013-01. 泣きっ面に花嵐
それは、三月最終週の出来事である。
「あ〜……めっちゃ休みって感じするわ〜……」
藺草が香る畳の上でうつ伏せになり、柴田咲楽は緩みきった声をあげた。
世間は年度末を迎え、先に訪れた春一番よりも荒々しい勢いで社会人の背中を押していく。
尾崎グループもそれは例外ではなく――春のライブツアー、期末決算の対応、来期に向けた会議、会議、会議……その他諸々を含む激務をこなしながら、柴田はやっとのことで久方ぶりの連休を勝ち取ったのだった。
「はぁ……」
ぐーっと伸ばしきった腕から力を抜き、ひんやりとした畳に全身を預ける。
このまま昼まで寝るか――そんな怠惰なことを考えていれば、床からほんの僅かに振動が伝わってきた。
……休みだっつーのに、また忙しなく動いてんのか。
引き戸の向こう――板張りの長い廊下に、誰かが行き来しているらしい気配を感じる。
右……少し置いて左……また右……最終的にはこの部屋の前で止まったらしい足音に、柴田はほんの少しの心構えを――特段することもなく、ごろりと寝返りを打った。
「咲楽、昼飯と夕飯の買い出しに行く。食いたいものがあるなら今のうちに……おい、その怠惰極まる様相は何だ」
がらりと戸が開き、普段より幾分かラフな格好をした同居人――尾崎蓮が部屋に入ってくる。
そして、目に飛び込んできた柴田のだらけきった様子に、いつも通り顔をしかめてみせた。
「お前……休日だからってだらけすぎだ。生活ペースを崩すな」
「うぇ〜……休みなんだからいいじゃん、鬼〜」
「いいわけがあるか。平日の朝、忙しい中で愚図るお前の相手をさせられる俺の気持ちを考えろ」
唇を尖らせて抗議するも、腹にかけていたブランケットを没収されるついでに引っ張り起こされる。
柴田は渋々起き上がると、畳にあぐらをかいて大きな欠伸をしてみせた。
「お前は休みだってのに働き過ぎなんだよ。一応実家なんだし、少しはゆっくりすれば?」
「……生家でもないのに腹を出して寝るような無様はしないぞ、俺は」
柴田たちが居るのは、都心から離れた尾崎家の邸宅だ。
広大な敷地に建てられた純和風の豪邸は、尾崎泰山が銀幕スターとして大成した後、両親のために用意したものだという。
年月が経った今では、泰山夫妻の住まいとしてはもちろんのこと――養子の蓮を含む子供たちの実家となっている。
まあ、尾崎家の一員ではない柴田にとっては、他人の家であることに違いはないのだが……とある「やんごとなき事情」から尾崎一族の子息と寝食を共にする日々を思えば、そんなことは些末な問題だった。
「そんなことより……飯のリクエストはあるか」
「宅配ピザ食いたい」
「却下」
「なぁんでだよ〜! どうせ爺さんと奥様は夕方まで出掛けてるし、夜はいつも通り土産の弁当やら惣菜やら買い込んで帰ってくるだろ〜!?」
「だからこそだ。夜が出来合いの惣菜なのに、昼までジャンクフードにしてどうする」
そもそも、お前は日頃からちゃんと栄養バランスというものを考えてだな……。
同居歴十年、何百度目かの尾崎の説教が始まる。
こりゃあまた長くなるな……と察知した柴田が、遠くを見つめながら小言を受け流そうとした、その時。
「ん? 蓮、スマホ鳴ってる」
「……私用の端末なら取る」
「ああ、この鳴り方はそう……っと、ほれ」
柴田は畳の上をのしのしと膝歩きし、立派な座卓の上で細かく震えるスマートフォンを捕まえる。
そして、そのまま画面を見ることなく、銀色の端末をひょいっと投げ渡した。
「精密機器を投げるな」
尾崎は柴田の粗雑さに小言を放ちながらも、しっかりと端末を掴み取る。
柴田はその様子を横目に見つつ、どさくさに紛れて奪い返したブランケットと共に再び横になろうとして――
「…………瑠璃?」
――尾崎の口から漏れたその名前に、ばっと顔を上げた。
「……尾崎だ。少し待て、スピーカーで聞く」
予想外の展開に視線を投げれば、同じくこちらに顔を向けた尾崎が座卓の前に腰を下ろす。
そして、ブランケットを手放した柴田が尾崎の隣に辿り着くと同時――スピーカーボタンを押されたスマートフォンから、その声は聞こえてきた。
「――スピーカーってことは、柴田さんもそこに居るんすね。ご無沙汰っす」
大きさの割に高性能なスピーカーから響く、どことなく投げやりで気怠そうな言葉。
聞き取りやすい発音と抑揚、そして冬の朝のように爽やかな声であるにも関わらず――電話の先に居るであろう話し手の顔を思い浮かべると、とてつもなく生意気な声に感じられるのだから不思議である。
「うわっ、本当に瑠璃じゃん……去年の正月ぶりに声聞いたわ……」
「どーも。相変わらずお目付け役は継続っすか?」
「おー、ばっちり面倒見てやってるから安心していいぜ」
胸を張ってそう返せば、尾崎にじとりと睨まれる。
どの口が言うか、という低い声が今にも聞こえてきそうな圧を左肩に感じるが……そんなことは気にも留めず、柴田は会話を続けた。
「つーか、こんな中途半端な時期に連絡してくるなんて珍しいじゃん。何かあったか?」
「何かあったのはそっちでしょ。どんだけ出し抜かれてんすか」
「あー……やっぱりお前まで筒抜けかあ……」
ちらりと尾崎に視線を向ければ、まさしく苦虫を噛み潰したかのような険しい顔が目に飛び込んでくる。
……どうやら、瑠璃に指摘されるのは本意ではなかったらしい。
「……お前に心配されるようなことは何もない」
「へぇ、虚勢張る元気だけはあるみたいっすね。もっとボロボロに擦り切れてるかと思ったのに、つまんねーの」
「安い喧嘩は買わん。用件がないなら切るぞ」
苛つきを露わにしつつ、尾崎が画面の赤いボタンに指をかける。
そして、そのまま横にフリックしようとした瞬間。
「も〜……瑠璃くんってば、本当に素直じゃないなぁ」
のんびりとした猫撫で声が、スピーカーの奥から放たれた。




