フリッツ1
フリッツは浮かれていたのだ。好きな女性と婚約することが出来て屋敷で共に過ごせることになった。一目惚れだったのだと思う。透き通るようなブロンドの髪に可愛らしい顔立ち。こぼれ落ちそうなほどのまん丸な目は森を思わせるような深い緑色だ。絵の中にいる天使が現実にいるとしたら彼女みたいだろうと思った。初めて見た瞬間に恋に落ちるとはこのことかと、後になって思った。だから婚約が決まり、普段は冷静沈着なフリッツが浮かれてしまうのも仕方がない。
そもそもフリッツは人と関わることがあまり好きではない。辺境の地を守るという口実を盾に自身の領に留まり、社交に顔を出すことは稀だ。たまに王家からお願いされて参加することもあるが、それでも最低限の挨拶のみしたら帰ることにしている。フリッツの数少ない友人である王太子からはもう少し周りに関心を持てと言われるが、興味がないのだから仕方ない。それに貴族特有の取り繕った会話で分かるのは相手のうわべや傲りでは意味がない。フリッツは辺境伯としての義務は行なっているのだから、相手が王太子といえど社交についてとやかく言われる筋合いはないと思っている。そんなわけで普段からあまり社交の場には出ずに辺境の地で代々一族に伝わる土地を護っている。ただ社交界の噂や周辺の動向などは従者や信頼の置ける者に集めさせている。領土を守るのにちょっとした噂が役に立つ時もあるからだ。そうして集まった情報の中にリディア=ウィレムスが婚約者を探しているというものがあった。フリッツはその情報を聞いてすぐ婚約を申し込んだ。彼女と婚約出来るのなら、何だってやれる。苦手な社交も彼女と一緒なら頑張れるし、欲しいものはドレスでも宝石でも何でも贈りたい。そう思っていたからすぐに彼女から婚約の承諾を得た時は信じられなかった。婚約するとしても時間が掛かると思っていたのだ。
婚約は家同士の契約だ。他の家と比べたり、婚約相手を調べたり、より条件の良い相手を待ったりする時間があると思っていた。早すぎる婚約決定にもう少し疑いを持っていれば、今回のような事にはならなかったはずだ。後々詳しく調べてみたところ、リディアの婚約は妹のエレノアと父親のウィレムス伯が独断で決めたらしい。それだけならまだしも、エレノアはリディアの名前でパーティーに参加していたという。そんな訳でフリッツはリディアと婚約したのだが、婚約期間中の約一年の間にどうにかしなければならない。正式な婚約手続きを踏んでいるので破棄をするにしてもそれなりの理由が必要だ。とりあえずきちんとした情報を集めなくてはならないと思い、やむを得ず友人の元を訪れることにした。
「君が婚約したとは驚いたな。人嫌いで有名な、あのフリッツがねぇ。恋は人を盲目にすると言うが本当なんだな」
さして驚いている様子もなく、さらりとうそぶいているのは、この国の王太子であるディルクだ。フリッツは王城内にある王太子専用の執務室のソファに座り、ディルクが机に乗った書類を手に取ってはすぐ確認し、また次の書類を手にするのを見ている。
「このままだと君は一生独身かと心配していたから、婚約出来て良かったよ。これからは社交界にも出て貰えるとありがたいんだけどな」
心配など微塵もしていなさそうな声音だが、後半は本音だろう。辺境の地を守るために周辺の領主との連携を密に行なわせたいのだろう。防壁は一つより幾重にも重ねたほうがより強固になると考えているに違いない。
「難しい相談だな」
分かってはいるが思わず本音が漏れる。腹の探り合い、見栄の張り合いなどはフリッツが苦手とする分野だ。
「そうだろうな。それで今日わざわざ来たのには理由があるんだろう?」
ディルクは相変わらず書類に目を落としたまま問いかけてくる。
「実は、婚約破棄について詳しく知りたいんだが」
「え? もう破棄するのか。婚約したばかりだろう」
婚約破棄と言う言葉によほど驚いたのか、書類に手を伸ばしたままの格好でフリッツのほうへ顔を向ける。今日のディルクは落ち着いた青色の目をしている。その目は探るようにフリッツを見ている。
「……そうなんだが、色々あってだな」
歯切れ悪く話すフリッツの様子に、ディルクは笑みを浮かべる。何か面白いことを見つけた時の顔だ。
「そらならそうと早く言ってくれ。きちんと話そう。なんだか面白いことになってるのか?」
今まで面倒くさそうに対応していたディルクの変わりようにフリッツは思わず苦虫を噛み潰したような顔になる。それを見たディルクはますます楽しそうに笑みを深める。
「それで何があった」
身を乗り出さんばかりのディルクに呆れながらも、フリッツは今回の婚約についての事情を説明する。
「恋は人を盲目にすると言うのは本当なんだな。まさか君が騙されるなんて」
説明を聞いたディルクは先ほどとはうって変わって、本当に驚いた声を出す。ディルクの目は青色からいつもの薄いオレンジ色へと戻っている。王家には代々、姿を変える魔法が伝わっているらしい。それを知っているのはごく一部の限られた者のみだ。
「騙された訳ではない。きちんと確認しなかっただけだ」
「まあ、そうだろうな。なんにせよ焦って婚約すると碌なことにはならないんだな。勉強になって良かったじゃないか」
フリッツは拳を握りしめ、へらへらと笑う王太子に若干の苛立ちを覚えながらも話を続ける。
「それで婚約破棄についてだが」
「それなんだが婚約破棄するにしても、しないにしても、リディア嬢だっけ?婚約者とは仲良くしておけ」
ディルクの言葉にフリッツは目を細める。
「そんな怖い顔すんなって。仲良くなれるように協力するからさ」
「人で楽しんでいるの間違いだろ」
ディルクは口許だけで笑い、肯定も否定もしない。
「婚約者と仲良くしておいて損はないと思うけどな。ウィレムス伯と関係を持てるし、破棄ではなく双方合意の解消にすれば今後も家同士の繋がりを保てる」
「たしかに今後のためにもウィレムス伯とは良好な関係でいたいな」
リディアの父親であるウィレムス伯は妻を亡くしてから滅多に社交界に出てこなくなったと聞く。ウィレムス伯はおっとりとしていて人畜無害そうな顔をしているが人を見る目は確かで、以前は相当なやり手だったらしい。ただ、現在は屋敷にこもり領地の経営に力を注いでいると聞く。娘二人を大変可愛がっており、娘のお願いごとは大抵叶えてしまうそうだ。そのためリディアは社交界に出ずに自由気ままに屋敷で過ごせていたのだろうし、エレノアの無茶な計画も止めなかったのだろう。
「しかし仲良くしておくには、どうすれば良いんだ」
「そんなの婚約者なんだから甘い言葉の一つや二つ掛けておけば良いだろう」
「……」
簡単そうに言うが、人付き合いの苦手なフリッツには甘い言葉と言うのがどんな物なのか想像もつかない。考え込むフリッツの目の前に一枚の紙を差し出される。
「……舞踏会?」
紙には舞踏会の場所と日時などが書かれている。いわゆる招待状というやつだ。
「そうだ。たまにはフリッツも舞踏会に参加したほうが良い」
「断る」
「婚約者と参加して仲良しアピールでもすれば良いだろ。それにウィレムス伯にはまた国のために働いてもらいたいしな」
「だから舞踏会には……」
「これは命令だ」
今まで、にこやかだったディルクが急に真顔で言う。王太子としての言葉にフリッツは相談する相手を間違えたと思ったが、他に相談出来る相手はいなかったのだから仕方ない。ディルクは優秀なウィレムス伯を国政に参加させたかったのだろう。そこにちょうど良くウィレムス伯の娘と婚約したフリッツが現れた。リディアが王族と関わりを持てば、娘が大切な伯爵は嫌でも政に口を出さずにはいられない。そう判断しての誘いだ。
「今回だけだからな」
招待状を受取り、釘をさす。
「かまわないさ。一回でも参加さえすれば繋がりが出来るからな」
そんなことを言うディルクには構わずに、フリッツは無言で席を立つと扉へと向かう。
「せっかちだな。もう行くのか?」
「ああ。リディアに舞踏会のことを伝えなくてはならないからな」
「ちゃんと仲良くしておくんだよ」
わかっていると答えようとディルクの方を振り向いたが、ディルクはすでに書類を手にしてフリッツのことなど見ていなかった。