プロローグ
人間から人間性をとったら何が残ると思う。そう聞いてみた。
彼女は言った。それは平和だと。
寸分の狂いもなく、あまりに正確で矛盾一つない完全な平和。
おおよその人間にとって、価値のないそれだと述べた。
「年季くんは、どうしたい?」
下唇に手を当てて、幼馴染は囁く。麦茶で湿らせた唇はしっとりとうるおっていて、妙にどきどきする。どうしたい、とはなんだ。人間性を捨てるかどうか、という話か?
窓からビームのような陽光が降り注いでいる。窓際によるだけで彼女の白い肌を真っ赤に焼いてしまいそうだ。
心配する一方で、意図を理解しきれずに戸惑う。
ふと思ったから。水月 年季が質問した理由はそれだけ。ただ、ふと思ったから問いかけた。実にシンプルで明瞭だ。
くだらない質問でも、彼女は彼女なりに答えてくれる。真剣である必要はない。それでも、ちょっとだけこちらに寄ってくれる。そういうところが好きだった。
「どうしたいって」
「うーん。そうだなあ、最近暑いと思わない? まだ五月なのに」
麦茶が美味しいね。また一口、透明で冷たいグラスに手を触れて、呑み込む。上下する細い喉。
彼女、岩尾 千鶴の言う通り、六月が近づいているとはいえ蒸し暑い。
「ああ、暑い。それが?」
「だから、気になるんじゃない?」
「だから、何が」
要領を得ない会話に、少しイラついてくる。岩尾の態度はいつも通りで、普段は慣れたものだと流してしまえるのに。
この季節になると、とてもイライラしやすいのだ。理由もなく、しょうもなく。
「夏だからだよ。あたしたちが小学生にあがるまではさ、年季くんのおじいちゃんのおうちに遊びに行ってたなあ」
「言われてみればもう随分行っていないね、昔は夏が楽しみだった」
「おじいちゃん、死んじゃったものね。ねえ、おじいちゃんに貰った時計、どう? 最近、調子悪いって言っていたよね」
ああ、そうか。祖父が死んだから、今はもう嫌いなのか。
岩尾の言い分がやけにすとんと胸に落ちた。
他人がきけば不明瞭な言葉も、自分がきけばよくわかる言葉になる。それは水月にとって自慢のひとつだ。
恥ずかしくて誰にも言えない自慢。こっそり隠す優越感。
「そうなんだ。いや、時間は正確に動くんだが気付くとちょっとずれてて」
「へえ」
気のない声をあげ足を広げてくつろぐ。ゆるく波打った髪が重力に従って落ちる。
女性らしく足を閉じたまま床に寝転がってゴロゴロと転がっていく。器用なものだ。
別に欲を持て余しているわけではないが、親のいない男の部屋にいる。彼女はそれをちゃんと理解できているのだろうか。時々心配になる。
謹慎を食らって家に閉じ込められている水月に心配されるのも余計なお世話かもしれないが。
「じゃあ、あたしもひとつきいていい?」
「ああ」
「なんで同級生を殴ったの?」
ストレートな問いに苦笑が漏れた。
「いきなりだなあ」
これまた人のことはいえない。
「イラついたんだよ。いい歳して、しかもカウンセラー目指してるとかいっておいて。くだらないことに執着してちっちゃいことしてるから」
「ちっちゃいこと?」
「カツアゲ。やってたやつらはどうでもいいが、やられてたのは誰だっけな。ああ、えっと……」
そう。萱愛。萱愛 小霧。男にしては可愛い顔の生徒。
疲れて机につっぷして寝ていたら、不快な侮蔑の声が聞こえてきたから。
「寝ぼけてたのもあるけど、まあ、殴ったのはよくなかった。当然の報いさ」
「ふーん」
自嘲の笑みに返される笑み。岩尾の笑顔は種類がとてもわかりにくくて、愛情の笑みにも
同情の笑みにも、嘲笑にも見えてしまう。
「案外そうでもないんじゃない?」
「え?」
「窓の外。暑いなか、よくやるわね」
岩尾が指した窓の向こうを覗き見る。一瞬、太陽が生白い眼球を容赦なく焼く。
痛む網膜にうっすら焼きついたのは心なしか見覚えのある背格好。
「……誰」
「玄関に降りればわかるでしょう? じゃあ、あたし裏口から帰るね」
「え? なんでわざわざ裏口に……ていうか別に帰らなくても」
「いいの、そうしたいんだから。それに、」
キュッと瞳が三日月形に歪む。光さえ差し込まないほど細くゆみなりになった黒目は、どこまでも深い。同じく三日月形になった唇には、悪戯っぽくてのひらを重ねている。
「そろそろ知りたくない? 夏が嫌いな理由。時計が直らない理由」
「別に……」
「もし、知りたくなったらね」
あたしのこと、殺しに来てね。待ってるから。
「は?」
まるで繋がりがわからない。
どうして夏が幼馴染を殺すことに繋がるのだ。
「じゃあまたねー」
呆気にとられて口をあんぐりあけて固まる水月と反対に、岩尾は朗らかな笑みで手を振る。半袖のTシャツから生白い二の腕がちらちら覗く。
そうして静かに扉を閉めてしまう。はっとして立ち上がった。しかし鳴らされたインターホンに反射的に足が止まる。まるで見計らったようなタイミング。いや見計らったのは岩尾かもしれない。
舌打ちをして部屋を出る。足を止めたとはいえ大した時間はたっていない。小さな背中はいまだ階段。階段をスキップのように駆け降りていく。
水月は少しだけ考え、このまま岩尾を帰らせることにした。
気になりはする。けれど今玄関には訪問者がいるはず。岩尾がマイペースなのはいつものこと。きっと例えをまじえて話そうとして言葉が足りず、比喩の部分だけいってしまったのだろう。
これが今生の別れというわけでもなし。何をいいたかったのか確認したいならあとで電話でもすればいい。
表玄関の裏の方。家の周りはコンクリートの塀で囲まれている。裏口から出ても道は狭いうえにゴミ袋が置かれてやや臭う。塀と裏口の距離は一~二メートル程度しかない。ほぼゴミの日までいらないものを置いておくための場所。
わざわざそんなところを通るなんてつくづく物好きだ。
他人にはとてもではないが知られたくない。訪問者とかちあわないことを願う。
そのためにも水月は慌てて表玄関に向かった。
「お待たせしました。失礼ですがどなたさまでしょうか」
玄関のすぐ横に設置された機械から問う。セールスか親戚の知り合いの可能性も考え、敬語で応対する。おおよそ大学の誰かと予測してはいるが。
返ってきた声は若い。やはり聞き覚えがある。
「水月さんのお宅でしょうか? 俺、同じ大学の萱愛です」
「……萱愛? わざわざどうしたんだい」
名を聞いてすぐに玄関扉を開けた。一人の若者が立っている。
容赦ない陽光の下、彼のしめった肌に小さな玉の汗が浮かぶ。
自転車や車の類は見受けられなかった。駅からここまで歩いてきたらしい。
少し幼い印象は大きな瞳のためか、情熱を抱く若い表情のためか。
ディスプレイ越しに見えた顔立ちは、名乗られてみれば確かにあの時庇った若者だ。
はっきりとした物言いには彼の信じる気持ちの強さが端的に表れている。
別の意味で幼い同級生たちに囲まれている時もこうして毅然とした態度をとっていた。だから余計にカツアゲどもが愚かしく見えたのだ。
少しずつ記憶がよみがえってくる。
しかしどうして彼がここに。彼は被害者だ。
彼に対してではないとはいえ、加害者である水月のところへ来た理由がわからない。
まさか自分の行動のせいでカツアゲの行動がエスカレートしたのだろうか。
だとしたら本当に申し訳がない。自分の直情を罵るばかりだ。あの馬鹿どもを笑えない。
「オレのせいで余計に迷惑がかかってしまったのかな。すまない、極力もうつっかからないようにする。許されるなら何か詫びを」
「え、違いますよ! 俺は助けてもらった立場ですから。勿論暴力はよくないです。だから肯定はしませんが本当に感謝しています。何か言う間もなく先生に連れて行かれてしまったから、ちゃんと言わなきゃと思って」
途中で慌てて水月の予想を否定してくる。
心のなかでほう、と感嘆の息をつく。
あまりにもありのまま正直に言い過ぎている。だがきちんと自分の意図を伝えようとするのは見事だと思ったのだ。畏怖の念すら抱く。
カツアゲされていた時もこうして『自分の考え』を『正確に』伝えたはず。結果として相手を煽ってしまったのだろう。萱愛の代わりとばかりに水月も殴り返された。
世の中きちんと相手に向き合う人間ばかりではない。なのに自分を保つ。
それはとても難しい。痛みを伴う。
茨の道だ。ひどく生きづらいだろうなと思う。もし自覚したうえで歩んでいるなら凄まじいことだ。
「そうか……殴ったことは反省している。つい頭に血が上ってしまった」
「あまり話したこともないのに」
「真面目だからな、君。ちゃんとした奴が馬鹿の食い物になるのがムカついたんだ。夏だし」
最後の一言は余計だったかな。少しぼうっとする頭で返す。
水月もまた思い切ってすっぱりといってみた。罪悪感はあるがそれ以上にすかっとする。
萱愛は乾いた声で笑う。彼の言う通り入学時のオリエンテーションやプリント配布ぐらいでしか話したことがない。だが妙におちつく。
未熟の漂う若さ。反してまとっている余裕のせい?
誰が見たって若いと思う。なのに大人びているとも感じる。
面白い奴。素直にそう思った。
何かまだ言いたいことがあるのか萱愛は玄関先にとどまっている。日はまだ高い。もうすぐ最も暑い時間帯にさしかかるだろう。
「日向で長々と、悪い。暑いだろう」
「別に大丈夫。そうだ、学校のノートとプリントを持ってきてる」
「本当になにからなにまで……あー……よかったら家の中に入る?」
礼をいうだけでなく勉強の配慮までしてくれている。
どこまでお人好しで真面目なのだ。水月の行動は完全に水月だけの責任なのに。
冷たい茶のひとつも出さず追い返すのは心苦しい。結局は自分が負い目を感じたくないだけで気まずかった。それでもと恐る恐るきく。
萱愛はただでさえ丸い目を更に丸くした。そうするとますます若く見える。
そして心なしか嬉しそうに頷く。
「そうだ。えっと、遅れないように勉強を教えさせてもらってもいいかな。プリントとノート持ってきたから」
「それは……願ってもないというか、許可を願うようなことじゃあないと思うんだが……」
初めて萱愛がいいよどむ。『遅れないように』『勉強を』のあたりではつらそうな顔をして。
「ありがたいが無理しなくてもいいんだよ。オレがしたことに君はなんの責任もないし、オレも君になにもしないから」
「ああ、違うんだ。そういうことじゃない。個人的なことを思い出しちゃって……気にしないでくれ」
微笑みながらも首を横に振る萱愛は、一瞬どこかを遠い目で見やる。
きっと何かがあったのだろう。いくら親切だからといって水月にはそこに踏む込む権利はない。完全なる野次馬だ。あの馬鹿どもと同じである。
「そうか」
短く相槌をうって二階に通す。散らかっていたグラスを片付け、くつろづように告げた。
ここは親戚の家である。だが彼らは一年をほとんど異国で過ごす。ハウスキーパーを兼ねて借りた一人暮らしだ。気にする人は誰もいない。
ちょっと変わっているが、実に日常。みんなこんなものだ。悩んでぼうっとしてのんびり暮らせばいい。苛立ちはいずれ過ぎる。今日も明日も明後日も。
そのはずだった。




