おうちに帰りたい 4
「うにゃああぁぁあぁぁぁぁ!」
闇夜をつんざく絶叫が山中に木霊した。
唐突に上がった大音声に、近くの木で羽休めしていた鳥たちがギャアギャアと騒ぐ。
クロは山イヌに追いかけられていた。
山イヌといっても、クロの身の丈倍以上は優にありそうだ。興奮した口許はだらしなく開き、その口からは乱杭歯が覗いている。
なんであたしがこんな目に――!
なにかに追いかけられているヒトが大抵思うようなことを、ご多分に洩れず、クロも思った。
すっかり陽が落ちて、暗くなった森のなかを全力で走る。
逃げるのに必死でクロは気づいていなかったが、常ならば葉を揺らさず駆けるところを、このときのクロはガサガサいわせながら走っていた。
生い茂る枝葉がクロの身体に当たるたび、細かな傷を作る。
染み出した血の匂いが宙を伝って山イヌに届き、逃げても逃げても山イヌをおびき寄せた。
傷めた右足はズキズキと痛むが、そんなこといっていられない。
いまは直近の痛みより、命のほうが大事だ。
クロは背後に迫る山イヌを背中越しに見て、逃げるのは難しいと判断した。
速度を保ちつつ、爪を伸ばす。
「――――!」
その際、いつもなら避けられるはずの前方の木に肩をぶつけた。
思えば、先ほどからそんな感じだった。
いつもの感覚で走っているはずなのに、どうにも距離感を見誤る。
クロはこのときになっても、まだ自分の髭が少なくなっていることに気づいていなかった。
木にぶつけた肩を基軸に振り返る。背後の山イヌが眼前に迫った。
山イヌ、といってもイヌ族のヒトではなく、所詮は獣。常のクロならば、大した相手でもない。クロは傷めていない左足で地を蹴って飛び掛かると、伸ばした爪で引っ掻いた。
いつもなら的確に相手の肉を抉ってくるはずのクロの爪は、山イヌの表皮を薄く裂いただけだった。
痛む足が目測を誤らせているのだろうか。
大したダメージを与えるに至らず、慣性のまま山イヌへと迫る。今更反転も出来ない。焦ったクロの身体を、横から大きな前脚が叩いた。
瞬時に腕でガードしたものの、至近からもろに食らい、跳ね飛ばされたクロの身体が近くにあった木にぶつかる。叩きつけられた小さな身体が一瞬仰け反り、地に落ちた。
クロは仰向けになりながら、のそりと近づいて来る山イヌに目を向けた。
だらりと垂れ下がるピンク色の長い舌が汚らわしい。
その口から洩れる厭な臭いが、ここまで届いてくるようだった。
あたしのジンセイもここまでかあ。
こんな場所ではなく、畳の上で死にたかったなあ。
クロは、あと数瞬もしないうちに訪れる自分の無残な未来の姿を想像し、目を閉じた。
「――ずいぶんと殊勝なことだな」
聞き覚えのある声がしたのは、そのときだった。ぱちりと目を開ける。霞がかったクロの目に、見覚えのある一対の翼が映った。
あんなに憎たらしく思えた長い長い髪も、こうやってみるとムカつくことに、やっぱり綺麗だった。
「……ヒジリ……」
なんであんたがここに――クロは思った。
部屋を出てくるときに枕を投げつけ、嫌いとまでいったのだ。ヒジリにしたってどちらかといえば自分のことを嫌っていたような気もする。
正直、こうして来てくれるとは思っていなかった。
木の合間を縫って届いた月光が、ヒジリの手にした刀身をくっきりと浮かび上がらせる。
「やっぱあんた、ムカつくなあ」
クロはそう呟くと、先ほどとは違った面持ちで目を閉じた。
ヒジリが来てくれたのなら、あとは放っておいても山イヌくらい、なんとかしてくれるだろう。
ホッとした途端、今まで繋いでいた緊張の糸がふつりと切れ、クロは意識を手放した。
「……まったくいい気なもんだな」
一刀のもとに山イヌを切り伏せたヒジリは、刀についた山イヌの血をピッと振るい落とすと、刀身を肩に当て、地面で気持ちよさそうに眠るクロを見下ろした。
昨晩、最後に見たときには、綺麗に並んでいた髭がいまは不揃いになってしまっている。
身体のあちこちに細かな傷があり、右の足首が赤く腫れあがっていた。
これでは起こしたところで、自力で歩いて帰るのは無理だろう。
まったく世話の焼ける……。
ヒジリは刀を鞘に戻すと、クロを抱え起こした。背中側からクロのお腹に腕を回し、持ち上げる。
そのまま空へと羽ばたいた。
空宙で支えるもののないクロの四肢がだらりと垂れ下がる。
夜風に吹かれたクロの尻尾がふらふらと揺れた。
「しろぉ……」
奇妙な浮遊感のなか、クロは意識のないままに、うにゃうにゃと呟いた。
* * * * *
「……もう大丈夫なんだけどなあ」
「なにが大丈夫なものですか!」
ヒジリによって無事屋敷へと帰ってきた翌日、クロは世話役にとつけられた年嵩の女性、トキに布団に押し込められていた。
クロが気がついたときには一夜明け、昼に近い時間帯だった。
布団から身を起こし、辺りを見回す。
開け放した障子の向こうに母屋の屋根が見えることから、クロが今いるのは、どうやら離れのようだった。初日にヒジリと押し込められた部屋とはまた別の部屋だ。
クロは掛けられた布団をそっと持ち上げ、傷ついた身体を確認した。
寝ているあいだに処置されたのか、身体のあちこちについた細かな傷は、綺麗に消毒されていた。挫いた右足首もいまはしっかり固定され、包帯が巻かれている。身につけているものも、昨日着ていた物ではなく、寝衣に変わっていた。
起き上がろうとしたところで、クロの様子を見るため、ちょうど部屋へとやってきたトキに「まだ動くな」と叱られた。
その後も、包帯を新しいものに取り換えてもらっているあいだ、トキにくどくど怒られた。
曰く、どれだけ屋敷の者が心配して捜したと思っているのか――、出かける際にはひと声かけてからにしろ――、しばらくは布団の上で生活していただきます――。
クロのためを思っての言葉とはいえ、こうして喧々叱られるのは、クロのもっとも苦手とするところだった。
クロは耳をピッと広げて寝かせると、大人しく聞いていた。
包帯を巻き終えたトキは、部屋の外に待機していた別の女に指示を出し、用意していた食事を持ってこさせた。
クロが食事を食べ終えると、トキは足つき角膳を持って立ち上がり、ちゃんと寝ているよう念押ししてから部屋を出て行った。
クロは布団の上から見える、庭の日溜まりに目を向けた。
なんとも長閑で心地よさそうだ。
少しお散歩してきてもよかったが、クロはその場でこてんと横になった。
もし、部屋の外をウロウロしているのがトキに見つかったら、その逆鱗に触れるであろうことは容易く想像できた。ついでに、先ほどまで叱られていた以上に喧々いわれるのが目に見えていた。
ただでさえ、叱られているときの空気は苦手なのに、そんなのはご免である。
そう思ったクロが布団のなかで丸くなり、はみ出した尻尾の先をピクピク動かしていたら、ヒジリが訪ねてきた。
クロが目を覚ましたことを知り、様子を見に来てくれたらしい。
助けてくれたことは覚えていたが、ありがとうと面と向かっていうには、どうにも照れくさかった。
大丈夫か、と訊かれたから、大丈夫だ、とだけ答えた。
部屋を訪ねてきたヒジリから、なんであんな場所にいたのか、洗いざらい説明された。
見晴らし台で突っかかってきた青年――アビというらしい――が、クロの髭を引き抜いたと聞かされたときには、思わず両頬に手を当てた。
不揃いになっているのが手に伝わる感触でわかる。
どうにも感覚がおかしいと思ったら、髭を抜かれていたからか。
いつもだったら足を滑らせたり、目測を誤るなんて大失態、やらかしたりはしないのに……。
あ・い・つ・らぁー、と思ったところで、ヒジリが訊いてきた。
「どうする?」
クロは首を傾げた。
どうするとは、どういうことか。
クロの頭に、絡まれたときのことが思い浮かんだ。
髭を抜いたのは許せないが、実のところ、抜かれたこと自体、覚えていない。
クロが覚えているのは、居場所がないと感じていたときに、アビたちがかまってくれたことだけだ。
客観的に見て、つっかかってきたのをかまってくれたと思う辺り、クロの思考もいかがなものかと思うが……。
クロは布団の上で、んーと頬に人差し指を当てた。
「別にいいよ。ちょっとおいたが過ぎただけでしょ」
ネコ族の髭を引き抜いておいて、“ちょっと”もへったくれもなかったし、そのせいで山イヌに食われかけたりもしたのだが、ヒジリは不揃いなクロの髭を見てうなずいた。
「わかった」
休んでるとこ邪魔したな、といってヒジリが部屋を立ち去る。
クロは再び布団の上で丸くなった。
あれだけ散々寝ていたはずなのに、満腹になったこともあってか、また眠くなる。
緩慢な眠気に身を委ねながら、クロは思った。
まあ、なんとかここでも暮らして行けそうかな――。
【おうちに帰りたい】完結です。
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