第八章 南から来た少年、東から来た少女 第三話
トランセリアの軍務長官執務室で、グレン元帥は代行の仕事を落ち着いてこなしていた。閣僚や騎士達の緊張振りは変わらなかったが、シルヴァが新婦としての準備に専念できるのは有難い事であり、式典責任者のフランクはほっと胸を撫で下ろしていた。
当日まで半月を切り、首都の郊外では騎士団のパレードの練習が始まっている。自分達の司令官の結婚式な上、『隻眼元帥』が見守る中での行進とあって、宮廷騎士団の気合いの入り様は凄まじい物であった。
市内も次第に賑やかさを増し、人出を当て込んだ商店はいつもの倍以上の品を仕入れ、荷を満載した馬車が数多く往来する。祭事には欠かせぬ吟遊詩人や踊り子、ハルトのような軽業師や人形芝居など、様々な旅芸人も徐々に姿を見せ始めていた。
日毎にごったがえす市街を警備するのも騎士団の役割であり、首都防衛の責任者であるディクスン将軍を中心に、身元確認や交通整理、果ては宿屋の案内まで、騎士達は細々とした仕事に駆け回っている。人出が増せば悪さをする者も増え、市内のあちこちに置かれた臨時の詰め所には、スリや置き引きなどの被害も届けられていた。
何にせよ滅多に経験する事の出来ない吉事である。セリアノート市民は近付く式典に一人残らず浮き足立ち、子供は訳もなくはしゃぎ立て、大人達もこれ見よがしに忙しさを口にする。国中が浮わついてそわそわと落ち着かない日々を送っていた。
王宮の繁雑振りは言うに及ばず、遠く諸外国より新たな王妃の為に取り寄せられた美しいドレスや宝飾が運び込まれ、侍女達のため息をさそった。
内務庁は式典の段取りを何度もリハーサルし、その度に新たな問題点が現れては変更を繰り返す。料理長は晩餐会のメニューを試作し、毎日のように閣僚に試食を依頼する。滅多にお目にかかれない御馳走を口に出来る彼等は最初の内は喜んだが、なにせ試食用であるから量も一口ずつぐらいであり、中途半端な量を間食として胃に収め、体調を崩してしまう者なども現れる。特に女性スタッフは式典用にドレスを用意しており、体型が変わるのを気にしたのか次第にそれを敬遠し始めた。
外務庁では通常の数倍の人員が来賓の接客準備に追われ、さしものヴィンセントも余裕を失っている。彼は日頃はうるさがっている前外務長官ドワイトを自分から招き、アンドリューの結婚式を体験した彼の意見を求めた。普段は何かと口やかましいドワイトも、今回ばかりは細かい事は言っておられず、積極的にスタッフに指示を与えている。
宮廷中がいつもの数倍の多忙さに包まれている最中、アルフリート自身は意外な程平静を保っていた。もちろん彼にも国王としての様々な決裁や、新郎としての準備など、いくらでも仕事はあるのだが、そのほとんどは受け身の立場であり、目の吊り上がった宮内局のスタッフに言われるまま、はいはいとあっちに行きこっちで着替え、自分自身はそれ程緊張も焦りも感じていなかった。
ユーストは宰相の職務と内務長官の代行とを掛け持ちし、ほとんどアルフリートの元へなど姿を見せず、今現在のトランセリアの王宮内で比較的平穏なのは、どういう訳か国王本人と、彼に付き従うアイリーンとシンの三人だけであった。しかもそのアイリーンも待望の子供を身籠り、今日は具合が悪いらしく大事を取って自室で休んでおり、アルフリート付きの侍女、セラとシンシアも何かと忙しく、執務室ではシンが国王にコーヒーを入れている有り様だった。
ばたばたと走り回る皆の様子を、シンと二人でぼーっと眺め、アルフリートがぽつりと言う。
「……すごいね、…みんな」
「……すごいですね」
「……めちゃくちゃ忙しそうだよね」
「……とても大変そうです」
窓からぽかぽかと暖かい午後の日射しが差し込む国王執務室で、喧騒から取り残された男二人は、コーヒーをすすりながらまぬけな会話を交わしていた。
夕刻、淡々と自分の職務をこなすグレンの元に、アイリーンがシンと共に訪れる。先触れによって彼女の来訪を知らされていたグレンはゆっくりと立ち上がり、丁重に室内に迎え入れる。日中休養を取ったアイリーンは随分と顔色も良く、つわりも大分治まっているようだった。
トランセリア国内に存在する唯一と言っていい生粋の王族であり、宮廷の行儀指南役をも勤める彼女は、完璧な仕種で典雅に一礼し、挨拶を切り出した。
「お初にお目もじ致します、グレン元帥閣下。アイリーン・クレメントと申します。アルフリート陛下を初め、トランセリアの皆様方には大変に良くして頂き、夫共々感謝の念に絶えません」
「御丁寧な挨拶恐悦至極にございます、アイリーン殿。陛下より軍務長官代行の任を賜っております、グレン・ルバレスと申します。以後、お見知り置きをお願い致しまする」
身重のアイリーンを気遣い、グレンはすぐにソファーに腰掛けるよう奨める。アイリーンは彼が王宮に現れた日も体調を崩して休暇を取っており、噂の元帥にまみえる事が出来なかった。自分から挨拶に伺うと言い出したアイリーンに、アルフリートもユーストも口籠って顔を見合わせる。暫くの沈黙の後宰相はやんわりと告げた。
「アイリーン様、無理を為さらずとも宜しいのですよ、お身体の具合もございますでしょうし…」
アルフリートは更に失礼な事を言い出す。
「うん、そうそう。……あんなの見ちゃったらお腹の子に悪いような気もするしなぁ」
目の見えないアイリーンがグレンのいかつい風貌を気にするとは思えず、説得力の無い二人の意見では、礼儀を重んじる彼女を納得させる事も出来なかった。
アイリーンは自らグレンに使いを出すと、多忙な元帥の邪魔にならぬ時間を選び、面会の約束を取り付ける。アイリーンとて強持ての元帥の噂は耳にしていたし、彼女の鋭敏な神経が王宮に広がる緊張感に気付かぬ筈は無かった。だが、かつての祖国で、閉ざされた離宮に老人達と暮らして居た彼女は、頑固な年寄りの扱いに慣れており、そしてその事を苦に感じなかった。過日にアーロンを見事説得する事に成功したことからもそれが伺え、ある意味『親父転がし』の才があるのかも知れなかった。
またアイリーンには彼女自身も言い出したら聞かない頑なな一面があり、子供を授かった後にも、体調の悪さを押して執務室に詰めようとし、シンはおろか宮廷医師や侍女や、さらにはシルヴァやシュバルカまで出向いて説得に当たった。
アイリーンは自分が子供を身籠る事が出来たのも、国王や皆のお陰だと言い、それを理由に職務を休む事は出来ないと主張する。
「同じつわりで吐くのなら執務室で吐きます」と、迷惑な事まで言い放つ彼女に、ついにアルフリートは『剣の主』まで持ち出して休暇を取らせる事になるのである。
一人目を流産したアイリーンにとって、待ちに待った妊娠は何よりの喜びであったし、シュバルカなど目尻を下げっぱなしで早速妻のマリーを王宮に向かわせ、あれやこれやと世話をさせるのであった。
アルフリートはシンに告げる。
「とにかく宮廷医師の言う事を俺の言葉だと思って安静にさせるように。勅命!」
彼はそう言いながらも(なんでこんな事で『剣の主』だの『勅命』だの使ってるんだ俺は)と思いつつ、アイリーンでこれなのだから、シルヴァの時になったらさぞかし大騒ぎになるだろうと考えていた。
軍務長官執務室のソファーにゆったりと腰を下ろしたアイリーンの後ろに、シンが静かに立つ。グレンは既に彼とは面識があり、実直で礼儀正しい人柄や、噂に聞いた腕っぷしとさらに研鑽を積むその姿勢にかなり好感を抱いていた。ソファーを軋ませて座ったグレンが口を開く。
「お身体は大事ござらぬか。無理を為さってはいらっしゃらぬか、横になって頂いても構わぬ故」
アイリーンが静かに答える。
「お気遣い申し訳なく存じ上げます。今は大分体調も落ち着いておりますので、御心配には及びません。閣下にはお忙しい中お時間を割いて頂きまして、誠に有難く存じ上げます。シルヴァ様やシュバルカ様にも、ひとかたならず御厚情を賜っておりますゆえ、一言お礼を伝えたく、こうしてお邪魔致した次第でございます」
その言葉にグレンは感じ入った様子で大きく頷く。
「なんと礼儀を心得た方でいらっしゃる。感服つかまつった。アイリーン殿、これからも陛下や閣僚の皆をよろしく御指導頂きたい。我が国は歴史が浅い事もあるのか、どうにも礼儀作法がなっておらんきらいがある。聞けば外交官の行儀指南役をお引き受け下さっておられるとか。貴殿のような人物こそ、トランセリアに最も必要な人物であると考え申す」
アイリーンは優雅に微笑み、言う。
「わたくしなぞほんの少し皆様のお手伝いをしているに過ぎません。お世話になっているのは私達夫婦の方でございますから」
宮廷中を震え上がらせるグレンを前に、アイリーンは何一ついつもと変わらぬ態度で接した。元々これが彼女の自然な振る舞いであり、夫のシンに対しても、それはほとんど変わる事はなかった。その事もグレンに好感をもたらし、彼は思い切ってある相談を彼女に持ち掛けようとする。その時、執務室に二人の人物が訪れる。シルヴァと彼女の副官セリカであった。
「失礼します閣下、夕刻の打ち合わせに参りました……。アイリーン様、お身体は宜しいのですか?」
結婚式の準備に日々忙しい彼女だったが、こうして朝晩のグレンとの打ち合わせもきちんとこなしていた。セリカはそんなシルヴァを公私に渡ってサポートし、文字通り陰の様に付き従っていた。
グレンの存在にもいち早くシルヴァは慣れ、もう初日のような鯱張った態度は見せず、騎士として冷静に職務を遂行していた。アイリーンはにこやかにシルヴァに答える。
「シルヴァ様、本来なら何を差し置いてもお手伝いしなければならないこのような大事な時に、私事でお休みしてしまい申し訳ございません。これからは出切る限り出仕致しますので」
「と、とんでもありません。アイリーン様はまず何よりもご自分のお身体と、お腹のお子様の事を優先して頂かねば。陛下にもきつく言われておりますから」
慌ててそう答えるシルヴァに、グレンがかすかな戸惑いの表情と共に告げる。
「シルヴァ、すまんが打ち合わせは少し後に……いや、まてよ。……ふむ」
考え込む彼にシルヴァは怪訝そうな顔をし、言った。
「はい、もちろん私はいつでも構いませんので。アイリーン様、お話のお邪魔をしてしまい…」
「いや、シルヴァも座ってくれぬか。……折り入って話したい事があるのでな」
その台詞にセリカはシンと顔を見合わせ、口を開く。
「閣下、我々は席をお外し致しましょうか」
「いや、そなたらも居てもらって構わぬ。シン殿は当然であるし、セリカ、おぬしも今は王族に近い身であるからの」
シルヴァはアイリーンと並んで腰掛け、その後ろにセリカがシンと共に立つ。四人はグレンの意図が掴み切れぬまま、彼の言葉を待った。
「ふむ、今から言う事は現在の軍務長官代行の立場からでは無く、士官学校校長としてでも無い。元老院の一員としての発言である事をまず断っておく。もちろん他言は無用である」
その言葉にグレンと向き合った四人に、特に後ろのセリカとシンに緊張が走る。それを見て取った元帥は、少し微笑んで言った。
「そうは言ってもそれ程の重大な秘密とかの話では無いゆえ、まぁそう緊張するな。……話と言うのは他でも無い、陛下の事だ。我々元老院の総意と思ってもらって構わぬが、アルフリート陛下はどうにも危なっかしい。我等年寄りには心配で堪らぬのだ」
率直なグレンの言葉にアイリーンは優しく微笑み、言葉を返した。
「陛下とは幾度もお話をする機会を賜っておりますし、日頃のお仕事振りも拝見致しておりますが、大変ご見識のある、素晴らしいお方であるとわたくしはいつも感じ入っております。大陸でもあれ程の器を持つ国王はそうはおられますまいと考えますが」
手放しで褒めるアイリーンの言葉に、シルヴァの頬が少し赤くなる。自分の事を言われているように感じたのだろう。その様子をグレンはかすかな笑みと共に見つめ、答える。
「アイリーン殿のおっしゃる事は分かり申す。我等とて陛下の能力を疑っておるのでは無いのです。それどころか、歴代の四人の王の中でも抜きん出た才覚をお持ちだと考えております。…ただ、あまりにも才に秀でてい過ぎる。おかしな事を言うと思われるだろうが、陛下は就任以来、只一度の失策をも為さっておられない。わずか十八歳で即位した国王が、その日からまるで数十年を経た老獪な王の様に政治を為すなど、恐ろしい事だと我等には思えるのです。何か、微妙なバランスの上に成り立っているような気がしてならぬ。年寄りの繰り言のような言い様で申し訳ござらんが、この先何か一つ間違ったら…、そこから全てが崩れて行ってしまうような危うさを伴っている…、そんな気がするのです。人とは失敗を得て学ぶもの、陛下はそれを体験せぬまま、いずれ大陸の要となってしまうのではないか。アイリーン殿のおっしゃる通り、確かにそれ程の器を持ったお方だ。だが…わしの言う事が年寄りの杞憂であればそれに越した事は無いのだが…しかし…」
シルヴァはこれ程歯切れの悪いグレンを初めて目にした。そして、彼がアルフリートを真剣に心配し、胸を痛めている事がそこから感じ取られ、心からありがたいと思った。元老院の老人達の長い人生経験を持ってしても、アルフリートの才覚は初めて接する程突出した物であったのだろう。彼女は遠慮がちに切り出した。
「よろしいですか、閣下。……私も子供の頃から陛下を良く知っている者として、確かにそういった事を感じた時もございました。十にもならぬ小さな頃から、時折大人をどきりとさせる様な言葉を口にする事もままありました。私自身が陛下から教わった事も沢山ございます。ただ、陛下は何もかもをご自分で解決なさろうとする傾向があります。先年のプロタリアの国葬の折もそうでした。閣僚にもなかなかお考えを口に出さず、一人で色々と思い悩んでいるように見受けられました。実際ほとんどを自らの手で取り仕切られて…。その事を頭では分かっているようですが、いざどちらかを選ぶとなると、必ずと言っていい程自分で抱え込む方を選んでしまう。自分だけが責任を取れば済むような選択をしてしまうのです。陛下は人前で弱味を見せたり、泣き言を口にする事を良しとしません。…私の前ですら、本当に小さい時は別ですが、一度も涙を見せた事はありません。母上の…ご葬儀の時ですら……、申し訳…ありません。…うまく、…言えなくて」
シルヴァの瞳がかすかに潤む。涙声になってしまった彼女に、グレンは言う。シルヴァに向けられたその眼差しは、限りなく暖かな物だった。
「構わぬ。おぬしの考えをそのままに言ってみよ。言葉を選ばずとも良いのだ」
「…はい、申し訳なく…。……陛下は、類い稀なる才覚をお持ちです。閣下の言う通り、恐ろしいとさえ思う事もあります。…私は、亡きハウザー様の姿に、陛下の姿がだぶって見える時があるのです。あまりに優れた王は、いつか孤独になってしまうのではと。…皆が寄り掛かって、誰の助けも得られずに、…みんなの、全てがあの子の肩にのしかかって。……アルフが一人で全部を背負い込んで、……国や、民や、大陸や……。あらゆる物があの子に……。すいません、…お見苦しい…ところを、……申し訳…無く…」
そっとセリカが差し出したハンカチで涙を拭い、シルヴァは照れ臭そうにかすかに笑顔を浮かべた。その手をアイリーンが探り当て、優しく握り締める。シルヴァが如何にアルフリートの事を思いやっているのかが彼女にもひしひしと伝わり、胸が熱くなった。そして、大陸でも指折りと名高いシルヴァの剣技が、ただ愛する人を守りたい一心で培われた物なのだろうとも想像出来た。二人のその絆は、自分とシンの繋がりよりも深く、強い物のように感じられ、アイリーンは羨ましくも思った。
恋人や夫婦としてよりも長い間、主人と従者の関係にあった彼等は、そこまで互いの心の奥底にまで踏み込んで考えてはいないように思い、彼女は尚一層シンへ尽くそうと気持ちを新たにしていた。グレンは小さく頷き、満足げに言った。
「シルヴァ、わしは今少し安心したよ。おぬしは実に良く陛下の事を見ておる。アルフリート様がおぬしを生涯の伴侶としてお選びになったのは、まさしく正しい選択であったと確信した。陛下は母上も亡くされ、ご兄弟も居らぬ、…今は居られるが、まだ六歳でいらっしゃる故。…わしが言う迄も無い事だとは思うが、最もお傍近くに居る者として、陛下をお助けして欲しいのだ。……ユースト殿も居られるが、彼とて王位に就く可能性があった程才気に溢れた人物だ。逆に我々凡人の心は分からぬかも知れぬ。我が国はアーロン様やアンドリュー様が健在でいらっしゃる故、他国に比べればまだ不安は薄いとは思うのだがな。そうは言っても退位なされた両陛下のお手を煩わせるのは、我々家臣の名折れとも思える。……セリカよ」
「…は、はい」
ふいに声を掛けられ、セリカは戸惑う。
「アンドリュー様から何か話を聞かされた事は無いか、陛下の事で」
「あ………はい、ございますが。………申し訳ありませんがうまくお伝え出来ませんので、…そのままで」
「構わぬよ」
「はい。……その、『あいつは私なんかより遥かに優秀で頼もしいんだけど、一回ぐらいつまずいとくといいんだけどなぁ…』と。……すいません、多分このお話の事だと思うのですが。…申し訳ございません」
しきりと謝る彼女に、皆の顔がほころぶ。グレンはにこにこと言った。
「さすがお父上も良く分かっていらっしゃる。実はわしは代行の要請が来た時に、王立工匠に話を伺いに出向いたのだが、アーロン様もほとんど同じ事をおっしゃられていたよ。セリカに倣ってそのまま伝えるぞ。『あいつは今の所大陸一の王になる可能性があるが、まだまだ人を頼る術を知らん。人を活かし、人を許し、人に甘える事を知って初めて真の王になるだろう。失敗を怖れてあれもこれもと手を打っておく内は、まだまだ小物だ』そう言っておられた。幾つも齢を重ねた人間の持つ、含蓄あるお言葉だと思うたよ」
アイリーンが静かに告げる。
「アーロン様もアンドリュー様も、シルヴァ様やグレン閣下も、皆様陛下の事を真剣にお考えになっていらっしゃいます。きっと閣僚の皆様も一人残らずそうでいらっしゃると思います。それこそ、陛下の素晴らしい一面であるとわたくしは考えます」
グレンは大きく頷いて言う。
「うむ。アイリーン殿、今のお言葉がそうです。シルヴァが陛下に最も近しい存在として在るように、あなたとシン殿は、トランセリア王宮で唯一、外からの視点を持てる人物だと考えております。その視線で陛下や我が国を冷静に見て、時には苦言を呈する存在であって欲しいと思っておるのです」
「閣下のおっしゃる事は良く理解出来たと存じます。非才なる身ではございますが、陛下の御為に尽くしとうございます」
「陛下は…」
それまで黙って話を聞いていたシンが口を開く。こういった場では滅多に話す事の無い寡黙な彼が、自分から意見を言う事に皆驚きを隠せず、グレンはにこやかに彼を促す。
「シン殿、そなたの意見も是非聞かせてくれ」
「はい、……私個人が陛下のお傍に仕えて感じた事なのですが。陛下は我々下々の者と同じ高さの目線を持っていらっしゃいます。下町を歩かれる時など、まるで子供の様に楽しげに、親しく店のおかみさんなどと話をされていらっしゃいます。あのような王族など見た事がありません。私は、陛下は今迄に無い、新しい形の国王になるのではと考えた事がございます。……申し訳ない、僭越でした」
皆が驚きの目を持って見つめている事を、彼は不謹慎だったかと思い、慌てて謝った。だがグレンは嬉しそうにシンを褒める。
「シン殿、そなたの言われる通りかも知れぬ。我々は古い王の形に囚われて陛下を見ていたのかも分からぬ。……そうか、新しい形か。……ふむ、元老院の皆と話し合ってみるべきか。……そうか。素晴らしい意見だ、ありがとう、シン殿。アイリーン殿は良い伴侶を得られたな」
その言葉にアイリーンの頬が染まり、シンの顔も赤黒くなる。グレンの提示した不安は、思わぬ人物の台詞でその話し合いの幕を閉じた。
皆がそのような心配事を相談しているなど夢にも思わず、執務室で仕事を片付けている当のアルフリート本人は(お腹減ったなぁ……、今日の晩ごはんなんだろう)などと考えつつ、いつものように行儀悪くコーヒーをすするのであった。
◆
小さな集落の宿に落ち着き、すっかり疲れきったハルトとカリンは、暫くの間ぐったりと口もきかずベッドに突っ伏していた。
子供だけで宿屋に泊まりたいと言う二人を、宿の主人はいぶかしく思い、根掘り葉掘りハルトに問い掛けた。妙に身なりのいいカリンと、いかにも悪そうなハルトの取り合わせはそれだけで怪しかったし、人通りも少ない小さな街道を、子供二人で旅しているというのもおかしな事に思われた。
ハルトはセリア山脈の麓で待つ両親の元に、妹を送り届ける途中だと説明する。似ても似つかぬ二人を兄妹だと信じろと言うのは無理があったが、ハルトはその場でひと芝居打って見せた。突然俯いて肩を震わせ、彼はこう言った。
「ホントは…連れて行きたくないんだ。妹は腹違いで、まま母にいじめられてるから…。でも、俺はまた働きに出なくちゃなんねぇし。…俺、金ためて妹に服を買ってやったんだけど、…これだってきっと取り上げられちまうんだ。……ごめんなカリン。…兄ちゃんまだお前と一緒に暮らせなくて、…ごめんな」
「お兄ちゃん!」
見事なアドリブでカリンがハルトの背にすがりつく。下を向いたまま顔をごしごしと腕で擦り、いかにも涙を拭った風に見せたハルトに、店の主人は鼻をすすりながらぽんぽんと肩を叩く。
二人はまんまとその場に居た全員の同情を買う事に成功し、今夜の宿を手に入れる。冷静に聞けばおかしな部分があるのだが、そこ迄気付く者は居なかった。カリンが隣のベッドのハルトに声を掛ける。
「あんたって良くあんな嘘思い付くわよね、わたしびっくりしちゃった」
「この手の田舎町の連中にはお涙頂戴が良く効くんだよ。お前だって『お兄ちゃん!』とか言ってたじゃないか」
「だってああ言わなきゃしょうがないじゃないの」
「この話はまだ使えるから、人の居る所じゃそうやって呼べよ。俺の方が一つ上なんだからな」
「え!あんた十一歳なの、小っさ」
「うるせぇ」
食事の用意が出来たと階下から主人の声が掛かる。ハルトが持って来た盆の上の料理を見つめ、カリンは何やら文句を言っている。
「んもう…こんな物しかないの…、ホントに食べられるのかしら?…わたしの口には合いそうもな…」
その台詞にぐーっと鳴ったカリンのお腹の音が重なる。既に料理をぱくついているハルトはにやにやと笑いながら言った。
「腹の虫は正直だな。食わねぇんなら俺がもらうぜ」
ハルトをきっと睨み付けたカリンは、渋々といった風情で料理に手を伸ばす。パンとチーズ、肉団子の入ったスープと少しの野菜といった、粗末な宿屋の食事ではあったが、暖かく量もあり、一口食べたカリンはその後無言で瞬く間にそれらを平らげた。
ハルトの入れてくれた薄いお茶を飲み干し、一息つくと彼女は言った。
「まぁまぁだったわね。今までわたしの食べた料理の中では一番低レベルだと思うけど」
スープの一滴も残さずきれいに無くなった盆を眺め、ハルトは言う。
「言ってる事とやってる事が正反対だぞ。まぁ腹が減ってりゃなんでも御馳走さ。この先暫くあったかい食いもんは手に入らないと思うから、覚悟しとけ」
「はいはい分かりましたぁ。……さてっと、お風呂に入りましょ。………うっ」
浴室のドアを開けてカリンは立ちすくむ。湯舟にはきちんと湯が張ってあったが、明かりも無く薄暗い浴室に彼女はかなり困惑していた。
壁の木材のあちこちがぼろぼろと剥がれ落ち、カビ臭い匂いも立ち込め、なにやら無気味な雰囲気が漂う。なかなかそこに足を踏み入れる事の出来ないでいるカリンに、後ろからハルトの声が掛かる。
「何してんだ、早く入っちまえ。その後俺も入るんだから、湯を全部使うなよ」
「う~~~、わ…わかったわよぅ。……あぁ…なんでわたしがこんな目に」
なんでもかんでも無いだろうとハルトは思ったが口には出さず、食事の済んだ盆を返す為に部屋を出て行った。
浴室の片隅で恐る恐る服を脱ぎ、タオル一枚を手に湯に浸かったカリンも、ようやく少し落ち着いて髪の毛を洗い始める。
一日中歩いて(実際歩いたのはほとんどハルトだけだったが)埃まみれになった自慢の黒髪を丁寧に流し、気分の良くなった彼女の口から小さくメロディが流れ出る。部屋に戻って来たハルトの耳にもそれが届き、彼はひとり呟く。
「……現金なヤツ」
身体を洗い始めたカリンの右側の壁で、何かが小さく動く。かなりの近視である彼女は目を凝らし、不用意に顔を近付けてそれを見た。次の瞬間。
「ぎぃやぁあ~~~っ!!!」
貴族のお嬢様らしからぬ叫びと共にカリンは湯舟から飛び出し、浴室のドアを開け放ってハルトにしがみつく。小さなタオル一枚で身体を隠しただけの少女に抱き着かれ、ハルトは顔を真っ赤にしてうろたえる。
「うわぁっ!ななななんだよっ!お前っ!服着ろっ!」
目の前の裸の背中から首だけ回して無理矢理視線をそらすハルト。
「ごごごごごごご、…ご、ごの付く物がぁ~」
半べそをかいてそう訴えるカリン。何の事だか分からなかったハルトがようやく気付いて言った。
「ご?……ゴキブリの事か?」
「い~、言わないでぇ~」
「あんなもん何処にでもいるだろぉ。いいから早く風呂に戻れ」
「もういやぁ~。服取って来てぇ~」
ため息と共に、ハルトはなるべくカリンの方を見ないように浴室へと向かい、籠に入っていた彼女の服を部屋へ運んでやる。ランプの灯りの下で手に持ったそれらの一番上に、カリンの真っ白な下着が置かれている事に気付き、彼はさらに顔を赤くして乱暴にベッドの上にそれを放り投げた。
自分の分のタオルもカリンに与えると、ハルトは再び浴室に飛び込み、中から言った。
「よく身体を拭いて早く着替えろ、風邪なんかひくんじゃねぇぞ。着替えたらタオルを俺によこせ、それしか無いんだからな」
「う~~」
ハルトはまだ顔を赤くしたまま、手早く服を脱いで湯に浸かる。実の所彼は、女性の裸を見慣れてはいたのだ。軽業師の一座では女性達のセクシーなダンスなども披露し、彼女達は男達の前で遠慮無く裸になって着替えていたし、ハルトと一緒に風呂に入る事もあった。一座の皆は家族の様な物で、幼いハルトを女達は子供の様に可愛がっていた。そんな彼と言えど、同じ年頃の少女となるとまた違う思いがあるものらしく、暫くの間頭まで湯に潜っていた。
やがて、湯舟で入念に足をマッサージしていたハルトに、ドアの外からカリンの声が掛かる。
「ハルトぉ~、タオル……」
「投げてくれよ」
彼女はとにかく浴室には近寄りたく無い様子で、ドアの隙き間から手だけ出してぽいぽいとそれを投げて寄越した。暗闇の中で見事にそれをキャッチしたハルトは、湯舟から出ると丁寧に身体をぬぐって服を身に着ける。部屋に戻るとカリンが顔の半分まで毛布に潜り込んでこちらを見ていた。ハルトが声を掛ける。
「ちゃんと髪の毛も拭いたか。……まったくなんであんな物怖がるんだかさっぱり分からねぇ。虫なんか何処にだっているだろうによ」
「あれだけは別よぉ……。あぁ、あんなに至近距離で見ちゃった…、夢に出たらどうしよう~」
「いいからもう寝ろ。明日は早く起きて服を仕入れなきゃなんねぇ。この村に服屋があって良かったぜ」
「はぁい。……ごめんねハルト、…タオルありがとう。………おやすみなさい」
そう言って目を閉じたカリンの顔も赤く染まっていた。裸同然でハルトにしがみついた事が、今さらの様に恥ずかしくなったのだろう。
ランプを消し、闇に包まれた部屋でハルトもベッドに潜り込む。今日一日ですっかり疲れ果てた二人は、あっという間に眠りに落ちていった。
夜中に物音がしてハルトは目を覚ます。暗闇に目を凝らして見ると、カリンの片足がベッドから落ちて床に付いていた。やれやれと思って身を起こした彼は、ベッドの上の少女の寝相のひどさにさらにため息を付く。これでいびきでも掻こう物なら部屋から叩き出す所だと思いながら、はみ出したカリンの足を毛布に押し込み、大分冷えて来たと考え、自分のコートを上から掛けてやった。
これではまるで本当の従者の様だと苦笑し、宿屋の主人には兄妹だと言い訳したが、実際こんな妹がいたら世話が焼けて叶わないとも思い、再びベッドに戻り眠りに就いた。闇の中、カリンの瞳が涙で濡れている事に、ハルトは気付かなかった。




