35 鼻血が出たときに上を向いて首トントンは間違いだ
俺の鼻の穴から、熱く暗い赤い色をした体液がバタバタと滴っていた。
慌てて、上を向く。
「兄様それは間違い」
ロボ梓は肘掛に手をついて、体操選手のように腕だけで体を持ち上げ、するりと俺を拘束していた脚をほどいて抜き取り、床に降りる。
そして俺の横にしゃがんで鼻をつまみ、下を向かせた。
ロボ梓の指でつままれた小鼻の部分がひんやりと心地いい。
「大丈夫、すぐに止まる」
笑顔で励ましながら俺の手を取り、ロボ梓の手と交代に小鼻をつまませる。
そして机の上のベルを鳴らす。メイドさんたちを呼ぶアレだ。
「お坊ちゃま、お嬢様。御用をお申し付けでしょうか?」
ノックと同時に入ってきたのは、印南さんと伊香鎚さん。続いて、ロボ梓の世話を志願した三人のメイドさんたちだった。
「兄様が鼻血。応急処置はした」
伊香鎚さんが俺に近寄り、跪いて俺を見上げる。
そして、にっこりと笑う。
「大丈夫ですよ、お坊ちゃま。いつものですね。お坊ちゃまは以前から鼻血が出やすい体質でしたから」
そして立ち上がると、印南さんの方を向いた。
「印南!」
「了!」
印南さんはえらい勢いで出て行った。
「お嬢様、さすがでございます。的確な応急処置でございます」
「兄様の鼻血には慣れている。いつだって梓が一番に手当てしていた」
そうか、『竜洞生徒』は鼻血が出やすい体質だったのか。俺は鼻血を出しやすい体質じゃなかったからかなりびっくりした。メイドの皆さんの様子だと、特に持病があるみたいな様子じゃないから単なる体質か……、気をつけよう。
(……ん?)
ロボ梓、今、お前なんて言った?
ずっと昔から、『竜洞生徒の鼻血の手当てをしてた』みたいなこと言ったか?
お前がこのお屋敷に来たのは昨日の夕方だったよな? 俺は、また知らないうちにパラレルワールドを転移させられたのか?
「あふふぁ……おふぁへ……」
ロボ梓に話しかけようとしたそのとき、
「戻りました!」
印南さんが、トレイにステンレス製の小さなバケツと洗面器、タオルを持って戻って来た。
洗面器には氷水が満たされていた。
「慶さん!」
「サンキュ印南!」
慶さんと呼ばれた、伊香鎚さんがトレイを受け取り、タオルを氷水で濡らし、氷を包んで俺の鼻を覆い圧迫した。
ロボ梓は俺にぴったりと寄り添い、微笑んでいる。いつの間にか胸は元のサイズに戻っていた。
「お坊ちゃま、ちょっと辛いかも知れませんが我慢ですよ」
「ふが」
右手を上げ、親指を立てる。
慶さんはくすりと笑い、氷を包んだタオルで俺の鼻をつまむ手にじんわりと力をこめた。
「こちらに奉職して、初めて実施したお坊ちゃまのお世話がこれでした」
おいおい『竜洞生徒』! 貴様のキーゼルバッハ部位はどんだけ脆弱なんだよ。
どうりで太刀浦の知恵の片鱗を垣間見ただけで、ごちそうさまになっていたわけだ。
うう、冷たいのがだんだん辛くなって来た。シモヤケになっちまいそうだ。
そんな風に感じ始めたころ、印南さんの声が時間の経過を告げた。
「慶さん三分です」
「了」
伊香鎚さんがそおっとタオルを外す。
血は出てこない。もう大丈夫なようだ。
「お坊ちゃま、しばらくは、鼻をかんだりはナシですよ」
ウィンクをする慶さんに頷く。
「ありがとう。みなさん。助かりました。ありがとう梓。じつは、パニクリかけてた」
ロボ梓はクスリと微笑んだ。
「さてと、小林、ちょーっとお話があるんだけど」
立ち上がった伊香鎚さんが、梓付きのメイドさんの一人に向き直った。
「な、なんのことかな伊香鎚」
「お嬢様、小林をお借りしてもよろしいでしょうか」
何か始まるのか? 雰囲気的には部活の先輩の説教っぽいが……。
「慶、若葉たちは悪くない。梓は任務を全うしようとした。若葉たちはそれを手伝った」
伊香鎚慶さんは大きく溜息をついた。
「お嬢様……。お嬢様のお務めは理解いたしております。ですが……」
そうだよね、うん、そうだ。伊香鎚さん言ってやって。このエロボットに。俺がロボとはいえ、妹相手にそんなことできるわけないでしょって!
「お坊ちゃまは、昨日、事故に遭われて、頭を打っているのです。できれば、一両日は安静にされていた方がよいと思われますので、お務めはほどほどにしてくださいませ」
梓に向かってにっこりと微笑んだ。
え? そっち? 倫理方面じゃなくて、体調の心配方面?
じゃあ、ロボ梓が俺と……以下略、ってのはオーケーなのかよ!?
「あと、お召しのベビードール、とってもキュートですわ。伊香鎚慶、眼福でございます」
ロボ梓はまるで人間のように、身を捩ってはにかむ。すげーな『極東人工少女廠』すげーAI技術力だ。本物の人間と区別つかないぞ。
「ありがとう、慶。兄様に喜んでもらおうと、若葉たちと一生懸命選んだ。でも、兄様……残念」
な、なんか俺が悪者のような雰囲気になってきたぞ。
肝心なところで役に立たないだめなヤツを見るような視線が突き刺さってるぞ。
よ、よし、ここは多少強引にでも話を変えるしかない。
「あ、あのう、今、何時でしょうか」
印南さんが小さく吹き出した。成功だ。……たぶん。
伊香鎚さんがコホンと小さく咳払いして懐中時計を取り出す。
四時くらいなら助かるな。七時に職員室に行かなきゃならないから、乗る電車は六時十一分のやつだ。と、なると、五時起きだからな。四時くらいだったらもう一寝入りできる。
「ふたひとふたさんですわ」
ふたひと……って、まだ、午後九時かよ。
ロボ梓がおはようって言うから、てっきり夜明けちょい前くらいだと思っていた。
「何か、お飲み物でもお持ちいたしましょうか?」
伊香鎚さんが微笑みながら問いかけてくる。
ここで、自分で取りに行くって言うのは失礼なんだろうな。
「じゃあ、スポーツドリンク的なものがあれば、お願いします」
「かしこまりました」
印南さんがえらい勢いで飛び出していった。
「では、私どもはこれで……」
小林さんたちが腰を折って踵を返す。
「あの……」
小林さんたちを呼び止めてしまった。
「はい、御用でございましょうか」
「いえ、その……、ありがとうございます。梓のこと、これからもよろしくお願いできますか?」
小林さんはポッと頬を染め、深く腰を折った。
「こちらこそ。再びお嬢様にお仕えする機会を与えていただきまして、感謝の極みでございます」
そう言って、梓付きのメイドさんたちは、しずしずと部屋から出て行った。
きっと、近くに待機室があって、ベルが聞こえたら、急行する仕組みなんだろうな。
「兄様、梓も自室に戻る。御用のときは呼んで。いつでも梓は兄様の側にさもらう」
ロボ梓は上目遣いに俺を見る。
ついと背を向け、肩越しに俺を振り返る。その表情が、『俺の梓』が買ったばかりのチョコレート味のソフトクリームを落っことしてしまったときの顔に重なる。
年に何回も食べられるものじゃなかったからな。
それはそれは本当に悲しそうな顔をしていたっけ。
まあ、そのときは、俺の黒ゴマ味ソフトクリームを代わりに差し出し、一緒に食べることで慰めることができた。
黒ゴマ味のソフトクリームの色にびびった梓が『お兄ちゃんこれ、腐ってない?』と、しきりに聞いてきたっけ。
「ふう……」
わかっている。これは、罠だ。俺の側にいるために淋しそうにしているだけだ。
それもきっと、オーナーの庇護欲を掻き立て萌えさせるための手管でありプログラムであることはまちがいないだろう。
まったくすごいAI技術だ。
『男には負けるとわかっていても戦わなくてはいけないときがある。罠だとわかっていても突っ込まなければならないときがある。いやむしろ罠にかかりたいときがある』
上級者のための格言として太刀浦が教えてくれた言葉が脳裏をよぎる。
「梓……」
「なに?」
「普通のパジャマはないのか?」
「クマさんのアップリケがついたものなら……」
「着替えておいで、ただし、任務は遂行しなくていいからな」
「了解した。梓は兄様の抱き枕を志願する」
抱き枕って……。
ロボ梓が小走りで出て行った。心なしか浮かれているような感じだ。いや、さすがにロボの顔色までは窺えないけどな。
(ん?)
部屋から出て行くロボ梓を見送る伊香鎚さんの顔に、俺は違和感を感じる。
「お譲様ったら…、ほんとうにうれしそう」
伊香鎚さんの小さなつぶやきを俺は聞き逃さなかった。
それって、人間に対する感情だよな?
なにか根本的に間違っているような気がするが……、まあ、仕方ないのかもしれない…か。
幼い娘を失ったショックを紛らわせるために、何十万円もする人形を買って一緒に暮らしている夫婦とかの話をネットのブログかなんかで読んだことがある。
ここの家の梓は亡くなってからまだ、一年かそこらみたいのようだ。
そこに、瓜二つの容姿で声も話し方も、全くそっくりなのが現れたら、たとえそれがアンドロイドだとわかっていても、多少錯覚するくらいはあるだろう。いや、敢えて錯覚したいのかもしれない。
ここの家の梓が生きていたころの生活を、再現したくなるのかもしれない。
おそらくそれは、梓付きのメイド小林さんたちが始めたんだろう。
それがあっという間に、メイドさんたち全員に感染した。
あーやさんこと鳳翔さん(推測)も、ロボ梓を連れてきたときは物扱いしてたのに、初期設定のときには既にお嬢様って言ってたもんな。
毎度ご愛読誠にありがとうございます。




