第1027話 定義より先に
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二〇二六年十二月五日、午後五時六分。
伊豆・小笠原海溝調査統合室。
月島玲の端末の画面右下に、暗号化通信のインジケーターが明滅した。
発信元——ジュネーブ、国際生命倫理審査会(IIEC)事務局。
件名:『相模・小笠原海溝底における未同定地質・構造体に対する保護対象性(Protectability)の認定に関する緊急照会』。
公文書の体裁をとった本文には、三つの極めて簡潔な照会事項が打刻されていた。
一、当該対象は、既知の生物学的基準において「生命」と認定し得るか。
二、当該対象は、外部からの物理的接触に対して「侵害・損傷」あるいは「苦痛」を受容する主体と認定し得るか。
三、以上の二点が肯定されない場合、科学研究の自由を制約してまで直接物理接触を禁圧する客観的・合理的根拠は何か。
月島は、三番目の設問を感情を交えずに二度、眼球でトレースした。
そして、隣でコンソールのログをまとめていた三好千景へ、無言のままディスプレイを傾けた。
「……三好さん。どう読み解きますか」
千景はテキストを速読し、眉根を微かに寄せた。
「……論理の順番が、逆転していると思います」
「どこが」
「『生命であると証明できなければ、保護する法的な理由も存在しない』という前提に立っています。けれど私たちは、生命かどうかを確定できていないからこそ、不可逆な接触を躊躇っているはずです」
「ええ」
「定義が完成していなければ、人間は何も決めてはいけないのでしょうか」
月島は椅子の背凭れに静かに体重を預けた。
「いいえ。現実は常にその逆です。完全な定義が学術的に成立する以前に、暫定的な決定を下さなければならない局面の方が、人間の歴史においては圧倒的に多数を占めています」
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午後五時十四分。
緊急オンライン倫理審査会。
マルチディスプレイには、世界各地から接続された十五名の委員たちの顔がグリッド状に整列していた。
生命倫理学者、海洋生物物理学者、固体物性材料学者、国際海洋法学者、科学哲学者、環境保全行政官、集中治療医、そして現場の調査責任者たち。
議長席に着くのは、英国の生命倫理学者エレノア・グラント。
五十八歳。医療倫理と先端バイオテクノロジーの境界領域を専門とし、自律的意思決定能力を喪失した患者の終末期プロトコルや、遺伝子改変技術の不可逆な環境放出の審査において、数々の厳しいガイドラインを起草してきた碩学だ。
グラントは眼鏡のブリッジを直し、低く張りのある声で口火を切った。
『本セッションの目的は、伊豆・小笠原海溝の白色構造体が「生命であるか否か」という存在論的真理を判定することではありません』
通訳の音声が遅れて重なる。
『我々が対象に対する十全な知見を持ち合わせていないという絶対的な不確実性下において、研究者側のいかなる行為が許容され、いかなる干渉が制約されるべきかを工学的に合意することです』
JAMSTECの谷口修一が腕組みを軋ませた。
「つまり、現場の科学者が白黒の答えを出すのを待たずに、ルールを先回りして決めるということですか」
月島が答えた。「待つことが許されない現実的な時間軸が存在します」
グラントがディスプレイの向こうで深く首肯した。
『そして谷口先生——「科学的結論が出るまで介入を保留する」という態度そのものもまた、結果として重大な事態を招き寄せる、ひとつの不可逆な選択なのです』
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午後五時二十二分。
国際海洋法を専門とする委員がマイクをオンにした。
『私は、保護の客観的根拠を「生命性」や「感覚性(Sentience)」の有無に限定するアプローチに強く反対します』
月島。「理由を述べてください」
『例えば、海底に沈むタイタニック号の船体や、アタカマ砂漠の古代洞窟壁画です』
共有画面に、数千年前の鉱物顔料による壁画と、深海に眠る鋼鉄の沈没船のソナー画像が投影された。
『これらは生きてなどいません。痛みを感じる神経系も存在しない。しかし、ユネスコの水中文化遺産保護条約や各国の国内法は、これらに対する無制限な切削やサンプリングを厳格に禁じています』
谷口が口を挟む。「それは、歴史的・文化的な価値がすでに国際的に認知されているからだろう」
『その通りです。では谷口先生、その対象に歴史的価値が存在するかどうかを「確かめるため」という名目で、遺跡の柱をダイナマイトで爆破して内部を覗き込む行為が許容されるべきでしょうか』
谷口は押し黙った。
月島が言った。
「本質は、価値の確定の有無ではありません。価値が確定される以前の段階において、その価値を検証するための対象そのものが不可逆に変容・破壊されてしまうリスクを、人間側がどのように管理するかという問題です」
法学者が力強く頷いた。『まさに、その点です』
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午後五時三十一分。
しかし、資源開発と技術イノベーションを推進する立場にある委員が、冷ややかな反論を差し挟んだ。
『しかし、その論理を無制限に拡張すれば、地球上のあらゆる鉱物、海底の堆積層、採取される深海泥の一粒に至るまで、すべてを「未知の価値が眠っているかもしれない」という理由で保護対象に指定しなければならなくなります』
月島。「ええ、その帰結は自明です」
『あらゆる物質には、未知の情報が含まれています。単に「正体が分からない」という事実だけを根拠にして研究者の手足を縛ることは、科学の発展に対する不当なサボタージュであり、公権力の濫用です』
グラントが静かに割って入った。
『極めて正当な反駁です。未知であることそれ自体は、不可侵の神聖性を担保しません』
千景は手元のキーボードを握りしめた。
未知だから保護する。
だが、この宇宙のほとんどすべては未知で満ちている。
もし「不可逆な変化を避ける」ことだけを至上命題にしてしまえば、探査機を海に沈めることすら、海水という流体を撹拌する環境破壊として禁止されてしまう。
谷口。「だからこそ、どこかに明確な線を引かなければならない」
月島。「はい。その境界線の引き方こそが、問われています」
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午後五時三十九分。
グラント議長は、医療倫理におけるリスク・ベネフィット評価のマトリクスを画面上に提示した。
一、行為によってもたらされる予見可能な科学的・社会的利益。
二、行為がもたらす影響の不可逆性。
三、同一の知見を獲得するための代替手段(非侵襲的手法)の存否。
四、予期せぬ破綻が生じた場合の損失の重大性。
五、決定を先送りすることによって生じる実質的損害。
六、そして——直接的あるいは間接的な影響を被る「利害関係者」の範囲。
谷口。「最後の項目ですが、あの深海の白い物体が『主体』であるかどうかも分かっていないのに、利害関係者などと呼べるのですか」
グラント。『主体として法的に認定したわけではありません。しかし、自己維持的なプロセスが存在する可能性を、考慮の対象からあらかじめ恣意的に排除することは、予防原則に反します』
千景が尋ねた。「可能性を考慮することと、法的な権利を与えることは違うのですね」
『完全に別物です。生物学的実体、倫理的配慮の対象、そして法的な権利の帰属主体。この三つの次元を混同してはなりません』
月島が深く肯いた。
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午後五時四十八分。
千景の脳裏に、今朝の病室で見た父の姿が鮮烈に蘇っていた。
チタン製の遠心ポンプ。
腹部を貫通する細いケーブル。
あの機械自身には、いかなる人権も、苦痛を感じる神経系も存在しない。
だが、あの機械の回転を止めてはならない理由は、機械の権利を守るためではない。
あの機械の向こう側に、父という一人の人間の生が張り付いているからだ。
千景は挙手ボタンを押した。
「……発言を許可していただけますか」
グラントが画面越しに促す。『どうぞ、三好技師』
「あの白色構造体そのものが生命体でなかったとしても、それが『別の生命』の生存基盤を支えている可能性を考慮すべきです」
『具体的に説明してください』
千景は父親の個人識別情報を伏せた上で、植込型補助人工心臓の工学的アナロジーを淡々と語った。
血液循環を機械的に代行する人工ポンプ。
バッテリー。外部コントローラー。
それらの金属と樹脂の塊は、生物学的な意味での生命では断じてない。
しかし、それが機能停止に陥れば、生体側は不可逆な虚血性死を迎える。
「白色構造体も同様です。あの青白い発光やプラス〇・〇六度の熱偏差、周囲の化学勾配が、海溝底の未知の微生物群集や生態系に対する『生命維持インフラ』として機能している可能性を、現段階の乏しいデータから排除することはできません」
海洋生物学の専門委員が応答した。
『理論的な生態学的仮説としては成立します。ただし、構造体の直近において、依存関係にあるような大型底生生物の生痕は確認されていません』
千景。「ええ。ですが、堆積層の間隙水や微生物相に対する影響は、まだ一切測定されていません」
『……確かに。その機能的連関を解明するための非接触調査を行う正当な理由にはなりますね』
月島。「幸いにも、その検証を実行するための非破壊・非侵襲の測定手段は、まだいくつも手元に残されています」
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午後五時五十八分。
工学・産業応用タスクフォースの委員が、強い調子で反論した。
『私たちは、科学的探究がもたらす巨大な利益を過小評価するべきではありません』
ディスプレイに、先日の音響トモグラフィによって抽出された構造体内部の線状高反射領域の三次元モデルが映し出された。
『もしこの構造体が、九百気圧の超高圧下で自律的な相転移や熱制御を可能にする未知のスマートマテリアルであるならば、そこから得られる知見が将来の深海工学、核融合炉の耐熱設計、あるいは医療用ナノマシンに与えるブレイクスルーは計り知れない』
谷口が小さく頷いた。「技術屋としては、喉から手が出るほど欲しいデータだ」
委員は畳みかけた。
『現在を生きる人類の技術的・医療的利益もまた、倫理的配慮の重要な一部です。ただ「触るな」と命じて手をこまねいていることだけが倫理ではありません』
グラント。『その指摘は正当です』
月島もまた、その反論を否定しなかった。
「ですから私は、永久的な研究禁止や不可侵領域の指定を求めているわけではありません」
『では月島先生、どのような客観的条件が満たされれば、サンプリングを許可するのですか』
「第一に、接触によって得られる情報が、いかなる非接触の観測手段を用いても論理的に代替不可能であると証明されること」
『それだけで十分ですか』
「いいえ。第二に、接触によって引き起こされる対象の変容の物理的メカニズムが事前にモデル化され、失われる情報量が受容可能な範囲に収まると定量的に評価されることです」
『しかし、その影響をモデル化するためには、実際に触れて物性を測らなければ分からないのではないですか!』
谷口が思わず声を漏らした。「……そこなんだよ。完全に袋小路だ」
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午後六時七分。
審議は、論理の無限ループに捕らわれて完全に膠着した。
触れなければ、性質は分からない。
しかし、性質が分からない以上、安全に触れるための影響評価は成立しない。
月島はホワイトボードの端に、冷徹にその循環構造を図式化した。
—— **接触による影響評価の必要**
↓
—— **対象の物理的性質の同定が前提**
↓
—— **性質の同定には直接の接触サンプリングが不可欠**
↓
—— **接触の実行には影響評価の完了が義務付けられる**
千景が溜息を漏らす。「完全に、トートロジー(同語反復)の輪に嵌まっています」
グラント議長が、画面越しに静かに首を横に振った。
『未知のフロンティアと対峙するあらゆる応用科学において、常に立ち現れるアポリア(行き詰まり)です』
谷口。「では、論理的に解決不能ということですか」
『いいえ』グラントは即答した。『科学において、不確実性をゼロにすることは不可能です。我々が合意すべきなのは「不確実性をゼロにする魔法の手順」ではなく、「残された不確実性のリスクを、誰が、いかなる根拠に基づいて引き受けるか」という制度設計なのです』
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午後六時十五分。
グラントは、集中治療室における臨床判断の構造を例証として引き合いに出した。
原因不明の劇症心筋炎で運ばれてきた意識不明の重篤患者。
確定診断を下すためには心筋生検(カテーテルで心臓の筋肉を直接削り取る検査)が必要だが、検査そのものが心破裂を引き起こす致命的リスクを孕んでいる。
「医学の現場において、医師は患者の病態が百パーセント解明されるのを待ってから治療を開始するわけではありません」
千景は身を正した。
『どれほど不確実性が残されていようと、医師は今あるデータだけで決断を下さなければならない。検査による侵襲の危険性、放置した場合の致死率、代替となる非侵襲的検査の精度、そして本人の推定意思——それらの天秤の傾きを見極め、引き金を引くのです』
谷口。「しかし、あの深海の白い対象には、本人の意思など存在しない」
『ええ。ゆえに、生身の患者と海底構造体を同一視することは許されません』
月島が言葉を継いだ。
「ですが、『完全な情報が揃わない極限状況下において、いかにして不可逆な過誤を最小化するか』という意思決定のアルゴリズムとしては、極めて強固な先例となります」
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午後六時三十一分。
月島玲は、手元の端末から審査会の共有サーバーへ、起草したばかりの決議案の修正テキストをプッシュした。
「本調査統合室は、現在の直接接触規制を『対象が生命体であるという推定』に基づくものから、『科学的探究に伴う不可逆な情報破壊を予防・管理するための暫定的研究行為規制』へと法的に再定義することを提案します」
法学者が即座に反応した。『……なるほど。対象に対して新たな法的権利や保護資格を付与するのではなく、研究者側の裁量権に対する「手続き的制約」として構築し直すわけですね』
「はい」
グラント。『その制限を課す客観的根拠はどこに求めますか』
月島は五つの箇条書きを提示した。
一、対象が、わずか〇・三七秒の接触によって、十八分間に及ぶ機能停止という極めて激甚な状態変化を惹起したという観測事実。
二、当該変化が、構造的・機能的な「損傷」であったか否かを現段階で検証し得ないこと。
三、不用意な再接触により、初期の物理状態(基底状態)を二度と再取得できなくなる不可逆的情報損失のリスク。
四、非侵襲的・非接触的なトモグラフィおよび環境測定によって検証可能な作業仮説が、依然として豊富に残されていること。
五、対象の自己維持性ならびに周辺生態系に対する機能的役割が未確定であること。
グラント議長が眼鏡を外し、満足げに頷いた。
『極めて具体的かつ、反証可能性を担保した論理構成です』
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午後六時四十二分。
開発側の委員が、なおも食い下がった。
『しかし月島先生。観測状態が変化することそれ自体を「悪」あるいは「害」と見做すのであれば、素粒子実験から宇宙望遠鏡に至るまで、あらゆる科学的実験は「対象の状態を乱す行為」として禁止されることになりますよ』
月島。「その一般論は完全に首肯します」
『ならば、なぜこの白色構造体に限って、これほど偏執病的な規制を正当化できるのですか』
「対象が唯一無二の希少性を持ち、地球上に代替可能な再現サンプルが二つと存在せず、かつ状態変化をドライブしている力学的機構がブラックボックスのままだからです」
谷口が加勢した。「あの接触事故のあと、発光周期が元に戻ったからといって、内部の物性が完全に初期状態へ復帰したという保証はどこにもないんだ」
『希少性だけで特別扱いするのか』
月島。「いいえ。希少性、不可逆性、そして代替観測手段の残存——この三条件が重畳しているからこそ、暫定規制が論理的に正当化されるのです」
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午後七時十一分。
突如、統合室の海底監視レーダーから、けたたましいアラートが鳴り響いた。
コンソールのオペレーターが絶叫する。
「——音響ソナーに未確認の動的エコーを捕捉! 白色構造体の設置海域へ急速接近中!」
谷口が椅子を蹴って立ち上がった。「うちの《シーハウンド》か!?」
「違います! 本艦のROVは母船直下、離隔距離三百メートルで完全停止中!」
メインモニターに、深海ソナーの等深線マップが展開された。
水深九千二百メートル。
白色構造体の北東数百メートルの等深線沿いに、高出力スラスタのキャビテーションノイズを伴う、単一の音響プロットが這うように前進してきていた。
月島。「所属トランスポンダーの応答は」
「シグネチャー、未登録! トランスポンダーはオフです!」
内閣府科学技術調整官・黒瀬からの緊急ホットラインが割り込んだ。
『月島さん! 当該海域の排他的経済水域(EEZ)外縁を航行中の、某国所属の海洋調査船から大型自律型無人潜水機(AUV)が緊急投入されたという情報が入りました!』
谷口が怒声を上げる。「公海上の調査とはいえ、うちが設定した暫定安全プロトコルはどうなっているんだ!」
黒瀬。『事前通知は送達済みですが、彼らは現行の国際海洋法条約(UNCLOS)を盾に、「公海における海洋科学研究の自由」を主張しています! 法的拘束力のない紳士協定など、彼らにとってはただの紙切れです!』
千景が息を呑み、ソナーの光点を凝視した。
「……あの進路のまま直進すれば、構造体の直上を通過します。サンプリング用のアームを展開している可能性も……!」
谷口。「《シーハウンド》を回頭させろ! 体当たりしてでも針路を妨害するんだ!」
「待ちなさい!」
月島の冷徹な一喝が、CICの空気を両断した。
「相手の艇体と接触事故を起こすつもりですか。海溝底で二重の物理的破綻を引き起こせば、それこそ取り返しのつかない大破局になります」
午後七時二十二分。
洋上の母船から、国際公用周波数を用いた警告ハイル(呼出)が三度、海中へ向けて発信された。
応答なし。
二度目の警告。
応答なし。
ソナー画面の光点が、白色構造体の外縁まであと百五十メートルという至近距離に迫った。
息を呑む静寂。
その瞬間——。
光点が、わずかにスラスタの噴射方向を変えた。
構造体の直上を掠めるコースを逸れ、南側の海底谷へ向けて緩やかな円弧を描いて離脱していく。
千景が胸を撫で下ろした。「……変針しました。離れていきます」
黒瀬の声がスピーカーから漏れる。『警告の電波を受信したのか……あるいは、単なる海底地形スキャンの通過コースだったのか』
月島は表情筋を微動だにさせなかった。
「意図の解釈は不要です。重要なのは、この海域がもはや安全な象牙の塔などではないという事実です」
```
*
```
午後七時三十一分。
一時中断されていた倫理審査会が再開された。
沈黙を破ったのは、グラント議長だった。
『……いま我々の目前で起きたインシデントは、この決議の緊急性を雄弁に物語っています』
月島。「ええ」
『対象の学術的定義が完成するのを待っている間にも、世界の政治と欲望の現実は、容赦なくその歩みを進めてしまう』
千景は、その言葉をタイピングしながら深く噛み締めていた。
午後七時四十一分。
グラント議長によって読み上げられた、全六条からなる暫定決議草案。
一、白色構造体を、現段階において「生命」「非生命」「人工構造物」「知的知性」のいずれのカテゴリーにも確定認定しない。
二、当該対象ならびに境界周辺環境の調査においては、非破壊・非接触型の遠隔センシングを最優先原則とする。
三、対象に対する直接の物理的接触、表層切削、生検サンプリング、ならびに周辺堆積層の掘削は、独立した事前影響評価とIIECの厳格な承認を経ない限り、これを禁止する。
四、本制限は恒久的な不可侵権の設定ではなく、新たな観測データの蓄積に応じて、段階的な緩和または厳格化の改定を行う。
五、科学研究の自由と人類の技術的利益を担保するため、本決議の有効期限を九十六時間とし、定期的な再評価セッションを義務付ける。
六、対象に対する法的地位の認定と、研究行為に対する手続き的規制を厳格に峻別する。
午後七時五十三分。
ロールコールによる電子投票。
賛成——十二。
反対——二。
棄権——一。
定足数を満たし、暫定決議案は正式に採択された。
谷口が深く息を吐き出した。「結局、接触禁止のモラトリアムが延長されただけか」
月島。「形式上はそうです」
「だが、何かが決定的に変わったな」
千景が振り返る。「何が変わったんですか、谷口さん」
「これまでは『生きているかもしれないから触るな』という、ある種のセンチメンタリズムだった。だが今夜からは違う。『正体が分からないというリスクそのものを管理するために、合理的に触らない』という、人間の側の知性の規律に変わったんだ」
月島。「その通りです」
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午後八時三分。
審査会の回線が閉じられた後、千景は高解像度モニターに映る白い三叉の影を見つめていた。
「……月島さん」
「何でしょう」
「もし、何年か調査を続けた結果、これが本当にただの奇妙な形状をした天然の岩石だと判明したら……世界は私たちのこの慎重さを、大袈裟な喜劇だったと笑うでしょうか」
月島は書類から顔を上げ、静かに千景を見た。
「笑う人間は、いくらでもいるでしょうね」
「それでも……構わないのですか」
月島は薄く微笑んだ。
「十分な情報を持たなかった時点において、最も不可逆な破滅を避けるために下した合理的な判断であったならば、後から結果論として『過剰防衛だった』と嘲笑されることなど、痛くも痒くもありません。科学者が最も恐れるべきは、嘲笑されることではなく、無知のまま傲慢な一線を踏み越えてしまうことです」
千景は息を呑んだ。「逆に……これが本当に未知の生命だったとしたら」
「現在の保護措置であっても、まだ手ぬるかったと後悔する日が来るかもしれません」
「絶対の正解など、最初からどこにもない」
「ええ。それでも、判断の引き金を引かなければならないのです」
```
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午後八時十二分。
谷口がバインダーをパチンと閉じた。
「科学をやってるつもりが、いつの間にか政治と法律の泥沼に首まで浸かっている気分だな」
月島。「現実の世界において、両者を切り離すことは不可能です」
「科学は何が起きているかを調べ、倫理は何を為すべきかを問い、法は誰に何が許されるかを線引きし、政治は利害の異なる人間たちの間で現実の落とし所を決める……全部が揃わなければ、この九千メートルの泥水の中の石ころ一つ守れないというわけか」
月島。「それが、人間という種族が獲得した文明の手続きです」
```
*
```
午後八時三十九分。
月島玲は、公式観測日誌の最終行に、万年筆で署名するようにキーを叩き込んだ。
—— **【認識論的および倫理的総括】**
**対象の生物学的分類の確定は、研究行為の許容限界を策定するための絶対的先決条件ではない。**
**科学的不確実性の存在そのものを境界条件として受容し、不可逆性、代替手段の有無、ならびに潜在的損失の規模を比較衝量せよ。**
**暫定的保護規制は、対象の神格化や法的人格の認定を意味しない。**
**定義できないことを、決定を放棄する口実にしてはならない。同時に、決定を下したという事実をもって、対象が定義されたと錯覚してはならない。**
保存完了。
千景のスマートフォンが、机の上で小さく震えた。
父からの新着メッセージ。
《退院した後のリハビリ散歩のルートを看護師さんと相談した。
神田川沿いの遊歩道がいいらしい。あそこなら急な坂道もないし、疲れたら座れるベンチもある》
千景は画面を見つめ、静かに息を吸い込んだ。
父の心臓を動かしているチタンのインペラも。
退院の可否を判断する主治医の診断も。
そして、これからの生活を支える医療保険の枠組みも。
その何ひとつとして、絶対的な無謬性や完全な確実性の上に成り立っているわけではない。
それでも人間は、手元の不完全なカードだけを握りしめて、「明日」という未知の時間へ向けて足を踏み出すのだ。
千景は指先を動かした。
《退院の日、迎えに行くね。
ゆっくり、歩幅を合わせて歩こう》
送信。
水深九千二百八十七メートルの冷たい深淵。
白色構造体は、今夜も変わらぬ位相を保ち、十二・八秒の燐光を暗黒の泥の上へと放ち続けている。
それは自らが「保護」されたことすら知らず、
人間たちが作り上げた法律の条文も知らず、
ただ、沈黙の幾何学を保ち続けている。
その時、通信機から黒瀬の緊張した声が飛び込んできた。
『月島さん! 先ほどの暫定決議の採択を受け、政府連絡会議から緊急の下問です。白色構造体の周囲に設定すべき「暫定保護区域」の具体的な半径と座標グリッドの策定を求めています!』
月島が身を正す。「範囲は」
『構造体単体にとどまらず、周辺の海溝底流路を含む広域エリアを指定すべきだという環境省側の主張と、他国の航行の自由を過度に制限すべきではないという外務省側の主張が激しく対立しています!』
千景がモニターの海底地形図を見つめた。
白い枝の周囲には、未だ解明されていない化学勾配と、微弱な熱の滞留、そして底知れぬ暗黒の堆積層が広がっている。
「……対象の身体だけをフェンスで囲っても、意味がないんですね」
月島がディスプレイを指差した。
「ええ。その境界線をどこに引くべきかを確定させるためにも、まず、暫定の枠組みを敷かなければならないのです」
――第1028話「保護対象」へ続く。




