1話 無能でも
「おい、グリス! まだ俺の服の泥汚れが落ちてねぇぞ! この無能がッ!」
冷たい泥水とともに、濡れて凍りついた分厚い軍服が顔面に叩きつけられた。
衝撃で地面に這いつくばった背中を、容赦なく硬い軍靴が踏みにじる。
「す、すみません……! すぐに、洗い直します……!」
グリスは割れた唇を噛み締め、泥水を吐き出しながら必死に声を絞り出した。
ここは辺境を巡回するローデリア王国軍の『視察隊』、総勢百名。
隊長や精鋭などの上位六人と、兵士五人にリーダーを加えた六人一組の『伍』が十五隊。そして彼らに家畜のように酷使される最底辺の『雑用係』が十人。
それがこの部隊の構造だ。雑用係として配属された初日、グリスは最悪の夜を迎えていた。
「おいおい、またグリスの奴、兵士様に絞られてやがるぜ」
「ハハッ、特質なしの呪われ者だ。あいつが俺たちの分まで殴られてくれりゃ、こっちとしては万々歳だよな」
遠巻きにそれを見て嘲笑っているのは、同じ境遇のはずの雑用係たちだった。
彼らも平民の落ちこぼれではあったが、それでも指先から火花を散らす【火種】や、六割の確率で明日の天気を当てる【天気予測】といったささやかな『特質』を持っていた。
だからこそ、完全に「無能」なグリスを見下し、自分たちの分の洗濯物や失敗をすべて押し付けることで、日々の歪んだ不満を解消しているのだ。
この世界には、人間の価値を決める要素が二つある。
一つは『特質』。神から誰もが必ず授かる固有の能力であり、身体強化や治癒など、その優劣がそのまま社会的な身分を決定づける。
もう一つは『魔法』。生まれ持った特質を理論化し、誰にでも再現・拡張できるようにした高度な技術体系だ。
ゆえに、実戦で魔法を扱えるのは、代々強力な特質を受け継ぎ、その再現理論を独占している一握りのエリートや貴族だけ。手本となる強力な特質を持たない平民にとって、魔法の習得には気の遠くなるような訓練と、圧倒的なセンスが必要とされる。
センスが皆無で魔法も使えず、特質すら与えられなかったグリスは、まさに神に、世界に見捨てられた、完全な「無能」だった。
九十人の兵士からは道具のようにこき使われ、九人の雑用係からは陰湿に虐げられる。
過酷な環境で正気を削られた人間たちが、自分より弱い者を踏みにじることで歪んだストレスを発散する――それが、グリスに突きつけられた現実だった。
「チッ、役立たずが。おいグリス、明日までに兵士五十人分の軍服と下着を一人で洗濯しておけ。一つでも汚れが残っていたら、明日の飯は抜きだからな」
兵士の男はグリスの頭を泥に踏みつけ、唾を吐き捨てた。雑用係たちも、ニヤニヤと笑いながら自分たちの担当分をその場にぶちまけて去っていく。
目の前に積み上がったのは、九十人分の泥と血と汗が染み付いた、分厚い軍服の山。
夜風が容赦なくボロ布のような衣服を突き抜け、体温を奪っていく。普通の人間なら、極寒の中での徹夜労働を前に絶望して首を括るような環境だった。
「九十人分の洗濯……。こんな冷たい川で手洗いしていたら、朝までに凍傷で指が動かなくなる」
ポツリと呟いた声が、情けなく震えた。
身体中が痛くて、冷たくて、涙がこみ上げてくる。まだ一日目だというのに、あまりの理不尽さに心が折れかけていた。今すぐすべてを投げ出して、故郷へ逃げ帰ってしまいたかった。
だが、這いつくばった泥の中で、出発の日の家族の瞳が脳裏をよぎる。
昔から家族は優しかった。父も、母も、兄弟たちも。
でも、僕を見る目はいつだって同情に満ちていた。兵士になると告げたとき、猛反対の末に折れてくれた彼らは、旅立ちの日にいつも以上の優しさで僕を送り出してくれた。
母の手は震え、父は静かに俯いていた。
あのときの彼らの目は、かわいそうな人を見る目じゃなかった。もう、死んでしまった人間を見る目、そのものだった。
愛してくれているからこその、諦め。それが分かっているからこそ、僕は変わりたかった。
誰も僕に同情なんてしない、誇れる自分になるために。
「……まだ、折れてたまるか」
グリスは奥歯を噛み締め、涙を拭って立ち上がった。
彼はただ痛みに耐えていたわけではない。特質もセンスもない自分が生き残るために、昔から必死に磨き続け、書き溜めてきた武器――それが、懐にある何冊ものノートだった。
手垢で黒ずんだノートを開く。そこに記されているのは、彼が重ねてきた『知恵』の結晶だ。
グリスが目をつけたのは、厨房から出る大量の「木灰」だった。
木灰を水に混ぜ、不純物を濾過した上澄み液は強いアルカリ性となる。これが泥や皮脂、こびりついた血液を劇的に分解するのだ。
彼に地球の「化学」の知識はない。だが、度重なる実験と観察によって書き込まれたノートの数字は、すでに近代科学の領域に達していた。
グリスはノートの数値を指でなぞりながら、大きな水樽に仕込んだアルカリ液へ、九十人分の軍服を次々と放り込んでいった。
――そして、朝日が空を薄赤く染め始めた頃。
徹夜ですべての服を洗い終え、安堵の息を漏らした、まさにその瞬間だった。
――ドンッ!!!!
鼓膜を破らんとする大爆音とともに、視察隊の陣地が激しく揺れた。
目の前にあった洗濯樽が、吹き飛んできた爆風と土砂で一瞬にして粉砕される。
「て、敵襲ーーーッ!! ガルカ帝国の奇襲だ! 防衛線を構築しろ!」
見張りの兵士が喉を引き裂くような悲鳴をあげた。
渓谷の斜面を見上げれば、朝日に照らされた帝国軍の兵たちが、崖の上から容赦なく火球の魔術を撃ち下ろしている。
わずか九十人の王国兵では太刀打ちできるはずもなく、陣地は一瞬で炎の海と化した。
「ひっ、助けてくれ!」
「うわあああ!」
昨日までグリスを殴り飛ばしていた兵士たちが、四散する肉片となって転がっていく。
怒号と悲鳴が飛び交うパニックの中、グリスはどのように行動すれば生き残れるかを必死に考えていた。周囲の状況を冷静に観察し、生存への脱出ルートを探そうとしたその時、ある決定的な異変に気づく。
部隊を指揮していたはずの隊長が、お抱えの親衛隊数人だけを連れ、今グリスが洗濯していた後方の安全な退路へ真っ先に逃げようとしていたのだ。
「隊長! お待ちください!」
グリスは決死の覚悟で、隊長の馬の前に立ち塞がった。
「まだ仲間たちが残って――」
馬の速度は少しも緩まなかった。
言い終わるよりも早く、鈍い衝撃が走る。
視界が激しく回転し、身体が宙を舞った。
横目に見えたのは、部下を見捨てて逃げ去る隊長の背中と、黒煙を上げる戦場。
そのままグリスの身体は、渓谷の底を流れる激流へと叩き落とされた。
冷たい水に飲み込まれ、急速に光が遠のいていく。薄れゆく意識のなかで、グリスは思った。
(ああ……終わるのか。僕は、まだ、なんにもできてないの……に……)
グリスの意識は、深い川底の闇へと沈んでいった。




