2話 亜人と
「ねえ、なんでさっきからずっと、そのわけわかんない本を読んでるの?」
「静かにしろ。……いま、声を出すな」
パチパチと爆ぜる小さな焚き火の音に混じって、そんな二人の会話が聞こえた。深い闇の底から、グリスの意識がゆっくりと引きずり戻されていく。
「だって、それ人間が持ってたやつでしょ? 燃やしちゃえばいいのに」
「……いや、これはまともな軍の報告書や、貴族の魔導書じゃない。書かれているのは俺たちの知っている文字だが、こんな組み合わせは見たことがない。妙に規則正しい数字や記号が並んでいる……」
低く掠れた大人の声が、不気味なほど冷たく響く。
「――がはっ! げほっ、ごほっ……!」
グリスは溜まった水を一気に吐き出し、激しく咳き込んだ。
肌を刺すような寒さと、全身を走る凄まじい激痛。
生きている、それだけは理解できた。しかし、意識を取り戻して身動きを取り始めた瞬間、両手首と両足首に食い込む硬い感触に気づく。手足は太い蔦の縄で頑丈に縛り上げられていた。王国軍の雑用係として配属された初日に、ガルカ帝国軍の奇襲を受け、部下を見捨てて逃げ出す隊長の馬に跳ね飛ばされて激流へ転落した――そこまでの記憶が、濁った頭の中に蘇る。視界を必死に動かすと、そこは苔むした薄暗い岩窟の中だった。
「あ、目ぇ覚ましたぞ! ほら、やっぱり生きてた!」
「おい、人間。動くな」頭上から鋭い刃物のような声が突き刺さる。
グリスが痛む首をかろうじて回すと、頭部に灰色の狼の耳を乗せ、お尻から尻尾を生やした幼い少年、そして、頭から首筋にかけて硬質な緑色の鱗に覆われ、錆びて役目を終えた鉈を提げた男がいた。
「…あ……あなたたち…は…」
「見ての通り亜人だ。お前を拾ってきた。」
ーー『亜人』ーー
特質が獣や魔物の力を持ち、特質の特徴が身体にも現れており、人間から離れた姿をしている人間たちである。
全知全能の神が自分に似せて人間を作り、祝福として特質を与えられると信じられているこの世界では、神からの祝福で人間の姿を捨てた忌むべき者達という扱いである。
「質問にだけ答えろ。拒否すれば殺す。」
グリスは怯えて頷く。
「忠告をしておく。お前を縛って生かしておいたのは、情けをかけたからじゃない。……昨日、川の上流で凄まじい爆発音がした。そして今日、お前以外にも数体の兵士の死体が流れてきた。今何が起きている? 帝国と王国の戦争が始まったのか? 俺たちの隠れ里まで兵が押し寄せてくるのか……それを吐け」
男の目は、刃物のように鋭かった。
もし戦火がこの渓谷にまで広がれば、文字を持たず、戦う力も弱い隠れ里の亜人たちは逃げ場を失って全滅してしまう。だからこそ、状況を知る「生きた情報源」としてグリスの自由を奪い、問い詰めているのだ。グリスは必死に平常心を保った。ここで感情的になれば交渉すらできない。グリスは痛む喉を震わせ、途切れ途切れに、しかし正確に事実を伝えた。自分は兵士ではなく地位の低い雑用係であること。昨日、ガルカ帝国による奇襲があり王国軍の陣地は一瞬で崩壊したこと。そして、隊長たちが部下を見捨てて真っ先に逃げ出し、自分は馬に跳ね飛ばされて川に落ちたこと――。
「……そうか」
男は静かに、しかし重々しく呟いた。その瞳には、グリスの唐突な言葉に対する強い疑念がまだ宿っている。だが、上流から響いたあの凄まじい爆音と、目の前でボロボロになって流されてきた人間の姿を考えれば、ただの法螺話として切り捨てることもできなかった。
「お前の言うことが事実なら最悪だ。近いうちに帝国軍の偵察兵や、敗走した王国軍の残党が、この渓谷へ雪崩れ込んでくる可能性がある」
男は手を握り、ぐっと力を込めたがすぐに緩めた。そして、懐から少し錆びたナイフを出した。
「とりあえずまずはお前だ。……特質は何だ。隠さずに言え。戦える能力なら、ここで始末する」
男の問いに、グリスは胸を抉られた。図らずともグリスの最大の弱点を刺したのだ。心も体もぼろぼろな今、その言葉は抑えていた理性の堰を壊した。
男が痺れを切らし、喉元に刃の先当たる時
「ないんだ」
「何?」
「僕は特質も、魔法のセンスも、何一つない。完全な『無能』なんだ」
涙を流しながら弱々しく言い放ったグリスの言葉に、男はかける言葉を失った。
「特質が、ない……? どんな人間にも、神から特質は必ず授かるはずだ。それが、一切ないと言うのか……?」
男が驚きのあまり黙り込むと、少年が縛られているグリスの顔を覗き込み、くんくんと鼻を鳴らした。
「ふーん……よくわかんないけど、このお兄ちゃん、悪い人には見えないよ?」
男は冷静を取り戻しそっと少年を遠ざけると、手元にあるノートに視線を戻し、再びグリスを睨みつけた。
「……なら、この帳面は一体何なんだ。報告書でも魔導書でもない。ただの無能が、なぜこんな奇妙な数字や記録を持ち歩いている」
「それは…特質も魔法もない……僕が生きるために書き溜めた………知恵だ…」
「知恵、だと……?」




