㉕ 本の中からお助け隊
大好きなカレまで炎に襲われてピンチの夢未のもとへ、本の中から助けが……?
わたしは目を閉じながら、あれと思った。
身体がちっとも熱くも苦しくもならない。
「どういうこと! ケストナー」
モンゴメリさんの、切羽詰った声が聞こえる。
「あれは本焼く炎でしょう。人を燃やす力はないはずよね!?」
そうだったんだ。
わたし、助かったの……?
溜息まじりのケストナーおじさんの声が続ける。
「あくまで、最初のうちはね。炎は本を焼き続けて力を得ると、人も焼くようになる。ある偉大な文豪が見つけ出した、事実だ」
え……?
炎が誰かを焼いてる?
そっと、目を開ける。
目の前に、大きな炎が燃えていた。
その中に、誰かいる。
炎に包まれながら苦しんでいるのは……。
わたしは悲鳴も出なかった。
その前に足が動いた。
炎に飛び込もうとした体を押さえられる。
「離してっ」
わたしを押さえているのは、本焼く炎に取りつかれた人たち、じゃなかった。
「僕のロッテちゃん。行ってはいけない」
ケストナーおじさんが優しく、でも強い力でわたしを後ろから抱きすくめていた。
「でも、星崎さんがっ、このままじゃ」
「一度人を捕えた本焼く炎はその命を燃やし尽くすまでその人を離さない」
わたしは今度こそ叫んだ。
「星崎さんっ」
「今近づいたら、君まで炎に燃やされてしまう。そうならないように、彼は身を呈したんだよ」
初めて聞くケストナーおじさんの厳しい言葉の中に大切なことが含まれているのに、わたしは気が付いた。
星崎さん、わざと炎の前に出て行ったの?
わたしを、かばってくれたってこと……?
わたしはそう思って始めて、すぐ側が明るく光ってることに気が付いたんだ。
ケストナーおじさんがそっと黄色い星を差し出す。
「彼が置いて行った。君の心だ」
炎の中の星崎さんが倒れると、用は済んだとでも言うように炎は小さくなった。
最後の仕上げのように小さな炎が彼の胸を覆ってる。
ケストナーおじさんが私を抱きしめる手をゆっくりと離してくれる。
わたしは、力が入らないよろよろの足で、それでも倒れた星崎さんに駆け寄った。
「星崎さんっ」
顔や身体のあちこちに焦げた跡がある。
星崎さんはうっすらと目を開いた。
「……確かに、返したからね、夢ちゃんの心」
困ったように笑う。
「ごめんね。……もう、力になれないみたいだ」
待って。
そんなこと言わないで。
「夢ちゃんのこと、ちゃんと助けるつもりだったけど、悔しいな」
星崎さん、もう喋らないで。
悲しいこと言わないで……!
顔を包もうとした手をぎゅっと引き寄せられる。
「急いで、ここから逃げるんだよ。……いいね」
不思議なほど、優しく笑って。
わたしの手から、そっと右手を離して。
星崎さんは目を閉じた。
「……やだ」
わたしは小さく呟いた。
なんで、好きな人を死なせなきゃならないの。
本を焼きたいなんて、人を思い通りにしたいなんてそんな考えのために?
こんなのやだ。
やだよっ。
「やだーーっ」
わたしの声が会場中に響き渡る。
わたしはお父さんに向かってつかつかと歩いて行った。
「お父さんのばかっ」
今までお腹の中に押し込めてたことが、次々に溢れて来た。
「お父さんの周りにはひとが自分の上か下にしかいない。
自分の役に立つかどうかでしかお互いを見てないんだ。
隣には誰もいない。
みんながこんなふうに睨み合ってる、こんな場所を作るためにお仕事してるとしたら。
役に立つっていったいなんのための言葉なの。
お父さんは本の夢を追いかけることでいやな想いいっぱいしたかもしれない。
でもそれは本のせいじゃない。
本が教えてくれること。
誰かを自分の道具にするのとは、逆のこと。
自分を誰かの道具にすること。
そういう大好きな誰かがいること。
それをお父さんは手放しちゃったんだ。
そんなすてきなことを壊すために、お父さんは頑張ってきたの?」
お父さんは答えない。
抜け殻のように遠くを見つめてる。
それでも、かまわない。
わたしは息を大きく吸った。
「わたしの心はお父さんにはあげない。
わたしのものだよ。
他の誰かにわたしのことを決められたり、思い通りになんかなりたくない。
わたしは星崎さんと一緒にいる。
ずっと、いるっ」
星崎さんは動かない。
言い直すのが、すごく、悔しかった。
「ずっと、いたかった」
この人は本が導いてくれた、大好きな人なのに。
「星崎さん、起きてっ。結婚なんてしてくれなくていいです。起きて、ただそこにいて。お願い――」
同時にじゃっぶーんってものすごい音がしたけど関係なく、わたしは泣き続けた。
会場の両壁に、いっぱいに水があふれ出してる。
「夢」
ももちゃんが近くにきて、肩をたたいてくれる。
わたしのこと、慰めてくれるんだね。
わかってる。でも今はそっとしておいて。
そう言おうとしたら、
「見て!」
ももちゃんは一言そう言って、舞台の真ん中を指さした。
え。
えぇぇぇっ!?
そこには、大きな滝があった。
高い天井から舞台に向かって流れてくる、幾筋もの太い水は、シャンデリアの光を浴びてきらきら光ってる。
水の中にところどころ、小さな島が浮かんでて、人が座っている。
古今東西、いろんな国の服を着た人たちが。
その中で、茶色いコートを着た女の人がふわりと舞台の上に降り立った。
「あなたは……?」
顔立ちからして、外国の人かな。
近くで見ると、短く切った髪の毛がきれいな亜麻色をしてる。
「デラよ。『賢者の贈り物』の本のなかで、クリスマスに夫に送るものがなにもないって
悲しんでいたのはわたし」
あぁ、そっか。
髪を切って売ったお金で、旦那さんにクリスマスプレゼントを買ってあげた、優しい女の人……!
その後ろから、滝から降りてきたんだろう、ハワイのプルメリアのお花を耳の横につけた女の子がぴょこんと顔を出した。
「コクアです。『南海千一夜物語』の。恋人のケアウエが病気にかかったときはとても悲しかった」
え!
この子が、悪魔の小瓶を買ったケアウエと恋に落ちる、コクア!
コクアの前に、また別の女の人が降り立った。
「本の中のわたしたちの人生に共鳴して寄り添ってくれた夢ちゃんに今度はわたしたちが共鳴したの」
髪を後ろでまとめて、サイドをカールさせてる。
この人、『青い城』の映画で見た女の人に似てる……?
「ヴァランシーよ。こんにちは」
やっぱり!
久しぶりねとももちゃんに微笑むと、ヴァランシーさんは人差し指を立てた。
「今から物語を展開させるわ」
「ヴァランシー。わたしのかわいい娘。これはどういうこと?」
モンゴメリさんが言う。
そっか。
ヴァランシーさんはモンゴメリさんが生み出した人物だもんね。
「夢未の叫びに、わずかに残っていたブーフシュテルンが結集したの。そして、物語の中のきれいな涙を持つ登場人物たちを呼びだした」
両手を広げて、ヴァランシーさんは滝を示した。
「誰かを想う、本の登場人物の涙。そして、それを読んで感銘を受けて流された人々の涙。これは、みんなのきれいな涙なんです。
プレゼントを好きな人のために用意することができない、『賢者の贈り物』の夫婦の涙。
不治の病にかかった恋人のために流される『南海千一夜物語』のヒロインの涙。
クリスマス休暇に家族に会えなくて泣く少年の涙。
それを読んで心からかわいそうに思う女の子の涙も入ってます」
そう言われるとももちゃんとマーティンが目を見合わせて、二人とも恥ずかしそうに反らした。
もちろんここには、初めて好きになった人を想う、ヴァランシーさんの涙も入ってるよね。
「夢。あなたの、彼を想う涙もね」
そっか……!
これは、そんな、みんなの涙。
かけがえのない文学の宝物そのものなんだ!
「それが、ナミダガラの滝の正体なの」
滝の水は会場床に落ち続け、どんどん溜まって行く。
でも足元は全然冷たくない。
お父さんが、全身その泉に浸かって、目を開けた。
火の形はもうそこにない。
ただ疲れたような顔でぼうっと目の前を見てる。
隣でお母さんも黒く戻った目をぱちくりさせてた。
周りの人たちの目からも火が消えて、机や椅子が乱れて本が乱暴に積み上げられてることに驚いてる。
会場の係の人たちはあわてて、乱れた会場を片付け始めた。
モンゴメリさんが言った。
「本焼く炎に取りつかれていたときのことは、みんな忘れているようね」
ケストナーおじさんはウインクした。
「ナミダガラの滝には怒りを押し流す作用もあるんだ。ただご安心を。こちらは人の身体を濡らしたり、おぼれさせることは決してないよ。ただ、本焼く炎を消し、そして――おっと。この先を言うのは野暮かな」
水に浸かった人たちの目の中の炎が消えて、元の黒い目に戻り、みんな不思議そうに周りを見てる。
透明な水に浸かった星崎さんの手の火傷の跡が消えていく。
身体の全部をナミダガラの滝が包んだとき、星崎さんはゆっくりと目を開いたの。
起き上がって、わたしの方へ歩いてきてくれる。
「夢ちゃんの声、聞こえたよ」
えっ。
ショック。
あの絶叫、聞こえてたのっ?
「びっくりしたな。いつもみんなに気を遣って、自分の言葉は後回しだった夢ちゃんが、あんな大きな声出すなんて」
うう。
恥ずかしい。
星崎さんにだけは聞かれたくなかったなぁ。
「ごめんなさい。わたし、臆病で。だからあんなことになるまで言えなくて」
「オレは、夢ちゃんは大丈夫だって最初から思ってだけどね」
疲れた顏なのに、すごくきれいに、星崎さんは片目を瞑った。
「言った通りだったでしょ。女の子の心が外に出てしまうとき、奇蹟が起きるって」
え……?
わたしはようやく気付いた。
ナミダガラの滝のことを相談した時、星崎さんは気づいてたんだ。
主人公の女の子っていうのがわたしのことだって。
きれいな心を持った、女の子。
あの時の彼の言葉を心の中でもう一度聴いて、わたしはぎゅっと自分の肩を抱いた。
わたしなんて、誰にも好きになってもらえないんだって思ってたけど。
今は自分のこと、抱きしめたい気分だよ。
「言いたいこと、やっと言ってくれたね。よかった」
わたしは思いっきり、星崎さんの腕に抱き着いた。
わたしは舞台の端に歩いて行った。
そこでうずくまっている人に話しかける。
「お父さん、ありがとう。
ぼろぼろになりながら、みんなに本を届けてくれてありがとう」
お父さんは顔を上げた。
泣いていた。
ぼろぼろの顔をして。
「夢未……」
なんにも言えないみたい。
いいんだ。
お父さんは辛かったんだ。
そうだよね。
本当は優しい人なのに、辛くて心を鎧で覆うしかなかったんだよね。
「……これから、一緒に暮らしてくれるか」
びっくりした。
お父さんとお母さんとまたみんなで仲良く暮らす。
それは、わたしがずっと願ってたことだった。
だけど、わたしは首を横にふった。
「それはできない」
はっきりと言った。
「お父さんの心がもう少し治るまで、わたしは安心してお父さんと暮らせない」
心で、そっと唱える。
ちゃんと言うんだ。わたしの思ってることを。
「もう絶対、殴ったりしないで。怒鳴るのもだめだからね」
萎れたように、お父さんは頷いた。
「夢未。お父さんを、許してくれるか」
「……っ」
うん。いいよって、言いたかった。
わたしだって、前のように戻りたい。
でも、やっぱりまだ、怖かったんだ。
一度、大切なわたしの人生をとられようとした記憶がどうしても消えてくれない。
答えられずにいると、かわりに後ろから誰かが答えていた。
「夢ちゃんが許しても、僕は許しません」
星崎さん……!
「この間のようなことは二度とさせません」
舞台袖から、ピンクのスカートが翻って、
「あたしも、許せそうにないです」
ももちゃんが登場した。
「僕もです。公正な大人になってもらうまでは」
とその後ろからマーティン。
「今度同じことしたらオレが相手になるぜ」
とマッツ。小さなウリーもその隣で頷いている。
「みんな。どうだろう。もうこの辺で勘弁してあげたら」
ケストナーおじさんの言葉にわたしは大きく頷いた。
みんなから睨まれて、お父さん、ちょっとかわいそう。
でも、不思議だった。
お父さんは、弱々しくだけど、幸せそうに、笑ったんだ。
そうして一言、言った。
「夢未、友達できたじゃないか」
そうして、お父さんが弱々しく、わたしに背を向けて歩き出した、その瞬間。
わたしは見たんだ。
きれいな羅針盤やコイン、小瓶を乗せた、小さな小さな、ピンク紫の船が、お父さんを追いかけて行くのを。
メルヒェンガルテンに流れついていた、『夢の船』だ……!
わたしは多分、どこかで知っていたんだと思う。
あれはお父さんの心だって。
「祈りましょう、夢未。彼のために」
モンゴメリさんが、優しく手を組み合わせてくれている。
「はい」
わたしもそっと、手を組んで、お祈りした。
行く先で待っていたお母さんに支えられて、ゆっくりと歩いて行く、あの背中に。
あの船が、いつかまた、追いつけますように。




