異常さが伝わっていた。
(尋常じゃないわね……何よこいつ)
実際は吸血鬼等という種族は実在しないため、あれは人外ならば第二ということになる。そんな者と、いくら優秀でも十代の少女が対峙できるわけもなく、恐らく迂闊に構えた途端に殺されるだろう。即座に判断し相手を刺激しない様に鏡は身を硬直させる。顔も相手の頭を小突かない様にと逸らすが、その口は苛立ちにひん曲がっていた。
「禁書は見つけたかね?」
その青年は姿に似合わず老人のような嗄れた声を出した。
「申し訳ありません」
偽の加々美は浮いていた体を地に落とす。
「そうか、ならば続けろ」
「はい」
どうやら偽の加々美は青年の僕のようだ。深く辞宜をして畏まる。
青年は背中に抱えた加々美を床へと下ろす。
「やはりこの人間は素晴らしい」
青年は壁際へと静かに逃げていた鏡に話しかける。その顔はやはり凍てつくような何事にも動じないと思わせる表情を浮かべ続けている。
「君もこの人間の体が目的だったのかね?」
その言葉に含まれる重圧は正しく彼が人間を超える存在であるという証明のように感じられる。それほどまでに鏡はそれに気圧されているのだ。
「何のことだか」
「気付いてないのか。この女は最高峰の媒体の素質を持つ人間として前々から注目されていたのだ」
そう言って寝ている加々美の顎を持ちその顔を確かめるように眺める。気を失っている綺麗な顔は苦悶に少し眉を歪めていた。
「だが今回は思わぬ収穫があった」
その青年は鏡へと歩み寄る。鏡は歴然とした力の差を感じているために迂闊に動けず、ただその姿を睨むだけしかできなかった。
「お前も中々な素質を持つ様だ」
鏡の腕を掴むと軽々と腕を吊すようにして鏡を持ち上げる。掴まれた部位にかかる、握り潰さす様な力と体重の所為で腕に激痛が走る。
「痛いわね!」
「ほう、中々活きが良いな。だが私は刃向かう輩は好きでないのでな、あまり抵抗するでないぞ」
鏡は青年に力任せに投げ飛ばされ、壁に叩き付けられた。反動で体がゴムのように跳ね返り、床に崩れ落ちる。
「痛ぅ……」
「黙らせる方が先か。まあ肉体さえ欠損せず手に入れられれば中がどうなっていても良いな」
激痛に絶え絶えとする意識を辛うじて繋ぎ止めようとしている鏡を他所に、僕の偽加々美を呼ぶ。
偽加々美は探索を中断し、青年の足下まで瞬時に移動し跪いた。
「この女を黙らせろ」
その命に偽加々美はサディスティックな笑みを浮かべる。こいつは教師を殺すときも同様な顔をしたに違いない。
「ちょっと待ちなさいよ」
首だけを何とか擡げて青年達に怨恨籠もった目を向ける。恐らくその目には並々ならぬ殺気が含まれていただろう。しかし青年は何も言わずただただ鏡をその冷たい目で見下ろすだけであった。
「何故加々美を狙う」
「先程言っただろう。彼女の体は優れた媒体になる。どうやらこいつの近親者共はそれに気付かずに外へと野放しにしたようだがな」
青年が言う媒体というのは精霊や神、悪魔との交流が可能な人間のことである。シャーマンの様な類の魔法使いが媒体としては有名である。
「だから私が欲した。それだけだ」
「わざわざ加々美に罪をかぶせようとしたのは?」
「気が狂い魔道に飲まれた、とでもすればお前等は何の疑問も持たぬからな」
確かに、魔法使いはそう言う考えをして割り切らなければやっていけない節がある。気が狂う者は頻出し、逐一事件として裁判等と面倒なことをしている暇など魔道を進む彼等には存在しない。そういった敗者という雑草は通る者が根こそぎ引っこ抜いて道の外へと放り投げてしまえばそれで良いのだ。
「それに禁書を探すのに熟練した魔法使い共は邪魔だからな。丁度いい駒があったという物だ」
やはり感情の無いその顔で淡々と述べる。
(ふざけやがって。お前等なんかに加々美を渡すか!)
しかし不慣れな魔法で目の前の二人に渡り合えるとは到底思えず、鏡の頭は絶望の色で染まりきっていた。果たして先程自分が使おうと思っていた魔法はこの第二に通用するのか。
「さて、お前にも眠って貰うか。やれ」
青年は僕に促す。鏡の下へと一歩一歩わざとゆっくりと歩く僕の足音は鏡の耳に絶望の音となりて響き渡る。
僕が鏡の首を掴み、そこだけで持ち上げた。当然鏡の首は絞まり、もうほとんど残っていない気力ですら奪いされそうになっていた。
しかしそこで鏡の癖が出た。
それも最高のタイミングで、最高の状況で。
鏡は悔しがったのだ。
もう頭の中は靄で霞み、あらゆる事を放棄したい衝動に駆られていたはずなのだが、最後に鏡の頭は勘違いを起こした。
今、鏡の首を絞めているのは加々美だと。
好きなはずの加々美が私の首を絞めているのだと。
目に映る僕の姿がそのまま脳に情報を伝わってしまっているのか。
それが鏡には悔しかった。
好いた対象であったはずなのに何故か悔しかった。
多分、そう、彼女はやはり何処かで自分が魔法使いとして上だと考えていたのだろう。
だからついつい悔やみ憎しみ、
何も考えられない頭が何かを考えてしまったのだ。
▽▽▽▽▽
鏡の体が床へと落ちた
その首を掴んでいた偽の加々美の腕に既に力は無い
当然のことである
その体に首は無く、既に偽物の命は事切れていたのだ
「馬鹿な。この女、元魔師だとでも言うのか」
青年の足下に偽の加々美の物と思われる生首が転がっていた
首はちぎれたような跡は無く、その断面は積み木を崩した様な凹凸の有様であった
それは無詠唱の魔法であった
元来小さな魔法、つまり人間行動の延長線上にある魔法、もしくは魔法具に頼った魔力の行使においては無詠唱も多い。しかし人間行動外に位置する魔法は詠唱無しでは普通行使できない。
だが極少数、それも人類史としての極少数の人間は生まれつき幾つかの魔法を行使できる。それは地球の誤算であった。人間は本来そのような能を持って生まれることを許されていない。しかし、地球が何かを誤り、幾希に人に魔法を先天的に与えてしまうことがある。第二である魔と同様な形を与えられて生まれてくるのだ。魔は初めから霊力と言う物理現象ではない『第二現象』を行う事を許されて生まれてくる。つまりその形に霊力の行使が含まれているのである。そもそも第二とは人間を模倣して作られた者、つまりオリジナルが存在する。そのオリジナルこそ地球錯誤である元魔師であった。彼らには魔法と言う名の第二現象を与えてしまったのだ。
その様な者達は悪魔の子または英雄と呼ばれる者達に多く、その者達が持つ魔法を真似て作られたのが現代にも一部の魔法として残存している。
つまり、元魔師の生誕は新たな魔法の誕生を意味する。祝福されるか禁忌と嫌悪されるかは時代によって変わるが、その誕生が世界に新たな波を生み出すと言うことだけは確かである。
「ざけんな」
既に正気を失っているのだろうか、血走る焼けた目をもって青年を炙るように睨む鏡は、その手を何かを掴むように強く握った
空間が歪む
部屋の一角が混沌と化す
それは崩れたジグソーパズルを赤子が組み直したかの様にあべこべに組み直され、その形を維持できない本や壁や本棚は屑となって宙に散った
「何だこれは……」
青年は驚愕により、初めて顔を変えた
やはり目の前の人間は元魔師であった
間違いなく彼の深い知識の海には存在していない魔法系列であり、その様は理解できる物ではなかった
まるで空間その物を壊したような、奇々怪々な有様を結果として残したのだ
(恐らく女の視界内限定に効果が及ぶ物であろう。しかし、それが分かったとしても対処のしようがない)
「あ……ああ……」
鏡は何かを押さえるように頭を抱え悶え苦しんでいた
鏡の目の前だけが異様な光景と化している
奇怪な形をしたオブジェの様にくっつき合った本と本棚と壁の材質から目を逸らそうとしているのか、目も必死に覆い隠す
何かが鏡の中で芽生え始めている
それは熱い芽であった
鏡の中でその形を象らんと広がる
鏡の全てを支配するかのように即座に広がっていった
だが 見えない
鏡は苦しむ
その見えない物に体中を蹂躙される痛みに、
その熱さに血肉が踊り狂わんと跳ねる痛みに、
鏡の頭は支配される
苦しい、熱い、だが満ちている
今鏡は快感に身を躍らせていた
それは在ってはならない感覚
全てを手に入れることを本気で可能と思えてしまうほどの自信と、
その反対に全てを擲ってこのまま死絶に及びたいと欲す欲望が滾る
鏡の中の異様さに気付いたのだろうか、青年は左手を鏡へと向け何かを呟いた
瞬間、黒い一本の線が宙に現れ、素早くその切っ先が鏡へと伸びる
その先端を追うように青い炎が黒線の末尾から上がりこれも鏡を目指しもの凄い速さで 進む
だが届かない
黒い線は鏡に届く前に何も無かったかと錯覚してしまう程綺麗に存在を抹消された
青年は冷静に反応し、今度は聖水を召喚した
聖なる泉の水はその名を持ち、呼ぶ者に応えるためによく召喚される
鏡を大量の聖水が飲み込んだ
鏡はその流れに身を任せ溺れるしかなかった
それも直ぐに終わる
鏡の口が開かれると周りの聖水はたちまち飛沫となりて先程まで水気など無かった空間へと散らばり、床を濡らした
やはり無音
詠唱が聞こえることはなかった
「そうか、転移魔法の類か」
青年はその様子を見て自分なりの答えを導き出した
しかしその答えを得たところで解決には繋がらない
彼はその魔法に対抗する手段を持ち合わせてはいなかったのだ
加えて鏡の魔法は彼が会得している転移魔法とは全く毛色が違う。彼女のそれは恐らく転移ではなく交換、つまり二つの存在を同時に入れ替えてしまうのだ。 召喚はその存在の大きさに左右され術者を選ぶ代物だが、鏡の交換はそれを二つ同時に、さらにその存在を分散して転移させるという、魔道に歩む者から見たら驚きで身震いするであろう魔法であった。それを十代の少女が行使するのだから悪夢である。
青年は再び左手を伸ばし呪文を唱える
だが今度は鏡から仕掛けてきた
その目を青年の方に向けると目が刹那に光った
青年はその意味を察し自身を鏡の背中側へと転移させる
が、青年の背中に激痛が走った
振り返るとそこには既に動けるようになっていた加々美が本棚の欠片を何本も持って立っていた
どうやら背中に加々美が持つ物と同様の物を刺されたらしい
「小娘ぇ!」
完全に人間の一方を忘れていたという己の愚かさに憤慨し、その怒りを加々美へと向かって叩き込もうとした
「残念」
その手が届く前に加々美が指を鳴らすと青年の背中に刺さっていた木片が破裂し、青年は激痛に耐えきれず大きく体を仰け反らせた
「っぐ」
だが直ぐに立ち直り拳を細い加々美の体に力任せに叩き付けた
加々美の体が吹き飛ぶ
彼女が衝突し粉々に砕け散った壁が煙のように舞うた
恐らくただの人間であったら加々美の呪文は致命傷であったに違いない
しかし青年の爆ぜたはずの肉片は何事もなかったかの様に瞬時に元に戻ってしまって いたのだ
その事は加々美や鏡にとって初めての人外との殺し合いであることを知らせていた
加々美は自分の体が未だ首から下に繋がっている事を辛うじてうっすらと開けることが出来る目で確認した
しかしその体を埋め尽くす痛覚に抗う事が出来ずただその場で蹲ったまま鏡の勝利を祈るしかできなかった
何とか意識が削がれることは避けられたが、既に普遍的な少女の体躯である加々美の肉体は、許容可能な損傷以上の傷害を負っていたのだ
その光景に鏡は怒り狂うが視界の内に加々美という存在がある限り彼女の魔法を使えなかった
それを感じ取ったのか、青年は息絶え絶えな加々美を背に立ち、長い詠唱を始めた
恐らく、大きな魔法が行使される前兆だ
詠唱とは魔法をより正確に世界に現わすための鍵である。言葉という鍵を使う事で一定範囲共通の影を構築できるためより現実に現わしやすくなるのだ。
未熟な魔法使いは共通の言語を使い、純粋に構築されてきた影によって魔法を使用するが、ある程度慣れた者は各自の母語を用いて魔法を行使できる。未熟な魔法使いが母語を用いると曖昧な影を巻き込んでしまうため、現れる魔法も無駄の多い粗末な物となってしまう。一方で熟練の魔法使いは既に頭の中に一定の影を保っているため、母語による自由な表現でより範囲を広めた魔法を使う事が出来るのである。ただしその際でも自身を「だます」ために冒頭文句として鍵符を打つ事が多い。何故なら最終的に魔法を現すのは地球であり、その地球を動かす事が出来るのは大きな意思だけであるためだ。とある幻想をあらゆる人々が思い浮かべると、その中にいる「影を形にする力を許された者」、つまり魔法使いの素質を持つ者によって地球に影が届き、地球が形を生みだすのだ。共通言語でも母語でも、影を引き連れる言葉は単語であり、それを並べる事で地球に囁くのだ。そして地球が耳をその方向へ傾けると、その単語以外の部分によって広い「意味」を伝える事が出来る。
詠唱が長いと言うことはそれだけ魔力を従える力が広がることとなる。有効詠唱だけではその効果として現れる現象に曖昧さが生じてしまうため自身の力をわきまえている魔法使い達は修飾詠唱を挿入することによりそれを補うのが定石である。つまり影をより忠実に自分に説明づけることが必要なのだ。無論、有効詠唱を更に重ね、その効果その物を目的としている効果に因る結果を超える範囲に広げるという方法もあるが、その様な選択肢を選べる魔法使いはほんの一握りである。
彼の口から現れる文節はその殆どが有効詠唱であった。これはつまり目の前の青年はそれだけ高等な魔法使いであるということとなる。ただし、彼が人間でないことは火を見るより明らかで、彼を魔法使いという定義に含めるかどうかは疑問が残るが。だが彼の呪文は人間の物と同じであり、詰まるところ彼は肉体以外人間と同じだと言うことを表している。
鏡も彼の詠唱の途中で自身が記憶している魔法を唱えようとしたが間に合わなかった
相手の詠唱が長いくせに速過ぎたのだ
彼の詠唱が終わると鏡目掛けて無数の氷の柱が降り注ぐ
それは人がすっぽりと入ってしまう程太く、その先端は突き刺さるのが目に見えている程鋭かった
鏡は何とか一本目の柱を避けたが、その柱は床に刺さると床を凍らせ一拍後大きな音と爆風を従えて大爆発を起こした
鏡の足に無数の氷片が突き刺さり血飛沫を吹き上がる
鏡は呪文を唱え、崩れ落ちていた壁を流用して厚い壁を拵えたが、その様な物では青年の氷柱は完全には防げず際どく避けるしかできなかった
そして避けたところで次々と起こる爆発は止められず、氷片は鏡に降り注ぐ
体を動かすのが不得手な鏡は自身の体を魔力で操ることで運動能の飛躍的改善が可能だという事に、氷柱が迫る最中に瞬時に辿り着いたがそれでもやはり限界はあった
何とか氷片から身を守るためにも新たな壁をこさえたが力足らず、体中のあちらこちらに氷片が突き刺さってしまった
(不味い……)
その痛覚を超えた痛みに軋む頭を何とか鎮めようと頭を大きく振るが流れる血に目が奪われ落ち着くに落ち着けなかった
(不味い不味い不味い……)
既に体が泥人形のように脆くなっている所為で頭が防御を諦めたのか、鏡は攻撃に全身全霊を捧げる事が出来た
身を守るという意思が消えかかっていた
しかしこちらは魔導書がなければある程度の長さの文しか詠唱できない未熟な魔法使い
その様な者に出来ることは限られており、彼女は青年が作り出した魔力の籠もった氷片を彼に向かって高速で撃ち返すことが精一杯であった
だがその氷片には確かな魔力が籠もっており、その速度は本能が魔法に直結した鏡の意志と相乗し音速に届く程の速さで青年に向かう
その威力を恐れた青年に転移による回避しか選択を許さなかった
加々美が衝突した事で崩れかかっていた壁に氷片の集団が豪速で突き刺さる
その威力凄まじく、壁は大破して崩れ飛んだ
加々美は何とかその崩落に巻き込まれまいと体を動かし、跳ね立った
そしてそれを見つけた
それは崩れた壁の向こうにあった小さな空間に厳重に保管されていたのだろう
赤い守護精霊と思わしき使い魔が四隅に囲うように立ち、その中心の緋色と乳白色が混ざった石で作られた格子状の箱に収められたそれを
「禁書だ……」
それは小さな呟きだった。しかしその場にいた生存者全員の目をそれに集める
「ここにあったのか」
青年は驚きを禁じ得なかった
いくら隠されていたとしても、これ程簡単に見つけられる様な場所に保管しているとは思わなかったのである
彼は元々加々美を僕に持ち帰らせた後に一人残り、じっくりと探索つもりであったので、こうも簡単に見つかるとは思っていなかった
鏡という予定外の獲物が手に入りそうだったために予定変更をしたが、それでも探索に時間をかけようとは考えていた
その為に偽加々美が教師を殺し回ったのだというのに
青年は予想外の現実に暫し呆然とする
加々美が禁書と思われるパピルスに手を伸ばすという視覚情報が目に入り込んでいたのに関わらず
だが、それは更に混乱を招く出来事によって塗りつぶされた
既に青年の目には禁書は存在していなかった
そして
「うああああああああああああああああああああああああああ」
禁書と共に禁書に伸びていた加々美の左腕が消え去っていた
「はは、はははははっ」
青年は現状を理解し喉奥底からこみ上げる感情を大っぴらに表に出した
「人と言う物は何と醜き生き物よ! 己が欲望の為ならば友をも喰うか!」
鏡の足下には禁書と……加々美の左腕が転がっていた
鏡はその力を以て加々美が禁書に触れることを本能のままに拒んだのだ
だから彼女の足下にその証しが遺されている
「鏡ぁ……何で……」
加々美は左腕の名残から飛び散る血を応急処置の魔法で何とか止血する
しかし加々美は肉体回復の魔法を既知に非ず、左腕が即座に元に戻せない為に永久的欠損は免れないであろう
「違…………違う……私はそんなこと望んでない!」
鏡は自分の行為を否定するがその足下に転がる物が全てを語っていた
鏡は考えてしまったのだ
加々美が自分よりも上の存在になってしまうと
自分が加々美よりも下の存在になってしまうと
それを彼女のプライドが許さなかった
例え愛した相手でさえ、
例え先程まで守ろうと必死であった相手でさえ、
彼女のプライドという『思考の根本』にとっては例外にならず、
それを邪魔してしまったのだ
「鏡あああああああああああ」
加々美はそれに気付いたのか、
はたまた体の痛み故か、
大声で鏡の名を叫ぶと力なく泣き崩れてしまった
「違う……私……違う」
否定しても無駄だった
「私が加々美を傷つける訳無いじゃない」
言葉に信頼を得るため無理に笑おうと引きつった顔を作り出す
しかし加々美は泣き崩れたまま一向に鏡を見ようとしない
怒りで狂った目を向けてくれても良かった
浮かぶ涙で苦痛を訴えてくれても良かった
殺したいと泣き叫んでくれても良かった
私を見てくれればきっと分かってくれるからと思ったから
私が加々美を傷つける事を望むことなんてありえないと分かってくれると
しかし加々美は鏡を見なかった
そんなチャンスすら与えてくれなかった
「そんな……わけ」
その目から零れる涙が意味する事は彼女自身分かっていた
鏡の体は隠しきれない感情を涙と共に押し出してしまおうと必死だった
加々美が鏡に再び歩み寄ってきた時にその感情を内包しておかない様にと必死だった
愛しい者を二度と傷つけまいと必死だった
その為に思考の根本を捨て去ってしまおうと必死だった
人格が壊れても良かった
歯車の軸であったそれを抜き取ってしまっても良かった
そう思えた
こうなって初めてそう思えた
こんな現実を作り出して初めてそう思えた
しかし遅かった
私のプライドが加々美を傷つけたなら
それを心の中から排除したかった
そんなモノ消し去れば良い
そうすればまた私は加々美を愛する資格を得られると思ったから
だけど
加々美は
私を見なかった
私が流す涙を見なかった
それはきっと
加々美が結論付けたから
鏡は加々美を自分の欲のために傷つけたと
鏡は加々美以上に自分を守りたかったと
加々美は鏡にとってその程度の存在だったと
鏡の様子など見ずに既に結論付けてしまったから
加々美は嘆く
自分は鏡に捨てられたのだと、鏡は約束を守らなかったのだと
その事が
腕の痛み以上に
彼女を苦しめていた
心身共に大きな傷を負って泣き続ける加々美を鏡は顎を振るわせながらずっと見ていた
その目にはもはや涙は無かった
加々美が二度と自分の領域に戻らない事を悟ると涙は止まった
流れ落とそうとした種を体にまだ残したまま…………
既に青年はいない
それは廊下に迫る無数の足音を感じ取っていたためだ
彼は自分の身を案じて校舎外に転移していた
手に入れようとした三つの獲物を全て諦めて
その足音の中によく知った音を聞き取ったのである
扉が大きな音を立て吹き飛び、数人の男が剣を持って威勢良く入ってくる
その出で立ちはまるで騎士の様で、甲冑には鳩と駝鳥の羽が描かれていた
それは『秩序の哨兵』と言う名の騎士団であった。平和の象徴である鳩の羽と正義の象徴である駝鳥の羽をモチーフにしたシンボルが目印である。彼等はこの世界で魔に対抗するために人間達が作り出した集団の中でも最大の規模を誇り、その活動範囲はヨーロッパ全域に渡る。
扉が外れた入り口から見える人々の中には生徒会長等数人の生徒もいた
「こいつ等です! こいつ等が先生達を!」
生徒会長が鏡と加々美を指さして叫ぶ
その言葉を聞くと、一人の人物が部屋の中に入ってきた
その者が歩く度に大きな金属同士がぶつかり合う音が立つ
それは秩序の哨兵でも特に有名な女性の魔法使い、マーレード・モロウであった。彼女は『鉄塊』と言う二つ名で呼ばれている。その名の由来は彼女が常に鎧っている鎧にある。その鎧はあらゆる魔法を受け付けないと言われている魔法具で、彼女の体は殆どそれで包まれており、露出しているのは関節の部分だけであった。
彼女の家に代々伝わるその鎧は大地の精霊の祝福を受けた由緒正しい魔法具であり、名は持たぬがその存在は世界に広く知られている。魔が使う霊力、第一が使う古代霊力、人間が使う魔法に粗方有効であるとされ、これを巡っての争いが起こるほどの宝である。
これまた余談だが、精霊と妖精は全くの別物である。前者は大昔からの地球の住人である一方、後者は第一から派生した種族である。精霊はその物が魔力となる存在であるが、第一に過ぎない妖精は魔と同じく地球の力を利用しないと霊力を行使できない。
「マド、どうしますか?」
騎士団の一人がマーレードに指示を仰ぐ
彼女がこの分団のリーダーらしい
「待て、様子がおかしい」
兜の甲面を上げて中の顔が露出される
その中から現れたのは鋭く綺麗な目をしたうら若き乙女の顔であった
「まさかあれは……」
生徒会長は察したようだ
恐らく彼もこの学園に禁書が隠されていたことを知っていたのだろう
「禁書です!」
彼の言葉に騎士団や生徒達はざわめき始めた
禁書を初めて見る者が殆どであったが、その名は知っており会長の言葉に大きな反応を示したのだ
「見るな!」
数少ない、禁書を知る者であるマーレードは配下の者に命令を下す
「禁書を見るな。いいな、これは命令だ」
その危険性を知っているマーレードは自身も必死に目を逸らそうとするが目はその一枚のパピルスに惹き付けられそうになってしまう
禁書はあらゆる人間における欲をその紙面に見せるという。その欲の幻想などを見せるのではなく、欲を持つ者全てを惹き付ける呪いがかかっているのだ。
故に殆どの人間が欲望に負けてそれに目を向けてしまうのである。
恐ろしいのは、見た者の中で禁書との適正が高い者は無条件に禁書に書かれた呪いの一部を受け取ってしまう事だ。それこそが禁書と呼ばれる所以である。
なら何故魔法使い達は禁書を欲するのか? それはごく一部の人間は禁書から恩恵を受けられるからである。
そう、『元魔師』の様な類い希な才能を持つ輩共は……。
鏡は何かが自分を下から覗き込んでいる感覚に囚われる
それと同時に何か大きな存在、そう、まるで悪魔のような強大な存在が自分を天高くから見下ろしているような感覚にも
そして見てしまった
パピルスの黄土色の紙面に二本の銀色の線が浮かび上がる
(な……に……?)
その銀色の線は上下に分かれ、目のような模様が浮かび上がった
(だ……れ……?)
その目に鏡は惹かれる
それはまるで鏡を誘っているように瞬きを繰り返した
「あ……あ」
「何だ?」
マーレードは禁書の付近に立っていた少女が呻き声を上げ始めたため危険を感じ取り目を開いた。
「マド、あの女が禁書を!」
「いかん、見るなと言っただろ!」
だが時既に遅く、部下7人の内2人とそして生徒の数人が石と化した
「なんてことだ、これが禁書の呪いか」
一瞬でその者達の全身が石となってしまったのだ
マーレードは恐怖で全身を振るわせる
その震えの本当の理由をまだ彼女は分かっていなかった
「あ……あ、あああああああ」
禁書を覗いていた少女が奇声を上げる
「何が……起きている?」
その様子に異質な感覚を覚えた各人は手をこまねくしかなかった
それは突然であった
鏡の左腕に禁書から何かが伸びる
それはまるで銀色の化け物の手が鏡を求めるように直線的に伸びていた
それは鏡の左腕を掴むとぐるりとその腕を囲み、うねりながらその腕を登る
鏡の首まで辿り着くと、その少女的な体躯に染み込むように消えてしまった
「この者、禁書と同化したのか?」
マーレードはじっとその場面を観察していた
既に自分が禁書の呪いにかかることが無いと分かっているため熟視し続ける
禁書に囚われた少女は動きを止めた
「…………奴を捕らえろ。好機は今のみだ! 絶対に逃すな!」
マーレードは知っていた。禁書に囚われた者は直ぐにはその力を行使出来ないと言われているのだ。魔法使いの間に伝わる説話に、危険な禁書を得ようとした魔法使いが使い魔に殺されるという話がある。その時の状況として禁書に飲み込まれた直後で立つのもやっとと言う程、労々としている魔法使いを使い魔が壺の中に閉じこめたと伝えられている。
それは禁書の中に住んでいた怪物が乗り移った宿主の中を覗いている時にその魔力と生命力を根こそぎ奪うからだとされている。そしてその後宿主は怪物の方に移った生命力と魔力を頼りに生きていくという。つまり宿主が禁書の怪物に寄生する形になってしまうのである。
「マドの命が下りた!」
騎士団の男達は一斉に腰から杖を抜き出し鏡に向かって呪文を唱え始めた
それは封印の魔法であった。魔力を各自で分担することで人一人丸ごと包むほどの魔力の殻を作り出しその中に対象を永久的に封じる強力な魔法で、これを扱えるようになるには十年以上の特化した訓練が必要とされる。
しかし彼等の思い描いていた結果は訪れなかった
所詮は説話、多数の支持を受けた物だけが遺される形態であるが故に少数の考えは受け入れられなかった
だから彼等は誤ってしまった
禁書の怪物に因る略取を物ともせず、逆に禁書の怪物を己の体内に封じ込んでしまうという人間が存在することをその物語は知らせていなかったのだ
「ふふ、はははははは」
鏡は今まさに殻に閉じこめられそうになった時、狂い嗤う
「これが禁書の力なのね」
そう言って殻に手を伸ばす
「馬鹿な……」
騎士団は口々に驚きの声を上げた
彼女はその殻をいとも簡単に破り去ってしまったのだ
「そんな、あり得ん」
だがどんなに口で否定しようとも現実は変わることがない
その最悪な事態を受け入れるのに皆々は幾ばくもの時も必要としなかった
彼女の腕に殻が吸われていく
それで何が起きているかが分かった
「そうか。封印魔法は大地の力を借り受ける魔法であった」
「あれには恐らく大地母神に当たるいずれかの神として崇められた第一の断片が保管されていたのだろう」
「ならば……とても不味いではないか……」
騎士団の生き残りは一斉にマーレードの『鉄塊』と呼ばれる所以である宝鎧に目を向けた
その魔法具は大地の祝福を受けた物で、それはつまり今の鏡にとってエネルギーの塊のような物であるのだ。例えあらゆる力を受け付けないとされる鎧であっても、鎧その物が従う力には対抗できるわけがないのである。
それは精霊の反乱であった。
「撤収だ!」
マーレードは叫ぶ
命を重んじる彼女は部下の命をこれ以上失うことは良しとせず、撤退の命を下した
「了解」
騎士団は全員が素早く動き入り口へと移動した
既に石化してしまった仲間を助けることは出来ない
それがマーレードの顔を悔しさに染めた
もしかしたら何所かに禁書の呪いをも解呪できる魔法使いがいるのかもしれない
その者の下に彼等を連れていけば助かるのかもしれない
しかし目の前の悪魔が許さないのだ
「退け。君達もだ」
マーレードは彼等と共に生徒達も逃した
そして一人入り口に残る
たった独りで禁書を取り込んだ魔法使いと対峙せんと構え立った
彼女は自身を盾にしようと考えたに違いない。せめて生徒だけでも生き延びるようにと。崇高なる騎士マーレード・モロウは自己の犠牲でより多くの人が助かると知れば喜んでその身を捧げるという人間であった。
「さあ来い悪魔」
マーレードは鏡のことを悪魔と呼んだ
それ程までに彼女は鏡に恐怖を感じていた
だがその震えは彼女の物ではなく、鎧にいる無数の地の精霊の恐怖心による現象だと言うことに気付いていなかった
鏡は左腕を床に付けた
すると彼女の左手に逆十字の模様が浮かび上がり銀色に輝き始める
「これが禁書?」
鏡は自問する様に呟く
左腕を上げると床が十字状に刳り貫かれる
そしてその床の一部は鏡の左腕と一体化していた
「これは……凄い」
鏡が驚いたのは鏡のみが知る感覚である
見る限りその塊は人間が片手で持てる物ではないが、鏡は一切の重みを感じないのだ
「…………」
マーレードは少女が大きな塊を軽々と持ち上げている様を見て内心大いに焦っていた
精霊による守護が期待できない今では、いくら自前の鎧が堅くてもあの様な塊を全力で振り回す事による衝撃に鎧が耐えきれる訳が無く、既に敗北を感じ取っていた
「だが、退けぬ!」
マーレードは全霊を以て己の得物である鉄棒に呪文をかけた
鉄棒はダイヤモンドの原石を棘状に纏い、その殺傷能力を飛躍させた
だがそれでも勝ち目はなかった
鏡が左手を大きく振りかざす
マーレードは鉄棒を前に構えるだけで攻撃態勢になることすら諦めていた
既に自分の役目を終えたと悟り、その目をギリと閉じて来るはずの衝撃をただただ待っていた
自身が扱う魔法の全てが大地の力を借りた物ゆえ目の前の悪魔に対して何の力も持っていなかったのだ
しかしいつまで経ってもその鎧に十字状の塊が振り下ろされることはなかった
マーレードが目を開くとそこには誰かの背中があった
「加々美、あんた……」
それは容疑者である少女の背中であった
彼女は鏡とマーレードの間に立ち鏡による攻撃を阻もうとしていたのだ
「そこを退け! 私は犯罪者の手など借りぬわ!」
「……もう止めよう。鏡、もう良いだろ?」
マーレードの言葉など聞こえていないかの様に彼女は鏡に顔を向け訴える
その手に握られた何かの破片は彼女の腕の震えを誇張していた
「もう奴はいないんだ。だから良いじゃないか」
「……でもこいつ等はあんたのことを」
それがあまりに意外だったのであろう、鏡は目を見開いてその現実を拒絶するように首を振った
愛しき者に降りかかる火の粉を吹き飛ばそうとして挙げた手を、その者によって下げる事を拒まれたのだ
しくじった、鏡はそう悔やんだ
禁書の力を試そうとして自身に先程目覚めた元魔師としての力を使わずにいた事をだ
目の前に加々美が立った時点でもはやこの力は使えなくなってしまった
いや、もしかしたら加々美の後ろから覗くマーレードだけを狙う事は出来るのかもしれない
しかし確証が無いため加々美を巻き込んでしまう可能性がある限りそんな冒険は鏡にはできなかった
「きっと分かってくれるさ。それにもしかするとウチが偽物と対面している場面を使い魔を通して見ているかも知れないじゃないか」
「それは無いわ。だったらここに入ってきた時の生徒会長の言葉はもっと別の物だったでしょうに」
「それは……」
二人は全く目を逸らさずに互いの目を見つめ合う
そうでもしないと間違いが起こってしまうことを予感していたから
拒絶した加々美が鏡を撃つか
拒絶された鏡が加々美を潰すか
予感と言うにはあまりにはっきりとした未来を感じ取れていたのだ
「それに、私はもう戻れない!」
鏡はうっすらと涙を浮かべて叫んだ
その右手は石と化した人々を指していた
「貴方と違って言い訳のしようが無いのよ」
その目に浮かぶ涙は量を増し、鏡の左腕はゆっくりと誰にも当たらないように下ろされた
左手の塊は粉となって崩れ落ちた
「大丈夫、この人なら分かってくれると思う」
そう言って加々美は後ろの騎士に目配せをした
「よく分からんが……貴様が無実だと言うことが証明された暁にはそこの禁書の女の罪も大分軽くなるはずだ。仕掛けたのは我々だからな」
「だから証拠が無いのよ! それに生徒の方はどちらにせよ私の罪でしょ」
偽加々美の死体は既に男と共に消え失せていたのだった
鏡は幼い頃に戻ったかの様に地団駄を踏む
一度でも捕まってしまったらもう二度と日の目を浴びる事は叶わないであろうと鏡は考えていた。騎士団の犠牲者を出してしまったのだ。加えて禁書を取り込むことに成功した魔法使いでもあり、元魔師でもあるのだ。そんな者を彼等が世間に再び送り出すはずが無かった。
禁書によって起きた事故はその所有者の責任となる。そしてこの場合所有者は鏡となってしまうのだ。所有者とは魔道における定義として保管者でなく結合者、つまり魔力的に繋がった者となると言う、訳のわからない法が存在する。例えその時点においては鏡が所有者でなかったとしても、罪は禁書に溜まり、その後この禁書と繋がった鏡がその罪の責任を問われてしまうのだ。禁書を持つ際に背負い込む負の世襲財産とでも言うべきなのか。
これは魔道協会という全ての魔法使いを総合管理している国際機関が決めた法である。その理由は『禁書を一般の魔法使いの手元に置いておきたくない』と言う事である。禁書と言うのは世情を混沌に招き入れる要因になりうるからだ。よってその罪を被りたくない者は魔道協会に禁書を提出しなくてはならないのである。これによって回収された禁書は指定された施設にて管理されている。
その指定された施設の一つがこの学園であった。
「そこの騎士の御嬢さんが思っているほど魔道裁判は綺麗じゃないのよ……。私は知ってるのよ」
鏡は感情を何とか押し殺して吐く様に言葉を繋げる
「……確かに私は裁判自体に知識は及んでいない。だが我々は正義と平和を守る者だ。貴様が正義を訴えるなら我々が耳を傾けよう」
「ほら鏡、この人もこう言っているんだし……」
「嫌よ! 絶対に嫌!」
鏡は魔道裁判の非道さを熟知している為に絶対に従う気はなかった
魔道裁判は鏡の両親を死刑にした。
その罪は真実とはかけ離れていて、てんで不合理であったが、新たな優秀な魔法使いの体を早急に手に入れたかったとある魔法院の要望に応えなくてはならなかった一部の裁判官は弁護人と手を組んで鏡の両親を死刑へと追いやったのだった。
その事は既に大人の頭を持っていた鏡に深く根付いていた。
しかし絶対の権力に逆らうことが出来ないという社会の有様を知った鏡はその事を忘れようと必死に目を逸らし普通の魔法学生として日常を過ごしていた。
ところが今日、あの男の所為で全てが脳裏に再来し、深く焼き付かれてしまった。トラウマとなっていた魔道裁判を思い起こしてしまったのだ。
「鏡……お願いだ。これ以上罪を被らないでくれ」
「嫌よ……あそこには絶対に行かない」
「鏡……」
加々美は鏡によって奪われた左腕のことを頭から放り出していた
人は誰にも間違いがあるのだと、そう思って
絶対に鏡の中に自分は入りこめないと思い知らされたのに頭の隅で彼女を庇っていた
しかし、もう一つ鏡が加々美の提案に従わない理由があった。
考えてしまったのである
今の自分なら復讐が出来ると
彼の魔法院の輩共と魔道裁判に関わった輩共に一矢報いることが出来ると
禁書のおかげであの秩序の哨兵が諸手を挙げて逃げ散る様な強大な魔法使いになった自分ならばと
それに鏡には元魔師としての力があり、これによってその思いは更に彼女の頭を占めていった
「加々美」
「……何?」
「私と一緒に来て?」
「…………」
鏡が差し出した右手を加々美はじっと見つめる
その目の意味する物は何なのであろうか
せめて近くにいて欲しい、互いの思いは一緒だった
「待て、それは私が許さんぞ」
「力無き者が吠えたところで何も変えられないわよ」
「何だと!」
鏡の言葉にマーレードは怒り心頭に発し、無謀にも襲いかかろうとした
しかし加々美がそれを抑える
「鏡……」
鏡は加々美の口の動きを目で追う
自分が期待している動きをすると信じていたから。
思いは一緒だった
二人は互いを求めていた
鏡は例え二度と自分を好いてくれなくとも加々美を敵から守るために彼女に横にいて欲しかった
加々美は例え鏡が絶対に自分を受け入れる事が無いと分かってもその横にいてその人生を眺めていたいと思っていた
加々美は鏡を愛していて
鏡は加々美が愛しかった
数拍前まではそうであった
思いは一緒 のはず だった
「私はお前の事が大好きで……大嫌いだ」
しかし加々美は思いを変えた
それは鏡が考えもしなかった言葉であった
単に断られるならまだしも……
「行きましょう」
「しかしこの女も……」
「良いじゃないですか。それに力尽くって言うのも無理な話でしょう?」
「それはそうだが……わかった」
無言のまま固まる鏡を放って二人は話し合いの結果を出した
「じゃあね、鏡。好き……だったよ」
二人は部屋を出て行ってしまった
一人残された鏡は呆然と立ちつくしていた
▽▽▽▽▽
加々美が目を開くとそこには寝る前に見ていた天井があった。
当たり前だ。
カーテンから朝日が漏れている。いつの間にか朝になっていたのであろう。仮眠のつもりがすっかり熟睡してしまったようである。
左腕が頬を軽く叩く。
「ああ、おはよう静納」
彼女は左腕に挨拶をする。
別に彼女の頭が可哀想な状態になっているのではない。
「いいよ、下りな」
左腕がブルリと震えると袖の中から狐がすり出てきた。左腕は狐が化けていた物であった。いや、この狐の姿も静納という存在が化けた物ではあるが、彼は実体化する際は狐の姿を好むため加々美も彼を狐として扱っているだけに過ぎない。
「最悪な夢見だったよ。悪夢って奴だ」
加々美は左腕に化けていた静納という狐の額をクシャクシャと撫でながら白い歯を零した。
「全く、折角高いホテルを選んだのにこれじゃ気分が冴えないね」
静納は加々美の言葉を理解しているのか、その頬を加々美の手に擦りつけて鼻を鳴らした。
「あまり思い出したくない物なんだけどなぁ。やっぱ昨日あいつにあったのが影響したんかね?」
狐に尋ねても言葉持たぬ為に返答はない。
静納とはシャーマンとして開花した加々美の相棒である。姿は狐だが実は霊体であり、具現化しているのは加々美の能力が非常に高いからだ。霊体の時の姿は辛うじて動物に見えなくもないが、地上に存在する動物のどれにも似ていない。その様は白い紐に近く、四肢も尾も存在している。しかしその頭部には目も鼻も存在していないため生物として生きるための構造は殆ど無いと思われる。霊体故にお腹の中を開くわけにはいかず、どうなっているか分からないのだ。
彼は加々美が寝ている最中や仕事中はずっと左腕になっているが、休憩中等で他に誰もいない状態では実体化したがる。どうやら撫でられるという行為が大変にお気に入りらしく、それをされるには実体化しなくてはならないためである。
ちなみに左腕となるのは彼の尾だけであり、左腕となっている間は常に加々美の背中側にそれ以外の部分が浮いている構図となっている。体長は4メートルを優に超えるためその半分を占める尾部分を除いてもそれだけで加々美を軽く超えてしまう。
「おっともうこんな時間か」
テレビの電源を入れると天気予報と共に時刻が表示されていた。
「今日は依頼主と直接の面会だってさ。仕事で特定の依頼主と対面するのは初めてだから緊張しちゃうね」
くすくすと笑いが零れる。
彼女は自分の口から緊張という言葉が出たことが面白いらしい。
「緊張なんて平和な言葉、何ヶ月ぶりに口から出たのかな?」
加々美がカーテンを開くと眼下に無数の建物が無秩序に建っていた。
「やっぱ日本は違うね。ウチみたいな人間でも平和を感じてしまうのかね」
顔を洗い室内に置いてあった電話でロビーに朝食を注文する。
「あ、ホットサンドってありますか? おお、あるんですか。ならチーズとハムが挟んである奴をくださいな。ええ、ありがと」
それから部屋のドアがノックされるまでの間に身支度を調えた。
食事を終えると皿の上に落ちているチーズの滓をフォークで弄くりながらあの時のことを思う。
「例え左手をもがれてもあいつの事を嫌えなかった……。それ程までにウチの頭は奴に侵されていたって事かね」
自分の事ながら笑えてくる。一生の怪我を負わされた相手を好きでいるなんてあほらしい。
「でも……そう。きっとそんなことが頭に入らないくらいあいつが輝いていたから」
鏡は何でも持っていたから。魔法使いとしての素質を、妬まれるほどの美貌を、魔性の魅力を、そう……何でも持っていたから。
「眩しすぎて自分の姿が見えない程にウチは目を細めていたのかもしれない」
自分の状況が分からないままにあいつを引き留めようとしていた。
だってあいつ、そのまま何処かに行ってしまいそうだったんだもの。
「でも結局見放したのはウチ」
それはあいつが教えてくれたから。
「人間の醜さって奴をあいつが教えてくれた」
そう、鏡という鏡に映っていたのは人間の醜い性と、 ウチという何の取り柄もない見窄らしい人間だった。
力を手に入れた鏡は人格が変わった様に思え、そんな何もかもを手に入れそうになっているあいつにウチの様なちんけな魔法使いはとてもじゃないが釣り合わないと思えたのだ。
いや、もっと大きな理由があった。
高嶺の上に神が飾った宝鏡を手に入れようと崖を登ったが
最後の一歩で泥塗れの自分の姿がその鏡面に映し出されると
見窄らしい自分にその美しい鏡を手に入れる資格があるのかと悩み
何も手にせず崖を戻っていった
近づく事が恐かったのだと思う。
あいつに近づくと汚い物をもっと知ってしまうと思ったから。
ウチにはその事だけが耐えられなかった。
いつかの話と同じ。
あの文章の主は自身を神聖視していたが、ウチは鏡を知らず知らずに神聖視していた。
だからあの時に自分の思いを理解したウチは、
親愛なるあいつと、
嫌悪なるあいつが、
好きで嫌いになった。
だからウチは大きな物を手に入れた代わりにあらゆる物を失ってしまったあいつから、
ちっぽけで何の取得も持たない自分を逃がすという残酷な事を、
傍で鏡が濁ってゆく様を見たくないからという理由で、
良く考えずにやってしまったんだ。
自分が鏡にとって最後の理性の留め金だったとも知らずに。
「どうやらここね」
依頼主が指定してきた場所はこの駅の下にあるユニークな形をした像の下だった。
既にそこには一人だけ誰かを待つように立ち呆けている人物がいた。
「…………嘘でしょ?」
その人物が予想外過ぎて刹那の間、現実を受け入れる気になれなかった。
そこに立っていたのはどう見ても子供であった。
その少女の白い肌は周りの日本人と大きく違うためひどく目立っていた。
「……はぁ」
加々美はため息をつく。もしかすると依頼が子供の悪戯だったかも知れないのだ。もしくは通貨の種類を間違えているとか。
「ま、人は見かけによらないって言うしね」
自分を頼りない言葉で元気付け、やっとの思いで現実を受け入れさせる事に成功した加々美はその少女の下へと階段をとぼとぼ下り始めた。
(第四話 完)