聖痕の男
温泉施設で私は、露天風呂の脇に設置された一人掛けのベンチに座っていた。
五月の夕方の風は、火照った体を心地よく冷やしてくれた。
平日の16時は客もまばらで、時が止まったかのような、ゆったりとした時間が流れていた。
気が付くと、隣のベンチには私と同年代くらいの、やや腹の出た中年が腰掛けていた。
男と私は目が合い、軽い挨拶からぽつぽつと世間話が始まった。
……そして、私が何気なく投げかけた疑問から、話は思わぬ方向に向かった…。
「……ああ…、この傷痕のことですか…」
男が語った話は奇妙なものだった…。
男は名を桐須と言った。
「“聖痕”…って、ご存じですか?」
「あの、なんか……傷が勝手に出来る……みたいなやつでしたっけ?」
「はい、そのような認識で大体合ってます。本来は、イエスが十字架に磔にされたときに手足や脇腹に負った傷のことを指すようです」
「そうですか。あまり詳しくないので…すみません」
「イエスのその傷と同じ位置に、火傷の痕のように浮き出たり、出血を伴う怪我として自然に現れるんです。イエスと同じ箇所以外、例えば額や背中に傷が現れることもあると言われています。そういう聖痕が現れる人が世界中にいるのです」
「はあ…。それで…それがどうかしましたか?」
「現れるんです。私にも」
「…最初は背中でした。突然背中が数か所、出血と共に裂けました。貴方が先ほど疑問を持たれた背中の傷痕がそれです。そして次は足に傷が現れました……。見て下さい」
桐須が指差した先を見ると、左足の甲の外側には傷痕があった。
火傷の痕のような大きな傷痕は、アルファベットの「Z」のような形をしていた。
「この傷は左右同時に現れたんですよ」
右足の外側にも同じ「Z」形の傷があった。
「まさか……」
私が怪訝な顔をしたのに気付いてか気付かずか、桐須は更に続けた。
「その次はここです…」
桐須が前髪を両手で上げると、筆で書いたような弧を描いた直線の傷痕が、額の中央にあった。
「天下御免の向こう傷!…って知ってますか?ハハッさすがに古くっウッッ……」
急に桐須が苦しみながら胸を押さえて蹲った。
「ウウッッ…グ…グゥ…」
「桐須さんっ、どうしました。大丈夫ですか!?」
押さえた胸からは、ボタボタと血が流れていた。
桐須は痛みに耐えているようだったが、顔を上げて口を開いた。
「…これです……。まさに今…聖痕が…」
桐須の胸には裂傷があった。
桐須はタオルで胸の血を拭い、私に傷を見せた。
「どうです?信じてくれましたか」
額にあった聖痕と同じ形状の、――向かって左からカーブを描き、やや上に向かって右に筆を直線に滑らせたような―― 額よりも大きな傷が、桐須の胸に出来ていた。
私は今、聖痕が出来る瞬間を目の当たりにしたのだ。
「このまま風呂にいるとまた出血しかねませんので、お先に上がらせていただきます」
そう言って去って行った桐須の背中には、アディダスと同じ聖痕があった。




