第11話 劇場型プロポーズ大作戦
高木涼子が晩御飯の支度をしていると、
「かあちゃん、これ」
といって、息子の翔太が国語のテストを見せてきた。
エプロンで手を拭いて受け取り、見て見ると、100点だった。
「ヤッター。100点じゃん」
いつものことだと分かっていながら、声だけは弾ませた。
無邪気に喜んではみせたが、次の瞬間、うん? と首を傾げた。
よく見ると、100点の下に、120点と書いてあり、その120点には二重線が引かれてあった。
「なにこれ? 120点満点なの?」
120点満点のテストなんて珍しいわ。と思って聞いてみただけだ。
「違うよ。100点満点だよ」
翔太は、冷蔵庫から目薬を取り出して目にさしている。
「でも、120点が消されて、100点になってるわよ」
「間違えたんだろ先生が。100点満点で100点なんだから、文句ねーだろ」
目をしばたたかせながら、翔太はそう言うと、奥の部屋に引っ込んだ。
「それもそーね・・・よく頑張りました」
涼子は、翔太の背中に投げかけた。
* * *
「きっと来ると思っていたよ。ジャガーの眼・・・」
井上はセリフが書かれた紙を持ち、淡々と読んだ。
「テンションが低いよ。それじゃ」
房江がダメだしする。
「きっと来ると思っていたよ! ジャガーの眼ええ!!」
房江が叫んだ。
「このぐらいはテンション上げなくちゃ」
井上家では、何やら芝居の稽古の様なモノをしていた。
房江は若かりし頃、アングラ劇団に所属し、お芝居にどっぷり浸かっていた時期がある。
たまに、老人ホームの慰問会で、小芝居を余興で披露することがあるので、これも、そのためだろうか。それにしても、老人ホームでアングラ芝居とは珍しい。
『ジャガーの眼』とは唐十郎の状況劇場が1985年に初演した作品である。
アングラ演劇界では不朽の名作として知られる舞台である。
房江が大好きな演目だ。
* * *
「おかあちゃん、お腹すいたよ~」
高木家の台所では、娘の結花が、エプロンをしている涼子の足に纏わりついてきた。
結花は翔太の妹だ。小学二年生である。
「ユカちゃん見て、お兄ちゃん、また100点取ったよ」
テストを広げて見せた。すると、
「お兄ちゃん頭いいもん。ユカ、馬鹿だもん。ぶうう」
結花はすねるように涼子のエプロンに顔を擦りつけてきた。
ぶうう。とはブタキャラが好きな結花の口癖だ。主にご機嫌ナナメの時に口に出る。貯金箱やマグカップ、ぬいぐるみにいたるまで、結花の周りにはお気に入りのブタキャラで溢れている。
「そんなことないわよ。ユカちゃんもやれば出来ると思うけどな~」
結花の頭を撫でながら、涼子はガスの火を止め、カレーを掻き混ぜた。
「もう、お腹空いた~」と、結花が涼子の足をエプロンごと振ってくる。
涼子は、オタマでカレーを一口味見する。
「はい出来たわよ」
「ヤッター」
結花が跳ねるようにして喜んだ。
カレー。カレー。カレー。と歌い出す結花。
「ユカ駄目だぞ。一度冷まして、二日目のカレーに仕上げるんだ!」
奥から声がした。
ガラガラっと引き戸が開くと、翔太が現れた。
「もうやめようよ。そういうの・・・」
と言いながら、結花は食器棚からお皿とスプーンを取り出してきちんとテーブルに並べる。
「ストイックね。食べちゃえば」
涼子はエプロンを外し、バックの中から口紅をとって、塗り直した。
塗った後にパッパッと、唇を鳴らすのが涼子の癖だ。
「かあちゃん殿、ここからが勝負なのだよ。僕らの・・・」
翔太はカレーの鍋を覗き込み、一息吸って匂いを確かめ、オタマに手を掛けた。
「私もう仕事行くからね。あとは自分でやってよ」
涼子は着替えながら、忙しく仕事に向かう準備を整える。
「うん。苦しゅうない・・・苦しいけど・・・」
翔太は、カレーをゆっくりと掻き混ぜながら苦悶の表情を浮かべて見せた。
何事にもこだわる性質のこの子は、カレーにだって、自分の道理を貫く。それにつき合わされる妹はたまったもんではない。
ねえ、ユカだけ食べちゃダメ?っと、結花がスプーンを両手に持って振っている。手旗信号みたいな動きになっていた。結花の動きが可愛くて、涼子はクスッと漏らした。
「駄目だよ。ユカだけ食べたら、お兄ちゃんも食べたくなっちゃうだろ」
翔太がカレーをゆっくりと掻き混ぜながら、きっぱりとダメを出した。
「じゃあ、食べようよ・・・ぶうう」
ぶううが出た。結花がご機嫌ナナメになってきた。
「ユカ、洗濯物たたんだのか?」
「あ、まだだった」
洗濯物をたたむのは、結花の仕事だ。忙しいおかあちゃんのお手伝いだ。いくらお腹が減っていても、これだけは欠かしたことはない。
洗濯物には、結花の、こだわりと責任感がある。
翔太も、もちろん、それを知っていた。だから、聞いた。
結花が、隣の部屋で洗濯物をたたみ始めた。
こうなったら急速冷却だ。っと、翔太は大鍋を取り出し、氷水を張り、それでカレーを冷やし始めた。相変わらず、オタマでゆっくりと掻き混ぜながらだ。
「じゃあ、いってきま~す」
涼子が支度を終え、秋物のコートに袖を通し、玄関を出て行った。
「いってらっしゃ~い」
翔太と結花の声は揃っていた。
* * *
日本を今一度せんたくいたし申候。
言わずと知れた、坂本龍馬の名言である。
大久保は大の坂本竜馬ファンである。部屋に坂本竜馬の写真を飾り、毎朝かしわ手を打つ。
ここで竜馬とし、龍馬としなかったのは司馬遼太郎『竜馬がゆく』の竜馬だからだ。司馬遼太郎の生み出した、どこまで史実なのか分からないフィクションの坂本竜馬に、大久保は心酔している。下の名前も隆だ。りゅう。と読む。大久保隆。なにかしらの縁を感じてしまう。警察官である自分を坂本竜馬はいつも見ている。
竜馬の写真の横に先程の『日本を今一度せんたくいたし申候』を自ら筆を握り半紙に殴り書きして、貼り出してある。
大久保は本棚にある日本国憲法の小さな冊子を取りポケットに入れた。
これは竜馬が常に『万国公法』という国際法の本を持ち歩いていたことを真似ている。
「行って参ります」パンパンと二つ鳴らして仕事に出かける。
* * *
その日はのどかな日だった。秋晴れで雲一つない空。ほのかな日差しが心地いい。事件事故は一つもなく、交番には平穏な時間が流れていた。
大久保は、机に腰かけ、溜まっている書類整理を淡々とこなしていた。
そんな、のどかな午前中が過ぎ、昼飯時が近づいた。
すると、井上がニコニコしながら大久保に近づいて来た。
「大久保君、そろそろ弁当買いに行くかい?」
ええ、行きますよ。と、大久保はなにげなく答えた。
「そうか。じゃあ、俺も一緒に行こう」と、井上。
おや、井上さんは、今日は愛妻弁当じゃないのか。と思った大久保。
はは~ん、弁当屋の彼女と僕のことをくっつけようとして、何やら企んでいるな。めんどくさいな、もう。一緒に買いに行ったら何を言われるかわからない。
「僕が買って来ましょうか?」
と切り返した。何がいいですか?シャケ弁ですか?と、聞いた。
そうだな、今日は何にしようかな。
君は相変わらずのり弁か?たまには焼肉弁当とかハンバーグとか、スタミナの付くものを食えよ。と、井上がいつになく優しい眼差しで、笑顔を送り続ける。
「のり弁で充分ですよ。なんたって安月給ですから」
「安月給か。そうか・・・」
ニコニコしていた井上の表情が、急に真顔になり、
「歳は33だ・・・」
と、ボソッと一言。
はあ?っと、大久保は怪訝な顔をして反応した。いやな予感がした。
井上が続ける。
「で、名前がな・・・」
「何ですか?ちょっと待ってください」
大久保が止めた。
と同時に直感した。弁当屋のあの人のことだ。この人は三角頭巾の彼女のことを言っている。ピンと来た。この間、さんざん問い詰められた時、僕が彼女の、歳も名前も知らなかったからだ。そのことに間違いない。
何てことだ。この人は一体なにをやっているんだ。
大久保の心中は一瞬にして黒雲が立ち込め。秋晴れの、窓から差し込むのどかな日差しは一蹴された。どんよりと淀んだ。
大久保の困惑を察してか、井上は言った。
「あ、そうか。君は知らなかったな・・先に言っとくけど、弁当買いに行って驚かないでくれよ。うちの女房が働いてる」
――え?
マズイ。と思った。井上さんの奥さんが絡んでいる。大久保も房江のことはよく知っている。よく知り、よく世話になっているからこそ思った。
それだけはやめてくれ。っと。
この人達はそこまでやるのか。と大久保は呆れかえり、
「井上さん、おかしい・・・おかしいですよ。やってることが・・・」
小刻みに首を横に振っていた。
あの弁当屋が、井上さんの奥さんの手の内にある――
そう思っただけで、胸の奥がざわついた。
井上は淡々と答えた。
「偶然だよ、偶然。女房が働き口を探してたらタマタマあそこに辿り着いただけなんだ」
「ウソだ。嘘だそんなの!」
大久保は口角泡を飛ばして、食ってかかった。
「なんだ君は!・・・誰がどこで働こうが自由じゃないか。職業選択の自由は憲法で保障されてるぞ!」
井上が開き直った。
そりゃそうですけど・・・と、大久保はぐうの音も出なかった。
「細かいことを気にするなよ。世の中そう単純ではない。で、名前だが・・・」
井上の報告が半ば事務的な様相を呈してきた。
「ちょっと待ってください。僕がいつ頼みました、そんな事」
「じゃあ何か?君は知りたくないのか?彼女の名前を」
「・・・」
「知りたいか、知りたくないのか・・・どっちなんだ?男なら、正直に言ってみろ」
井上が、何故か半分キレかかって詰めてきた。
この『正直に言ってみろ』と言われた時、大久保は竜馬を思い出してしまった。
司馬史観の坂本竜馬は正直に見えて実はそうでもない。時と場合によっては平気で嘘をつく。が、大久保はそう捉えてなかった。竜馬は正直である。と思い込んでいる。
大久保は「知りたいです」と、正直に言った。
言わざるを得なかった。こういう時こそ、男は正直でなければいけない。でなければ、竜馬に顔向けが出来ない。と思った。
井上の顔に笑みが戻り
「高木涼子」と、答えた。
たかぎりょうこ・・・さん。か、いいお名前だ。
大久保は再び柔らかい日差しを感じた。温かい風も感じた。ふわッとした感触が頬を撫でたようだった。一瞬にしてこわばっていた表情が解け、口元が緩んだ。
「いい娘らしいぞ。明るくて、気立てはいいし、優しいんだってよ。うちの女房なんて、とにかく気にいっちゃってな・・・」
大久保が緩んだ瞬間を、井上は逃さなかった。
「井上さんの奥さん、お目が高いから・・・」
大久保も、彼女が褒められれば悪い気はしない。つい、話に乗ってしまった。
「女房はあだ名までつけてな・・・『おりょうさん』なんて呼んでるぞ」
井上がさらに話を盛り上げようとして言った。が、ウソである。
大久保の琴線に触れるだろうと思って、あらかじめ用意していたネタだ。
房江は店でそんなあだ名で呼んではいない。
――おりょうさん?
大久保の表情がまたもや一瞬にしてこわばった。
ちょっと待ってくれ。
おりょうさんとは、坂本竜馬の奥さんだ。日本で初めて新婚旅行をしたオシドリ夫婦としても有名である。幕末の翔んだカップルだ。
大久保は、今度は一瞬にして脳天を勝ち割られた気分になった。
「おい、どうした?」と井上が、様子を伺ってきた。
「無理です。僕には・・・裏切ることになってしまう。坂本先生を・・・もうやめて下さい。やめてくれ~」
大久保は頭を抱えながら、巨体をうならせ、走って交番の外に飛び出していった。
「何を言っているだ君は」
井上も後を追いかけながら、「しまった、裏目に出たか」と漏らした。
*
交番の横には大きな欅の木が生えている。大久保はその木に走り寄って、テッポウを打ちはじめた。ドスコイ、ドスコイという、相撲の稽古でやる奴だ。
交番前の欅は、まだ夏の色を残していた。
樹皮が所々剥がれている。大久保がテッポウを打つ度、ドスン、ドスンと欅は音を立てて響き、古くなった樹皮がボロボロと落ちていった。
大久保のやるせない気持ちが分るだろうか?密かに憧れていた女性がなんと、人生の大師匠である竜馬の奥さんだったのである。いや、実際にはそうではないんだが、大久保はそう捉えてしまった。結構面倒くさい男である。
テッポウ稽古がひとしきり続き、手が止まった。はあはあはあ、と、大久保の息は荒い。
ふと下を見ると、憲法冊子が大久保のポケットから飛び出して落ちていた。
井上はそれを拾った。
パラパラとめくって言った。
「なるほど、これは万国公法って訳か。偉いじゃないか我々警察官は憲法の勉強も欠かしてはならんからな」
竜馬は万国公法という書物を常に懐に入れ、国際法を勉強していた。それを見習って、大久保も、せめて憲法ぐらいは勉強しなければ。と思い、憲法冊子をいつもポケットに忍ばせている。
井上は、裏目に出てしまったことを取り返すべく、懐柔策に入った。
「しかし、本当に竜馬が好きなんだな、君は。えらいもんだ。だが、竜馬、竜馬もいいが。別に、おりょうさんではないぞ彼女は。高木涼子さんだぞ。竜馬の奥さんではない」
大久保がハッと我に返った。この男は単純である。
井上も好きな一冊に『竜馬がゆく』があった。その点で普段から大久保とは話が合う仲ではあった。だからこそ、こう切り出してみた。
「思い出してみろ。竜馬がおりょうさんを、めとった時のあの強引さを・・・」
大久保は顔を上げた。
「そう言えば、竜馬は、働き口に困っていたおりょうさんのために口利きをした。寺田屋という、京都で自分が定宿にしている旅館に。しかも、半ば強引に勤めさせている。それを、おりょうさんが感謝して縁が深くなった。だから、あの二人は結ばれた・・・」
「男とは、物事を成し遂げる時、やはり強引に突き進むべきだろうか?」
井上はあえて聞いた。
「そうか、そうだったのか。竜馬はそれを教えてくれていたんだ」
大久保の顔にある種の決意がみなぎった。
よし、駄目押しするか。
「竜馬はかっこいいなぁ。君も嗚呼いう男になりたいんじゃないのか?」
「その通りです」
「ではどうする?」
「決まっているではないですか。男なら、なにはなくても強引に、攻めるべし」
大久保のこの返事には迷いがなかった。
うん。と、井上は大きく頷いた。
これで第一段階はクリアだ。
しかし、問題はこれからだ。
さて、そろそろ本題に入るかと、井上は静かに語り出した。
「君の決意には感服した。坂本竜馬もさぞ、草葉の陰で見守っているだろう。が、今回少なからず問題が発覚した・・・彼女には二人の子供がいる。所謂、こぶつきだ」
瞬間、大久保の視界が白く飛んだようだ。電源が落ちた如く無表情になった。わからんでもない。お先真っ暗とはこの事だろう。
ところが、何故か笑い出した。
「ふふふふふふふ・・・」
「どうした?」
「こんな可笑しなことがありますか。ははは。バカだな。バカだな僕は。あんな綺麗な人が独身の筈がないじゃないですか。そりゃ、よぎりましたヨ。そういうことも。でも、怖くて、考えないようにしていたんですよ。どうやら僕は。あははははははは・・・」
大久保のそれが、段々と高笑いに変わってきた。
欅の木に背中を持たれ、天を仰いで、辺りかまわず笑った。
まあ、そういう反応になるのも仕方がないか。
と井上は思い、次の一撃を放った。
「続きがある。旦那さんは一年前に亡くなったそうだ。理由は分からん」
大久保の笑いがピタリと止まった。
「そうですか・・・」
と言って、すぐに、視線を落とした。暫く動かなくなった。
井上も動かなかった。
なにかを待っているが如く、暫く時間が過ぎるのを待って、口を開いた。
「どっちだった?」
大久保に問い掛けた。
「何がですが?」
「自分の気持ちだよ」
大久保はドキッとしたようだ。
井上は見透かしていた。答えはわかっていたが聞いた。
「旦那をなくして可哀そう。と思ったのか・・・旦那がいなくて良かった。と思ったのか・・・どっちだった?」
「可哀そうに決まってるじゃないですか」
大久保は、はっきりと言い放った。
「そうだよな。可哀そうだよな。同情するよな。特に俺達サツカン(警察官)は事件の陰で苦労に苦労を重ねた女を、嫌って云うほど見てきたもんな。裏切られて裏切って、泣いて泣いて泣かされて。なんで女ってあんなに不幸なんだろうな?世の中不条理だよな。いろんな事件で、さんざん泣いている女を見てきた俺達は、唯々、同情することしか出来なかったよな・・・今回もそうだったか。いや、良かったじゃないか。はっきりして」
井上の言葉には含みがあった。
「違いますよ!」
「なにが?」
「彼女は違います。事件とは関係ない」
「分からんぞ」
「旦那さんは病気か何かで」
「いや、分からんのだよ。ホントに・・・うちの女房がいくら聞いてもお茶を濁されるだけだそうだ・・・俺達が過去に見てきた女と同様、事件に巻き込まれた不幸な女かもしれんのだ。可愛そうにな、俺も同じく同情するよ」
「なんで言い切れるんですか。彼女はそんな可哀そうな人じゃない!」
大久保が食って掛かってきた。
すかさず、目の前に手をかざした。
「待て待て、君がいったんだぞ。可愛そうな人だと」
「あ、あれは・・・」大久保が口籠った。
「おい、どうした?煮え切らんなあ、態度が」
今度は、井上が眉をしかめる。
大久保は黙り込んでしまった。
いつの間にか太陽が雲に包まれ、柔らかな日差しは途絶えていた。
大久保の足下で、風が小さく渦を巻いて、枯れ葉を舞いあげた。
もういいだろう。そろそろ仕上げに入るか。
「ハッキリしてる事は、彼女は今、女手一つで小学生の子供を二人育てている。てことだ。昼は弁当屋で働き、夜はなんと、スナックで働いているそうだ。水商売だよ。」
――えっ。
大久保の驚きは隠せない。
「君は彼女の夜の顔を知らんだろ・・・俺も知らんがな、大体想像はつくよな。どこぞのスケベ親父があの透き通るよな白い手を握り締め、こねくりまわしているに決まっているぞ。隣りに座ったハゲ親父なんかは、調子に乗りやがってな、彼女の膝を撫でまわしてくるんだよ。まるで、八の字でも描くようにだ。それを彼女はグッと耐え、身の毛もよだつような思いを払い除け、ただひたすら、水割りを作るしかないんだよ」
立て板に水のごとくまくし立てた。
大久保は思わず、欅の木を両手で鷲掴みにして、力を込めた。
欅の樹皮にヒビが走った。ミシミシミシっと音がした。
さらにたたみかける。
「何故だか分かるか。何故だか分かるか・・・子供が二人いるんだよ。五年生の男の子と二年生の女の子だ。男の子は食うぞ。五年生は食い盛りだぞ。いや、二年生の女の子だってバカに出来ねえぞ。女の子だって食う時は食うよ。カレーにハンバーグにスパゲッチーだよ・・・金が掛かるんだよ。金が!・・・四の五の言ってらんねえんだよ。ガキ食わせる為にはな、ハゲ親父にだってケツ振るぞ!」
大久保の耳元までせまって、煽った。
「ぐお、ぐお、ぐお~~~~~~~」
と叫び、大久保のテッポウが激しさを増して欅を突き上げる。
樹皮が剥がれて四方八方に飛び散った。
通りがかった近所の人達が、お、今日の稽古は気合が這入ってるなあ。と足を止めた。
散歩中の犬も止まった。
井上、まだまだ追い詰める。
「覚悟が違うよ、覚悟が。生きる覚悟が違うんだよ、テメエとは・・・お前にあの女を幸せにする覚悟はあるのか?えっ?あの一家を食わせていく器量があるのかよ。ましてや、『結婚して下さい』なんてどの面下げて言えるんだよ。この安月給があああ!」
絶叫した。
どりゃあ!どりゃあ!どりゃあ!
と、頭突きを連打した。大久保のそれは条件反射だった。
額が割れて血が噴き出す。顔中を真っ赤に染め、それでも構わず、欅に向かって、連打連打連打。ガチン。ガチン。ガチン。と、鈍い音が辺りに響いた。
犬も一緒に吠え出した。「ワンワンワンワンワン!」
井上がダメ押しとばかりに言い放つ。
「これが、うちの女房が働いてまで仕入れてきた、現実だよ・・・さあ、どうする?大久保君・・・いや、坂本竜馬君。君はこの現実を目の当たりにして、どう向き合う?どこに向かう?・・・いろは丸の舵をどっちに切るんだ!」
「おりょうさーん!」
と絶叫しながら、大久保は、弁当屋に向かって一目散に走り出した。
いろは丸とは、坂本竜馬が海援隊を組織し海運業を営む際に借り受けた船である。
走り出した大久保の背中を見つめて、井上は携帯を取り出した。
「こっちの首尾は上々だ。あとはたのむぞ」
弁当屋にいる房江が、携帯を耳にあてて答えた。
「ごくろうさま」
* * *
大久保は、額からほとばしる血を、拭って拭って拭って、走って走って走った。
脱兎のごとく弁当屋に駆け込んで、涼子の手を握り、血まみれのまま、いきなり叫んだ。
――結婚して下さいいい!
大久保は、傍にいる房江と目が合った。涼子の手を握りしめたまま言った。
「奥さん。話は聞いてます。ここで働きだしたと」
房江は、うん。と頷いた。
「きっと来ると思っていたよ。ジャガーの眼!」
「はいっ! ジャガイモの芽です僕なんかは。 お願いがあります。この人(涼子)は僕の大事な人です。何分これからも、宜しくお願いします」
「あんた、男になったね。ところで、ご注文は?」
と聞いた。
「のり弁、大盛り!」と即答。
「出来てるよ!」
ドンっと、三人前はある、超大盛のり弁を房江がカウンターに置いた。
大久保は、涼子に向き直って、
「おりょうさん、返事は今すぐでなくて結構・・・十年でも二十年でも百万年でも待ってます。安月給で待ってます。それでは!」
と言って、涼子の手を放し、カウンターの超大盛のり弁を掴んで、房江に聞いた。
「これいくら?」
「おごりだよ」
「ごっつぁんです!」
と叫んで、大久保はきびすを返して全速力で走って行ってしまった。
涼子は、唯々、呆気にとられるだけだった。
チンっと、レジを開けた房江。自分のがま口から一万円札を取り出し、レジの中に放り投げた。大久保に渡した超大盛のり弁の代金だが、自腹で払う。しかし、一万円は多すぎる。
「つりは要らないよ、祝儀だ!」
ガチャーン。とレジを閉めた。
「店長、私はこの店やめるよ」
といい、エプロンを外して上に放り投げた。
店の奥から店長が顔を出し「え、どうしてですか?」と、聞いた。
「お役御免だからさ」
房江が見得を切ると、バサッと店長の顔にエプロンが落ちてきた。
第11話 終




