29 実食! ビフテキなる伝説の食べ物
「あ、頭を上げてください。立ってください。俺は、逆にお礼を言いたいくらいなんですから」
これは、偽らざる俺の本音だ。
この人が、極東人工少女廠を立ち上げようと試作機を造らなければ、ロボとはいえ、もう二度と梓に会うことはできなかっただろう。
「もういいですから」
陸奥さんの手を取る。ひんやりとしているが、柔らかな気持ちのいい手だった。
「ありがとうございます」
陸奥さんは立ち上がり力なく微笑んだ。
お化粧でごまかしてはいるが、よく見ると、目の下の隈がすごいことになっている。
睡眠時間をものすごく削って、よっぽどの重労働を続けないとこんな顔にはならない。
俺が世話になっていた施設のスタッフに、何の事情があるのかは知らないが、毎日のように昼夜ぶっ続けで勤務してる人がいて、こんな顔をしていた。
結局、過労でぶっ倒れたけどな。
「そ、そうだ、お茶でもいかがですか? たしか、おいしいものをさしあげられるはず……」
鳳翔さんはまだ固まっている。再起動までどれくらいかかるか見当もつかない。
いったいどうしたっていうんだ?
「はい、坊ちゃま。陸奥ちゅ……様にはお茶よりも、コーヒーの方がよろしいかと」
暁さんが、進み出て応えてくれる。助かった。
「そ、そうですね、じゃあ、俺が昨日淹れてもらったものは……」
「はい、直ぐにご用意できます」
「ああ、そうだ、瑠弩美さん、今朝の……」
「かしこまりました。ご用意いたします」
俺は陸奥さんの手を握ったまま、昨日、鈴縫響と会った応接室に足を向ける。
「暁さん……」
「はい、坊ちゃま、鈴蘭の間に陸奥ちゅ……様をご案内いたします」
……と、陸奥さんの手を取っている俺の手に、軽い衝撃が伝わった。
陸奥さんが俺の手を振りほどいたのだった。
あ、しまった。俺、ずいぶんと図々しいことしてた。
「も、申し訳ございません。折角のお誘いでございますが、ご遠慮させていただきたいと……。本日は、竜洞卿にお会いできて、本当に光栄でございました。あの子のことをよろしくお願いいたします」
深々とお辞儀をして、陸奥さんは踵を返した。
「あ、あの、まだ、お聞きしたいことが……」
「メンテナンスマニュアル等、全て鳳翔様にお渡ししてございます。不具合が発生いたしましたら、直ちに参ります。では、本日は失礼仕ります」
取り付く島がないとは正にこのことを言うのだろう。
陸奥さんは、玄関に小走り、いつの間にか俺が乗って帰ってきた車と入れ替わっていた車の前に立ち深々と腰を折り乗り込む。
「では!」
車窓からさらに一礼して、陸奥さんは去っていった。
不躾に手を握ったりして、怒らせてしまったか……。
「あ、あんなの初めて見た……天変地異の前触れに違いない……」
鳳翔さんの声が、背後から震えながら物騒なことを呟いていたのだった。
「どうしたんですか? 鳳翔さん」
ばね仕掛けの鼠捕りみたいにビクンと硬直して、鳳翔さんが俺を振り返る。
その顔は、湯気が立ちそうなくらいに真っ赤に染まっていた。
「も、申し訳ありません、家令としてあるまじき失態でありました。ああ、なんたること。面目次第もございません。この鳳翔絢、恥じ入るばかりでございます」
いやいや、何があったかは知らないが、ものすごく驚いたのは理解できる。それが恥だとかいう貴族的な常識は俺にはない。
「どういうことか分かりませんが、よっぽどショックなことがあったんですね。想像できます。だから、どうか、落ち着いてください」
『竜洞生徒』ならもっと気が利いたことを言えるんだろうな。なんつったってお貴族様だからな。
だが、俺は平民で、しかも、最底辺に近いところに昨日までいたやつだ。残念ながら、気の利いたことなんて思いつかない。
「おぼっぢゃば……」
鳳翔さんが涙を目の幅で流している。まいった。こういうの苦手だ。
ぎゅぎゅッ、ぐぎゅるるるるるるぅッ!
グッドタイミングだ俺の腹の虫。
絶妙のタイミングで鳴いてくれた。直ぐになんか食わしてやる。いや、伝説級の食べ物食わせてやる。
「は、そ、そうでした。サーロインをご用意していたのでした。申し訳ありません。た、ただいま……」
くるりと踵を返し、鳳翔さんは屋敷の奥へと駆けて行った。
「坊ちゃま……。私、長く一緒にいますが、家令があのような状態になってしまったのは、全くの初めてのことであります。どうか……」
許すも何もない。
「俺は全く気にしてませんよ。驚きの余り、周りのことが全部見えなくなって茫然自失なんて、まま、あることだと思います」
俺の小三までの人生は茫然自失の連続だったからな。
……と、食欲をそそる匂いが漂ってきた。これは、肉が焼ける匂いだ!
猛烈に腹の虫が大合唱を始めた。
「坊ちゃま、食堂に参りましょう」
暁さんが微笑みながら手招きをする。
「はい」
俺は短く返事をして、直ぐに思い直した。
「暁さん、先にうがい手洗いをしたいのですが……」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、一秒半フリーズした後、暁さんはハタと手を打つ。
「そ、そうでした。坊ちゃまは外出からお帰りになったら、まず、うがいと手洗いでしたね」
「はい、今までしてこなかったことだと思いますが、よいことだと思うので続けたいと思います」
そう言って、俺は洗面所へと向かった。
※※※※※
「ふう……」
昨日飲んだのと同じ味がするコーヒー(アフリカ大陸最高峰と同じ名前のやつだ)を一口啜り、カップをテーブルに置いて、俺はソファーにぐったりと寄りかかった。
テーブルの上には、コーヒーカップの他に、今朝、香取ひとみという女の子からもらったアップルパイがある。
きっちりと十六等分に切り分けてあり、十六分の十五がここにある。
ここは、応接室でもなんでもない『竜洞生徒』の部屋だ。
自室にこんなソファーセットがあるなんて贅沢にもほどがある。落ち着かないことこの上ない。ああ、早く三畳くらいの「俺空間」を設営したい。
「はふぅ……うまかったなはぁ……」
生まれて初めて食べたビフテキは、この世のものとは思えない味と食感だった。
焼いた肉のクセに、ナイフを置いただけでスッと切れてしまう柔らかさとか、噛み締める暇もなく溶けてしまう食感とか。
味自体についてはもう、食べたことがないとしか表現できない。
あっちの世界で『俺の梓』はビフテキを食べられるような生活をしているだろうか。
「ふう……」
俺は再びコーヒーを啜り溜息をつく。
ロボ梓は、充電が済んでいないのか、まだ「お連れ」されていない。
(このコーヒーの味なんか気に入ったな。キリマンジャロだったっけ。憶えておこう)
いままで、インスタントコーヒーしか飲んだことなかった(正確には二回ファミレスドリンクバーで飲んだことはあるがインスタントと大差ない味だった)から、このコーヒーが気に入った。
「大丈夫だったよな……」
右手にナイフで左手にフォーク、ご飯(俺はライスという言い方は嫌いだ)はナイフでフォークの背に載せる。
ファミレスでハンバーグを二回くらい食べたことがあったから、ナイフとフォークの使い方正しかった。……と思う。
ビフテキとご飯(俺はライスという言い方は嫌いだ)、付け合わせがいっぺんに給仕される、ファミレス方式だったのも、ボロを出さずに済んだ要因だ。
「あ!」
そうだ、『竜洞生徒』は金持ちで貴族だった。俺にとって夢物語の中でしかなかったことが日常なんだった。
事実、昨日からこっち、テレビの中でしか見たこともないような体験を日常として押し付けられている。
ってことは、あの、神話にあると聞く料理の式典「ふるこーす」が出されることがあるかもしれない。
いや、おそらくそれは、明日にも起こりうる。
早急に対策を立てなくてはならない。
今晩の食事は昼に食べすぎたといってごまかせるだろうから、明日の朝までに何とかコース料理のマナーをマスターしなくては。
いや、それどころか、朝昼晩と食べ方があったりするかもしれない。
幸い『竜洞生徒』の部屋には、百科事典よりもたくさんの知識が引き出せる便利な箱があるからな。なんとかなるだろう。
もっとも、『竜洞生徒』の細かいクセまでは再現できないだろうから、そこは出たとこ勝負になるけどな。
そんなことを考えながら、アップルパイを一切れつまんで口に放り込む。フォークが添えられていたが、この部屋には現在俺一人しかいない、少々行儀が悪くたっていいだろ?
「うまッ! なんだこれ? うまい」
『竜洞生徒』が、線路への転落から救ったという香取ひとみの手作りのそれは、これもまた、未知の美味だった。なんつったって、俺が食ったことがあるアップルパイは、学校の購買にあった菓子パンだったからな。
匂いは似てても、今俺の口の中でホロホロと崩れていく食べ物はまったく別のものだった。
とくに、熱を通したリンゴとパイ生地の間にあるクリームパンの中のヤツと似た味がするクリームが異次元的にうまい。
この食べ物も幻想級だ。十六等分された塊が次々に俺のブラックホールに飲み込まれていく。
明日学校で会ったら、お礼と賛辞を並べ立てよう。
休み時間か放課後にでも三組だったっけか……に行って、香取ひとみに会おう。
あの塚系にメタモった美洲丸と顔を合わせることになるかもしれない(香取ひとみは美洲丸とクラスメイトのようだ)が、まあいいだろう。
※※※※※
それにしても、とんでもない世界に転移して来てしまったもんだ。
正気の沙汰とは思えない男女比率や、軍国色の強い世情。男をハンティングしようと鵜の目鷹の目の行き遅れ気味のお姉さんたち。俺が元いた世界じゃ、ようやく二足歩行ロボットが市場に流通し始めたばかりだってのに、こっちじゃアダルトな使用目的のアンドロイドまでが当たり前に生活に密着している。
そのうえ、魔法までがこの世界には実装されてるって…………。
しかも、転移先の『俺」は金持ちのお貴族様ときたもんだ。これって、生まれながらのチートだよな。
「まったく、ヒャッハーだな」
(…………………………)
わかっている、これは、借り物だ。いずれ、返さなければいけない。
どういうめぐり合わせか知らないが、こんなところに転移してきてしまって、元に帰る手立てがつかない以上、ここで暮らしていくしかない。
向こうじゃ手放さざるを得なかった梓との生活もこっちにはある。
だが、今ここにある暮らしは『俺』のものじゃない。どういう不幸か俺と入れ替わってしまったであろう『竜洞生徒』のものだ。
高校を卒業したらここを出よう。いや、その前にあの物騒な学校をやめて、なんとか生計を立てられればいいんだが……。
(とにかく、こっちの世界に慣れてからじゃないと動きようがないか……)
こっちの世界に順応して、自活できるようになったら全てを話してここを出よう。そして、それまで世話になった分を働いて必ず返そう。
それくらいの分別も恥も持ち合わせている。残念ながら……な。
そのとき、梓は一緒に来てくれるだろうか?
「ふう……」
先のことを考えて少しだけ落ち込んだ俺の鼓膜を、『ワルキューレの騎行』が揺さぶった。
机の上にある充電器にセットしたスマホが着信音を奏でていたのだった。
画面に表示されている発信元は、信濃小桃。
「小桃? あいつ……大丈夫なのか?」
俺の脳裏につい先刻の、強盗に遭った直後のような様相の小桃の姿が甦ったのだった。
毎度ご愛読誠にありがとうございます。




