5.幸せになれない才能
アンナは正しく天才だったと言えるでしょう。
人間にしては、という注釈がつきますが。
まだ教育も始めていないのに、彼女が2歳で本を独学で読み始めると、伯爵家の屋敷の者たちは大喜びで褒め称えました。
(こうすると、お父様もお母様もお兄様も屋敷に仕えるみなさまも喜んでくださるのですね)
だから、彼女がこう思って読書に励んだのも、両親や、歳の離れた兄に褒められたいがための可愛らしい子供心だったのでしょう。
でも、アンナを褒める者は段々といなくなりました。彼女は放っておいても、褒めたりしなくても、本さえ与えておけば自力で何もかも学んでしまうからです。
ただ、少し肺が弱く、いつも窓際で本を読んでいる兄だけは、時々思い出したように褒めてくれるのでした。
そのせいで、アンナは少し調子に乗ってしまったのかもしれません。学んだことを活かしたくて、思いついたり気付いたことを賢しらに言う幼いアンナを、兄以外の多くの者が、徐々に疎むようになっていきました。
「またアンナ様に注意されてしまいましたわ」
「今度は何ですの?」
「洗濯物の籠が少し汚れてしまっているようですから、そろそろ何かの布で吹き上げた方が良いかもしれませんわ、ですって」
「まあ!アンナ様は洗濯もなさらないのにご立派な意見ですこと」
「アンナ様って、中に意地悪な姑でも入ってるのかと思う時がありますわ」
「言えてますわね。早熟でも、あのような成長をする子どもはイヤですわー。私、あのような子を持たなくて本当に良かったですわ」
「これっ、聞こえますよ」
「ほら、アンナ様がこちらを見ていらっしゃるわ」
「どんなに耳が良くたって、あそこまでは聞こえませんわ」
「それに聞いていたところで、どうせまだ3歳ですもの。子どもの勘違いだと言えばいいのですわ」
そう言って侍女たちはクスクス笑いました。
そんな陰口を、アンナは直接聞いてもいないのに、何故か彼女たちの視線を見ただけで、遠くからでも分かるのでした。
そんなある日のことでした。
「今日の学園祭では女装コンテストなどというものがありまして……」
既に学園に通っていた10歳年上の兄が、夕食の時間に困ったようにそう話しだした時、アンナには急に、不思議な感覚に陥りました。
全く見てもいないのに、その学園祭で兄が女装している光景や、それを見て周囲が感嘆しているように見せつつも、心の中では少し蔑み、それをまるで功績かのように装いながら兄の名を貶める伝聞として拡散しようとする様子が、ありありと頭の中に浮かんできたのです。
兄は肺が弱く屋敷に引きこもりがちなせいか、深層の令嬢のように白い肌をしていましたから、確かにその光景で見えた兄の女装姿はとてもよく似合っていました。
兄とアンナはよく似ていますから、アンナが成長すると、きっとあのような姿になるのでしょう。
病のせいか、痩せ気味のせいなのか、知力はあっても筋力はなく、それなのに目立つ容姿で身分は伯爵家。貴族令嬢たちからある種の羨望を浴びていた彼は、筋力や財力で成り上がろうとする貴族令息たちからは少しばかり邪魔な存在でした。
でも、兄が全く望まない中、誰よりも女装が似合うからという理由を盾に、彼がそれをせざるをえなくなったことも、何故かアンナには分かってしまいました。
個人では、集団の同調圧力には逆らえないのです。
その瞬間、アンナは大泣きしていました。自分自身でも、何故かは分かりませんでした。ただどうしようもなく辛くて、早熟なアンナにしては珍しく、激しく大号泣したのです。
「アンナ!?」
「一体どうしたのですか!?」
両親は慌てて宥めようとしましたが、そこから半刻ほど、アンナは泣き続けました。
その日から、アンナはもうほとんど泣いていません。でもその代わり、あまり笑わなくもなりました。
「アンナは普通の子とは少し違いますね」
肺が弱いながらも今では王宮勤めをしている兄が、アンナが泣き止んだ後、やはり困った顔でアンナにそう言ったのを、アンナは今でも覚えているのでした。
(普通の子とは違うとは、何が違うのかしら……。もしかして、みなさま、私とは見えている世界が少し違いますの?)
ようやくアンナがそう結論付けたのは、5歳になった頃だったでしょうか。それから彼女は、出来るだけ知っていることを話さないようにしました。
それに、目の前に光景が浮かぶほどの異常現象は、あれから一度も起こらなかったのです。
(目立たなければ、話さなければ、そうすれば何も言われませんもの。存在を隠してしまいましょう。どこにでも埋もれるように、誰かの影に隠れるように)
そう生きていた彼女がヘレナを見て、(学園では常にヘレナ様の取り巻きとしてそばにいれば、きっと目立ちませんわね)と思ったのは、賢い判断だと言えました。
実際、ヘレナのそばにいれば、少し目立ちやすい色合いをしているアンナも、まるでバラの花束にいくつか差し込まれるカスミソウのように目立ちませんでしたから、その作戦は功を奏したと言えるでしょう。
そのためにアンナは、ある意味誰よりもヘレナを観察していました。ヘレナの学力を正確に理解し、いつも試験の点数は彼女を超えないよう少しミスをして調整するほどに。
(1位は目立ちますから、2位にしておきましょう。あまりにも順位を下げると家の評判や後々の社交界での評価にも関わりますから、2位か3位が良いですわよね)
だから、誰よりも早く、レオンのヘレナへの淡い恋心や、ヘレナの周囲への無関心、周囲がレオンやヘレナに向ける悪意や噂のことでさえ、しっかり気付いていたのです。
(エルフの森は精霊という存在に守られているらしいと、我が家にある隠し部屋の古書で読んだことがあります。あれはただの絵本の御伽話のようでしたけれど、それが真実の一端を分かりにくく描いているようなものだとしたら……?実際にエルフだって存在していたのですもの。形を変えて表現されたと思われていたその絵本が、実は真実を導く鍵なのだとしてもおかしくはありません。そうであれば、エルフは、精霊・もしくはそれに準じる存在と話す何らかの手段を持っている可能性があるということ。精霊がいたとしてもおかしくはありませんわよね……)
精霊など見たことがないアンナは、精霊の姿を想像して少しほっこりしました。まあ、アンナは少し好みがズレているのか、想像された精霊は、小さな野ネズミだったのですが。
(ヘレナ様の珍しい髪色もそうですが、時折何処か空中を見ていらっしゃるのも、もしかしたら何かを見ることができるのかもしれませんわ。あれからいくつもの文献を当たっても確証を得られるような文書はありませんでしたけれど……。あの部屋の知識は、多くがそのように分かりにくく描かれた秘匿すべきもののようでしたから、エルフや精霊に関してもそうなのかもしれませんわね。それに、そのせいで周囲にあのようなことを言われ、孤立させられるほど、ヘレナ様は悪いことをしておりませんのに。)
アンナは幼少期から言われ慣れすぎていたため、自身の悪意は流すことができました。それなのに他人への悪意は自身のこと以上に辛く苦しく思う、そんな人間だったのです。
それは、彼女の周囲が悪意に塗れていては、決して幸せになれないという、諸刃の剣でもありました。
(レオン様だって、不思議な勘違いをなさってはいるけれども、そのような勘違い、男性に限らず多くの方がなさっているではありませんか)
アンナは彼の受けていた悪意を思い出し、再び心を痛めました。
(特定の方や物であったり、多くの不特定多数の異性であったり、対象は様々なようですけれど、自身の願望のために何かを必要以上に執拗に攻撃したり、同調を求めて排除したり、そのようなことをするのはあまりにも悲しすぎますわ……。何故皆様、自身の行動は悪意ではないと思われていらっしゃるのかしら……。このように、少し目立ってしまったからとレオン様をあのように言うなど……。それほどあの方は悪いことをしておりませんわ)
それに、観察しすぎるアンナは、レオンが周囲にはバカにされるような勘違いでヘレナにアピールしつつも、本当にきちんと彼自身が努力していたことにもちゃんと気付いていました。
全然勉強してないと言いながら、彼の試験の前日には、右手の外側に少し黒ずんだ鉛筆の痕がありましたし、目は少し充血していました。それに、アピールし始めるより前の試験で彼は中の上ぐらいの成績だったことを、アンナはしっかり覚えていました。
それを10位まで上げたのですから、何日もかけて相当きちんと試験に取り組んだのでしょう。レオンが一夜漬けなどではなく、努力しなければ、あれだけ成績を上げることはできないことぐらい、彼のそれまでの理解力から判断することは容易でした。
アンナにとっては、という注釈は付きますが。
それに、彼の体形や顔の造形はあまり変わっていませんでしたが、最近少し引き締まって肩周りや腕周りが男らしく筋肉質になり始めていることにも、アンナは気付いていました。
それに、彼の手のひらの皮だって、剥けたり硬くなっていそうなところがありました。きっと本当に毎日何十回も様々なトレーニングを行っているのでしょう。勉強と並行して。
彼は勘違い男ではありましたが、きちんと努力できる人間だったのです。
(本当にバカですね、あの方)とアンナは思いました。そんな本当に一生懸命で真っ直ぐ努力家なバカに、何かしてあげたいと思ったのです。
(レオン様は確か妾の子ということで婚約者探しに難航していらっしゃいましたね。このような悪意に塗れた噂を流されては、婚約者を見つけることは更に難しくなるでしょう。本当に愚かですけれど、矯正できないような愚かさではありませんから、少し私がお手伝いして差し上げたとしても、きっと悪くはありませんわよね)
だから、アンナは両親にお願いしてレオン伯爵令息に婚約を申し込んだのです。
「お父様、お母様、私の婚約者の選定が始まっているとお聞きしております」
「そうですわね。そろそろ決めませんと……。もうあと3年しかありませんもの」
アンナの母親は、かなり世間体を気にする、貴族らしい貴族夫人でした。
父親は、顎に右手を当て、こう言いました。
「アンナの希望が1番大事ですよ。常々言っているでしょう?自身の願望を叶えるには、適切な努力を適切に続けることこそが、最も良い近道なのです。その願望が報われなくとも、その努力は必ず別の形であなたの力になるでしょう」
「それであれば、私は伯爵家のレオン様との婚約を望みます」
「ああ、あの伯爵家の……」
アンナの母親はチラリと父親を見ました。父親はほとんど表情を変えませんでしたが、アンナから見れば、少しだけ眉間に力が入ったのです。
「……アンナにその覚悟があるのであれば良いでしょう。あと3日は考えて再度返答してください。知らぬ者より、顔見知りで同格の伯爵家と婚約する方が色々と問題は起きにくいでしょうからね」
アンナによく似た眼差しの父親は、アンナをしっかりと見つめました。
(レオン様が受けてくださるかは賭けになりますわね……。でも、再考してみましたけれど、今このタイミングであれば勝算はかなり高いでしょう。レオン様の評判がかなり失墜しておりますもの。元々レオン様は、他人の感情を自身の都合が良い方向に勘違いなさるだけで、努力の方向性自体を間違えるような方ではないように見えますわ。悪知恵の働く非道な方にその正義感を利用されなければ、犯罪行為などもご自身からはなさらないのではないかしら……?隠れて犯罪を行われるような性格の方と一緒になってしまっては、一家連座となった時にはどうすることもできませんけれど、前もって手助けできる程度には分かりやすいお方であれば、先回りしてお助けして差し上げられますわ……。性格を矯正するよりはよほど、勘違いの方向性を少し調整してあげるだけの方が将来性がありますし……)
そうして3日後、アンナはやはり同じことを両親に望んだのでした。
(レオン様がヘレナ様と結ばれる可能性は未来永劫ないでしょう。それにヘレナ様ほど美しい方と結ばれることもないでしょうけれど、彼ならばいずれ、私ぐらいの容姿でもきっと気に入ってくださるのではないかしら……。私がヘレナ様の影で隠れて生きられるのも、この学園限りのこと。そうであれば、学園を卒業後は、少し悪目立ちをしてしまって婚約が難しくなっている、そしてご本人は何故かそれに気付いていらっしゃらないレオン様の影で生きるのも同じことでしょう)
アンナは歴史ある伯爵家の令嬢でしたし、アンナの言う通り、レオンの実家では彼の婚約相手探しに難航していたため、渡りに船でした。
レオンの父親は、レオンが学園内での評判があまり良くないのも伝え聞いていましたから、まさにアンナの読み通り、レオンの説得にはかなり貢献したのです。それをアンナが知ることになるのは、随分と後のことになりましたが。
そのため、2人の婚約はスムーズに成立したのでした。
「皆様聞きまして?レオン様がご婚約なさったという話……」
「聞きましたわ!よくあのようなお方とご婚約なされる家があったものだと思いましたら、アンナ様ではないですか」
「アンナ様ったら、あのような方と婚約させられてしまいましたの?やはり、伯爵家の情報収集力は衰えてきているのではなくて?」
「伯爵家とはいえ、もうほとんど旧家ですもの。お力も以前ほどではありませんわ」
「アンナ様は勉強がお出来になるだけで、周囲のことには少し疎くていらっしゃるから……。大人しく従順な方は、本当にお可哀想ですわね」
そう言って貴族令嬢たちはクスクス笑いました。
アンナの思惑通り、周囲の悪意の対象は再び、レオンから、レオンと婚約したアンナへと移動しました。でも、アンナにとってそれは、努力している誰かが言われなき悪意を向けられるよりは、ずっと快適だったのです。




