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第10話 それは事件だった。

 今日はオレンジ色だ。オレンジもよく似合う。


 警察官の大久保は、制服姿でほか弁屋の前に立ち、店の中をなにやら密かにチェックした。

 メニューを選ぶ必要はない。買う弁当は決まっている。

 すると、細身で色白の女性が注文をとりに来た。その女性が、オレンジ色の三角頭巾をしていた。

「いらっしゃいませ。いつものですか?」

「あ、はい」

 大久保はドキッとして、咄嗟に右手を上げて敬礼してしまった。

 いつものですか? なんて初めて聞かれたからだ。

 覚えてくれてたんだ、自分のことを。と舞い上がった。


 ニコッと笑った彼女は、

「畏まりました」

 と、いいつつ、左手をおでこに当てて敬礼を返した。そのまま、右手に持ったペンで伝票に書き込む。

 おでこに当てたままの左手は敬礼としてはぎこちない。が、それがよけいに可愛い。大久保は鼻の下が伸びそうになったが、ふと我に戻り、慌てて自分の右手をおろした。


「のり弁一つ、大盛りで」

 彼女が厨房に向かって叫んだ。明朗快活な女性である。


 そのほか弁屋は、歩道に開いた窓のような店構えで、客は路上から注文し、そのまま受け取る。この店には制服というものがないらしい。彼女の三角頭巾は自前のモノだろう。三角頭巾をしているのは彼女だけだ。毎日色が変わる。やや栗色のサラサラした前髪が、その三角頭巾から覗いている。大久保がこの店に通い出して一週間。三角頭巾の色が、また昨日とは違っていた。


 一週間も毎日のり弁大盛りを注文していれば、覚えられて当然なのに、そんなことに気が回る大久保ではなかった。自分のことを覚えてくれていた。という衝撃の事実に感動した。メニューを確認する振りをして、キョロキョロしながら、厨房の彼女をチラ見した。やっぱり綺麗だ。ええーい、チラ見が止まらん。ヤバい、そろそろバレるぞ。その辺にしておけ。メニューだけをガン見した。


 彼女は、パチンパチンと弁当に輪ゴムを掛け、割り箸を挟み、ビニール袋に詰め

「有難う御座いました」

 と、大きな瞳と満面の笑みで弁当を両手で渡してくる。


 大久保はいつも、なるべく手が触れない様に弁当を受け取ることを心掛けていた。

 それが彼女に対する誠意の様な、自分に対するけじめの様なものだった。変なこだわりだとも分っていた。


 歩いて帰っていると、後ろから声がした。

「お巡りさ~ん」

 彼女が息咳切って追いかけて来た。


「ごめんなさい。おつり・・・」

 透き通るような白い手をひらくと十円玉が二枚。と同時に、彼女の頭から三角頭巾がほどけて、滑るように下に落ちた。


 ――あっ

 大久保はとっさに地面につかない様にバンダナをキャッチした。

「有難うございます。すいません、おつり渡すの忘れちゃって・・・」

 軽く会釈してバンダナを受け取り二十円を差し出す彼女。


 大久保は唖然としてしまった。

 彼女のバンダナを外した姿を初めて目にしたからだ。髪は肩より少し長かった。前髪同様全体にやや栗色のサラサラした髪質であった。仕事中以外の素の姿を垣間見た気がした。


「あの~、おつり・・・」

「えっ?」

 彼女が大久保の手を掴み、そっと手渡してくれた。

「二十円のおつりになります。有難う御座いました」

「どうも」

 大久保が軽く会釈すると、彼女はくるっと踵を返し、三角頭巾を直しながら駆け足で店に戻っていく。


 その華奢なうしろ姿に、つい見入ってしまった。

 ハッと気付いた大久保は、いかん、いかん、と首は振ってみたものの、握られた手には、彼女の温もりがしっかりと残っていた。思わぬ事件だった。


 *   *    *


「ええ、真っすぐ行って右ですね」

 そう言って、井上周三はにっこり笑った。

 交番の外では、交番相談員の井上がお婆さんに優しく道案内をしていた。交番相談員とは、定年退職した警察官OBを再雇用した人材である。

 道案内を終え、井上が交番の奥の部屋にいそいそと入っていくと、中では大久保がのり弁を広げて食べていた。


 この野郎。と、大久保の背中に一瞥をくわえた井上は、自分の鞄を床から拾い上げ、テーブルをはさんで大久保の目の前に無言で腰かけた。


 ご苦労様です。的な会釈をする大久保をじっと見つめながら、井上は膝の上に置いた鞄の中から黒い筒状の弁当箱を取り出し、わざわざドンっと音を立ててテーブルの上に置いた。


「君は最近、私を避けてるな」

「避けてませんよ」

「ホントか?」

「ええ・・・」

 大久保は、最後の一口をくちにした。

「じゃあ、返事は?」

 井上は眼光鋭くした。

「え?」

「この間の件だよ」

「アレは、ちょっと・・・」

 大久保は引きつった顔をして、お茶を飲んだ。

「そうか。そうだろうよ。今どき見合いなんて。と思ってるんだな。そんなことだろうと思ってだな・・・」

 井上はスマホを大久保に向けて、カシャっと写真を撮った。

「なんですか?」

「この頃は、マッチングアプリというモノがあるらしい。そのためだ」

 井上は、写真の写りを確認して、もう一度大久保にスマホを向けた。

「ちょっと待てください。勝手にそんなものに僕をのせないでください」

 大久保が顔を手で隠した。

「私もこんな強硬な手段には出たくはないよ。でも、女房に言われてきたんだよ。な」

「な。じゃないでしょ。勘弁してください」

 大久保はそそくさと弁当容器を片付け、「パトロール行ってきます」といい、帽子をかぶって出て行ってしまった。

 チッと、井上の舌打ちが響いた。


 *   *    *


 その晩、井上家の食卓で小言が響いた。

「しっかりしておくれよ」

「ああ・・・」

「こんなピンボケじゃ役に立たないじゃないか」

 大久保の写真のことだ。

「逃げられたんだよ。すまん・・・」

 井上はボソッと言った。


 井上には三つ年下の女房がいる。房江という。目下のところ夫婦二人で熱心に取り組んでいるのが仲人稼業である。

「だらしがないね」

 房江は、スマホをテーブルに置いた。

「いいかい。東京都のマッチングアプリでは300組が成婚とあるんだからね。使わない手はないよ」

 井上は、仏頂面でテーブルの上の筑前煮をつまんでいる。

 筑前煮の横には、房江が今置いたスマホに東京都マッチングアプリのトップページが映っている。


 ご飯をよそった茶碗を、房江がテーブルにカンっと置いた。

「あんた、やる気はあるのかい」

「ああ、でも、俺のこと避けてんだよ」

「情けないね。大久保君をほっとけないだろ?あんな真面目でいい人はいないよ」

 房江は大久保の誠実さに引かれ、息子のように可愛がっている。どうしても大久保の縁組を実らせたい。と、息巻いているのであった。

 井上もそれには大いに賛同しているが、うまくいかず、意気消沈気味であった。


 房江は、そんな夫の姿がジレッタクテしょうがないとばかりに、箸でスマホを指した。

「都がやってんだから間違いはないんだよ・・・大久保君の為なんだから、あのままじゃ結婚できないよあの子は。女っ気なさすぎ。いい男なんだけどね、ホントは・・・私があと30若ければしがみついて離さないけどね」

「よせやい・・・気持ち悪い」

「気持ち悪いって、なにさ!」

 ピシッと、房江の箸が井上の小手を打つ。と同時につまみ掛けていた里芋がスマホの上に転がった。

「ああ、ああ・・・なにすんだよ」

 井上は布巾でスマホを拭きながら「いってえなあ・・・もう」と愚痴った。

「とにかく、次は必ずお大久保君で貰う。ここだけはブレちゃいけないよ。あんた」

「わかった、わかった・・・」

 こんなやり取りがこの夫婦の日常であった。


 *   *    *


 この日も大久保はのり弁を買いに来ていた。

 ストーカーじゃあるまいし、連日通い続ける自分に多少後ろめたい思いも感じ始めてはいたが、例の三角頭巾の色が気になって、つい足を運んでしまう。今日は水色だった。

 いつもバレない程度のチラ見だが、今日はそのチラ見の数が圧倒的に多くなった。

 大久保はぶっちゃけ思った。


 ――今日は一段と可愛いな~。

 水色は特に似合うんだ。

 ――史上最強だった。


 これ以上の色はこの世にあるのか?それを見極めたくなった。また通ってしまうな。と思った。


「毎度有り難うございます」彼女がいつもの様に両手で弁当を渡してくれた。

 *

 そこへ井上が自転車に乗ってほか弁を買いに来た。

「よお・・・」

「あ、井上さん、珍しいですね」

 この日、井上は愛妻弁当を持参してなかった。


 昨夜、深夜まで仲人ミーティングが盛り上がり、房江の酒がすすんだ。

 房江の妄想は膨らみ、大久保に子供が出来て名前まで付けてしまったのである。勝手ながら房江にとっては初孫であった。

 というのも、二人には子供がなく。当然孫などいない。すでに仲人で取り持った縁はいくつかあるが、そこに子供が生まれたとしても孫と呼べる程の実感は沸かなかった。

 だが、事、大久保に子供が出来た。という妄想は、房江にとって、同時に初孫を得た感触すら伴ったのだろう。可愛くってしょうがない。とばかりに酒がすすむのも無理はなかった。

 が、案の定、房江は二日酔いで起き上がれず、井上は弁当は作ってもらえなかったのである。


 そんな事情には一切触れず、井上は、大久保の「珍しいですね」の問いに対して、流した。

「はは、たまにはね・・・しゃけ弁一つ」

「はーい」

 彼女の透き通る声が響く。


 と同時に思いだしたように、

「あ、そうだ。お巡りさん、ちょっと、ちょっと・・・」

 大久保が手招きして呼ばれた。

 それも、あたかも、人にばれないようひっそりとこっちに来て。的な小声でだった。

「これ、メンチカツ余ったから、どうぞ」

 彼女は、小さな袋を差し出し、

「大事なお得意様だから」

 と言って、袋を渡すと小さく敬礼した。


「こ、これは、どうも・・・」

 大久保も反射的に右手を挙げ、敬礼を返した。

「じゃあね・・・」

 彼女は胸の前で小さく手を振り、振り返って厨房に向かった。

「しゃけ弁、一つ」

 井上のオーダーを通した。


 井上は一部始終をじっと見ていた。じーと見ていた。


 大久保は井上の刺す様な視線に気付いたのか、慌てて走り出した。が、止めてある自転車につまずき、何台か将棋倒しにしてしまった。

 大久保は、苦笑いしながら自転車を引き起こしている。

「ああ、ああ、ああ、何をやっているのかね。君は・・・」

 井上は、淡々とした表情で、それを手伝った。自転車を引き起こしつつ、大久保に聞こえる様に呟いた。

「なるほどね~・・・」


 大久保に嫌な予感が走った。


 *   *    *


 手付かずのまま弁当はテーブルの上に放置してある。

 それを前にして肩をすくめ椅子に座っている大久保。

 井上は手を後ろに回し、大久保の周りをゆっくり歩いている。


 まずいところ見られてしまった。

 と、思っている大久保には、交番に戻っても、弁当に箸をつける気など起こらなかった。


「どうしたの?食べないの?・・・弁当冷めちゃうよ」

 井上の口が開いた。冷ややかな口調だった。

 さらに井上は大久保に顔を近づけて、

「メンチカツも・・・」

 今度のは粘っこい口調だ。


 無言のまま、大久保はガクッと首を落とした。


 井上が諭すように、優しく問い掛けてきた。

「大久保君、黙ってちゃ分んないだろう、言ってくれないと」

「ですから、何を?」

「だから、いつからなの?」

「いつからと言われても・・・」

 この場合の「いつから」はいつだろう?やはり、おつりを手渡された時に手が触れた、あの時なのだろうか?と大久保は考えた。


「じゃあ、質問を変えようか」

 井上はさらに柔らかい表情を向けてきた。

「で、彼女はいくつなの?」

「さあ・・・」

 これは本当に知らなった。


 ――しらばっくれるんじゃない!


 バンっと、井上が机を思いっ切り叩いた。この瞬間にスイッチが入ったようだ。


 井上の事情聴取には現役時代から定評があった。アメとムチを巧みに使い分けるその技は所轄では右に出るものがなかったのである。本来流れている警察官としての野生の血が逆流するかのように蘇ったのだ。


 通行人の声が交番の外から聞こえた。

「あの~、駅はどっちですか?」

「はあ?そこを左行って右!」

 邪魔するんじゃない。とばかりに、井上がドアから身を乗り出して叫んだ。

「ちょっと、井上さん・・・」

 大久保が立ち上がって外に出ようとするも、井上が激しくドアを閉め一喝した。


 ――そこへ座れ!


 大久保は迫力に押され、へなへなっと座り込んでしまった。

「私と女房はね、あんたのことを本当に思ってるんだよ」

「それはどうも・・・」

「いい人がいるならいるで、言ってくれよ。水臭いじゃないか!・・・あちらさんは、なんてお名前なの?」

「知りません・・・」

 正直に答えた。


 井上は大久保の正面で仁王立ちし、両手でガンっと、机を押さえた。

「大久保君、君は現行犯なんだよ」

 メンチカツの小袋をつまみ上げた。

「証拠もある」

「なんの証拠ですか」

「さっき僕は現場で君を見た。君は見られた・・・わかるな素人じゃないんだから」

「いい加減にして下さい。本当に何も知りませんよ。名前も歳も。知るわけないじゃないですか、弁当買いに行ってるだけなんですから」


 大久保の真剣な眼差しを受け、井上が聞き返した。

「本当に知らないのかい、何も?」

「はい」

 大久保はまた首をうなだれた。

 *

 井上は経験から直感した。

 目が泳いでいない。言葉も逃げていない。こいつは嘘じゃない。と。

 メンチカツの小袋を元に戻した。


 *   *    *


 その晩、井上家の食卓では、昨日と違った盛り上がりをみせていた。

「名前も知らないのかい?」

 房江の声が裏返った。

 井上がさばの塩焼きの骨を外しながら、

「ああ」

 と、一言。


「それじゃ、一方通行じゃないか」

 房江はジクジたる思いを吐露した。


「だがな、あの二人、下地は充分に出来てる。なかなかメンチカツは出てこねえぞ」

 井上がこういう余裕を見せた時、房江は妙な頼もしさを感じる。

 長年警察官の妻をつとめてきた直感だ。期待を含んで聞いてみた。

「見込はあるのかい」

 井上、さば塩の手を一旦止め、しばし考えて

「七・三で、ある」

 と、答えた。


 井上の手ごたえを知りつつも、もう一度、房江は念を押した。

「下手な動きをすると、ヤッコさんの腰が引けるんじゃないのかい」

「心配ねえ、奴はもう骨抜きよ」

 井上、さば塩の身を一口含んでビールを一気飲みした。


 房江がビールを持ち上げて

「あんた、出番だよ」

 と言いながら、井上のコップに注いだ。


 *   *    *


 井上はその晩早速動き出した。

 スナック止まり木。大久保がよく通う店だ。

 ここに来れば、多少の聞き込みが出来るとふんでいた。

「え、大久保ちゃんにいい人。知らなかったわ。で、」

 礼子ママは初耳みたいだ。

「野郎もとうとう色気づきやがったか。それでそれで」

 ハゲ頭を撫でながら、社長も興味津々で聞いてきた。

 どうやらあの野郎、ボロは出してないみたいだな。ここは無駄足だったか。

 しょうがねえ。こうなったら、真っ向勝負に切り替えるしか方法はないか。と井上はハイボールに口をつけた。


 しかし、このまま黙って帰るわけにはいかない。ママも社長もキラキラした目でこちらを見ている。次の言葉を待っているようだ。

「ああ、事件はほか弁屋で起きてる」

 と、井上はそう言って、さらにハイボールを呑みながら語りだした。

 なんのことはない。聞き込みのつもりが、井上は自ら宣伝隊長になって、大久保の噂話に火をつけて、気持ちよく呑んだ。


 *   *    *


「ええ、これは『巡回連絡』と言いまして地域の安全・安心の為、市民の皆さんからご意見を頂いております。ご協力を一つ・・・」

 ほか弁屋の前で、制服姿の井上が手帳にメモを取りながら質問している。

 井上は軽く頭を下げた。

 相手は例の大久保がご執心の三角頭巾の彼女である。

「はい・・・」

 と、彼女は答えた。

「最近、この辺りで不審者を見かけてはないですか?」

「う~ん・・・特には・・・」

「なるほど・・・特には。という事ですか・・・特には。ね。・・・ところで、あなたのお名前は?」

 サラッと名前を聞いてみた。


 すると、彼女は困惑気味な顔で「えっ?なんですか?」と、返した。

 彼女はまるで、自分が何か、取り調べを受けるようなことをしたのか?と不安になってしまったのだろう。だが、この場合、妙に腰が引けた態度は禁物だ。

「あなたのお名前を聞いているんです」

 井上は眼光鋭く、少し口調を強くした。


「高木涼子です」

 彼女は思わず答えてしまった。しめしめだ。


「歳は?」

「33です」


 井上はメモを取った。

 高木涼子。33歳か・・・大久保君の姓に変わると、大久保涼子となるな。うん、悪くない。年齢も、大久保君が確か、38だから、33というのも、バランス的に問題なし。よし、いける。と、井上はなんだかよくわからない値踏みを自分勝手にして、不気味な笑いを浮かべた。


 おっと。大事なことを忘れてた。

「ご結婚はされてますか?」

 と、井上は声を低くして、さらにたたみかけた。


「あの~、私なんか疑われてるんでしょうか?」

 涼子が、かぼそい声で不安気に聞いてきた。


 これ以上はいかんな。

「いえいえ、そんなことはありません。この巡回連絡というのは、警察が主に個人情報をお伺いする為に行っております。例えばあなたもしくはあなたの親族が、不慮の事故にあったり、何かの事件に巻き込まれてしまった場合にご家族に連絡を取りやすくする。云わば、警察から市民の皆さんに対する配慮である。と受け取って頂きたい」

 と、少々あせって詰問してしまった事を取り直そうとした。


 そこに店の奥から房江が米袋を担いでやって来た。

「涼子ちゃん、お米どこ?」

「その下に置いてください」

「どっこいしょっと」

 房江が米袋を置き、「あ~」と、腰を叩きながら伸びをする。

 房江が身に着けているエプロンはこの弁当屋のエプロンである。涼子とお揃いの、店のエプロンだ。


 井上は、自分の女房のいきなりの登場におったまげた。

「あっ!何やってんだお前!」

 房江が腰を伸ばしながら、しれっとした顔で、「ああ、どうしたの?」という。

「どうしたの?じゃないよ」

 井上の声は裏返ってしまった。

 それは紛れもなく事件だった。


「お知り合いなんですか?」涼子が房江に聞いた。

「これ、うちの旦那。警官なの」

「なんだ、そうだったんですか~・・・井上さんの旦那さんだったんですか。どうもお世話になっております」

 涼子の表情が急に明るくなった。何かしらの不安が解消されたみたいだ。


 そんなことより、なんで、うちの女房がここで働いているんだ?

 井上は何が何だか訳が分からず、とっ散らかった。

「ちょっと待て、こっち来い。こっちに出てこい。とりえず出てこい」

 房江を弁当屋の外に呼び出し、問いただした。

 ――どういうことだ?


 ――違うのよ。

 房江が、ご近所話をするみたいに手首を返した。

「朝ちょっと覗きに来たのよ。どんな娘かな?って。そしたら可愛い娘じゃない。感じもいいし・・・ほら、昨日、メンチカツの話を聞いたじゃない。それで、気になって気になって見に来たの。そしたらアンタの言う通り、これは大久保君にピッタリかも。と思ったのよ。でね、話しかけたくなっちゃって・・・でも、別にお弁当買いに来たわけじゃないからさ私。ふと見たらアレよ・・・」

 張り紙を指した。


『パート募集中。時給1250円』と書いてある。


「まだ募集してるんですか?て聞いたの。会話のきっかけが欲しくて。そしたら、トントン拍子にこうなっちゃったの」

 井上は、ほとほと呆れてしまった。女房の行動力には舌を巻く。

「トントン拍子って、お前な・・・」

「そんな事よりあんた。子持ちだよ。五年生の男の子と二年生の女の子。二人」

 房江が顎をしゃくった。

 うわ、結婚しているのかよ。と、井上は天を仰いだ。

「それがね。どうやら母子家庭みたいよ」

「え、旦那は死んだのか?」

 声をおさえた。


 旦那が死んだのか、生きているのか。では大違いだ。生きていて、単に別居しているなら、のちのち復縁という事も考えられる。子供がいるからなおさらだ。ただ、死んでさえいてくれれば、可能性がグッと上がる。


 どうなんだ? と、井上が房江に詰め寄る。


「そこまではまだ・・・」

 房江は首を振った。

「肝心なところだろ!」

 井上の目が見開いた。


 房江に袖口を引っ張られ、二、三歩あるいて弁当屋から離れた。

「いいかい。私がこの店に入ったのが11時・・・今、何時だい?」

「2時半・・・」

「まだね。3時間半しか経ってないんだよ。お昼も忙しかったし。そう急くもんじゃないよ」

「そっか」

 井上も、さすがにその通りだと思った。

 だから、ここは任せて。と、房江が子供を諭すように言ってきた。


 井上は一瞬、納得しかけたが、昨日の晩に言われたことを思い出した。

「お前、昨日俺に・・・出番だよ。って言ってなかったっけ?」

 房江は頷きながらも、

「うん、私も出張るつもりはなかったんだけどね・・・まあ、懐入れたからいいんじゃない」

 と、落ち着き払った様子だ。


 確かに、俺が外堀埋めるより、女房が本丸を責めた方が効率がいいな。と思い直した。

「でも、なんか納得いかねえな・・・」

 とぼとぼ歩いて、帰ろうとしたら、後ろから声がした。


「それと、今日は仕事6時までって、店長に頼まれたからね。帰りは遅くなるから・・・あんたの方が早く帰るでしょ」

「はあ?じゃあ、晩飯遅くなるのか?」

「バカ言ってんじゃないよ。私は働いて帰んだよ。あんたが作りな!」

 そう言って、房江はとっとと店に戻って行ってしまった。


 井上は腕組みをし、空を見上げた。

 ゆっくりと振り返って歩き出した。

 歩きながら、

 晩飯か。晩飯って何作るかなあ。

 と考え始めてみたが、しばらく歩きながら、自然と口から出た言葉は、

「やっぱ、納得いかねえな・・・」

 だった。


 第10話 終

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