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第九話 ありときりぎりす


 倫理を得るから人間なのか。

 倫理を裏切るから人間なのか。

 水月 年季は思い悩む。

 さも他者の踏み出さない道を歩むことは優れているようにいう人間もいる。だが人間は道を選べる生き物だ。

 時計は決まったしくみのなかで時を刻み、規則正しく教え続ける。

 蟻は前を歩いた個体の後ろを追って職務を忠実にこなす。

 人間はどちらにもなれるし、ならないこともできる。

 あまりにも多様だ。

 水月 年季は足踏みする。

 黛さんは自らの意思で道を拓く。今の水月には、他者を守り続けることがどれほどの覚悟と労力をともなうものかよく理解できた。

 萱愛もそうだ。誰かを信じ、救い続けることは自ら鋼鉄の処女に抱かれるようなもの。

 そして、岩尾もまた己の道を歩む。どんなおぞましくとも道は道。

 道に正しさなどありはしない。あるのはどれを選ぶか、それだけだ。

 水月 年季は岐路に立っていた。

 倫理に従うべきか。倫理を裏切るべきか。

 水月 年季という人間がどのような人間になるのかを、今はっきりと選ばねばならない。

 自分の意思で。



 衝撃が岩尾家を襲った。

 他の少女たちの動揺も裏腹に、岩尾はうっすらと笑みを浮かべていた。


「年季くんだ」

「なに?」


 何をもって確信するのか。

 空恐ろしい予感に震えるほど黛 瑠璃子はやわでない。

 進行方向に立ちふさがる丸テーブルを適当に蹴り飛ばす。そのまま窓際によって外を見た。


「冗談でしょ」


 車が一階に突き刺さっている。

 そこから酩酊したような状態で出てきたのは水月だ。


「まともじゃない」

「そうみたいねえ」

「そうみたいって、大切にしてるとかいってたじゃないの」

「大人になると便利よねえ。わたしが子どもの頃は包丁をもつのも警戒されたものだけれど」


 急な話題の転換に戸惑う。

 岩尾は落ちたグラスを拾い、立ち上がる。


「手段が増えるってそれだけで強み。それでいて、余計なものまで得ようとしなければますます強い」

「――そういうのは自暴自棄っていうのよ」


 成程。岩尾は幼馴染が凶行に及ぶ際、それがよりうまくいくようお膳立てしてやったということか。

 臆病で、神経質で、人並みの倫理観をもつ。

 それを上回る殺意を抱かせるために、十年以上に渡って騙し続けた。

 だが、攻撃的な行動に出る為には様々な要因が絡む。

 夏という季節を狙ったのは怒りやすくなるから。

 萱愛をカツアゲしようとした同級生を殴ったという話から、相当ストレスを感じるようになっていたのは予測できる。

 年を経るほど、心の底では自分をごまかしきれなくなっていたはずだ。ストレスとはその摩擦。


「誰かを傷つけようと思っても、その境界線を越えるのは簡単じゃない」


 社会的な生物である人間には倫理が刷り込まれている。

 本来真面目な、水月のような人間ならなおさらだ。

 同じように真面目な人種である萱愛も誰かを傷つけたことはある。だがそこには「相手が間違っていて自分はそれを正すのだ」という大義名分があった。

 様々な小物たちも、口だけで攻めて実際に手を出すことははばかった。あるいは大義名分を必要とした。

 それらすべて超えても、まだ武器をもって襲いかかる、というハードルがある。

 包丁。カッター。紐。

 簡単に思いつく凶器らしい凶器は、使い古されたものであるがゆえにすぐ他殺とわかる。

 それでは罪から逃れられない。

 罪から逃れて敵を排除する方法は、慎重であると同時に繊細だ。

 対策をたてられるほどリスキーになる。

 だから全部投げさせた(・・・・・)


「そういや免許もってたっけ……ちっ」


 萱愛が水月を連れてきた時、確かに運転をしていたのは彼だった。

 いったん家に帰った後、車にのって岩尾家に来て、そのまま突っ込んだ。

 そんなところだろう。あまりに単純すぎて、冷静になればすぐわかる。

 まさに見ればわかる単純さだ。

 通報されれば十数分で捕まる。


「ふふふ。きっとあとのことなんてなーんにも考えないで来てくれるだろうなあ。死にもの狂いの人間って好きよ……」


 変わらずうっとりと自分の世界にひたっている岩尾。

 ただ殺されるのを待つ岩尾は呑気なものだ。


「ふむ。最後の瞬間に至るまで気は抜けないぞ、岩尾くん」

「あっ、そうね……一応わたしも抵抗してみるつもりだし。最後の瞬間まで迷わないでいられるか、ちょっと不安かも」

「頭のなかでビジョンができていても、いざ手を触れればまたハードルが現れる。生まれもっての『狩る者』でないとこういう時大変だな」

「ねえ。まあ、そういうところが可愛いんだけれど」


――エミもエミだ。

 まるでコイバナのノリである。

 萱愛が親戚の家に行っている間、ずっとこのノリだったのだから頭が痛い。

 まさか自分が必死に彼女を守ろうとしていた時、裏でこんな会話をしていたのだろうか?

 ……いや、さすがにそれはないか。ないよな?

 樫添や自分ではこのノリについていけない。閂はヒヒヒと笑ってたまに口を挟むだけ。


「ヒヒヒ」


 ほら、こんな風に。


「水月 年季さん――その男、愚か者ですね」


 ……ん?


「なんていったかしら」


 岩尾の声が凍る。先程までだらしなく緩んでいたまなじりが、今や全く笑っていない。

 柏から目を離して、じっとりとした視線で閂を睨む。


「ヒヒヒ。だから、不幸にもあなたにまとわりつかれたその男。水月 年季はとんでもなく愚かで、それでいて甘えたクソガキだといっているのです」

「……いきなり人の幼馴染を罵りだしてどういうつもりなの?」

「幼馴染とはまた遠回りな言い方をなさる。素直に恋人といったらどうですか?」


 閂はこの非常事態に一体何がしたいのか。

 自分は対策のたてようもないほどストレートに突っ込んできた相手にどうしたものか悩んでいるというのに。

 これだけ堂々振舞ってきた岩尾を煽っても意味がないだろうに――そう思って岩尾を見やり、驚く。

 赤くなっていた。

 瞳がうるみ、耳まで染まって、あわあわと唇をわななかせている。


「こっ……そういうんじゃないったら! 幼馴染だからってそうなるとは限らないんだから!」

「おやあ? 先程まであつーい告白をしていた方とは思えませんねえ?」

「あれは、あれは違うの! 違うもの!」


 何が起こっているのだろう。茶番か?


「だいたいねえ、閂さん? あなたがよく名前を口にしていた萱愛くんだったかしら。彼だってそんなたいしたものじゃないでしょ」

「……はあい?」


 かちん。ジッポライターの蓋を開けたような音が閂から聞こえた気がした。

 ようやく黛は理解する。

 恥ずかしながら黛 瑠璃子、大学生に至っても男性とお付き合いというものをしたことがない。

 異性は元より友人関係にも興味がない数年をおくり、ここ数年は柏 恵美に夢中であった。

 したがってこれから目の前で繰り広げられようとしているものは、半ば彼女のなかで都市伝説化した概念だった。

 信念と信念の戦いではなく。自殺者と殺害者、妨害者の戦いでもなく。

 古今東西あらゆる場所で繰り広げられてきた仁義なき戦い。

 女と女の戦い(キャットファイト)だ。


「あなたが萱愛氏の何を知っていると?」

「知らないわよ? でもカツアゲされて黙ってるような意気地なし。後手後手にまわるどんくささ。黛さんにこきつかわれて女の尻に敷かれるような奴――最後のはなしね。なんにせよそんないい男に思えないんだけれど」

「黙れ、クソアマが。萱愛氏は呆れるほどにお人好しなのです。それは弱点ではありますが欠点ではない、それで救われた人間がいる」

「その救われた人間があなたってわけ? ふん、人に手を差し伸べるのなんて『みんなのために』なんていう大義名分に囚われているだけよ」

「その大義名分に負けた女が何をいっているのです?」

「負けた?」

「ええ。水月氏は倫理観からあなたとの真実の記憶を封印していたに過ぎない。大義、倫理。それを守るためにならあなたとの大事なはずの記憶(・・・・・・・・)を改竄することぐらい厭わなかったということですよ?」

「…………」


 岩尾の笑みが盛大にひきつった。保たれ続けた余裕が完全に崩される。

 ああ、こりゃだめだ。呆然とする黛の隣、樫添は思った。

 こうなった恋する乙女はとまらない。

 岩尾と閂は互いに向き合う。

 冷たい視線がかちあった。

 最近の閂はかつてと違ってはっきりと顔を出している。やや色の異なる両目はかつては恐怖の象徴だった。

 それも随分と愛らしいものになっていたのだが。


「…………」

「……ヒヒッ」


 先に手を出したのは岩尾だった。

 パン、という乾いた音が室内に響き渡る。ほんの数秒間、完全な沈黙が下りた。

 一階の壁が崩れる音と野次馬の騒ぐ声があまりに明瞭に聞こえた。


「ヒヒヒヒッ」


 ついで閂が一歩前に出る。

 胸と胸がぶつかり合いそうなほど近づき、そして思い切りかぶりを振った。

 頭突きである。


「いぃった!」

「当たり前です。わたしも痛かったのですよ」

「…………」

「…………」


 岩尾は閂の長い髪を掴み、体を折らせるとその腹に拳を叩き込む。

 えづいた閂は、倒れることはなく岩尾の服をにぎりしめ、そのまま足払いをかけた。

 払われた岩尾は倒れ、先程黛が蹴り倒したテーブルの脚に頭をぶつけた。


「この女! 優しい男なんてどうせアンタ以外も助けるのよ! 見ず知らずの年季くんを助けようとしたみたいに!」


 岩尾、立ち上がる。額に一筋の赤い滴が伝っていた。


「貴様は何もわかってないんだよクソが! それが萱愛氏の信念なのです、侮辱することはわたしが許しません! 優先してくれないのは許せませんがね、たった今、みじめなあなたよりマシだと思えましたよ!」

「尽くす女ってかぁ!? わたしはずっと年季くんを見守ってきたの、その生き方にまで深く食い込んでるの。ただ生温く幸せにしよう守りあおうだなんて考えではここまで食い込めないわ。その幸せはあなたにはわからないでしょうねえ!」

「はんっ! わたしは萱愛氏に『大切な人だ』と明言してもらったこともありますよ? あなたみたいな愛し方でそれがありますか?」

「愛情ってのは人それぞれなのよ!」


 胸倉をつかんでは押して押されの攻防を繰り返し、罵り、気にしていることを指摘しあいながら殴りあう。

 お互い可愛らしい性格ではないだけに、一撃一撃に気合いが入っている。

 日頃威圧的な存在感を放つ閂だけに、まさかの喧嘩に動揺してしまう。


「黛氏!? 何をしているのです!?」

「えっ?」


 いきなり呼びかけられて思わず肩を跳ね上げた。

 別に自分は萱愛の悪口はいっていないのに。便利屋扱いしているのが気に障ったのだろうか。

 しかし、かちあった視線のなかにわずかだが冷静な光を見る。


「――なるほどね」

「いやあ実に激しい戦いだ。かけらの容赦もない。恋愛ごとに熱心なわけではなかったが、これを見せられると彼氏とやらがいるのもいいかと思ってしまうね」

「寝言いってないでこっちきて、エミ」


 まだエミに彼氏ができるのは覚悟が足りない――という呟きは胸のうちにしまい、細い腕をひっぱる。

 岩尾は新たに現れた怨敵に集中している。

 この間に脱出するのだ。

 岩尾は水月への対抗手段、黛に喧嘩を売って自分の命を危険にさらす楽しみのためにエミを使う気でいる。

 あの状況でエミに手を出せるとも思わないが、距離を取るに越したことはない。

 そして水月は柏に興味はなかろう。

 今のうちにでてしまえば安全というわけだ。


――いい仕事だ、閂。


 残りの問題は水月だが、さて。

 歩きながらスマートフォンを取り出し、通信履歴を確認する。

 そこには確かに「数分前に到着した」という旨の連絡が残っていた。


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