第八話 おおかみとひつじ
分水嶺という言葉がある。
雨水が異なる水系にわかれる場所。そこから、物事の方向性が決まる分かれ目のたとえとして使われる。
黛 瑠璃子は何度も人生の別れ目というべき箇所を渡ってきた。
最たるものは柏 恵美との出会い。
それまでは彼女だって普通の少女だった。今だって根本にあるのは誰にだってある感情だ。
何度か他人が三途の川を渡りかけたのも見たことがある。
「あんたの分水嶺はどこだったの?」
問いかけられた岩尾はやんわりとほほ笑む。
手元の携帯とメモ帳で情報はまとめてある。
萱愛から知らされた話と新聞を漁って集めた情報は合致している。
岩尾という人物の人となりもわかってきた。
その結果いえるのは、彼女がとんでもなく悪趣味な人間ということだ。
「水月年季、そしてあなたのお爺さんは死んだんじゃない。殺された。遺体の第一発見者は水月。なのに彼は病死だと思い込んでいた」
余裕を保ったままの表情に事実を叩きつける。
隣に座る柏は、事の成り行きをマイペースに見守っていた。
反対に座る樫添は先に黛さんの推理を聞いたからか、いやに落ち着かない。あれでいていざという時は内心を覆い隠せるのに。
閂はニヤニヤと笑って、今にも「ヒヒヒ」と特徴的な声が聞こえてきそうだ。
このように、今この部屋には少女しかいない。
岩尾の家は写真で送られてきた水月の家と比べると小さく、古かった。
一人で住むにはちょうどいい程度の狭い部屋。売りに出された家屋を買い取ったのかもしれない。
新しく綺麗で設備も整っている水月が借りている家とは壁に刻まれた年月が違う。
彼と比べると一見粗雑な扱いだ。しかし、一目から一歩踏み込んだ場所にこそ警告が潜んでいる。
黛はこれを異常だととらえた。聞けばここに住んでいるのは岩尾だけだという。
もしも少女一人に家一つを買い与えたのなら、あまりに大仰。
そこに実に五人の少女がいる。黛。柏。樫添。閂。岩尾。当然狭い。
もしこれが純粋な友人関係だったなら、どんなに楽しかっただろう。たまに体をぶつけてしまってからかいの言葉を投げかけあっていたのかもしれない。
それは正直、少しだけ。ほんの少しだけ残念だ。
「新聞では死因は絞殺。結局犯人は捕まっていない。目撃者の少年、っていうのが水月ね」
地方の事件だからか、とても小さな記事だった。
凶器の類は書かれていなかった。
恐らくかなり特徴的な凶器だったのだろう。変わった凶器はそれだけで犯人につながるヒントになる。
包丁やガソリンといった、どこでも購入できるものなら公表されやすい印象がある。
「でも萱愛から話を聞いておかしいと思った」
「へえ」
岩尾の口角が歪む。
三日月を描いてまばたきもせず、じっと黛を見つめてくる。
半ば裏付けの取れない推理だ。
気づかれているとわかった。
気づいていて面白がっている。
携帯を見るが、まだ萱愛から具体的な返事が来ない。岩尾が親戚が真実だと認めるだけで収束する話なのに。
「水月は祖父は孫、つまりあんたを可愛がっていたといった。いつもたくさんのお菓子をもたせていたとか」
「ええ。すっごくかわいがってくれた、いいおじいちゃんよ」
「嘘つきね、あんた」
はっきりといってやった。
岩尾はますます笑顔を深くする。
樫添がぎゅっと黛の服の袖をひっぱった。激しい切り込みを咎めるようにそっと。
本当なら確証を得てからきくつもりだったのに、水月はもうこちらに帰って来ようとしている。
一触即発であるべき二人が離れているうちは大丈夫だと思っていたのに。
「嘘? わたしが嘘を吐く暇なんてなかったじゃない」
「彼はいつでも大量の菓子をもらった、といった。でも庭で生き物を殺して遊んで以来、怒ってお菓子をくれなくなったともいっている」
「懐かしい話ね」
「いつまで呑気にしているつもり? 本当にお菓子をもらえなくなったのは、あんたの方だったんでしょう」
水月はあえて名指ししなかったが、間違いなく生き物を殺して楽しんでいたのは岩尾だろう。
そこから、黛はある想像をしてしまった。
だって、この世には存在するのだ。
死を望む人間が。
「殺しを喜ぶようなあんたを、お爺さんは拒んだ。違う?」
机の上で拳を握りしめる。かたく握りしめた指がてのひらに食い込む。すると岩尾はそっと強張った骨を撫でてきた。
思わず手をひっこめてしまう。ぞわぞわと肌があわだつ。
拒まれた岩尾といえば白魚のような指を胸元に寄せ、クスクスと勿体つけた態度を崩さない。
「柏さん」
「なんだね」
突如話題を振られても柏は当然のようにこたえた。
黛に向ける目とは異なり、興味深そうに覗き見る。
「わたしね、殺されようとしてみたかったの。でもあなたとは違う」
殺されたい。
かつての柏 恵美と同じ望みを岩尾は語る。
けれど黛にはすぐにわかった。
完璧な、ひとかけらの救いもない絶望を求めた柏 恵美。
逃げ道を塞がれ、退路を断たれ、何の報いもない袋小路。
求めてやまなかったのは今の黛が柏に与えている、抜け穴のない支配だ。
岩尾が認める通り、結果だけが同じで目的が異なる想い。
だから黛は話を遮ることはしない。
今の言葉で確信した。岩尾の存在は柏 恵美を殺しえないと。
「私とは違うとは?」
「わたしね、死にたくはないの。とっても生きたいなって思う。でも歳をとるほど思うんだ。世界は私が思っているより安全。
危険物の取り扱いはわかっていて、突然の暴威を叩きつけようと思ったらリスクがともなう。犯罪とか、逮捕とかさ。
安全な場所にいるとどんどん心のなかの『生きている』って気持ちが鈍ってくる。
死に近づいているくせに、優れた医療技術や道具で、惰性で生き延びる老人とかね」
鈍っていく感性。よどみをためていく心。
成長するほど倫理と道徳に縛られて、決まりきったルールを順守することが生きることのように扱われる。
話が進むにつれ樫添の表情は曇り、閂の笑みが深くなっていく。
岩尾はこの場に渦巻く感情を心の底から楽しんでいた。
「黛さん、あなたの推理はあまりにおざなり。でもいちかばちかのギャンブルって素敵。安堵の得られないなかで、必死になって掴み取る希望。錆びついた心にさせる油って、そういう決意や危険だと思うの」
「だから水月を煽ったの」
「ええ。あなたの賭け、とても嬉しかったから教えてあげる。やらなくてもいいことのためにあんな田舎までいってくれた萱愛くんのために教えてあげる。
そう、おじいちゃんはね、わたしが嫌いだったの。生き物を殺すのは悪いこと、こっそり追いつめるのは悪いこと、死に興味をもつのは悪いこと、人がしないことをするのは悪いこと……くだらないでしょう?
せっかくだから利用してみようと思った。人が人を殺すにはリスクが高すぎる。
倫理。道徳。理性。人間が手に入れた理屈を吹き飛ばすくらいの殺意をむけてくれたなら、必死に必死に必死に手足を動かすありみたいな気持ちになれるかなって」
もうわかるだろう。
岩尾はそう言いたげに両手で己をかき抱く。打って変わり感極まった様子でうっとりと頬まで染めている。
周りの大人に発見を熱心に報告する子どものような無邪気さで。
「命を守るためなら命を危険にさらしてもいい。そういう法律があるって聞いたから、おじいちゃんを殺そうとした」
決定的な一言が投げられた。
狩人であり、獲物である少女は軽やかにうたう。
命を守るために魂を削ぐことのなんと愚かなことかと嘲笑う。
「ああ、ようやっといえた。ずっと誰かにいいたくて、でもいっちゃったらオシマイでしょ? だからこれ以上待ってもこれ以上の機会はやってこないって日まで待とうって決めたの」
萱愛と水月をファミレスに呼び出したあの日。
岩尾は自分を守らねば、柏を盾にするといった。
彼女はそういう人間だ。死を招きながら生にあがくためにいくらでも命を踏み潰す人間だ。
命をかけてでも命を守る黛と、命も魂も投げ捨てようという柏と。自分と根本的に異なる生き方を選んだ二人が、岩尾は心底興味深かったのだ。
引き返せない地点まで、柏ばかりと話をして何も語ってこなかったのはそういうことだ。
「あほらしい。そんなことにエミをつきあわせないで」
「わたしみたいな人間から彼女を守るのがあなたの信念なのでしょう? なんならあなたが殺そうとしてくれたっていいのよ」
「ないだろうね」
「ええ、ありえませんねえ。ヒヒッ」
煽る岩尾だったが、いつも通りの調子を崩さない柏と閂がささやきあう。内緒話を楽しむ少女たちの姿に、黛は少しだけ嫉妬してしまう。
そんな場合ではないとわかっていてもだ。自分だけでなく、人がこんなに頑張っているのにマイペースな二人に若干あきれる。
「あなたは黛 瑠璃子という人間を理解しきれていない。苛烈な方ではありますし、軽率な道徳などに囚われませんが、この方はそれでいてなおかつ効率的な脅威を与えるのです」
「あんた私をなんだとおもってんのよ……」
「ルリの支配は完璧だ。私には微塵も死ねる希望がない。本当に完璧なら自分の誘いに乗っても平気なはずだと言われた時は、久しぶりの感覚に思わず懐かしくなったが……君の言う通り何も変わらなかった。幾たびもの困難を乗り越えたルリに死角があると思うのかね?」
揃って評価されると流石に照れる。
落ち着かず体をむずむずとひねってしまう。
だが恥も否定もしない。先程思ったように、柏恵美は死ぬことは有り得ない。
子どもの遊びを続けている小娘に、磨きあがれた黛の覚悟は揺らがない。
今まで黛が対峙してきた脅威は、まさに自分の全てを投げつけてまで意思を貫こうとするものどもばかりだった。
どんなにくだらない輩でも、その点のせいで手こずった。
そのほかの人間など特筆すべきに値しない。
その時を受け身に待つ人間などおそるるに足らず。それは過信でなく事実であった。
岩尾は顔を見合わせて信じあう少女たちを前に、微笑ましげに小首をかしげる。
「仲がよくて羨ましい」
「あんたも水月と相当仲良しじゃないの」
「……そう見える? ちょっと心配だったの。照れるなあ」
嫌味でいったのに素直に受け取ってしまう。
ストローで氷をかきまぜて、カランコロンと音を鳴らす。頬をうっすら染めたまま、はにかんで窓の外に視線をやった。
「年季くん、優しいからね。本当、色々健気で……感謝しているし、ダイスキなの」
「健気?」
「そう。記憶喪失とか?
おじいちゃんがいつも寝てた医療用ベッドのチューブもってベッドの裏に潜り込んで、こう、滑車みたいな感じでぎゅーって絞め殺したのね?
それを年季くんが見ちゃって、黙っててねーっておじいちゃんの机から懐中時計取り出してあげたのよ。結局バレたんだけれど。
ほら、幼い子どもが殺したら問題は親や家族にあると思われるじゃない? だから大丈夫だとはわかってたのよ。幼い子どもは被害者、可哀想っていうのがパターンだから。
そこは別にいいのね。いつも一緒に遊んでくれる年季くんがわたしのこと嫌いになるのが嫌だっただけだから」
どんなに真実を語っても、それを人々が信じるとは限らない。
自分が属さないでいられるグループを悪と呼べるなら、容易く拒んで迫害する。狭いグループであるからこそ、彼女たちの故郷の人々は世間体が穢れることを恐れた。
世間から拒まれるぐらいなら。老人の死を覆い隠すことを選んだのだと、淡々とした過去語りが如実に告げていた。
「警察が来たときは近所のかぼちゃ畑にチューブを放り込んじゃった。凶器が隠されていたってだけで疑われる。白い絵の具に一滴でも黒がたれれば、薄めることはできても白には戻らない。きっと共犯扱いを恐れて、地元ぐるみで口封じ出来るかなーって。
ふふ、あの頃で一番ドキドキした経験だった。今思い出しても楽しい」
黛は思わず舌打ちをして、人差し指でトントンと机を叩いてしまう。
こういった人間は本当に面倒臭いのだ。
柏や樫添のような友人以外はどうなろうと知った事ではない。
今思うのはこんなのに付き合わされる自分と水月が哀れだというぐらい。
「でね、年季くん人殺しは悪いことだって。でもわたしのことも嫌いになりたくないからって嬉しいこといってくれて……それで色々記憶をかきかえてくれたみたいなのね、人間ってすごいなって感動しちゃった」
恋する乙女のようにだらしなく頬を緩めるのが気に入らなかった。
窓際に視線をやれば、黄金の陽が建物の向こうに姿を隠そうとしている。
水月が姿を消したときいて数時間たった。もうそろそろこちらにつく頃だろうか。
十年以上に渡って茶番を見守られ続けたと知ったなら、一体どんな気持ちになるか。
黛も騙されたことはあれど、こんなねじまがった悪意と愛情のものではなかった。
自分は本当に友に恵まれた。
昔からはまるで想像できないほど。
「年季くんのこと、ダイスキだよ。だからあの時みたいな最高の瞬間は、彼に飾ってほしかった」
「……昔、人を殺したくて殺したくて仕方がないクソ野郎に会ったことがある。あいつがもし既に人を殺していたなら、あんたみたいになっていたのかもね」
「そうなの? 是非お会いしたかった! 今ここにいてくれたら、きっともっと楽しくなったのに」
命を危険にさらす状況と、身を守れるチャンス。
二度と得られまい機会と人々がそろって、今こそと岩尾は踏み出したのだ。
かつて少年が自らを捻じ曲げてまで祈った願いを、総て壊そうと。
黛のいう少年がいないことを悔やむ口には達観した笑顔。
胸のうえで指をくみ、うっとりと空に誓いをたてる。
「わたしの幸せを、年季くんにもあげる。わたしのぜんぶをありのまま、あげる」
幼子の頃から抱き続けた願いが言葉になった瞬間、古い一軒家が大きく揺れた。机上のグラスが落ちて中身が零れ出る。
「何、地震!?」
黛はとっさに柏に抱き着いて庇う。
樫添は部屋の扉を開け、脱出路を確保した。動かないのは岩尾だけで、その視線は先程黛が見ていた窓際に向いていた。




