96 母さん産んでくれてありがとうなどという、毒親持ちには一生言う機会はないだろうと思っていたセリフを言う日が来るとは思わなかった
あの日、俺と梓が紙一重で餓死の危機から救われた日、俺は、今俺が立っている場所に転がっていた。
垂れ流しの糞尿と何かが腐敗した臭気が充満していたあの集合住宅のリビングに俺は立っていた。
梓は、俺の直ぐ側に転がっていたはずだったが、死にかけてたからな。記憶は若干曖昧だ。
だが、ここは、紛れもなく俺と梓が、生死の境を彷徨っていたあのアパートだった。
「ん? 随分片付いてる、な」
俺は、妙に小綺麗に片付いているその室内に違和感を覚える。
俺と梓が居た頃のこの部屋は、山のように積み重なったランドセルのような匂いがするなにかの空き箱と、コンビニのレジ袋、そして、俺たち兄妹が飢えを凌ぐために舐り尽くしてキレイになったコンビニ弁当の空殻やスナック菓子の空袋で室内が埋め尽くされていたはずだったが、妙に小綺麗に片付いていた。
「あ……」
聞き覚えがある女の声に俺は振り返る。
「……ッ!」
俺の網膜に映ったのは、仏壇からこちらに振り返った中年の女だった。
締め切ったカーテンの隙間から差す西日に、痩せこけ落ち窪んだ瞳の相貌を薄っすらとオレンジ色に染めたオバサンだった。
「……あ、あ、ぅああぁ……」
俺が見ても地味だと感じるブラウスとスカートを神経質に纏い、狂気さえ孕んだ瞳で俺を見つめるオバサンのことを俺は知っている。
この女のことを俺は知っている。
「……うあぁ……、あ、あ、あなた……、うそ…わたし…夢みてる?」
隈どられた瞳を爛々と輝かせ、女がにじり寄ってくる。
何故、コトここに至って、こんなヤツに会わなきゃならないんだ?
「あなた……もしかして……」
や、ヤメロ! 俺に話しかけるな! その悍ましい声で俺の鼓膜を揺らすな!
せっかく盛り上げた戦意が崩壊する!
「……辰哉?」
やめろ、思い出したくない。俺は、あの頃のことを思い出したくない! あの空腹に苛まれ、糞尿を垂れ流していた、俺と梓の姿を思い出したくないんだ!
(ぼくにあのころのことをおもいださせないで! おかあさんのおかおは、おなかがすいてさむくて、うごけなくなかったぼくとあずさのことをおもいだすから!)
「大きくなってるけど……わかる……。あなた、辰哉でしょ? 竜洞辰哉……よねぇ……」
“女親”がヨロヨロと立ち上がり、歩み寄ってきて俺の正面に立った。
「こ、これ、夢なのよ……ねぇ? ……ッ! ふぐッ! ……ッううううッ!」
そして、両手で自分の口をふさぎ、いきなり大粒の涙をこぼし始めた。
「ぅあぁ……ああ……うれしい……、夢でもうれしい……死んだ息子が成長した姿を見られるなんてぇ……」
首を傾げた中年女がボタボタと涙を床に滴らせる。
(死んだ息子……だと?)
ああ、そうか。元の世界では俺は生まれてすぐ死んでる設定だった。
見たところ、このオバサン俺と梓をほっぽらかしていた頃よりも随分老けている感じだ。
なるほど、生まれてすぐ死んだ俺が、今の俺に育つくらいの時間が経っているってことか。
「……ッ、ぅあああああああああッ! ああああああああああッ!」
呆然としていると、いきなり女が声をあげて泣き出した。
あられもなく大声で泣き始めたのだった。
こんな女親の姿なんぞついぞ見たこともない俺は少々狼狽える。
「ごめんね。ごめんねぇ……! 丈夫に産んであげられなくてごめんねぇぇ……」
俺は、女の言っていることが理解できず、すがりついてくる女を振り払うこともできずに棒立ちしていた。
「産んだのよ。ちゃんと産んだのよ。でも、あなたは声をあげてくれなかったの。息はあったんだけどね、ダメだったの。一日も持たなかった。死産と同じ……。私が不甲斐ないばっかりに……私がダメな母親だったから……せっかく授かったあなたを、産まれてすぐに死なせてしまった……のぉ……うッううううッ……」
そうだあのとき俺は、神様に言ったのだった。
『いっそのこと、俺が生まれなかったことにしてもらった方がいいかもしれないですね』
と。
『いやあ、流石に生まれなかったことにはできないけど、生まれてすぐに死んだことにでもしておこうか』
たしか、神様は、そう提案してきたのだった。
そうか!
目の前にいるこの女親は、俺が神様に頼んで生まれてすぐに死んだ設定に変えてもらった世界の、俺の母親なんだ。
(ああ……そういや、梓に『どちら様ですか?』って言われたっけ)
俺がそう願い、改変した元の世界の梓に会いに行って、俺のことを欠片も覚えていない梓に少なからずショックを受けたことを思い出す。
あれは、神様が元の世界の梓についての俺との契約を履行した結果を見せてくれたときのことだったっけ。
つまり、あの梓が俺のことを知らなかったったことは、あの梓は俺と一度も会ったことがなかったってことだ。
そりゃそうだ、梓が生まれるずっと以前に俺は死んでいたわけだからな。
「ごめんなさいね。ごめんなさいね。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ……!」
むせび泣きながら、女は床に跪いた。
「うううううっ、ごめんねぇ……まともに産んであげられなくてぇ……! 私がダメだったせいで、あなたの人生奪っちゃったぁ……うううっ、許してぇぇ……」
いや、違うんだ。俺がそうしてくれって神様に頼んだんだから、あんたは悪くない。
俺はただ、梓が……。
事故で俺が死んだことでショックを受けさせたくなかったから……。
いっそのこと、最初から俺がいなかったことになれば、誰も傷つかずに済むと思って……。
梓を泣かせたくなかった。それだけしか考えていなかった。
俺の死で梓が傷つかない世界に元の世界を改変して、それで満足していた。みんな最初から俺を知らない。俺に会っていない。俺は最初から生まれていない。そうすれば誰も傷つかないと思っていた。
(その結果が……これかよ……ひでえぇやつだな、俺は……)
一人の善良な母親から、赤ちゃんを奪った。
俺が、この人の赤ちゃんを殺したんだ。俺が俺を殺したから。
「なん……てこった」
そんな俺のつぶやきに気づきもせず、その女は泣きじゃくっていた。
小さなガキみたいにぺたんと床に座り込んで……な。
「ひっく……ひっく……うわあああぁん! 私の可愛い辰哉! 名前だってちゃんとつけたのに死んじゃった。辰哉ぁ! 辰哉、辰哉ぁぁ……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃ……健康な体にしてあげられなくてごめんなさいぃぃ……うわあああああん!」
そして、俺に向かって手をつき平伏し、床に額を叩きつけた。
「ごめんなさいぃ、……ごめんなさい! ……ダメなママを許してください……うっうっう……、うわああああッ!」
「そ、そんな……ッ」
このとき俺の胸の中には、何やら変なモヤモヤが湧いていた。
得体の知れない感情に、俺は叫び出したくなるのを必死でこらえていた。
一体何なんだこの気持は!
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃッ! ぅあああああッ!」
元の世界でさんざ俺と梓を苦しめた女が土下座している。
親とは名ばかりの非道な女が、俺に向かってごめんなさいって謝っている。
理想の展開じゃないか。
大嫌いだった親が惨めに泣いて土下座している姿は実に滑稽じゃないか。
ずっとこの女にこんな風に謝らせたかったんじゃないか。
それなのに、どうして俺はいまこんな気持ちになっている?
滂沱し、床に額を擦り付けて謝罪している親を笑ってやればいいじゃないか。
(くそッ! 泣きたいのは俺だよ)
なのに、どうして俺は泣きそうな気持ちになってるんだよ?
ああ、俺は気がついていなかったんだ。
世界が変われば、当然人間だって全くおんなじなものじゃなくなるって、な。
俺と竜洞生徒が違うように。
前の世界の美洲丸と、今の世界の美洲丸が別人であるように。
梓や小桃、楓、響に陽が元の俺の世界と別人であるように。
この人は、俺を苦しめたあの女と同じだけど違うんだ。
俺が自分勝手に自分のことを殺してしまったから、何の罪もないこの人の希望を、俺が奪った。
この人の幸せになるはずだった人生を、俺がぶち壊した。
梓を幸せにしたいと俺が思って神様に頼んだことが、こういう結果になってしまった。
誰かが幸せになれば、誰かがその影響で不幸になるっていうことなのか。
今、俺が巻き込まれてる戦争もそういうことなんだろう。
俺が自分と周囲の人間たちを護るために戦い勝利すれば、敵は不幸になるってことだよな。
(けどな、だからって、こっちが負けて不幸になるってのはごめんだ)
俺は俺や梓やみんなの幸せを守りたい。だから襲ってくる敵と戦う。
俺が戦って勝つことで、相手は不幸になるだろうがな。
勝つってことは、そういうことなんだ。負けるってことはそういうことなんだ。
(よくわかった。理解した)
なら、俺は、その罪を全部背負ってやる。
何もかも背負い込んでやる。
俺は梓や、小桃や楓、響に陽、そこに、美洲丸も入れてやろう。みんなの笑顔を護るためなら、みんなの幸せのためなら、それを奪おうとする奴らを殲滅してやる! 鏖殺してやる!
そうして俺は大きく息を吸い込んで、泣きじゃくる母親に向き合った。
「あ、あのさ……。今、ここにいる俺は、この世界じゃ死んじまったけど、異世界に転生したようなもんだから、今は幸せだよ」
パラレルだけど似たようなもんだ。
「イセカイ……って何?」
「え、ええと……本屋に行けば、そういう小説とか漫画がいっぱい売ってるから! ラノベってやつだ」
「死んだ子が生まれ変わって幸せになる世界があるの?」
「そうそう! それ! トラックやら、トラクターやら暴走車に跳ねられたりして死んだやつが、その後はめちゃくちゃ幸せに暮らせる世界」
「天国ってこと? 辰哉、天国にいるの?」
あながち間違いではない。
「いや、まあ、似たようなもんか。そう、俺は異世界ですげえ幸せに暮らしてるからさ。安心しろよ。むしろ、死んでラッキーってなくらいだよ。こっちでは俺、王子様みたいな暮らししてるんだからなっ」
「そうなの? 王子様? あはは……あはははは、そうなんだ! 辰哉、幸せなんだね……」
「おう。こーんなに分厚いビフテキ食って、栄養たっぷりとって健康そのものだ」
片目を閉じ、指で厚さを表現する。
「よかった……。ありがたいねぇ、夢で神様がわたしにそれを伝えてくれてるんだね」
「そうだよ。だから、か……か、か、母さんも……そっちで幸せになれよな」
「そっかあ……。よかった……。よかったぁ……。辰哉が幸せに生きてる別の世界があるんだね……。よかったぁ……」
母親の手を取って立たせてやる。
「辰哉が幸せにしてるなら、私、もう悔やまなくていいのかな」
「ああ。これからは自分のことだけ考えて生きろよ」
母親の姿は近づくように遠ざかってゆく。さっきの『竜洞生徒』と同じように。
「もう、お別れみたいだ……か、母さん」
「ありがとう、辰哉。元気でね」
「母さんも、元気でな。あ、ありがとな……産んでくれて」
俺は戦慄した。たった今俺の口から出た言葉にだ。
「マジカヨ……」
『母さん産んでくれてありがとう』などという毒親持ちには一生言う機会はないだろうと思っていたセリフを言う日が来るとは思わなかった。
「辰哉……あいしてる」
母親が泣きながら、笑った。
このとき俺は気がついた。
何にって?
母さんの笑顔を初めて見たことに、だ。
毎度ご愛読誠にありがとうございます。
並びにブクマご評価もまた、ありがとうございます。
次回より、いよいよ本作佳境に突入であります。




