⑭ 橋のたもとの許しと願い
水の上にかかる大きな橋まで来ると、わたしの手を引いている人は立ち止まった。
そして、わたしを振り返った。
月明かりに照らされて、その顔が見える。
でも、わたしにはもう、とっくにわかってたんだ。
「お父さん……」
お父さんは、しゃがみこんでわたしの顔をじっと見る。
その目に、記憶の中の怖い感じはなくて、すごく、悲しげだった。
わたしはあっと思いついて、ポシェットのなかから、小さい袋を取り出した。
「これ。ペアのストラップだよ。お姫様の方は、お母さんにあげて。……お土産のつもりだったけど、お父さんも来てたなら、記念品みたいな感じになっちゃうね」
お父さんはそっと、袋を開けた。
その目が大きく開かれる。
「『アラビアンナイト』の王子様とお姫様か」
わたしは頷いた。
お父さんの目が、次第に細くなっていく。
そこから、ぽろぽろ、涙が出てくる。
「夢未、許してくれ。怒鳴ったり、殴ったり、お父さんは、悪いお父さんだった」
まるでお父さんの涙に呼ばれたみたいに、わたしのほっぺにつーっと一筋涙が伝う。
ずっと、待ってた。
お父さんからその言葉。
何回も、待って。
そのたび謝ってくれて。
でもそのあとまた、お父さんは変わっちゃうんだ……。
「夢未にひどいことをしたあと、お父さんはいつも、自分に約束するんだ。もうこんなことはしない、変わるんだって。
でもいつもそれが守れない。
それで、最近、こういう問題に詳しい人のところに行って、わかったんだ。
お父さんはもう、治らないらしいんだよ。
どうがんばっても、夢未にとって、ひどいお父さんになってしまうときがくるんだ」
悲しくて、わたしは泣いた。
でも、ほんの少しだけ、ほっとした。
お父さん、自分が辛いってことに気付いてる。
だから、詳しい人のところに行ってなんとかしようとしてくれたんだ。
「でも、お父さんはまた夢未とお母さんと暮らしたい」
どきっとして、わたしは顔を上げた。
月が雲に隠れて、明かりが途切れる。
胸から、小さな小瓶を取り出したお父さんの顔がさっきとは少し、違うような気がする。
「夢未。これは、痛みを感じなくなる薬だよ。今までの辛い記憶も忘れられる」
差し出された小瓶を、受け取る。
その中に、不思議なほど真っ赤な色をした液が、揺れてた。
「今までのこと、ぜんぶ忘れて、もう一度、一からやり直そう」
辛いこと、ぜんぶ忘れる……そんな飲み物が、あるの?
わたしは小瓶を握りしめた。
お父さんに殴られたときの怖さも痛さも、忘れて。
もしも、ほんとうにもう一度、やり直せるなら。
前みたく、お父さんとお母さんと楽しく、暮らせるなら……。
わたしはそっと、小瓶のふたを開けた――。
「ふざけるのもいい加減にしろ」
はっとして、橋のたもとを見る。
すごく懐かしいような、声――。
そこには、白いマントに、胸にはいくつもの紋章や宝石をつけた、優雅な王族の衣装をまとった人がいた。
あれは、誰――?
その人が、続けて言う。
「殴るたびに忘れさせて、都合のいいおもちゃにする気か」
目が覚めた気がして、わたしは気づいたら、瓶に蓋をしていた。
そうだ……!
きっと、そうなんだ。
お父さんは、わたしとやり直したいんじゃない。
辛さをぶつけるところが、ほしいだけなんだ。
前、花布のマンションにいたとき。
殴られあと、お父さんは決まって優しくなった。
でもまた殴られた。
それを、何度も繰り返すの。
「黙れ!」
大きな声を出したお父さんに、身体がびくっと反応する。
「一歩でも近づいたら、無理やりにでもこれを夢未に飲ませる。そうすればもう、貴様のところになぞいはせん! もう一度わたしと――」
「飲ませればいい」
白い衣装を着たその人は、冷たく言った。
「そうすれば、暴力を繰り返し加える人のことも、すべて忘れられる」
「……くそ……」
お父さんは、わたしの手から瓶を奪い取ると、勢いよく橋の上に叩きつけた。
白い石作りの端の上に、赤い色が広がる。
「夢未。お父さんと、一緒に行こう」
悲しげな目が、わたしを見る。
どうすればいい?
ぎゅっと目をつぶって、心の声を聴く。
誰かの声がした。
夢ちゃん。
大丈夫?
そっと、わたしは目を開けた。
わたしは、わたしのことを、想ってくれる人といる。
「お父さん。わたし、行けない。星崎さんのところに、帰るの」
お父さんの目が、吊り上って、口元が歪んだ。
これは……。
怖いことが起る前の、お父さんの顔だ。
「親の言うことがきけないなら、こうだっ」
ものすごいスピードで、お父さんが向かってくる。
わたしは諦めて、目を閉じた。
いつも、こうなると、もうだめなんだ。
身体が動かなくなって必ず、殴られるの――。
でも、このときは、違った。
「夢っ! 飛び降りてっ」
わたしを呼ぶ声に、身体が、動いたんだ――。
❤
言われるままに橋からとっさに飛び降りると、落ちた先は湖のゴンドラの上だった。
抱きとめてくれたその子に、言う。
「ももちゃん……。わたしを、呼んでくれたんだね」
「当たり前っ」
ももちゃんはもう一度強く、わたしを抱きしめてくれる。
「むーっ。ずるいわ、またももぽんばっかりーっ。あたしだって気持ちは今すぐ抱きしめたいわよっ」
泣き笑いで、わたしはゴンドラを漕いでるせいらちゃんを見る。
「十分伝わってるよ、せいらちゃん……!」
その反対側で同じくゴンドラを漕いでるのは、マーティン。
「間に合ってよかった。このまま向こう岸まで避難しよう」
みんな……ありがとう。
大好きだよ。
ほっとしたからか、少し冷静になってわたしははっとした。
さっきすごいスピードでわたしに向かってきた、お父さん。
あのままだときっと……!
急いで振り返って橋を見て、わたしは悲鳴を上げそうになった。
お父さんが、橋から落ちそうになってるの。
片手でなんとか橋の手すりを握ってる。
そのすぐ上に、立っている人がいた。
白い王子様みたいなかっこうで、それもさっきは別人みたく鋭い声を出しててわからなかったけど。
星崎さんだ……!
❤
「死にたくないんだ……! 頼む、助けてくれ」
お父さんが泣きそうな声で叫んでる。
「こんな人生で終わるなんてまっぴらだ。夢未ならくれてやる。だから……!」
星崎さんは、ぴくりとも動かない。
冷ややかに、お父さんを見下ろしてる。
お父さんの悲鳴が、響く。
手すりにすがる手の力に、限界がきたんだ……!
わたしは、目を背けた。
どれくらい経っただろう。
肩を叩かれて、我に返る。
「夢っち。見て」
せいらちゃんが指差した、橋には――。
お父さんの腕を掴んでる、星崎さんがいたんだ。
星崎さんはお父さんを橋に引き上げたあと、言ったの。
「あなたに価値を認めるのは、夢未の父親だという事実だけだ。
もう一度彼女を傷つけたら、今度こそ、その事実を消します」
お父さんが、橋に腰をついたまま後ずさる。
「行ってください。夢ちゃんに免じて一度きり見逃すという、オレの気が変わらないうちに」
お父さんはよろめきながら立ち上がった。
また悲しそうなものに戻ったその目が一瞬、わたしを見た気がした。
そしてふらふらと、出口を目指して、闇の中に、消えて行ったんだ。
橋の背景には、青と紫にライトアップされたアラビアンナイトの宮殿がある。
さっき、お父さんは、わたしの手を握ってあの宮殿の方に向かってた。
小さい頃、お父さんが教えてくれた、アラビアンナイトの物語。
『夢未。このアラビアの少年みたく、みかけは地味でも心はダイヤモンドなら幸せになれるんだね。これはすごい話だと思わないか』
もう、あの優しかったお父さんは、完全には戻ってこないかもしれない。
でも、あの宮殿にわたしと行きたかったんだとしたら。
わたしは満天の星が光る夜空と、その光の映る湖を見ながら思った。
もしかしたら、今も優しいお父さんは、お父さんの心の中のどこかにいて、消えかける中で悲鳴を上げてるのかも……。




