牧神
牧神「パーン」。獣のような臀部と脚部に、山羊のような角を持つ太古の神の一柱。ヘラスの神々の中でもかなりの古株で、かの全能の神「ゼウス」よりも前に生まれたとも。しかし今現在、彼を信仰する者は少ないらしい。
そう、レグルスから聞いていた。
確かに情報通りの見た目だ。しかしこの腐臭は、とても神の身体から漂っているとは思えない。どちらかといえば怪物……というよりそもそも、神に匂いとかあるのだろうか。
それに加え、この家に収まりきらないほどの巨体。今もこの家の入り口から、大きな瞳を覗かせているだけで、中に入ってこようとはしていない。
いずれにせよ、このパーンが私たちの敵かどうか、見極めなければならない。正直、腐臭を撒き散らし、人間を殺している時点で彼と仲良くできる気がしないが。
「あー……えっと」
「おい、お前が神か?」
『カミ?』
『アあ。ソウダヨ、ソウだッタね?』
第一印象というのは大事だ。それは人間に限った話じゃない。だから何を言おうか決めあぐねていたというのに。アレーティアは腕を組みながら堂々と、こう言い放った。
「殺してやるから、かかってきな」
『ア゙ ?』
そのままアレーティアは外に飛び出て、パーンと交戦し始めてしまった。
十三星宮のアジトから貰ってきた、アレーティアの身の丈ほどある戦斧を振り回し、彼女の倍はあるであろうパーンの攻撃を避けながら、パーンにダメージを与えている。
「うひゃー。ありゃ僕じゃ勝てないワケだ」
「ちょっとアレーティア?!」
「また穏便に済ます方法でも考えていたんだろう?」
「そうだけど?!」
「無駄だ」
アレーティアはパーンの股下を潜り抜け、足首を戦斧で切断する。
『ぐ、グッ……!』
パーンは膝をつき、苦しそうな表情を浮かべている。アレーティアは気にすることなく攻撃を仕掛けていく。パーンは辛うじて何度か攻撃を防ぐが、鈍った動きの隙を突かれ、首を切断されてしまった。
一瞬。あまりにも、あっけなかった。
「殺した……の?」
「殺してはいない。というか、もう死んでいたしな」
「え?」
「こいつも、あの死体と同じように操られてるだけだ」
「足首の切断面からさっきの蛆が見えた上、私の知ってるパーンはもう少しまともな会話ができた」
「じゃあ、これはパーンじゃないのね……よかった」
「……私は、操られてると思った根拠を話しただけだ」
「どういう意味」
「恐らくだが、これはパーンの……」
アレーティアは、転がる首を睨みながら言った。
「──神の死体だ」
空気が凍った。誰もが信じて疑わなかった常識が壊されるような、まさしく天地がひっくり返った……そんな気分だった。
「神は殺せる」というレグルスの言葉を、私は半ば妄言として聞いていた。
こんなにも早く証拠を見せられるとは。それに、神って死体が残る上に腐るのか。きっとそんなことを考えている場合では無いのに、目の前の光景があまりにも受け入れ難かったのだ。
「……やっぱり、継承者の仕業だよね」
「レグルスの言う神殺しの方法が星座の力であるなら、な」
「恐らくパーンの力は信仰の不足で弱まっていたんだろう、だから簡単に殺られた。私にも、その継承者にもな」
「おいカルキノス、近くに継承者の気配はあるか?」
「オルフィア居るから分かんない」
「そうか、一応警戒しておけ」
その後、私たちは残りの村に居た死体達から蛆を取り除き、パーンの死体と共に火葬してやることにした。パーンは神だから、私たちと同じ方法で弔って良いのか分からなかったが、アレーティア曰く「信仰を失った神性の無い神は人間と同じ」らしいので、大丈夫と思うことにした。
火葬を始める頃には、日はすっかり落ちていた。
燃える死体を囲むように、私たち三人は座っていた。
誰も、口を開かなかった。
腐肉が焦げ、骨だけになっていくパーンを立ち上る火柱越しに見ていると、つい目頭が熱くなってしまう。パーンがどんな神だったのかは知らない、もしかしたら他のヘラスの神々のように、性格の悪い神だったかもしれない。
ただやはり、昔は信仰されていたと言うのも事実なわけで。それが今や人間に殺され、死体を弄ばれるまでに……そう思うと、解けない糸の塊のような、自分でも何なのか分からない感情に包まれる。
「〜♪」
気づけば、歌っていた。
挽歌というやつだ。
棺も神官も、墓もない……歌だけ。それでも、弔いをしたくなったのだ。
「悼むか、神の死を」
「ええ。傲慢かしら」
「さあな。お前の美点だとは思うが」
「……そう。カルキノスは?」
「お前が歌ってる間に寝た」
「マイペースすぎてムカつく気にもならないわね……」
アレーティアは、自分の羽織っていた毛皮のマントを私にかけた。そのまま隣に座って、遺体を包む炎を眺めている。
「ねえ、アレーティア」
「どうした?」
「成り行きでここまでついてきてもらっちゃったけど。良かったの?」
「気にするな。どうせ私には行く宛も無かった」
「それに、オルフィアの事は気に入っている」
「だから気にせず、お前は私を頼れ。私も、必要な時はお前を頼る」
「……必要な時ってある?大体が貴女の力なら解決できるでしょ」
「それこそ、神をも悼むお前の優しさが必要な時だ」
「ふーん……そう」
「じゃあ、そろそろ寝ろ。見張なら私がやる」
そう言って立ちあがろうとするアレーティアの手を、思わず掴んだ。アレーティアは大人だ。私だってそりゃ年齢で言ったら大人だが、自分の内面に幼いところがあるのは自覚していた。自覚していたが……こうも子供だったとは。
「……おい、何故掴む」
「あっいや……ごめんなさい」
「別に謝れとは言ってない。どうした?」
「わ、分からないわ」
そうは言いつつも、私はよく分かっていた。
認めよう。私はアレーティアが居ないと不安なのだ。十三星宮だって完全に信用したわけじゃないし、いつどこから蛆の能力を持つ継承者が襲ってくるかも分からない。
そんな状況で、頼れるのはアレーティアだけだ。
彼女の言葉には、妙な濁りがない。嘘や後ろめたさを抱えた人間特有の、あの躊躇いが。
だから、少なくとも私にとって、一番信用できるのはアレーティアだ。
そんなことを素直に口にできれば、どれだけ楽だっただろう。
だが、変に残った意地が、それを許さない。
「…………」
「はあ。地面は硬いだろう?」
「え?」
「私の肩を使え、地面を枕にするよりはマシだ」
そう言い、アレーティアはまた私の隣に座り直した。
……気づいていたんだろうか。なんて考えながら、私は自身の頭を彼女の肩に預けていた。
そのままゆっくりと瞼を下ろし、眠りに落ちる寸前。
夜の闇の向こうで、何かの羽音だけが響いた。
次回は今週木曜に投稿予定です。




