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青の時代 5  作者: 森 鉛
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第八章 南から来た少年、東から来た少女 第四話

 翌朝、日の出と共に目を覚ましたハルトは、まだぐっすりと眠っているカリンに声を掛ける。何度か声を掛けても「……う~ん、…まだねむぅい」と言っては毛布を引っ張り上げて起きようとしない彼女を、ハルトは遠慮無く乱暴に揺り動かして言った。

「馬鹿、なに甘えてんだ。早く起きろ、朝メシを食いっぱぐれるぞ」

 ベッドの上にむっくりと起き上がったカリンは、大きなあくびと共に伸びをすると、まだ少しぼぉっとした顔でハルトを見上げる。カーテンを開け、てきぱきとベッドの上を片付け、身支度を始めている彼の金色の髪が、朝日を受けてきらきらと輝く。

 普段は首の後ろで一つに括られているハルトの金髪は、昨晩風呂で洗った為かほどかれたままであり、逆光に照らされてシルエットとなったその美しさに、驚いたカリンは感じた事をそのまま口にした。

「………きれい…」

「……何寝ぼけてるんだ、早く支度しろよ。今日は忙しいんだからよ」

 つい口に出してしまった自分の気持ちに頬を染めるカリン。そんな少女に構わず、ハルトは階下へ朝食を取りに部屋を出て行った。

 思いを振り払うようにぶんぶんと首を振り、(いーや、わたしの髪の方が絶対に百倍は綺麗!)などと妙な対抗心を燃やした彼女は、ベッドから下りるとおっかなびっくり浴室のドアを開ける。顔だけ突っ込んで入念に『ごの付く物』の不在を確認すると、残り湯で顔を洗い、指で髪をくしけずった。

 戻って来たハルトはすぐに食事を始め、カリンもそれに倣って料理に手を付ける。昨夜と大差ないメニューの朝食を二人は残さず平らげ、ハルトは慣れた手付きで髪を縛るとカリンに言った。

「足、見せて」

「………何言ってんのえっち。…さてはあんた、ゆうべのわたしのしどけない姿を見て、良からぬ気持ちを抱いているわね。ああ美しいってなんて罪な事なのかしら…」

 朝から良く回るカリンの口に呆れつつ、ハルトは仏頂面で答えた。

「馬鹿、靴擦れを見せろって言ったんだ。今日はちゃんと自分の足で歩いてもらうからな」

「あらそうなの。な~んだ、はい。……スカートの中覗いたら殺すわよ」

 ベッドに腰掛けたカリンが足を差し出す。ハルトは無言のままもう一度指の包帯を巻き直し、反対側の足にも念の為に包帯を巻いて予防をしておいた。黙々と作業をする彼にカリンがぶつくさと呟く。

「……あんたって昨日からわたしの事『馬鹿』って連発するけど、こう見えてもわたしは学業だって優秀なんですからね。才色兼備な上に天才音楽家の侯爵家の姫君に向かって、あんまりな言い様じゃない事かしら」

 手当を終えたハルトが立ち上がり、にやりと笑って言った。

「それは昨日の朝までの話だろ。今は口ばっかり達者で役立たずのわがまま娘だ。大体お前には危機感ってもんが無い。これから俺達がやろうとしてるのは命掛けの事なんだぞ、分かってんのか?」

「分かってるわよぉ……。あんたには感謝してるけどぉ~、でも…」

 口を尖らせ、尚も何か言い訳を繰り広げようとするカリンに構わず、ハルトは荷造りを済ませると扉を開け「行くぞ」とだけ言って階段を降りて行った。慌ててその後を追うカリン。

 宿屋の主人から食糧を仕入れているハルトに追い付くと、店のおかみさんが声を掛けた。

「あんた達、辛い事があってもくじけずに頑張るんだよ。決してやけになったりなんかしちゃダメだよ」

 さすがに罪の意識がちくりと二人の胸を刺す。礼を言って外に出たカリンが歩きながら小さく言った。

「ちょ…ちょっとだけ、ごめんなさいって感じ…」

「仕方ねぇさ、ああでも言わなきゃ泊めてなんざくれなかっただろうし、…下手すりゃ役所に通報されちまうからな」

 カリンは自分とさほど歳の変わらないハルトが、一人で旅をしている間に一体どうやってこういった場面を切り抜けて来たのか不思議に思った。尋ねようとした彼女を残し、ハルトはすたすたと服屋に入って行ってしまい、カリンもその後を追って店の中へと向かった。

 服屋と聞いていたカリンはその品揃えを見てがっかりする、小さな集落のこのような店は、半分以上雑貨屋を兼ねており、カリンの気を引くような服は何処にも無かった。

 ハルトは店のおかみさんに必要な物を告げ、カリンの意見など聞きもせずに次々と出された物を手渡して行く。厚手のズボンやコート、ごつい靴と耳当ての付いた帽子に手袋などを腕一杯に抱えたカリンは、慌ててハルトに耳打ちする。

「ね、ねぇハルト。ちょ…ちょっと、……欲しい…物が」

「なんだよ、そんなに金は使えねぇぞ」

「あの、…替えの……し、下着を」

 赤くなってそう告げるカリンにハルトは答える。

「そんなもんトラ……向こうに着いてからだ。あの白いのがあるじゃねぇか」

「みみみ…見たわねぇっ!ぶっ殺す!」

「な、何言ってやがんだ。お前が夕べ俺に持って来させたんじゃねぇか。……さぁ早く着替えろ、時間がねぇんだよ」

「着替えるって……何処で?」

 ハルトは黙って店の隅を指差す。小さな店内にはもちろん更衣室など備わっている筈も無く、カリンはぶつぶつ文句を言いながら棚の影で服を身に着ける。ハルトは念の為にランプ用の油と小さなスコップを買い求めた。

 着替えを終えてよたよたと姿を現わしたカリンは、それまで着ていた黒い毛皮の高級なコートの下に地味なズボンと靴、その上にぶかぶかでさらに地味な色合いの防寒用コートを羽織るという、妙ちきりんな出で立ちであった。

「うう…コーディネートも何もあったもんじゃないわよぉ~」

「その何とかはどうでもいいけど、靴は大丈夫か?ちょっと歩いてみろ」

 カリンに店の外を少し歩かせている間に、ハルトは彼女の脱いだスカートや帽子、靴などを買った物と一緒に鞄に詰め込む。戻って来たカリンが言う。

「い…いいと、……思う。……ああ、せめて櫛が欲しかったなぁ……」

 ため息をつくカリン。おかみさんは二人が宿屋に話した嘘の事情をまともに信じ込んでおり、同情して随分とお代を勉強してくれた。勘定を支払うハルトは何とか自分の手持ちの金で収まった事にほっとする。この村に両替所は無く、金貨をそのまま差し出せば今度こそ本気で疑われるだろうと思っていたからだ。暫くおかみさんと話をしていたハルトは、店から出て来るとぶっきらぼうにカリンに言った。

「ほら、ポケットにでも入れとけ」

 彼の手には小さな櫛が握られていた。驚いたカリンはハルトの顔とその櫛とを交互に見比べる。

「え?……えっ?えっ?」

「要らないんなら返して来るぞ」

「いるいるいるいる。……ありがとうハルト」

 カリンは嬉しそうに二、三度髪を梳かすと、それを内ポケットに仕舞い込んだ。少女のズボンやコートを整えているハルトに、後ろから男の声が掛かった。

「いよぉ小っさいあんちゃん、俺が送ってってやろうか?何処まで行くんだい」

 その言葉に一瞬助かったと思ったハルトだったが、振り返ってげんなりする。声を掛けたその若い男は、片手に酒瓶を持って真っ赤な顔で立っており、ふらふらと足元もおぼつかなく、明らかに酔っ払いだった。

「はぁ……。朝っぱらから酒飲んでんじゃねぇよ、まったく。からかいに付き合ってる暇はねぇんだ、あっち行ってろ」

 向かっ腹を立ててそう言い放つハルトに、男は酒臭い息を吹き掛けて絡んで来る。

「なんだぁこのクソ餓鬼、…人の親切をそんな風に言うもんじゃねぇなぁ、…ええ?」

 こんな事で時間を取られたくないと思ったハルトは、少し荒療治をする事に決め、後ろ手でカリンを下がらせると男に言った。

「おいあんた、あそこ見てみろよ」

 道端の立ち木を指差すハルトに、男は釣られて思わずそちらを見る。次の瞬間、ハルトは胸元から取り出したナイフを目にも止まらぬ早さでその木に向かって投げた。かっ、と鋭い音と共に、ナイフは木の枝で揺れていた枯葉の中心を貫いて幹に突き刺さる。あんぐりと口を開いたままの男に、ハルトは低い声で小さく囁く。

「…ナイフは一本だけじゃ無いぜ」

 そう言ってすたすたと立ち木に近付き、ナイフを抜くと、目を真ん丸にしたカリンの手を引いて歩き出す。少女が後ろを振り返ると、男はまだ口を開いて立ちすくんだままだった。歩きながらカリンが問い掛ける。

「あ、あんたって何者?」

「………お前はようやく俺の事を聞いたなぁ、今まで自分の事ばっかりしゃべって、人の話は全然聞く気が無いもんだと思ってたよ。……俺は軽業師だ。一番の得意技はナイフ投げだけど、玉乗りとか一輪車とかの曲芸もやるぜ。知ってるか?」

「聞いた事はあるけど……、へぇ~そうなんだ。……あれ?…あんた、最初に会った時に木の上から落っこちてこなかったっけ?」

「………お前、イヤな事覚えてるなぁ。…あれは寝てたからびっくりして油断したんだ。いつもはあんなマネ絶対にしないからな、ホントだぞ」

 自分でも気にしていた事を指摘され、ハルトは頬を膨らませてそう主張する。そのような表情をすると、ハルトは年相応の可愛らしい少年に見えた。カリンは(あらカワイイ)と思ったが、顔にはにやにやと人の悪い笑みを浮かべ、追い討ちを掛ける。

「いざっていう肝心な時にそれじゃあダメよねぇ~。修行が足りなくってよ」

 おっほっほと笑うカリン。ハルトは暫く膨れていたが、ふと気付いてカリンに尋ねた。

「そういえばお前あん時、真下を通りかかった瞬間にぱって上を見たよな。なんで俺が居るって分かったんだ?」

「そんなの当然だわ。わたしは百年に一人の天才音楽家よ、耳は人一倍いいの。誰か居れば物音で分かるわよ」

 得意満面で答えるカリンに、ハルトは今度は真面目に感心していた。カリンの方も先程の疑問を思い出す。

「…軽業師って、あんたみたいな子供が、そうやって一人であっちこっち行くもんなの?ゆうべみたいに疑われたりしないの?」

「俺が居た一座は去年解散しちまったんだよ。でも俺はもっと色んな国をこの目で見てみたくって、一人で旅に出る事にしたんだ。…手形があるから何処でも行けるし、大きな街に行けばたいてい仕事はあるからな」

「ふ~ん。……あ、ねぇねぇ。それって楽器とか弾く人も居るの?」

 その質問に嫌な予感を感じ取ったハルトは曖昧に返事をする。

「え?……いやぁ、どうかなぁ。…俺の居た一座には居なかったけどなぁ……」

 これは嘘である。様々な公演には音楽が付き物であるから、ハルトの居た軽業師一座にも色々な楽器を演奏する楽師が居たのだ。カリンは彼の思惑にはお構い無しに話を続ける。

「そうかぁ…。世界中を演奏して回るなんてのもいいわねぇ…。うふ、ちょっと素敵」

「う……。そ、そうか?なかなか辛い事も沢山あるんじゃないかなぁ…」

「なぁによぉ…、自分だってその一人じゃないの。……ふーん、そうかぁ」

 なにやらにこにこと機嫌良く空想に耽るカリンを横目で眺め、ハルトはこの先の展開を予想してちょっとだけ憂鬱な気分になっていた。


 二人は順調に距離を稼いだ。天気も良く、歩いている間は寒さもそれ程感じなかった。カリンの靴の具合も悪く無いようであり、時々休憩を挟みながら彼女は自分の足で歩き続けていた。

 やがて街道は分かれ道へと差し掛かる。二股になった道の真ん中でハルトは立ち止まり、真面目な顔でカリンに告げる。

「このまま真直ぐに行けば大きな街道に出る。セリア山脈沿いに北へ向かう本街道だ。時間は掛かるが危険は無い。左に曲がれば峠を越える山道に繋がってる。この先はトランセリアまで一本道だ。……もう一回聞くぞ、山越えは命を掛ける覚悟が要る。どうする?」

 さすがにカリンも真剣な表情で何かを考え込んでいる。暫くの沈黙の後、彼女は尋ねた。

「……その北回りの道を行くと、セリアノートに着くのはどれぐらいかかるの?」

「そうだな……十日、いや、お前の足だと二週間ぐらいか」

「二週間……それじゃ間に合わないわ。……決めたわハルト。わたしは左へ行きます。あなたは真直ぐに行きなさい。……ハルト、今まで本当にありがとう、感謝してるわ。…トランセリアで会いましょ。………元気でね」

 ハルトはびっくりしてまじまじとカリンの顔を見つめる。そんな事を言い出すとは予想外だった。てっきり『従者なんだから文句言わずに着いておいで』とかなんとか言うだろうとばかり思っていたのだ。彼は思わず口にする。

「え?…何言ってるんだよ、お前一人で山を越えられる訳ないだろう。俺も行くよ」

 またカリンに都合のいい台詞を言ってしまったハルトだったが、彼はもう一緒に行く決心を固めていた。この場でカリンが北回りの安全なルートを選べばそうしただろうが、二人別々の道を選ぶ事は考えていなかった。カリンは言う。

「でもこの先は一本道なんでしょ?だったら道に迷う事は無いし、服も用意してもらったし。きっと一人でも大丈夫よ。……だから」

「大丈夫な訳あるか。ここからが大変なんじゃないか」

「…でも、…でも。……し、死んじゃうかもしれないから。……そんなのにハルトを巻き込めないから」

「……お前はなんで、……そこまでして」

「音楽の無い人生なんてわたしにとっては死んでいるのも同じだわ。…それだけは絶対に譲れない」

 きっぱりとそう告げるカリンの目が潤んでいる事に、ハルトは気付いてしまった。その涙を見てしまった以上、もう彼女を一人で行かせる訳にはいかなかった。

 背中にしょった荷物をもう一度引き上げ、彼は左の道に向かって歩き出す。数歩進むと後ろを振り向き、カリンに声を掛けた。

「行くぞ」

 カリンはかすかに笑みを浮かべ、涙をぬぐって彼に走り寄る。勢いよくハルトの腕に掴まり、小さく言った。

「ありがとうハルト。……ごめん、ごめんね」

「もういいって。…陽が暮れる前に麓の山小屋に着かなきゃいけねぇから、こんなとこでああだこうだ言い合ってる時間は無いんだ。……それから、もう泣くな。雪山で泣くと涙が凍って前が見えなくなる」

「うん、分かった。……ハルト、無事に山を越えられたら、あんたの言う事なんでも聞いてあげるから」

「はいはい、期待しないでおくよ。…いいからもう離れろよ、歩きにくくってしょうがねぇ」

「あ……ごめん」

 頬を赤らめたカリンはそっと彼の腕を離した。

 二人は次第に急になる坂道を黙々と歩き続け、なんとか陽が落ちる前に小さな山小屋へと辿り着く。


 粗末な小屋に入るとハルトはさっそく火を起こしにかかった。まず自分のランプに明かりを灯し、その火を薪に燃え移らせる。小屋の中を見て歩き、必要な物を掻き集めると、明かりを消した。油を無駄使いしたくなかったからだ。

 疲れ果てたカリンは火の前でぐったりと座り込み、ぼぉっとハルトのやる事を眺めている。毛布を広げて背中に掛けてやると、小さく「ありがとう」と言ってそれにくるまった。

 湯を沸かし、お茶を入れるとパンとチーズを齧って簡単な夕食を取る。冬も終りが近い為か、小屋に蓄えられた薪は残り少なく、ハルトは慎重に少しずつそれを火にくべていった。

 お茶の入ったカップを両手で握り締め、カリンがぽつりと口を開く。

「……ハルト、あんたってなんでそんなに色々知ってるの?その鞄の中からなんでも出て来るし…。わたしとひとつしか違わないのに…」

ハルトは火の世話をしながら静かに答えた。

「俺は小さい頃から一座と旅をして回っていたから、同じ歳の子供よりは色々知ってるかもしれないな…。それに大きくなったら一人であちこち行こうと考えてたから、少しは勉強もしたしな。……学校にはほとんど行けなかったけど」

「ふーん……、すごいわね……。お父様やお母様も軽業師なの?」

「俺の親は船が難破して死んじまった。俺は二歳にもなってなかったから、顔も覚えてないんだよ。樽の中に放り込まれて浜に流れ着いた俺を、一座の親方が引き取って育ててくれたんだ」

「そう…なの。……ごめんなさい」

 ハルトは肩をすくめて言った。

「この話をするとみんなそうやって謝るんだけど、俺にはなんて事のない話なんだけどな。親方も一座の仲間も居たから、淋しいどころか毎日うるさいぐらいだったし、しいて言えば自分の生まれた所が何処だか分からねぇってことぐらいで、何にも困る事も無かったしなぁ…」

「ハルトはすごいわね…。あんたと会わなかったら、わたし今も最初の森の中を歩いているかもしれないね…」

「……かもな。……いや、たぶんちょっと歩いただけで疲れて、結局街道に戻っただろうな。……そうすると、やっぱり俺と会わない方が良かったのかもしれないな…」

「そんな事ないわ、戻ろうにも道が分からなくなっているわよ、きっと。……それに、家に帰るくらいなら…森の中で死んだ方がマシ」

 ハルトはそっとカリンに視線を向けた。ゆらゆらと揺れる炎に照らされた少女の横顔は、初めて見た時と変わらずに美しかった。

 広い額から鼻梁へ向かう緩やかなカーブに、長い睫毛と尖った鼻先とがアクセントを付け、小さな紅色の唇がつやつやと光っている。じっと火を見つめるカリンが、ハルトの視線に気付いてこちらを向く。彼は慌てて尋ねた。

「……あ、…お前はなんでその…音楽を始めたんだ?そんなに…家を逃げ出すぐらいに好きになった訳ってなんだよ」

「……お祖母様が、とても…喜んでくれたから。…最初はただの習い事だったけど、すごく褒めてくれて、嬉しくて、また練習して……これ」

 カリンは懐から眼鏡を取り出し、愛しそうに手で撫でながら言った。

「お祖母様が十歳の誕生日にプレゼントしてくれたの。わたし…目が悪くなっちゃって、譜面もなかなか読めなくなったから。これで頑張れって言ってくれて。家族でもお祖母様だけがわたしを応援してくれたの…」

 ハルトは何故あれ程までにカリンが音楽家の道に固執するのかが少し理解出来た。一度は諦めかけた思いだからこそ、尚更手を放したく無いのだ。少女にとって、同じ後悔などもう二度としたくはないのだろうと考えた。

「……それじゃ会いたいんじゃないか?いいのかよ、家を出ちまって」

「もう…会えないから。……お祖母様、私が十歳になる前に亡くなったから。誕生日にこれだけが私の所に届いたの。……カードに『世界一の音楽家になってね』って…書いてあって」

 カリンの瞳からぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。それは着の身着のままで逃げ出したカリンが、唯一肌身離さず持ち歩いていた形見の品だったのである。

 滑らかな頬をつたって流れる滴を指先で拭うと、少女はうっすらと微笑み、言った。

「ごめん、泣いちゃダメなんだっけね…」

 ハルトは無言で火を見つめている。カリンはくるまっていた毛布を彼にも掛け、二人は寄り添って夜を明かした。

 肩にもたれ掛かって小さな寝息を立てる少女を起こさぬように、ハルトは夜通し火の番をしながら、うとうとと少しだけ眠った。


 夜明け前、朝食代わりのお茶を飲みながら、ハルトは知る限りの雪山での注意をカリンに話していた。彼は旅暮しで雪は何度も経験していたし、一座の馬車が深い雪道で立ち往生し、雪中に穴を掘って一夜を明かした事もあった。

 春先で吹雪にあう危険は少ないと思われたが、ハルトは雪崩を最も警戒し、カリンに無闇に大きな音を立てないように告げる。彼の言葉に少女は真剣な面持ちで一つひとつ頷き、自分から立ち上がってしっかりと服の前やズボンの裾を閉じる。

 火を消し、身支度を整えた二人は、ロープで互いの身体を繋ぐと扉を開けて歩き出した。

 空は厚く雲がたれ込め、ちらちらと粉雪が舞っている。昇るに連れ、初めは浅かった積雪も次第にその深さを増し、ハルトはスコップを片手に一歩一歩雪を踏み締めて進んだ。

 後ろを歩くカリンを何度も振り向き、声を掛けて励ましながら、着実に傾斜を昇る。途中何度か休憩をし、立ったまま食事をした。

 凍傷にならぬようカリンの手や足をさすってやり、自らも時々立ち止まっては手足を擦った。カリンは一言も文句を口にせず、忍耐強くハルトの後に着いてひたすら歩き続けた。


 やがて日が傾きかけ、ハルトは次第に焦り始めていた。そろそろ山小屋があってもいい筈だった。こういった山道では必ず一定の距離で避難場所が設置されており、それを見落としてしまったのかと少年の胸中に不安が高まる。

 諦めて雪壕を掘りにかかるべきか迷いながら、次の一歩で見つかるのではとの思いを捨て切れず、ハルトは立ち止まれなかった。

 日が暮れて辺りが闇に包まれる頃、ようやく山小屋を見つけ、二人は倒れ込むように中に入った。力無く床に転がったハルトとカリンは、高山の薄い空気に息を切らせながら、暫くの間口もきけぬ程疲れ果てていた。

 よろよろと立ち上がったハルトは、ランプに明かりを灯し、薪をくべて火を起こす。しきりと寒さを訴えるカリンの為に小屋の中の毛布を掻き集め、身体を包み込むと暖炉のすぐ前に座らせる。少女の手足をさすっている少年の手も、凍り付く程冷たくなっていたが、そうしている内に炎も大きく燃え始め、次第に暖かさが戻って来た。

 冷たい食事がなかなか喉を通らないカリンの為に、ハルトはパンを火にかざして温め、チーズを炙って溶かすと、それらを小さくちぎって一口ずつ口に運んでやる。

 彼はカリンが熱でも出したのかと心配したが、そうではなかった。お嬢様育ちの貴族の少女にとって、これ程までの疲労を味わった事など、おそらく生涯で初めての事だったのだろう。

 いつもの生意気な口も利かず不平も言わず、カリンは大人しくハルトの手から食べ物を口にする。長い時間を掛けて食事を終え、ハルトは薬代わりに持っていた、とっておきの蜂蜜をお湯に溶かして飲ませてやった。やがて人心地がついたのかカリンが言った。

「……ありがとう、ハルト。……こんなに辛いなんて想像もしてなかった。……わたし一人じゃ絶対に半分も登って来れなかったと思う。……ありがとう、…ごめんねハルト。…ごめんね」

 少年の献身的な行動に、カリンはこれ迄に見た事もない程素直な態度になっていた。ハルトは幾分戸惑いながらも答える。

「いや、今日は正直言ってヤバかった。運良く山小屋が見つかったから良かったけど、あんな風に暗い中を歩いてちゃホントはダメなんだ。……もっと早くに決断して、穴を掘って野宿しなきゃいけなかったんだ」

「そうなんだ……。でも、…ありがとう」

「わ!……おい」

 しがみついて来たカリンにびっくりするハルトだったが、振り払う事も出来ずにそのままじっとしていた。

 寒さと不安とですっかりしおらしくなり、赤ん坊のように少年の胸に甘えるカリン。互いの体温を心地よく感じながら、やがて急速に訪れた睡魔に、二人はそのまま眠りに落ちていった。


 翌日は天気も良く、見晴しのいい道を二人は快調に進んだ。途中カリンが何度か足を滑らせかけたが、ハルトがしっかりと支え何事も無かった。

 峠を越えたのか、午後から道は下りになる。歩きながらハルトは目の痛みを感じていた。雪の反射にやられたのだと思い、カリンに前を歩いてもらうことにした。彼も雪道での光に気を付けなければいけない事は知ってはいたが、これ程早く症状が現れるとは思っていなかった。しきりに彼を心配するカリンは、ほとんどハルトの背中を見て歩いていたからか異常は無く、二人は手の平で目をかばって歩き続ける。

 雪道は下るほどに徐々に傾斜が緩くなり、安心したカリンがハルトを気遣って振り向いたその時、ふいに少女の足がすくわれる。尻餅を付いたカリンに引っ張られ、支えきれなかったハルトの小さな身体も雪上に転がった。

 手に持ったスコップを取り落とし、立ち上がる事も止まる事すらも出来ぬまま、二人の身体が少しずつ加速して坂道を滑り落ちていく。必死でロープを手繰り寄せ、カリンを抱き締めたハルトの胸にすがりつき、少女が叫ぶ。

「ごめん!…ハルト!」

 次の瞬間、ふわりと宙に浮く感覚が二人を包み、抱き締め合ったままハルトとカリンは柔らかな雪の上に放り出された。

 ただただ白く視界を覆う雪をかき分け、頭を覗かせたハルトの顔に、湿った獣の鼻が押し付けられる。続いて顔を上げたカリンが悲鳴を上げた。

「きゃあっ!ななななにこれっ!」

「……山羊だ」

 呟いたハルトは辺りは呆然と見渡す。たくさんの山羊が雪原のあちらこちらに散らばり、さらにその向こうには雪が溶けて地面がちらほらと見えていた。

 遠くから犬の吠える声が近付いて来る。ハルトは遊牧民が近くに居るのだろうと察し、立ち上がって手を振った。カリンがその手をしっかりと握り、再び二人は歩き出す。

 騒ぎ立てる犬をいぶかしんだ遊牧民の老人が、手を繋いで山から下りて来るハルトとカリンを見つけ、驚いて駆け寄る。

 子供二人だけでセリア山脈を越えて来た事に彼は驚き、自分の山小屋に招き入れて暖かい食事と一夜の宿を与えてくれた。そしてもちろん老人が、二人の無茶にきつくお説教をした事は言う迄も無かった。



 麓の村から首都に向かう馬車にハルトとカリンは同乗していた。荷物を満載してぎしぎしと進むその馬車の荷台にわずかなスペースを作り、窮屈そうに膝を抱え、二人は寄り添って座っている。

 ハルトは目に包帯を巻き、カリンはずっと彼の手を握っていた。村で目の治療を受けるまで、カリンはハルトのそばを片時も離れずにそうしていた。数日目を休めれば治ると診療所の医者に言われ、カリンはほっと胸を撫で下ろす。責任を感じていた彼女は「もし目が治らなくてあんたが働けなくなっても、わたしがちゃんと食べさせてあげるから心配しないで」とまで言っていたのだ。

 まるでプロポーズの言葉の様なその台詞に、ハルトは苦笑し、居合わせた医師や村の人々は大声で笑った。

 馬車に揺られながらハルトがカリンに話し掛ける。

「カリン……お前、無事に着いたら何でも言う事聞いてくれるって言ってたよな」

 ぎくりとしてカリンは答える。

「う……うん。いいわよ、約束だから。……あ、でもでも、え…えっちな事とかはダメよ」

「馬鹿、そんなんじゃねぇよ。……お前、音楽家なんだろ。…いつか俺の為に曲を作ってくれよ」

 カリンは驚いてハルトの横顔を見つめる。少しの沈黙の後、彼女は元気良く答える。

「……うん、分かった。すっごい名曲作ってあげるから、待っててね」

「ああ、かっこいいヤツを頼むぜ。こうばーんと勇ましいのを……良く分かんねぇけど」

「うん。……まかせ…て」

 包帯で目を覆ったハルトには、カリンの頬を流れる涙は見えなかったが、彼女の声が涙声である事は分かった。

 ハルトの腕に額を押し付け、カリンは長い間鼻をすすっていた。


 国王の結婚式で賑わう首都へと向かうその馬車は、稼ぎ時に間に合わせる為に昼夜を問わず走り続ける。尻の痛みに耐えて丸二日間を馬車に揺られ、セリアノートに到着した二人は、ふらふらになって地面に降り立った。

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