第八章 南から来た少年、東から来た少女 第二話
トランセリアの首都セリアノートは一面の雪に覆われていた。例年ならそろそろあちこちで雪解けが始まっているのだが、今年は積雪が多く、まだ町は真っ白な雪化粧を纏っていた。
セリア山脈のトンネル工事も、晩秋から長い間中断しており、悲願の開通を先送りにした王宮は、春の到来を心待ちにしていた。先王アンドリューの時代から二十年に渡って掘り続けられたそのトンネルは、途中幾つもの落盤事故を起こしながらも、少しづつその長さを伸ばしていた。
交通の要所でありながら冬場は雪で閉ざされるセリア山脈を、冬でも変わらず行き来出来、通商を行えるようにする事は、トランセリアの国家事業の中でも最も重要な物であった。鉱山開発で培った王立工匠の最新技術を惜し気もなく投入し、今年こそ開通式を執り行う腹づもりだった閣僚にとって、工事中止は断腸の思いであった。雪や事故の他にも、工事は戦で中断し、予算不足で延期され、やっとの思いで完成間近まで漕ぎ着けたのである。だが、豪雪の中、無理に開通を急いで事故が起こる事を怖れた国王アルフリートは、こう言って皆を諌めた。
「二十年待ったんだ、今さら半年やそこらどうって事ないさ。楽しみは後にとっておこう」
国王の言う事は確かにその通りであったが、トランセリアにとって今年は特別な年であった。アルフリートとシルヴァの結婚式まであとひと月も無く、来賓の訪問や式典の様々な支度に、そのトンネルは絶大な効果を及ぼす筈だったのだ。
リグノリア出兵に予算を奪われ、既に一度延期をしている手前、今さら式の日程は変えられず、王宮はいつもに増して忙しい日々を送っていた。
これが他の国であったならば、国家の面子に掛けて多少の犠牲は覚悟で完成を急いだであろうが、トランセリアはとにかく貧乏なのである。事故が起きればその分工期は遅れ工費もかさむ。死者でも出ようものなら、遺族に支払う慰霊金も馬鹿にならないだろう。
「こっちが金払うんならともかく、客の分の旅費や宿泊費なんぞ知った事か。少しぐらいの出費や回り道は我慢してもらおう、今迄だってそうなんだから」
アルフリートはそんな事を小声で呟くのである。
トランセリアで王族の結婚式が行われるのはこれで三度目となる。初代国王のアルザスは、国を興した時点で既に妻帯しており、二代目のアーロンの時に初めて結婚式が執り行われた。ただ、アーロンの時代は何から何まで貧乏であり、諸外国から来賓を呼ぶ事も無く、国内だけでごく普通の庶民と大差ない式典が行われた。それでもアーロンと妻シャーロットの二人を祝福する為に、多くの市民が詰め掛け、その後の国の発展のはずみとなった事は確かである。
三代目の国王アンドリューの時代にはさすがに盛大な式典が開催され、各国の訪問団も数多く訪れ、華やかな王宮の時代の幕開けを象徴する形となった。アンドリューの迎えた花嫁が、外国の貴族の娘であった事も影響したのであろう、他国の結婚式を参考としたその式典は、規模は小さいが一通りの段取りを踏まえた物であり、今回のアルフリートの結婚式の手本とされていた。
式典責任者の大役を任された内務長官フランク・ハーバートは、記録を引っぱり出し、あれやこれやと一年以上前から計画を練って準備に余念が無かった。細やかな神経と気配りに長け、上から下まであらゆる立場の人間の気持ちが分かる『ミスター平均値』フランクこそ、こういった仕事に最も適した人物であると、宰相ユーストが彼を推したのであった。
多忙な内務長官の代役をユースト自らが務め、王宮は通常業務も滞り無く進んでいた。アルフリート自身は、どうせユーストが面倒臭がっただけだろうと思ってはいたが、結果として最適な人選が行われた形になり、特に文句も言わなかった。
それよりも問題は花嫁シルヴァの方であった。結婚式と言えば一番忙しくなるのは女性の側であると相場が決まっており、ましてや彼女は軍務長官の地位に居る人物である。彼女自身が式典責任者になっても不思議では無い立場にあり、既に殺人的なスケジュールをこなしていた。
三人の将軍は多忙を極める元帥を見兼ね、国王に式典が終る迄代行を立てるべきだと具申する。アルフリートも考えていた事ではあったが、かといって三人の将軍もそれぞれ普段より多忙である事は間違い無く、彼は人選を決めあぐねていた。
御前会議であれこれと相談する閣僚の中から、ディクスン将軍が一人の人物を提案した。前職の軍務長官、現在は士官学校校長を勤める、『隻眼元帥』グレン・ルバレスであった。五人の古老で構成される、法務庁元老院の委員にも名を連ねる人物であり、確かに代行として最適と思われる選択ではあるが、アルフリートもシルヴァも、一度は頭に浮かんだその名をわざと口に出さずにいたのだ。
引退した各分野の最古参の重鎮で構成される元老院は、口やかましく真面目で堅物で、国王だろうと何だろうと構わずに文句を言える人物を選び抜いて作られている。そもそも国王を諌めるのが目的の大部分を締める組織であるから、当然と言えばそうなのであるが、その中でもグレン元帥は際立って強持てであり、シルヴァに将軍や軍務長官としての職能を文字通り叩き込んだのも彼であった。仕官学校でも歴戦の騎士達から恐れられ、『片目の悪魔』だの『杖を突いた熊』だのと囁かれていた。
元老院には他に前外務長官ドワイトもおり、生前のユーストの父、ヤルーノ宰相もその一員であった。どの人物も一筋縄ではいかぬ者ばかりであり、ドワイトなど今でも抜き打ちでヴィンセントの執務室に現れては、彼の仕事振りに目を光らせている。
ユーストが引退したあかつきには、間違い無く彼もメンバー入りするだろうと思われていた。ただし、元国王にはその資格が無く、アーロンは含まれていない事が、アルフリートにとっては幸いと言えた。
「………いいけど、来るかなぁ?…グレン」
「……………」
及び腰のアルフリートと無言のシルヴァ。ディクスンは自分を取り立ててくれた元帥を敬愛しており、グレンは彼にとっての『親父』であった。
苦笑するシュバルカとメレディスに頷いた彼は、自分から元帥に打診する事を告げ、会議はお開きとなった。
果たして数日の後、王宮の正面玄関にグレンが現れる。黒い眼帯に隠された右目を補って余りある左目の鋭い威圧感。シュバルカをさらに一回り大きくしたような分厚く、頑健な肉体に、頭部の毛髪も黒々と豊かな彼は、戦で足を悪くした為に杖を手にしてはいたが、軍人らしく背筋を真直ぐに伸ばし、衛兵の最敬礼を受けてかつかつと階段を昇る。宮廷中の騎士にレイナード襲来以上の緊張が走り、侍従も侍女も背中に棒でも入っているかのように、かちこちに固くなって歩いていた。
アーロンの尻ですら引っぱたいたという逸話を持つグレン元帥を目の前に、優位に立てる人物が居るとすれば、大陸中探してもたった一人しか見当たらないであろう。先々代の王妃、怖い物無しの肝っ玉母さん、シャーロット・リーベンバーグである。
グレンは彼女よりわずかではあるが歳下であり、シャーロットお得意の『ごはん食べなさい』攻勢を幾度も体験していた。大きな身体でもりもりと食事をする彼は、王妃のお気に入りの騎士の一人であった。
唯一にして最大の防波堤である祖母を、アルフリートは王宮に呼んでおこうかとまで考えたが、そこまでするのは嫌味なような気がしたし、グレンは要請を受けてわざわざやって来てくれるのである。そもそもシャーロットがアルフリートの言う事など聞く訳も無く、来るなと言っても来たければ勝手にどんどん上がり込むに決まっているのであった。
会議室にグレンが姿を見せた。閣僚総出で、と言いたい所だが、ヴィンセントは訳の分からない理由をこじつけてちゃっかりと会議をさぼっており、壁際の椅子でリサはおかんむりだ。フランクは見ていて気の毒な程緊張し、リカルド局長もいつも以上に小さくなっている。壁際に控える副官や局長達は皆最敬礼であり、三将軍はさすがに慣れているのか、にこやかに彼を迎えた。
歳の近いシュバルカにとっては共に戦場に立った戦友であり、ディクスンとメレディスにとっては『親父』であった。懐かしそうに握手を交わす彼等が見えているのかいないのか、シルヴァは直立不動のままである。
ユーストはいつもの冷静な表情を保っているように見えるが、アルフリートの位置からは彼がこっそりと手の汗を拭うのが見えてしまった。宰相はにこやかに一礼し、シルヴァは鯱張って挨拶する。
「ぐ…グレン元帥閣下。お久し振りでございます。本日は御多忙中にも関わらずおいで下さいまして、誠にかんちゃ…か、感謝致しております」
結婚式当日のような妙な挨拶の上、噛んでいる。アルフリートは吹き出す訳にもいかず、笑いを堪えながらグレンを迎え入れた。
「忙しい所済まないねグレン。だいぶ冷えるけど足は痛まないかい?」
「お気遣い痛み入ります。アルフリート陛下におかれましては御健勝の御様子で何よりでございます。シルヴァ元帥、私はもう君の上官では無いのだから、そのように固くならなくても宜しい。お若い陛下の細君として、年長の君がしっかりと支えていってもらいたい」
「はっ、お言葉胆に命じます。ありがとうございます」
上官では無いと言いつつも命令口調に近くなっているグレンの台詞に、シルヴァも部下のように答えてしまっている。戦場では怖い物知らずの彼女だが、叩き込まれた軍人の習性はそう簡単に変わる物では無いようだった。
アルフリートはグレンに椅子を奨め、いつもより随分と行儀良く背筋を伸ばし彼に対する。
「ディクスンから話は聞いてもらっていると思うので説明は省くけれど、軍務長官が花嫁というのは異例中の異例である訳だから、特例としてこの人事を了承してもらいたい。式典が終了する日まで、軍務長官代行として宮廷騎士団及び三軍全ての指揮を委ねる。如何か」
「引退した身ではありますが、陛下の勅命とあらば喜んでその任をお受け致します。……ただ、その前に幾つか宜しゅうございますか」
グレンの問いにぎくりとして答えるアルフリート。
「な……。遠慮なくどうぞ、元帥」
「はい、僭越ですがまず陛下は壇上の玉座にお座り下さい。それから首のボタンはきちんと一番上までお留め下さい。服装が乱れていては国王として下の者に示しがつきませぬ故。それとそのお言葉遣い、家臣と親しくお話をされるのは人心掌握の上で必要不可欠ではございますが、物にはそれに見合った程度と言う物がございます。御前会議においてはもう少しきちんとしたお言葉遣いをなさいますよう。ユースト殿、そなたの責任でもあるのだぞ。歳若い陛下をお諌めするのも宰相のお役目故」
突然の名指しにかすかに表情を変えたユーストであったが、口からはすらすらと勿体ぶった返答が流れ出る。
「私の不徳の致す所でございますれば、元帥閣下のお言葉、身に染みましてございます」
「うむ、宰相殿も多忙でござろうが、御親戚筋であるそなたこそが、そういったお立場であろうと考え申す。陛下、堅苦しい事ばかり申し上げますが、国王の結婚式典ともなれば、諸外国から多数の来賓が訪れる物。それがしが居る間だけでも、一国の王として相応しい振る舞いを為さって下さいますよう、お願い申し上げる」
「分かったよグレン。努力する」
「お分かり頂いて恐悦至極でございます。それからもうひとつ…」
「う…うん」
「ご返事は『うん』ではいけません」
「はい」
「よろしゅうございます。それから……」
まだまだ終りそうも無いグレンの注文に、閣僚は退席する訳にもいかず、将軍達は苦笑いを浮かべ、シルヴァはまだ直立不動のままだ。アルフリートは(こりゃあ大変だ…)と内心思いつつ、うんうんと老元帥の言葉に頷いていた。
◆
森の中を歩き出して数時間、ハルトは早くも後悔していた。カリンが元気良く歩いていたのは最初の三十分ほどだけで、徐々に歩く速度が遅くなり、それまでぺらぺらとしゃべり続けていた口も、次第に沈黙の時間が長くなっていく。やがて、ふいにぴたりと歩みを止めたカリンが言った。
「……もう歩けない」
「お前……まだ二時間も歩いてないぞ。この先どれだけあると思ってるんだ」
呆れてそう告げるハルトに、カリンは力無く答える。
「分かってるわよぉ……。ちょっとだけ休憩しましょ」
木の葉の上に毛布を敷くと、カリンは足を投げ出して座り込む。確かに長い距離を歩くのに向いた靴では無かったが、ちょっと早過ぎるだろうと彼は思い、荷物を下ろして水筒を取り出す。一口水を飲むとカリンに差し出し、言った。
「一口だけだぞ」
水筒を手にしばらく躊躇っていたカリンだったが、渇きを訴える喉の欲求には逆らえず、口を付けてごくごくと水を飲んだ。
頃合を見計らってハルトはさっと水筒を取り上げる。案の定、放っておけば彼女は水を全部飲み干してしまいそうないきおいであった。あちこちに雪が残っている為、ハルトはそれ程水の心配はしていなかったが、この世間知らずのお嬢様には少し躾が必要だと考えていたのだ。恨めしげに彼を睨むカリンに、水筒を仕舞いながらハルトは訊ねる。
「お前、金持ってるか」
「なによ急に。……まさかあんた、か弱い乙女のわたしを脅して金目の物を奪おうってんじゃ……。あぁなんて事かしら、忠誠を誓った従者が突然裏切者に変わるなんて。なんてなーんて不幸な美少女なのかしらわたし…」
足が止まると口が動き出すんだなぁとハルトは思い、突っ込み所満載の台詞の中味にはいちいち反応せず、ぶっきらぼうに告げる。
「つまんねぇ小芝居はよせ。この先まだまだ歩くんだ、そんな靴じゃ持ちゃしねぇから、もっと丈夫なヤツを買わなきゃなんねぇ。セリア山脈を越えるんなら防寒用の服だって要るし、食いもんだって仕入れなきゃ」
生意気そうに顎をつんと持ち上げ、カリンはポケットに手を入れながら答える。
「お金ならあるわよ、ここ……に……あら?……え?……あれ?……こっちだったかしら?……うそ……え?……うそっ!……うそーっ!」
勢いよく立ち上がって服のあちこちに手を突っ込むカリン。終いにはコートを脱いでばさばさと振り始め、ぽろりとこぼれ落ちた金貨一枚を手に、へなへなと毛布の上にへたり込む。
「……お金……落とした……穴が……コート…に…」
ようやくそれだけを言うと、カリンはがっくりとうなだれて動かなくなった。大方金貨をたくさん詰め込み過ぎて、ポケットに穴が開いたのだろうとハルトは思い、自分が後ろを歩かなかった事を後悔した。
道など知らず、ただ闇雲に森を歩くカリンを、ハルトは歩き出して早々に自分の後ろに回し、地図と磁石とを見ては方角を確かめ、一番近くの集落へと正確に進んで行った。当り前の行動だがそれが仇となった。
ハルトは来た道を少し引き返して、金貨が落ちていないか探したが、薄暗く、木の葉の厚く積もる森の道では小さな金貨など見つかる筈も無かった。戻って来たハルトに顔を上げたカリンが小さく呟く。
「………ごめん、……ハルト」
「無くしちまった物はしょうがねぇ。その金貨は俺に渡しとけ」
「……なぁーんでよぉ」
「お前また穴の開いたポケットにそれをしまっとくつもりか?だいたい子供が金貨なんかで買い物出来るもんか」
「……?どういう事、それ」
「そんなもん店先で出してみろ、なんだかんだ理由を付けられて巻き上げられちまうに決まってる。どっかで銅貨にでも両替えしてちっとずつ使うんだ」
「…そ、そうなんだ」
ハルトは行く末を思って小さくため息をつく。カリンは大人しく金貨を渡し、彼は注意深くズボンの隠しポケットにそれを仕舞い込む。
再び歩き出した二人は無言だった。やがてカリンが遅れだし、ハルトは立ち止まって彼女を待つ。何度かそれを繰り返した後、ついにカリンが一歩も動かなくなった。
引き返したハルトが俯いたカリンの顔を覗き込むと、彼女はぽろぽろと涙を流し、小さく言った。
「……足が、……痛い」
少女を座らせて靴を脱がせると、小指の部分のタイツが破れて血が滲んでいた。ひどい靴擦れだった。
ハルトは荷物の中から軟膏と包帯を出して手早く手当てをすると、毛布を畳んで鞄に括り付ける。カリンに自分のコートを着せ、荷物を背負わせると、背中を向けて言った。
「おぶってやる」
カリンは黙って彼の背中に掴まり、ハルトは「よいしょ」と小さく言って歩き出す。カリンの身体は驚く程軽かったが、ハルトとて決して逞しい方では無い。少女の体重と、荷物と服とを全て合わせた重量を二本の足で支え、はぁはぁと息を乱しながらも彼は休む事無く歩き続けた。
初めは無言だったカリンが小さく声を掛ける。
「……ごめん、ハルト。……ごめんなさい」
すっかりしおらしくなった彼女の態度にハルトは少し可笑しくなった。今さらここに少女を放り出して行く訳にもいかず、休んだ所で食糧が無駄に減って行くだけであり、今出来る事はカリンを背負ってでも前に進む事だ。そう判断した彼は迷わずそれを実行に移した。
夜まで歩けば村には辿り着けるだろう。ハルトは少しでも気が紛れるように、あれこれとカリンに話し掛ける。
「足が痛い時は早く言えよ」
「……うん」
「一日あれば村に着けるだろうから、それまで我慢しろ」
「……うん」
「カリン、お前……なんでそんなに街道に戻るのをイヤがったんだ」
「……グローリンドに、……連れてかれちゃうから」
「グローリンドの何が悪いんだよ」
「……結婚させられちゃうから」
驚いたハルトは思わず首を回してカリンを見る。目の前に少女の大きな瞳があってまたびっくりする。慌てて前を向いた彼は赤い顔で問い掛ける。
「え?……お前、十歳だろ?……結婚?」
「すぐにお嫁に行かされる訳じゃないけど……、グローリンドに行ったら婚約はしなきゃいけなくなると思う…」
「そ、それって貴族じゃ普通なのかよ」
「ちょっと早いけど珍しい事じゃないわ」
「ふーん、変な事するなぁ……。お前、そいつのこと…す…好きなのかよ」
「会った事も無いのよ、そんなの分かる訳ないじゃない」
「会った事も無いヤツの所に嫁に行くのかよ!お前ら馬鹿なんじゃないのか?」
「わたしだって馬鹿げてるとは思うけど、…それが貴族の家に生まれた者の宿命なのよ。それは分かってるの」
「しゅ…宿命…ですか?……え?じゃあなんで今逃げてるんだ?」
「結婚するのはいいの。それは生まれた時から覚悟してた事だから。…ただ」
「……?……ただ、なんだよ?」
「……音楽を、…わたしから音楽を取り上げようとするのが我慢出来なかったの!それだけは許せなかったの!」
そう叫ぶとカリンは声を上げて泣きじゃくった。自分の首に手を回し、服の胸元をぎゅっと握り締めて泣く少女に、掛ける言葉を見つけられぬまま、ハルトはただ黙々と歩を進めた。
侯爵家に生まれたカリンは、幼い頃から音楽にその才を見せ、様々な楽器を見事に弾きこなして人々の喝采を浴びた。やがて彼女は作曲にもその才能を発揮し、ピアノを前に幾つもの短い曲を生み出しては、大人達を驚かせた。カリンは確かに彼女自身の言う通り、天才と言える音楽家だったのである。
しかし、カリンの不幸は貴族の家に生まれた事だった。古い国の由緒ある家柄の娘が、いくら才能があるからとはいえ、音楽で身を立てるなど許される事では無かった。貴族の家系に生まれた女性は、いい家柄の男の元へと嫁ぎ、家庭を守って夫を支え、子供を産んでさらに家を発展させる。それが彼女達に求められる役割であり、ちょっとした習い事程度の楽器ならともかく、それを生業とするあさましい行為など恥ずかしい事だと考えられていた。
優秀な人材なら性別も年齢も問わずに取り立て、どんどん出世させては遠慮無く(安月給で)こき使うトランセリアからしてみれば、なんと勿体無い話だと思うだろう。事実アルフリートは他国のそういった話を耳にする度に、「ウチに来ねぇかなぁ……」などと呟き、実際亡命して来たアイリーンのような例もあった。
数多くの局長が多忙な日々を送っている内務庁など慢性的に人出不足であり、地方の市や村の行政も多くは老人の手によって賄われ、若く優秀な人材は喉から手が出る程欲しかった。
大戦と豪雪とで出生率が大幅に低下した時代があった為、トランセリアは子供の数が少なかった。アンドリューが様々な福祉政策を行ったのも、そういった理由があったからだった。
さらに歴史の浅いこの国では、文化という物がなかなか発展しなかった。もしアルフリートがカリンの事を知ったならば、かなり強引な手段を取ってでも、自分の国に迎え入れようとするかも知れない。トランセリア王宮にも宮廷楽士や宮廷画家はもちろん存在するが、彼等は皆、外国の学校に留学して技術を身に着け、帰って来た者ばかりであった。
他にも例えばトランセリアでは近年時計などを輸出し始めているが、それはほとんどが工業製品や部品としてであり、工芸的な付加価値のある物では無かった。丈夫で壊れにくく、比較的安価な(そうは言ってもとても庶民に手が届くような代物では無かったが)トランセリアの懐中時計は、軍人や職人などには評判が良かったが、美しさを求める女性や、ましてや貴族階級などには見向きもされなかった。
音楽や絵画といった芸術が、一朝一夕で国に根付く物ではないと言う事をアルフリートも良く分かっていたし、王立工匠の職人達もなかなかそこまでは手が回らなかった。
カリンがトランセリアを目指すのもそんな彼の国の内情を知っているせいなのか、それともたまたま通り道だったからなのか、少女の心の内は知る由も無かった。
ハルトの背に揺られ、泣き止んだ彼女はぽつりぽつりと話し始める。
「……グローリンドの音楽学校に留学させてもらえる事になっていたの。…でも、それだけだったの。…学校を卒業したらそのままお嫁に行かされる……。留学を許してくれたのは、言われるままにグローリンドの貴族の所へ嫁ぐわたしへの、最後のご褒美だったの。……もうそれでお遊びはおしまい。…後は夫の言う事にはいはいと頷いて、子供を産んで育てるだけの人生が待ってるのよ……」
「それで旅の途中で金貨ひっつかんで逃げて来たってワケかよ…。気持ちは分かるけど、もうちょっと準備とか計画とかしろよな」
「だって、そうと分かったのが出発の直前だったんだもの。これでも旅の間に色々と考えたのよ。お金のことだってポケットに穴が開くなんて思わないじゃないの」
「普通金は幾つかに分けてしまっとくもんだ。一箇所にたくさん詰め込んだら重みで穴も開くさ」
「……だって、急いでたんだもの」
「しょうがねぇなぁ、世間知らずのお嬢様は」
そう言ってハルトはげらげらと笑った。背中で膨れっ面をするカリンだったが、彼が笑った事で、少女の心も幾らかは落ち着きを取り戻したようだった。
森はやがて細い道へと開け、途中、ささやかな昼食を口にしたカリンも少しは自分の足で歩いた。二人が小さな村へと辿り着いたのは、日も暮れた頃だった。