40 なんだって? 敬礼にはそんなにたくさんの種類があったのか!
「わかった。あと……、俺は体操着を学校に置いていたか、持って帰ってたか、知ってるか?」
「あはははっ。ほぉんと、なぁんにも覚えてないんだなぁ。たぶん体操着は教室の後ろのロッカーに入ってると思うよ。男子はみんな生徒会館のコインランドリーで洗ってるから。辰哉のこと、待雪君たちと一緒にランドリーで見かけたことあるし」
「ありがとう。それから、さっきは本当にごめんな」
「だから、いいってばぁ。今日は、バディ、よろしくね!」
そう言って楓は、ピシッと気をつけをして、右手を眉の前に挙げる、いわゆるお馴染みの敬礼をしてウィンクをした。
「これは、着帽時の敬礼。今は無帽だけど特別。挙手の敬礼ってやつね。お辞儀の敬礼は帽子を被っていないとき。十五度の通常の敬礼と四十五度の最敬礼があるけれど、まあ、最敬礼をやることはほとんどないわ。だから、辰哉はさっき、こっちの敬礼しなきゃいけなかったの」
なんだって? 奥が深すぎだぞ敬礼。そんなに種類があったのか。俺は手をかざすのしか知らなかったぞ。
あ、待てよ。刑事ドラマで、捜査本部での会議のシーンでやってたな、お辞儀の敬礼。
あれって、刑事の専用の敬礼じゃなくて帽子をかぶってないときの敬礼ってやつだったのか!
「そ、そうだったのか。わかった。もっといろいろ教えてくれるか? たぶん知らない……全部忘れちまってるんだ」
「当然ッ! だから早く着替えて集合だよ!」
「おう!」
俺たちはそれぞれの教室に向かって駆け出す。
「あ、辰哉!」
楓が立ち止まり、バレエのターンみたいにくるんと振り向いた。
「うおっ! な、なんだ? どうした、楓っ……! っと、と、と!」
俺は勢いを殺しきれずにたたらを踏む。
危うく転びそうになった俺を、楓がフワリと受け止めた。
ちゅっ!
楓の唇が、俺の右頬に触れ、小さな吸引音を立てた。
「な、な、かえ……」
顔がかっと熱くなる。
それは、また、楓も一緒だった。
「えへへへへぇ。さっきは、ありがとう。今のじゃ、お礼にならない……かなぁ?」
上目遣いに俺を見つめて身を捩り、楓がはにかむ。
「え? ありがとうって? 俺、お礼言われるようなことしたか?」
「あたしのためにあんなに怒ってくれて……うれしかった!」
「え? そんなこと? い、いや、俺のヘマが原因だし。十分すぎ……ってか、むしろ俺の方が、ものすごくお得だと思うぞ」
「あはははっ! 辰哉、記憶喪失になって、なんか、優しくなった。それにさっき怒ってくれたとき、すっげーかっこよかった」
思いもかけない楓の言動……元の世界の楓では考えられない積極性と、その行為の突発性に俺は思考停止に陥りそうになる。
不意打ちとはいえキスをされてしまうなんて……ホッペだが……いや、転びかけのときだったから、ひょっとしたら唇を狙っての行為だったかもしれない! ……くはぁっ!
「早く記憶取り戻してもらいたいけど。これはこれで……なぁんて……あははははぁ! ごめん! 変なこと言った!」
楓は再びくるんと回って駆け出す。
「どっちが早く教練場に着くか競争だよっ! あ、そうだ」
「こ、今度は何だ?」
裏返りそうななった声を、何とか落ち着かせる。
「体操服と一緒に、迷彩の帽子が入ってるはずだから、それも忘れないように! あはははっ!」
楓の明るい笑い声が、まだ誰も居ない廊下に響き渡ったのだった。
※※※※※
「隊長! あれはないんじゃないっすか?」
辰哉を学校へと送り出した竜洞邸のエントランスホールで、辰哉付きのメイド、伊香鎚慶が辰哉に対して使っていた言葉遣いとはかけ離れた、体育会系丸出しの口調で鳳翔絢に抗議していた。
「ん~~? 何のことかぁなあぁ?」
隊長と呼ばれた竜洞家家令、鳳翔絢がすっとぼけた調子で応える。
「略帽のことデスネ」
同じく辰哉付きのメイド、掛布瑠弩美が続いた。
「そうですよ、隊長! あれ、幼年学校の生徒がやったら絶対、罰直くらいますって!」
辰哉を駅まで送って帰ってきた印南須磨が、通用口からエントランスホールに戻ってきて怒鳴った。
「そうっすよ。あんなの、古参の一等兵曹以上ならともかく、生徒が教官の前なんかでやったら嗤われて罵倒された挙げ句、罰直っすよ。そうっすね、10回腕立て10往復くらいっすね長門大尉なら」
「陸軍ではぁ、反省と呼称するんじゃぁなかったかなぁ? ちぃなみにぃ、今は予備大尉だねぇ延は」
絢がのんびりとした口調で応える。
「ワザとですね!」
「ワザとっすか?」
「ワザとデスカ!」
三人の辰哉付きメイドは一斉に家令を非難する。
「暁を密かに付けてるし、延はね人にモノを教えるのが上手なんだ。延のおかげで防大のアタシらの同期は落第者ナシだったんだよぉ。この記録は未だに破られてないんだねぇ」
「「「やっぱりワザとだ!」」」
「坊ちゃまには、当初予定していたスケジュールよりも極短期間で一人前になってもらわなくてはなくなったのさぁ。少しは無茶しないとぉ……ねぇ」
絢は玄関ホールから上の階へと続く階段の踊り場に掲げられた、肖像画を目を細め見上げた。
その肖像画に描かれている、色とりどりの勲章に飾られたカーキ色の軍服の男性は、全てを包み込むような優しい微笑を浮かべている。
「あなたをも……」
「お坊ちゃまがご帰宅なさったら、まず、お風呂とマッサージだよ! きっと筋肉痛がすごいことになるはずだからね!」
「「了!」」
「じゃあ、とっとと、お部屋のお掃除から始めようか!」
「「了!」」
辰哉付きのメイドたちの声にかき消され、絢が何をつぶやいたのか聞き取ったものは居なかった。
ただ一人を除いて。
「あーや。あの兄様は大丈夫。間違いない。間違えない」
絢のつぶやきに、一昨日この屋敷に拾われてきた、超高級ハンドメイドアンドロイドが応えた。
「はい、お嬢様。絢も確信しておりますとも。さあ、お部屋に参りましょう。メンテパウダーを差し上げます」
死病で夭折したこの屋敷の令嬢を模ったセクサロイドに、絢は手を差し出す。
「うん、ありがとう、あーや」
セクサロイドは当たり前のように家令の手を取った。
何も知らない人間が見たら、それは、本当の令嬢と召使のようだった。
二人は、竜洞家先代当主の肖像が見下ろす階段をしずしずと上っていった。
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