1話:女神とカナブンと乱入者
空乃紫愛。都内の女子高に通う、どこにでもいるはずの、普通の少女。だが、彼女の魂の奥底には、真の名前が刻まれている。
かつて、古代エジプトにおいて慈愛と認識を司った女神──「シア」。
同じ響きを持つのは、偶然などではない。彼女がその魂の同位体である、何よりの証だった。
記憶が鮮明に弾けたのは、六歳の夏。
舞台は、近所の公園だった。
「へへっ……特製ゴールドエディションだぜ!」
「すっげー! メタリック!」
「これならカラスにも負けねーぞ!」
砂場にうずくまる男子たちの中心には、一本のラッカースプレーが鎮座する。
そして、彼らに「魔改造」を施されている、小さな命があった。
「こらーーー! かわいそうでしょ!」
「げっ、空乃だ! 逃げろ!」
前世から続く底なしの慈悲深さゆえか。少女、紫愛は暴徒たちの手から、その小さな命を救い出した。
そっと両手ですくい上げた「それ」は、無慈悲にも金色のラッカーで塗り固められた、一匹のカナブン。
「これはっ――スカラベ……!?」
知恵の神トートですら予測不能な角度から、脳裏に灼熱の大地が広がっていく。
光り輝く崇拝の中心地。黄金のスカラベを手に、自分へと額ずく時のファラオ。
前世の記憶を取り戻した、記念すべき瞬間である。
──シュバリッ。
そんな眩い回想を切り裂くように、眼前のスカラベは羽根を広げた。
あろうことか、かつての女神の鼻先へ向かって、猛然と突進を開始したのである。
「きゃあああ!?」
鈍い羽音を響かせる黄金のスカラベ、いや、ゴールドエディション・カナブン。
「なにやってんだ、アイツ……」
必死に逃げ惑う彼女を横目に、男子たちはBB弾拾いに戻っていく。
女神の帰還は誰にも祝福されることなく、砂場の片隅で、ただひっそりと果たされたのだった。
◆
かつての女神、シアが愛したエジプトの空。そこでは今、三千年に一度の星の配置が完成しようとしていた。
しかし、ここは日本。紫愛はいつも通りに授業を終えると、都心の空を四角く切り取る、巨大なオフィスビルへ足を踏み入れる。
慣れた手つきでIDカードをゲートにかざし、専用のシャトルエレベーターへ。
デジタル表示が40を超えたあたりで、胃の奥が浮くような感覚と共に扉が開く。
先に広がるのは、遠十ホールディングス(HD)グループの「守護神」、遠十リーガル&リスクマネジメントの社長室フロアだ。
左右には黒い彫像のごとき警備員たちが直立し、その聖域を守っている。
会釈を返し、紫愛は奥へと歩みを進めた。
足音が吸い込まれるほど厚い絨毯は、どこか砂漠の砂を彷彿させる。
「お疲れ様です、紫愛です」
控えめに扉をノックすると、中から「入っておいで」と、聞き馴染んだ柔らかな声が届く。
紫愛は背筋を伸ばし、一片の乱れもない、秩序だった部屋へと足を踏み入れた。
「学校お疲れさま、紫愛ちゃん」
穏やかな笑みを見せたのは、社長の従弟にして、副社長の遠十シュウ。
ビスポークスーツのインナーから、ライムグリーンのニットが覗いている。その着こなしは、彼のまとう穏やかな空気によく馴染んでいた。
「社長、副社長。ただいま戻りました」
紫愛が歩み寄ると、この部屋の主、遠十風真が書類から顔を上げる。
「……遅かったな」
知性の塊のようなその瞳は、紫愛を捉えた瞬間、過剰な保護者のそれへと色を変えた。
「何か、あったのか? 変な男に声をかけられたり、付け回されたりは……しなかっただろうな?」
先ほどまでの、冷徹な仕事モードは一体どこへ。
眼鏡を外して苛立ちを逃がすような風真の仕草に、シュウは呆れたように手元のタブレットを抱え直した。
「社長。今日は委員会で少し遅くなると、報告していたでしょう」
紫愛も慣れたもので、「大丈夫ですよ」と軽く受け流す。
風真はまだ何か言いたげだったが、シュウは私情から仕事へと空気を分かつように、タブレットを開いた。
「それじゃあ、紫愛ちゃん。この契約書の合読みをお願いできるかな」
「はい。……第十四条、損害賠償の項目からですね」
画面を叩く音と、微かなページを捲る音。
風真もまた、外していた眼鏡をかけ直し、知性的で冷徹な社長の顔に戻る。
静謐で、一片の乱れもない秩序。
──しかし、彼の心の内の、不吉な霧は晴れない。
「……シュウ、警備の警戒レベルを上げろ」
低く命じる風真に、シュウは怪訝そうに顔を上げた。
「……心配ですか? あいつは今頃は空の上ですよ」
念のためフライト情報に指を滑らせ、ふとその動きが止まる。
数時間前、見届けたはずの『出発済み』ステータスは消え、代わりに表示されているのは、『欠航──引き返し』の赤い文字。
目を丸くしたのと、外から警備員の切羽詰まった怒号が響いたのは、ほぼ同時だった。
「おい、待て! ここは許可なき者は──」
制止の声をかき消すように、蝶番が鋭い悲鳴を上げ、凄まじい衝撃と共に扉が蹴り破られた。
突然の轟音に、弾かれたように紫愛が立ち上がる。
振り返った視線の先、映ったのは、褐色の肌と無造作に整えられた銀の髪。その男の瞳は、部屋の奥に座る風真を、射殺さんばかりの憎悪で捉えていた。




