第一話 おじいちゃんの古時計
カチ、カチ。時計の音がする。水月が手元に置いた懐中時計の音。鈍い黄金に輝く細い秒針。
時刻は五時。人の集中力はせいぜい五十分。それも波があり、最も集中できている時間はたったの十五分だという。
しかし二人はかれこれ二時間近く机にかじりついていた。
教える萱愛の方がまだまだ気力充分といった様子である。優しい見た目に反してかなりタフらしい。
真面目であるのは普段の評判からもよくわかる。
「そろそろ夕方になるが、大丈夫?」
「え、ああ、そんな時間か」
窓の外はいまだ明るい。夏のからげんきじみた底なしの陽光が降り注ぐ。首筋に生暖かい汗がつたう。しかし幽かなオレンジが外界に滲み始め、萱愛の夕飯時が心配になってきた。
「ねえ」
問いかけると萱愛は時間の経過に今気づいたという様子で顔をあげる。
そして周囲を見渡し、首を傾げた。
「この部屋、時計がないのか?」
「ん? ああ。妙に気に食わなくてね。時間なら太陽とこれで十分さ。正確な時間が知りたいのかい」
「いや、そうじゃないんだが。夕飯もあるし五時くらいには帰らせてもらうけれど、ちゃんと範囲ぐらいは教えておきたい。水月が嫌じゃなければ」
「なんでそんな気にするんだ。こちらが感謝する立場だよ。あー、悪いんだけれどこの家、時計じたいなくって」
自分でも不思議なのだが、この時計以外の秒針は耳障りに思えて我慢ならないのだ。
家を借りた際に元々あった時計は掛け時計だろうが置時計だろうが、すべてダンボールに入れて物置にしまってある。別段正確な時間がわからなくても困らない。デジタル時計もしまった。
「そ、そうなんだ」
「まあわざわざ時計がなくてもスマートフォンでもわかるし」
若干ひかれている気もするが仕方がない。自分でも少々やり過ぎな気がする。
懐中時計があるとはいえ、近頃よく止まって気づくたび調整しているため、とても正確とはいえない。
スマートフォンの時刻表示を見ればわかるがそちらもあまり好きではなかった。
渋々スマートフォンの電源をつける。ブルーライトを発するディスプレイの明滅。
「五時半。ごめん、ちょっと過ぎたね」
「そうか。じゃあ帰るよ」
「ありがとう、助かった」
照れたように微笑んで、萱愛は教科書とファイルをいれたプリントをリュックにしまう。
そこでリュックからコール音が鳴り響く。相手をみて萱愛はやや大げさに声をあげた。
「電話……あ、黛さんだ」
「気にせず出て」
うながせば会釈をして電話に応じる。
彼がこぼした名前――おそらく苗字。マユズミ。よくあるものではないはず。
なのに微妙に聞き覚えがある気がする。
相手は萱愛と比べて年上なのだろう。萱愛は敬語で話し合っていた。
「え、今から? 別に俺は構いませんが。……そこですか、すみません、ちょっと今いるところからだと遠いです。電車に乗ってきたから、えっと、今からだと……」
困ったように頬をかく。決して嫌がっているわけではないのは惜しむような口調から察した。
彼はスマートフォンのディスプレイをタップして何か検索している。
どうにも自分にかまっていたせいらしい。罪悪と責任を感じて、おせっかいだと思いつつ口を出す。
「どうしたんだ」
「ああ。ちょっと先輩が六時くらいに夕飯を食べないかって」
「徒歩? じゃあ送っていこうか。オレ免許もってるから」
こちらは田舎というほどではないが都会でもない。
向かう先によっては数十分ホームで待つこともある。下手をしたら車の方が楽で早い。駅から徒歩でどこかに移動するならなおさらだ。
萱愛は一瞬笑みを浮かべた後、顔をしかめる。
「そういうわけにはいかない。俺の都合なのに君に悪いよ」
「じゃあ今回の勉強のお礼ということで」
「……そういうことなら」
「よかった」
ようやく頷いた萱愛に肩の力が抜けた。自分も自分だが真面目過ぎるというのも困りものだ。
車の鍵をもって降りていく。外にでると少し雲が出て来ていた。
湿った風が頬を撫でる。夕立でも来るかもしれない。やはり送ると言い張ってよかった。
ガレージに入っている車は二台。一台はクリーム色の大型車。
家族で乗るために買ったという親戚家族のものだ。鍵は預かっているものの流石に使う気になれない。
もう一台、濃い水色の軽自動車が水月の愛車である。
遠出することにためらいはない。水月は自宅謹慎とはいっても本当に家からでないほど真面目ではないのだ。
運転席に座り、扉を開けようとしたが何も言わずとも後ろに乗り込む萱愛に苦笑する。本当に真面目だ。
「それでどこに行けばいい?」
たずねると萱愛は電車に乗れば三駅ほどいった町の名を告げる。
駅近くのファミリーレストランで集まるのだという。
遠くはない場所とは言えども特徴のないチェーン店。説明されても具体的にどこにあるのかわからなかった。
結果的に指をさしながら説明してもらい、言われた通りに進むという形になった。
一時間もせず着く。萱愛ナビゲートのおかげで沈黙に困ることはない。話題にはやや困るが。
互いに悪印象を抱いておらず、世話焼きな性分なのも同じとはいっても、ほぼ初対面である。
分かれ道があればどちらに進めばいいか尋ねる。萱愛が答える。会話はそれだけ。
だんだんと気まずくなってくる。
このまま終わらせてしまってもいいのだが、それは惜しく思えた。
先ほどの岩尾との会話のせいだ。
岩尾を殺す。
冗談にしてもあまりに突拍子もない。つまらないとすらいえない悪質なものだ。
しかし岩尾なら本気かもしれない、と思う自分がいる。
そして何より戸惑うのは自分自身。どことなく、それもありだ、と感じている自分がいた。
夏は苛立つ。感情が荒れるとともに理屈を失った暴力に魅力を感じることはままある。
だが水月の根底は怠惰と悪意を憎み、和をよしとする善良な一般人のそれ。
自分がそんな風に感じていることに、かつあげ犯たちを殴った自分こそが本当の自分なのではないかという不安が襲う。
もしそれが自分の本性だったなら?
自分のことは自分が一番知っているだなんてうそっぱちだ。カウンセリングの勉強をしているとよく思う。
他人を拒絶する自分を否定するために、誰かとあたたかいコミュニケーションをとれる自分を確認したかった。
適当な話題が流れてこないだろうかとラジオをつける。しかし流れてきた音楽に思わず繭をしかめた。
わかりやすい四拍子。ポップで明朗なリズム。リアリティのない愛嬌をふりまくアニメ声。
製菓会社が発売した夏の新作キャンディーのCMだ。
飴がどの程度人気なのかは知らないがよほどの自信作なのかテーマ曲まである。
水月は甘味の類が苦手だ。特に飴は大嫌いといってもいい。
砂糖のかたまりにカラフルな色あいは言いようのない不安を覚える。曲の半ばに至る前にダイヤルを変えた。
それだけならいいが苛立ちのせいで乱暴に回してしまった。
単に水月の神経質と好き嫌いの問題なのに、萱愛は自分のせいだと思ったのだろうか。口を開く。
「俺が来る前に誰か来てたみたいだが、俺のせいで帰ったのならごめん」
「んっ!?」
予想外の謝罪にすっとんきょうな声がでた。
「まあ、確かに来てたけど。自分から帰るっていったし、萱愛くんは全然悪くないよ。でもなんでわかったんだい?」
「俺が部屋に入ったとき、グラスが二つあったから。最初は俺の分かと思ったけどすぐ片づけてたし、コースターに水がしみてたからおかれて時間が経ったものだろうと思ったんだ」
「ああー、なるほど。面白い、よく見てるな」
そんな何気ないことを見ているとは思わなかった。
ミステリーの探偵のような推理に素直に膝をうつ。
そういう風にみれば実際にその場におらずともいろいろ推測できるのか。
萱愛をバックミラーでみる。最初は気まずそうにしていたが水月が感嘆すると少し目を開き、次いで照れたように微笑む。
「何人か目を離しておけない人がいて、つい気になるようになっちゃったんだ」
「へえ? オレにもそういう知り合いがいるけれど、君の友達も面白いんだね」
これだけ真面目で世話焼きな性分であろうから、自分から面倒をみにつっこんだのかもしれない。あるいは巻き込まれたか。
簡単に想像できるのが笑える。目を離しておけないという意味では岩尾も似たような存在だが、自分がそういうことをできないあたり、萱愛の友人は相当らしい。
「オレの知り合いはいつもフラフラしててね。いつかとんでもないことをやらかすんじゃないかって心配なんだ。そういう子にはどう接したらいいかな」
というか、先ほどとんでもないことを言ってきたばかりなのだが。
いつもは適当に流すか、見張っていて何かする前に手をさしのべればどうにかなった。
しかし此度は自分に、自発的に行動しろと求められている。
不注意かもしれないと思いつつ、つい聞いてしまっていた。
「うーん……」
萱愛はうなって腕を組む。冗談めかして問うたものの萱愛は真剣に考える。
「思い込みで過干渉しても、相手のためじゃなくて自分のためになる。気を悪くしたら悪いが聞かせてほしい。思い込みとかじゃないんだよね?」
「思い込みでないかどうかはわからない。ただ……なんというか……ふっと消えそう、というか……好奇心で、殺されたがるというか」
最後の一言は余計だったか。だが事実だ。
信号が赤になった際に、またバックミラーでおそるおそる確認してみる。
からかわれたと思って不機嫌になるか。肩の力を抜いて笑うか。突拍子もない一言に戸惑うか。
あったのは、相も変わらず――いっそ不自然に思えるほど変わらない真摯な表情だった。
「俺の知り合いにもそういう人がいる」
「いるの」
「確認するけど、その人『柏 恵美』っていう女のひと?」
「いや、違う」
「そうなんだ……」
目頭を押さえた彼の内心をうかがいしることはできない。
そのカシワ エミという女性は相当というか、壮絶なのだろうか。
「誰かが死にたがるのをやめさせるという意味なら、これから会いに行く人が一番知っているよ。でも彼女が相談に乗ってくれるかはわからない」
「……話に乗ってもらった身で申し訳ない。なんでこんな、本気にしてきいてくれるんだ」
「何かあってからじゃ遅いから。さっきもいったけれど、そういう人がいるのは知っているし。それに、冗談めかしていったのかもしれないけど、全然そんな顔じゃなかったよ」
水月くんって意外とごまかすの下手なんだね。
よりにもよって萱愛に指摘され、眉間にしわが寄る。
いわれたばかりなのに早速ごまかすことができなかった。
悔しいような、照れ恥ずかしいような。そんな心地がした。
車の窓をあけ、いきなり大量の風をいれてやった。「うわっ」と叫ぶ萱愛の声が車内に響く。
ふきこむ風が熱い肌を急速に冷やしていった。すうっと胸のつかえが落ちるような心地がとてもいい。
そのあとは適当な話をして時間を過ごした。一歩踏み込んだおかげか相手の顔色をうかがうようなことは少なくなった。
それでも、デリケートな問題でもあるのか友人の話はあまり出ない。
あとは学校生活や就職活動の話。彼は大学よりも高校から関係が続いている友人のほうが多いらしい。今も休日に時々会うことがあり、今から会いに行く黛という女性もその一人なのだという。
どんな人なのかと聞いたら口ごもられた。
決して悪人ではないという。ただ一言でいうには表しにくい。
複雑で、そうなるだけの背景と強い意志を持った人なのだと。
もしかしたら自分との関係も友達とはちょっと違うかも、と彼は苦笑する。
懐かしさを味わうような、痛みをこらえるような笑顔。
それは友人を語るというよりは戦友を語っているような印象を受けた。
戦場を知りもしないのに、そう思う。
たどり着いたファミレスはテレビなどでも目にする、実にメジャーな看板を掲げていた。
駐車場に車を止めると後を追うように見知らぬ車が入ってくる。
夕食時が近いだけにだんだんと人が増え始めていた。学校帰りの学生らしき姿もある。
「ここで大丈夫か」
「ああ、ありがとう」
ドアを開けて萱愛をおろす。危ないので萱愛が去ってから車を出そうと思ったのだが、礼をいっておりたまま動こうとしない。
「なにか忘れ物でも?」
「あれ。一緒に行かないのか?」
「……え?」
「さっき、これから会う人のほうが助言できるっていっただろ?」
いった。だが自分はそれに対し何もいわなかったことを思い出す。
そこまでしてもらうのは悪いと示したつもりだったのだが、肯定ととられたようだ。
「呼ばれたのは君じゃないか。初対面のオレがいきなり行くのはさすがに悪いし」
「話をきくだけだよ、大丈夫」
そんな言い方ではますます不安になる。あいまいな相槌を打ちながら頭を動かす。
あれだけ遠慮がちだったから気が弱いのかと思ったら、意外とおしが強い。
手を軽くひかれて水月は思考する。
黛さんには悪いが持ちうる手段は多いほうがいい。
岩尾が冗談で言った可能性は捨てきれないがまた同じことがないとも限らない。話してみたいと望む自分がいるのは事実だった。
迷う素振りをしつつも結局水月は相手への気遣いより自分の欲を優先させることにしたのだった。
もしかしたら迷う自分を説得してくれることを最初から期待していたのかもしれない。