010-01. 絢爛の残り香
カリカリと、細いペン先が紙の上を走っていく。
「………………」
「……………………」
部屋に響くのは、秒針が時間を刻む音。
カチ、カチ、と一定のリズムで刻まれるそれが、一際大きなカチリという音を響かせた数瞬ののち。
「そこまで」
スマートフォンのタイマーが華やかなベルの音を奏でるのと同時に、凛とした声が部屋に放たれた。
「…………ふー……」
机にシャープペンシルを起き、柘榴が大きく伸びをする。
縮こまっていた大きな体がようやっと解放された歓喜を全身で表現するようなその姿に、彼を見守っていた人物――家庭教師である北郷梨琥は、くすくすと小さく笑った。
「お疲れ様。一旦休憩にする?」
「あ、はい……そうさせていただけると……」
「了解。それじゃあ、その間に答案の採点をしておくね」
言うが早いか、赤ペンを絡め取った白い指がするすると答案用紙の上をなぞっていく。
その動作は――改めて言葉にするのは大袈裟かもしれないが――非常に洗練されていて、柘榴は彼があのローザの血縁者であることをぼんやりと実感するのだった。
「よい、しょ……」
一度椅子から立ち上がって軽いストレッチをしつつ、連絡チェックのためにスマートフォンを手に取る。
「……わっ!?」
すると、柘榴に手に取られることを待っていたかのように、マナーモードのそれが元気よく震え始めた。
どうやらちょうどチャットが届いたようで、画面にはアプリの通知と「衣織くん」の文字が映し出されている。
『お疲れ様。勉強捗ってるか?』
挨拶を告げる愛らしい小鹿のスタンプに続けて、衣織のメッセージが届く。
心なしか高鳴っている鼓動を自覚しながら、柘榴は指の腹を素早く画面に滑らせた。
『お疲れ様です! 今ちょうど、折り返しの休憩中だよ』
『今日も頑張ってるな。来週、中間テストだっけ?』
『うん。このテストまでは推薦の判定に含まれるから、最後まで気を引き締めないと』
『柘榴は日頃から真面目にやってるから大丈夫。頑張り過ぎるなよ』
小鹿のキャラクターに『えらい!』と褒められ、頬が緩む。
同じユニットでデビューし、一か月が経ったとはいえ……衣織が柘榴にとって憧れの相手であることは変わらない。
そんな相手とこうして親しくやり取りをして、あまつさえ頑張りを認めてもらえるとなれば……だらしない笑顔になってしまうのも、仕方のないことだろう。
『授業終わっても元気そうなら、一緒に夕飯行かないか? ろざさんとニゲラも居るから、みんなでいつもの店行こう』
『おっけー! 梨琥先生も誘っていい?』
『勿論』
衣織の返信を受け、柘榴は視線をスマートフォンの画面から梨琥へと移す。
「先生、このあとみんなでご飯行くんですけど、一緒にいかがですか?」
「お邪魔してもいいの?」
「はい。ローザさんも来るそうです」
「えっ、行きたい! 行く!」
「っふふふ、了解です」
ローザの名前を出した途端に顔を上げる梨琥の素直さに、柘榴は笑みを零した。
「ん~! オフ前日のビールってやっぱり最高~!」
「だからって飲み過ぎるなよ。いつもそうやって調子乗って、俺らに介抱させるんだから」
午後八時。
今となってはすっかり常連となった焼肉屋の個室で、ローザが生ビールの入ったジョッキを豪快に呷る。
眼前の七輪の上ではサシの入った牛肉がじわじわと脂を浮かべており、NIRZのメンバーに梨琥を加えた五人は、思い思いに食事を楽しんでいた。
「だいじょうぶ! ショーも近いし、さすがにセーブしておく~」
「でもろざさん、それもう三杯目じゃ……」
「あっはは! 五杯まではノーカンだよ〜!」
衣織と柘榴の心配も虚しく、黄金の液体はどんとんと嵩を減らしていく。
弟の梨琥が言うには、ローザの酒豪っぷりは親譲りのもので、どれだけ飲んでも翌日に持ち越さないのが裏の特技らしいのだが……飲んでいる最中の愉快さについては、この場の誰もが身をもって知っていた。
「ショーって……再来週のやつかな? 確か、兄さんたちみんなで出演するんだよね」
網の上にできた空白を肉で埋めながら、ローザの様子に慣れっこらしい梨琥が穏やかな声で問いかける。
その声に答えたのは、頬張ったカルビと白米を飲み下した直後のニゲラだった。
「『ブリリアントランウェイ・コレクション』……毎年この時期に東京で開かれてるファッションショーだ」
「世間ではBRCって呼ばれてるやつだよ~! 俺は去年までも単独で何回か出させてもらってるけど、まさかユニットで参加することになるなんてね!」
上機嫌な笑顔を浮かべながら、ローザが再びジョッキを傾ける。
『ブリリアントランウェイ・コレクション』は、国内で実施されるファッションショーの中でも特に知名度の高いイベントのひとつだ。
その性質は単なるアパレル業界向け広告イベントというよりも、ティーンに向けた最先端カルチャー発信の舞台としての色が強い。
中でも注目されるのが、スペシャルゲストである人気俳優やタレントの出演――そして、人気アーティストによるライブパフォーマンス。
そして、今年のスペシャルゲストの一組には……デビューしたてで注目度も高い、NIRZの面々が選出されていた。
「ランウェイだけじゃなくてライブまでさせてもらえるんだよ〜? 去年の俺が知ったら目ん玉飛び出ちゃう!」
「去年の今頃は……ちょうど、俺とローザが初めて会ったくらいの時期だよな、っと」
からからと笑っているローザのジョッキを、ニゲラがすっと烏龍茶のグラスに差し替えた。
ノンアルコールに差し替えられてもお構いなしでゴクゴク飲んでいる姿を見るに、どうやら既に出来上がっているようだ。
「本当に、すごく名誉なことだ。けど……」
サラダのおかわりを取り分けながら、衣織が眉間に皺を寄せた。
「その分、柘榴は大変だよな……学校の中間テスト、特例で一週間早めてもらったんだろ?」
「うん……さすがに、本番の週に数日間テストは無理があるから……」
衣織の問いに返しながら、柘榴はへにゃりと苦笑いを浮かべる。
情けなさと少しの不安が滲む表情の柘榴に対し、正面の席に座る梨琥が落ち着かせるような微笑みを向けた。
「うちの学校は有名人が多いからね。結構そういう特例措置はしてくれるみたいだよ」
「……ああ、そっか」
サラダを口に運ぼうとした手を止めて、衣織が思い出したように声を上げる。
「先生、香凛大の薬学部に在籍してるんだよな」
「うん。鈴鹿くんは附属高校の生徒さんで……来年には同じ大学の先輩後輩になれるはず」
「が、頑張ります……!」
「っふふ、そんなに固くならなくても……鈴鹿くんの学力なら、きっと問題なく合格できるよ」
言いながら、梨琥が肉をひっくり返した。
片面をじっくりと焼き上げられた肉からじゅわりと香ばしい煙が立ち昇り、換気扇に吸い込まれていく。
「だから、体調だけは万全にすること……って、それは僕が言わなくても、耳が痛くなるくらいに言われてるかな?」
「え、えっと……」
いたずらっぽく笑いかけられ、柘榴はちらりと隣を見やる。
……案の定衣織と目が合い、「いつも言ってる通りだろ」とでも言いたげに肩を竦められた。
「ぜ、善処します」
「それでよし。ほら、いっぱい食べて英気養おうな」
「ざくく~ん! これもお食べぇ~!」
「ローザ、それペッパーミル」
「あー……兄さん、だいぶ酔ってるなあ……」
二人がかりで宥められるローザと、その様子に苦笑する柘榴と衣織。
賑やかに、穏やかに、夜は更けていった。




