第八章 南から来た少年、東から来た少女 第七話
黒と金を基調とし、華やかな飾りの施された第一礼装に身を包んだ宮廷騎士団が、パレードの先頭を行く。馬も馬車も普段より飾り立てられ、深い青のトランセリアの国旗が、騎士団の旗と共に幾つも幾つも幾つも翻る。
天蓋を取り払った純白の馬車にアルフリートとシルヴァが立ち、沿道を埋め尽くすセリアノートの市民達に手を振って応える。万歳の声が波の様に途切れる事無く続き、人々は二人の婚礼を心から祝福していた。縁起物の銅貨や祝いの菓子が続く馬車から次々と撒かれ、子供も大人も我先にとそれらを拾い集めた。
フランクを除く閣僚も馬車の上から市民に応え、さしものユーストもこの日ばかりは馬車を敬遠するわけにもいかず、青い顔をしながらもどうにか笑顔を保って手を振っていた。貴族的なルックスで人気のある宰相の、ファンとおぼしき若い女性の声があちこちから聞こえるのだが、それ所では無い彼は何処を見ているのやら視線が定まらず、同乗した副官のディアナとエレノアは気が気では無い。
やがて見事に礼装を着こなした三人の将軍が、威風堂々と馬を並べて現れるや、歓声は一段と高まり、子供達からも彼等の名を呼ぶ声が掛かる。日頃から市民に触れる事も多い三軍の騎士に憧れる少年は多く、『三枚の盾』の名を知らぬ市民は一人とて居なかった。パレードに参加した騎士を夫や恋人に持つ者達が、一目その晴れ姿を見ようと詰め掛け、手を振って大きな声で名前を呼ぶ。彼等よりも任務に就いている方が遥かに数は多いのだが、大通りを行く一万に及ぶ騎士団は圧倒的な迫力と興奮をもたらし、市民達は声が枯れるまで声援を浴びせ続けた。
つい先程夫婦となったばかりの二人であったが、落ち着いて言葉を交わす事も出来ず、王宮に戻るやいなや着替えに追われる。
大広間で行われる戴冠式の為に国王の正装に着替えながら、隙を見てサンドイッチを頬張り、コーヒーで流し込むアルフリート。端から食事など諦めているシルヴァは、侍女達に人形の様に着替えさせられながら、ぼそりと呟く。
「…結婚式がこんなに忙しいのは、きっともう一回やろうという気を起こさせない為に違いないわ」
まだ半分もスケジュールをこなしていないのに、もううんざりといった表情の彼女は、ドレスなど金輪際着てやるものかと心に誓い、つくづく自分が軍人であって良かったと本音を口にする。もちろん、今日から王妃となるシルヴァが、今後こういった社交の場と無縁でいられる訳は無いのである。その事を良く知る侍女達や傍らに控えるセリカは、シルヴァのその台詞に笑いを噛み殺しながらも、この男勝りな王妃の為に何か新たなデザインの礼装を考えるべきだろうと思っていた。
大広間にしつらえた壇上の後方に控え、カリンは宮廷楽士達と共に配置に着いていた。既にほとんどの来賓が席に揃い、彼女の祖国メルヴィング王国の使節も姿を見せていた。その中にカリンの父デラルク侯爵もおり、ちらちらと少女に視線を向ける。
ヴィンセントの配慮で、式典当日は混乱を避ける為に接触をしないでほしいと言い渡されている侯爵は、行動を起こす事は無かったが、明らかに不機嫌そうに末の娘を睨んでいる。その父親からそっぽを向いて座っていたカリンは、やがて現れた元老院の五人の老人の姿を見て目を疑った。
裁判所長を兼ねる法務庁長官を先頭に、暗緑色の丈の長いケープを纏い、グレン元帥とドワイト前外務長官、王立大学校の元校長が続く。そして五番目に一際歳老いた白髪の老人が現れ、彼に目を止めたカリンは思わず立ち上がる。
目を丸くして自分を見つめる少女に気付いた老人は、前を行く学校長に一言告げると静かにカリンの前に歩み寄った。
「………あ、あなたは。……そ、その節はお世話になりましたっ」
慌てて頭を下げるカリンに優しく微笑み掛ける彼は、セリア山脈を越えて来たハルトとカリンに一夜の宿を与えてくれた、あの遊牧民の老人であった。
『山』をその礎とするトランセリアでは、代々の元老院に必ず一人、遊牧民の古老を招き入れていた。培われたその知恵と経験を人々は何よりも尊敬し、他の元老院メンバーも閣僚達も、決して彼を粗雑に扱ったりはしなかった。普段は山の麓で山羊と共に暮すこの老人、リマ・デロッシは、月に一度行われる会合の都度、王宮から差し向けられた迎えの馬車で首都に昇る。見識と示唆に富んだ彼との対話は重要な国政の一助となっていたのである。
老リマは悪戯っぽく笑うと小さくカリンに声を掛けた。
「嬢ちゃん、もうしもやけは治ったかい?…そうじゃ、あの小僧の目はどうなった?」
「はははい、もうすっかり。…しもやけも目も大丈夫です。御心配頂きありがとうございました」
鯱張って応えるカリンに、古老は愉快そうに笑って言った。
「はっはっはっ、お前さんばかにあの時より礼儀正しいじゃないか。…演奏をするんかい、しっかりおやんなさいよ」
小さく手を振って立ち去ったリマの後ろ姿に、何度も頭を下げるカリン。他の元老院の老人達も微笑ましくその光景を見つめ、八十に届こうという最高齢の重鎮を静かに待っている。
大きく息をついて椅子に腰を下ろしたカリンを、宮廷楽士達が唖然として眺めている。娘から目が離せなかったデラルク侯爵もこの一幕を目撃しており、何のつても無く逃げ出した筈のカリンが、トランセリア国王の罷免権を持つ元老院にまで繋がりを持っている事を知り、驚きを隠せずにいた。
大広間の中央を、壇上に向かって真直ぐに臙脂色の絨毯が伸び、国王の正装に着替えたアルフリートがそれを踏み締めて立っている。少し遅れて現れたシルヴァは、その姿を目にして思わず立ち止まる。深い青のマントを纏い、頭上に王冠を戴く彼を見つめるシルヴァの脳裏に、三年前のアルフリートの戴冠式がまざまざと思い出された。
十八歳の若さでありながら、少しの緊張も不安も見せずに堂々と戴冠式を終え、壇上からにこやかに微笑む彼を、まだ将軍だったシルヴァははらはらとし通しで見守っていた。満場の拍手に包まれた少女の様に幼げな恋人が、これから国王の重責を担うのだと考えただけで、自分の事以上に胸が重苦しくなった。歳月が過ぎても、彼女の前に立つアルフリートはあの頃の記憶とほとんど変らぬ、少年のような若々しいルックスのままだった。
立ちすくむシルヴァの両の瞳から、どっと涙が溢れ出す。手を差し伸べて新妻を迎え入れたアルフリートも、周囲の侍女や閣僚達も、大粒の涙をぽろぽろと流す彼女に驚き、慌てて駆け寄る。侍女の差し出すハンカチで涙を押さえるシルヴァに、幾分戸惑いがちに、けれど優しい声でアルフリートは囁く。
「…どうしたの?シルヴァ。……大丈夫だよ」
その言葉にこくこくと頷きながらも、シルヴァの涙は止まらなかった。先程行われた結婚式でも涙を見せなかった自分が、どうして今この時に泣き出してしまったのかが、彼女にははっきりと分かっていた。しゃくり上げながらシルヴァは、アルフリートのプロポーズの言葉を思い出す。
『結婚してくれなくても、そばにいてくれればいいから』あの時彼はそう言ったのだ。
彼女にとって今から執り行われる戴冠式は、その約束を実現する大きな道標であった。アルフリートが王位に就いてから三年の月日を経て、自分はようやく彼に追い付いたのだと、シルヴァは感じていた。
妻でなく、軍務長官としてでもなく、そして王妃の責務でもなく、常に彼の隣で愛する人を守ろう。出来うる限りアルフリートの傍らに立ち、残りの人生の全てを、一人の騎士として彼に尽くそう。その誓いをしっかりと心に刻み込むと、シルヴァは顔を上げた。自分の顔を覗き込む様に見つめる、目の前の夫の優しげな瞳に小さく微笑み掛け、シルヴァは涙声で答える。
「………ごめ……泣いちゃっ…て。……もう、…だいじょ…ぶ…だから」
自らハンカチで彼女の頬をそっと拭うアルフリートの腕に手を添え、涙に濡れた瞳を真直ぐに壇上へと向けるシルヴァ。国王と同じ色のマントを纏い、王妃の正装に身を包みながらも、彼女は今自分の腰に双刀が無いという事に、かすかな不安を感じていた。もちろん王宮の警護は万全であるし、見回せば周囲には良く見知った宮廷騎士達の顔が幾らでも並んでおり、そんな心配が杞憂である事は自分でも分かっているのだが、それでも義務を怠っている気がしてならなかった。
シルヴァは改めて『双刀の魔女』の二つ名を誇りに感じた。アルフリートの為ならいくらでも『魔女』になろうと、王に仇成す者ならば、たとえ神その人でも斬ってみせようと、彼女は本気で思っていた。
じっとその横顔を見つめていたアルフリートが、前を向いて静かに告げる。
「……行くよ、シルヴァ」
「……うん、アルフ」
長く伸びる絨毯に二人は一歩を踏み出す。ずっと並んで続いていた二本の道が、今一本の大きな道へと重なって行く、その瞬間であった。
壇上へと歩む二人の後ろに、宰相ユーストとシュバルカが続く。本来文武の長がそれぞれ付き従うしきたりであったが、軍務長官当人が王妃である事から、筆頭将軍がその役を任された。
ユーストはいつもと変らぬ落ち着いた表情を見せているが、シュバルカは肩を震わせ、必死で涙を堪えている。先程間近でシルヴァの涙を見てしまった彼の涙腺は、もはや決壊寸前であった。絨毯の両側に並ぶ列席者の中で、妻のマリーは自分の事のように瞳を潤ませて夫を見つめ、第二軍の騎士達も鼻をすする。シルヴァの母親は二人が姿を見せる前から既に泣き通しであり、立っておられぬ様子でシャーロットや彼女の息子達に支えられていた。
各国から訪れた来賓の人々にも、もらい泣きをしている者がおり、特にリグノリア女王クレアは自らの苦難の日々を思い出したのか、夫ウォルフ将軍にすがりついて泣いている。グローリンドの内務大臣カインは、しっかりと立って顔を上げてはいるのだが、その両目からぼろぼろと涙をこぼし、隣に並ぶ妻のエリス第三王女からハンカチを手渡されていた。大国プロタリアからは半年前に即位したばかりの新たな女帝、エリザベート自らが列席し、その重責にも幾らかは慣れたのか静かに式の進行を見つめているが、彼女の白い両手はハンカチを握り締めて小刻みに震えていた。
壇上に並ぶ五人の元老院委員の後ろに、宮内局スタッフや宮廷騎士団の騎士達が補佐役として控えており、その中にセリカの姿もあった。彼女は涙を流してこそいなかったが、その両目は真っ赤に泣き腫らされ、一瞬たりともシルヴァから視線を外そうとはしなかった。
壇上でひざまづき、頭を垂れるシルヴァに、元老院の委員一人一人から王妃の承認が厳かに告げられる。五番目に遊牧民の古老リマから承認の言葉が掛けられ、彼の手に王妃の冠が手渡される。法務庁長官の声が響き渡る。
「元老院はシルヴァ・リーベンバーグをトランセリア第四代の王妃としてここに承認するものである。国王を助け、国土の安寧と国民の平和の為に尽くせ」
楽士長のタクトが動き、宮廷楽士達の静かな演奏が大広間に流れる中、リマの手がゆっくりと動き、金と銀と青い宝玉とで飾られた王冠がシルヴァの頭上へとかざされる。来賓の中から事情を知らぬ者の驚きの声が小さく漏れる。良く日焼けし、いかにも田舎の農夫であると分かる老人が、戴冠の儀を行う事に疑問を感じたのであろう。
トランセリア王国の基礎となった、セリア山脈に古くから暮らす部族の長は、高峰の頂に住まうとされる山の神からその位を賜ると言い伝えられていた。遊牧民の古老は神の名代を勤める役目を負っているのである。
王冠を戴いたシルヴァが静かに立ち上がり、アルフリートの隣に並ぶと、列席者に顔を向けた。滂沱の涙に濡れる頬をそのままに、一同を見回し、深々と一礼をする。
王宮が揺れる程の拍手が鳴り響く中、長く空位であったトランセリアの新たな王妃が誕生した。
戴冠式での演奏を終えたカリンが、フィーナと二人中央広場へと走る。大通りはあちこちに人だかりが出来、ハルトの興行を見つけるのには骨が折れた。
人ごみをかき分け、ようやく最前列へ辿り着いたカリンとフィーナは、今まさにナイフを投げようとする、目隠しをしたハルトの姿を目にする事が出来た。的になるのは一座の者らしい若い女で、こちらも目隠しをし、頭の上にリンゴを載せている。ハルトもその女も公演用らしき派手な衣装に身を包み、特に女の方は肌を露出する艶かしい出で立ちであり、見物する男達の視線を釘付けにしていた。
ゆっくりと頭上に持ち上がったハルトの手が振り下ろされ、鋭いナイフの切っ先が正確にリンゴの中心に突き刺さる。息をつめて見つめていた人々から、見事な技を見せたハルトに、拍手喝采が沸き起こる。
目隠しをほどいて大袈裟な仕種で一礼する少年は、見物客の中のカリンとフィーナの姿に気付き、小さくウィンクして見せた。たちまち二人の周囲から女性の黄色い声援がハルトに飛ぶ。フィーナは驚いて周囲を見回し「……あらあら、もてること」と小さく呟き、カリンは何やら不機嫌そうにハルトを睨んでいる。
一座の親方らしき恰幅のいい男が進み出ると、見物人を見渡し大きな声で告げる。
「さてさてお集りの皆様、大陸一のナイフ投げ名人、ハルト・カッシーニの妙技お楽しみ頂けましたでしょうか。……ここで皆様方にご提案がございます。どなたか彼のナイフ投げの的になってみようと思われる、勇気ある御仁はいらっしゃいませんか?もちろん先程と同じように目隠しをして、頭の上に置いたリンゴ目がけてナイフをば命中させまする。……さぁいかがですか、我こそはと思わん方、いらっしゃいませんか?」
人々は顔を見合わせ、ざわざわと何か言い合ったりしているが立候補する者は現れない。ハルトは涼しい顔で三本のナイフをお手玉のように空中に放り投げて遊んでいる。
そもそも好き好んで的になる人間などそうそう現れるものでは無く、始めから見物客の中に一座の男がサクラとして紛れ込んでいるのである。親方がもう一言も掛ければその男が手を上げて進み出る手筈になっているのだ。
「……いかがですか?どなたかいらっしゃ…」
「あたしやるっ!」
サクラの男が言い出すよりも早く、最前列に居た少女が手を上げて勢い良く立ち上がる。ハルトは驚いて放り投げていたナイフを危うく取り落としそうになった。カリンがにこにこと飛び出して来たのである。親方もびっくりしたのか言葉に詰まる。
「…お、お嬢ちゃんがやるのかい?」
「うん」
的になる派手な模様の描かれた板にすたすたと歩み寄り、その前に立ったカリンは、近付いて来たハルトに向かって小さく言った。
「…変なカッコしてるわねぇ。……顔に傷付けたら責任取ってもらうからね」
「ぜってぇ失敗しねぇ。…お前こそびびって逃げたりなんかすんなよ、ほら」
差し出された目隠しをカリンは受け取ろうとせず、言った。
「いらないわよこんなの」
「ダメだ。投げる所を見てると人間ってのは無意識に動いちまうんだ。……板に背中をぴったりくっつけてじっとしてろ」
近付いて来た親方がひそひそとハルトに声を掛ける。
「なんだ知り合いかハルト?…いけるか?」
「大丈夫です。絶対外しません」
はっきりとそう言い放って歩き出すハルト。先程的になった女がカリンの目隠しを手伝ってやり、立ち位置を決めると頭の上にリンゴを置く。親方がカリンに訊ねる。
「いい度胸だねぇ、お嬢ちゃん。名前は?」
「……フィーナ」
カリンは嘘をついて本名を告げなかった。ひょっとしてメルヴィングの人間が居るかもしれないと考えたからだ。親方が優しい声で囁く。
「いいかいフィーナ、ヤツの腕は掛け値無し大陸一だからよ、安心してじっとしてな。ちょっとでも動いちゃいけねぇぜ」
その言葉にカリンは小さく微笑んだ。ハルトの事を褒められて嬉しかったのだろう。もっとも、少女を安心させる為の方便とも考えられたが。
「さぁ皆様お待たせをいたしました。勇気あるフィーナ嬢に拍手を」
親方の口上で見物客から拍手と声援が送られる中、フィーナ一人がずっこけていた。
ハルトは位置に付くと何度か深呼吸をし、カリンに向かってナイフを構え、的を定める。正直に言えば子供を的にした経験など無く、こんな低い位置へのナイフ投げは初めてかもしれなかったが、ハルトには自信があった。カリンが背にする板に描かれた模様は、背丈の違う人間が的になっても大丈夫なように目安となる物だった。
足の位置を動かさぬように慎重に目隠しをすると、ハルトはナイフを構えた。見つめる人々は息を飲み、場は再び静まり返る。カリンはじっと身じろぎもせずに立って居る。
いつもと同じように頭上にゆっくりと持ち上がったハルトの手が、一瞬の静止の後振り下ろされる。音も無く放たれたナイフは、十数歩程の距離を隔てたリンゴのど真ん中を射抜いた。カリンの細い身体がかすかにぴくりと震え、観衆から一斉に拍手が沸き起こった。
目隠しを取ってもらったカリンは、手渡されたナイフの刺さったリンゴと、声援に手を振って答えるハルトを目を丸くして見比べ、言った。
「……すごい。…すごいすごいハルト、…すっご~い!」
カリンの持つリンゴからナイフを抜き、丁寧に拭いて懐にしまうと、ハルトは照れくさそうにそっぽを向いて答える。
「言っただろ、絶対に外さないって。……わっ!」
いきなり首に抱き着いて来たカリンに驚いてよろけるハルト。見物人の中のあちこちから女性の悲鳴が聞こえる。親方が声を張り上げる。
「ナイフ使いのハルトと勇敢なフィーナ嬢にもう一度盛大な拍手を!」
赤い顔をしたハルトは、カリンにしがみつかれたまま手を振って観客に応え、最前列のフィーナはほっと息をついた。
慌ただしく王宮に戻る途中でフィーナがカリンに告げる。
「もう、びっくりしたわよカリン。…あんな危ない事しちゃダメでしょ、まだ演奏の予定もあるのに」
「だぁって……、誰も手を上げないんだもん。ハルトが可哀相だと思って……」
相棒の腕前を全面的に信用していたカリンであったが、サクラを仕込んである事などもちろん知る由も無かった。
後にその事を聞かされたカリンは、真っ赤になって憤慨し、ハルトに食って掛かるのであるが、彼に怒る筋合いでも無かった。
晩餐会までのわずかな時間、涙ですっかり流れ落ちてしまった化粧を直し終え、再びドレスに着替えたシルヴァは、アルフリートと二人きりの時間を作る事が出来た。
侍女達も気をきかせて控えの間に去り、赤くなった瞳で小さく微笑むシルヴァの隣に腰を下ろしたアルフリートは、彼女の長い黒髪をそっと指ですくいながら言った。
「…もう落ち着いた?」
「うん…。ごめんね、びっくりしたでしょ」
「ちょっとね」
「なんか…これで本当にアルフの隣に並べるんだなぁって…思ったら、止まんなくなっちゃって」
恥ずかしそうに頬を染めるシルヴァをじっと見つめていたアルフリートが、真面目な顔で呟く。
「シルヴァ…、仕事とか、こういう外交とかがきつかったら無理せずに言ってくれていいから。…ホントは全部引退してもらっても良かったんだけど…」
崩れてもいない夫の襟元を直しながら、シルヴァが答える。
「そんな訳にはいかないでしょ。それに、わたしは生涯騎士でいるつもりなんだから。…今だって腰に剣を吊ってないのがなんだか不自然な気がしてるんだもの」
アルフリートは言葉を探して言い淀む。普段は憎らしい程落ち着きはらっている若き王も、今この時ばかりはプロポーズした少年の頃のように幼げにシルヴァの目に映った。
「……王妃になって欲しかったわけじゃないし、軍を率いて欲しかったわけでもないんだ。…ただ、ずっとそばに居てもらいたくって…。あの時は、…今でもだけど、そう思ってるんだ」
その言葉でシルヴァの胸に再び熱い物が込み上げる。自分がアルフリートを我が事以上に心配しているように、彼もまた自分の事を思っていてくれるのだとはっきり感じ取れた。溢れ出しそうになる涙を堪え、慌てて下を向き、ハンカチで目元を押さえながら彼女は小さく囁く。
「……泣いたら、…また化粧が落ちちゃう。……怒られちゃうから」
そう言って顔を上げ、アルフリートの口を指でふさぐシルヴァ。その細い腰に腕が回り、そのまま夫の胸に引き寄せられる。一瞬の躊躇いの後に二人の唇が重なり、シルヴァの手がアルフリートの背中に回された。
思わず情熱的になってしまった長い口付けは、控え目に扉を叩く侍女のノックの音で引き離される。赤面したシルヴァは、紅の取れてしまった唇をもう一度侍女に直してもらわなければならなかった。