舞踏会 2
王宮に足を踏み入れるのは久しぶりだった。
この国で舞踏会や社交界に参加するためには、王宮で王族にお披露目をしなければならない。なのでリディアとエレノアが社交界にデビューした時に、一度だけ訪れたことがある。けれどその後、何回か参加した舞踏会で散々な目にあったため、それ以降一度も舞踏会に参加していない。
本来なら年頃の女性たちは、舞踏会に参加して条件の良い男性を探してアピールする必要がある。しかしリディアの場合は、元々母親を亡くしたショックで引きこもりがちで、さらに娘を心配した父親が甘やかしたこともあり、舞踏会に参加しなくても良かった。しかしフリッツの婚約者として過ごす間は、社交界に参加しないわけにはいかないだろう。
入場すると、フリッツと婚約者のリディアの名前が呼ばれる。それを聞いた人々が一斉にこちらを見るのが分かる。多くの人が好奇の目でこちらを見て何か囁いている。何を言っているかは聞こえないが、ざわざわと嫌な雰囲気は伝わる。そんな状況に緊張してしまい、歩き出そうとしてバランスを崩す。
「大丈夫か?」
隣にいるフリッツがさりげなく支えてくれたおかげで、倒れはしなかったが周りにも慣れていないのは分かったと思う。
「ありがとうございます」
王宮に来るまでの馬車の中で一連の流れをフリッツから教えてもらっているが、それだけではリディアの経験の少なさは隠しきれない。刺繍を間に合わせることに精一杯で、作法のおさらいや練習などをする時間を取れなかったことが悔やまれる。ぎこちないながらも、なんとかホールの中程まで行く。まずは王家へ挨拶をするために、フリッツにエスコートされて奥へと足を進める。緊張のため思わず手に力が入る。
「緊張しなくても大丈夫だ。少しくらい間違っても首は飛ばないから安心しろ」
フリッツに言われて「そうですね」と安心出来るわけはない。緊張を解こうと思ったのかは分からないが、リディアの失態によっては首が飛ぶ可能性もあるのだと気がつき、余計に緊張してしまう。
「そんな言い方じゃあ可哀想だよ」
まだ王家への挨拶も済ませていないのに声を掛けられたことに驚いて振り向く。そこには涼しげで端正な顔立ちをした男性が立っていた。輝くような銀色の髪は腰ほどまであり、ゆるく束ねている。
フリッツが面倒そうに最高礼の挨拶をしているのを見てリディアも慌てて挨拶をする。
「ああ、そういう堅苦しいのはいらないから。ご令嬢とは初めましてかな?」
リディア達の挨拶を手で制すと、ひらひらと手を振りながら近づいてくる。
「ディルク。なぜここにいる?」
フリッツは近づいてくる相手の方へ急いで行き、リディアから少し距離を取る。
「やだなー、怖い顔するなよ。フリッツの婚約者に挨拶したくて、わざわざこっちから来たんだからさ」
「来なくても会えるだろう」
「せっかくだから近くで見たくてさ」
「人の婚約者に近付くな」
「ちゃんと仲良く出来ているみたいで安心したよ」
「……それを確認したかったのか?」
何やらヒソヒソと小声で話しているため、リディアには二人の会話は聞こえない。王家への挨拶もまだなのにどうしようかと困っていると相手と目が合い、リディアの方へとやって来る。そのあとを慌てたフリッツが追いかけて来る。
「初めまして。俺はフリッツの親友でディルクだ」
「初めましてディルク様。フリッツ様の婚約者のリディア=ウィレムスと申します」
「そんなに畏まらなくていいよ。フリッツは不器用だけどいい奴だから仲良くしてくれると嬉しいな」
「はい、フリッツ様にはとても良くしていただいております」
「それなら良かった。何か嫌なことをされたら遠慮なく俺に言ってね。俺が懲らしめてあげるよ」
にこやかに言われ、本気なのか冗談なのか分からない。が、なんとなく本気のような気がする。
「本当に良い方なので、その必要はないと思います」
「だってさ、良かったね」
ディルクは振り向くと楽しそうにフリッツに報告している。
「頼むから、余計なことはしないでくれ」
「そうか? 挨拶しただけなんだけどな。でもまあ、そろそろ行かないとかな」
ディルクはリディアの手を取ると、手の甲に唇を落とす。その洗練された動きに思わず見惚れてしまう。
「……素晴らしい刺繍だな」
思わずといった感じで溢れた言葉がリディアの耳に届く。
「ええ、私もそう思います」
リディアが答えるとディルクは驚いたように目を見開く。その目はしっとりとした深いオレンジ色をしている。すぐに満面の笑みに変わるとスッと手を離される。
「フリッツは上手くやっているじゃないか」
聞こえるか聞こえないかの声で言われ、何事もなかったかのようにさっさと奥へと行ってしまう。
「ディルクは一体何をしに来たんだ」
フリッツには今の言葉は聞こえなかったのだろうか。
リディアの手を取り、今しがた挨拶がわりにキスされた手の甲を柔らかな布で拭いている。
「フリッツ様、今の方は?」
状況がよく飲み込めない。上手くやっているとは一体何のことなのか。ディルクについて知れば何かわかるかも知らないとフリッツに問いかける。
「ん? ディルクか? この国の王太子だ。知らないのか?」
「え? えぇ!?」
リディアは何か不敬な言動や行いをしなかったかと先ほどまでの自分の行動を振り返る。なんだか普通の貴族のように接してしまった気がするけれど大丈夫だろうかと不安になってくる。
「どうしましょう。私、王太子殿下をお名前で呼んでしまいました。他にもなにか不敬を働いてしまったかも知れません」
「気にするな。ディルクがそれで良いと言ったんだから、リディアは悪くない」
いや、それで気にしないと言うのは難しい。そもそもこれから挨拶に行くはずの王太子殿下が、何故ここにいたのだろう。
「ディルクとは昔からの馴染みだから大目に見てくれる。だから心配するな。もしリディアに害が及ぶようなら俺が守るから安心しろ」
「それではフリッツ様に迷惑が掛かってしまいます」
「迷惑ではない。リディアのためなら何だってやるさ」
偽の婚約者のためにそこまでする必要はないと思うけれど、嘘でもその言葉が嬉しくて何も言えなくなる。
「それじゃあまずは王家に挨拶しに行こうか」
差し出された腕に手を絡ませ、二人は婚約者として挨拶へ向かう。