表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

痛みと共に歩く未来

次の日、私はいつもより早く目が覚めた。


 寝室の窓から差し込む光は調整された人工朝焼けだ。

 だが、昨日とは違って見えた。


 まるで、私が変わったことを世界が静かに受け入れているようだった。


 ゆっくりとベッドから起き上がる。


 関節は人工的な補助機構によって滑らかに動き、痛みも疲労もほとんどな

い。

 身体は軽く、若い頃よりも整っている。


 ――なのに、胸の奥だけが重かった。


 その重みは苦しみではなく、存在の証明のようだった。


 朝の街を歩く。


 通りにはAI管理型の清掃ドローンが滑るように動き、

 歩道には延命された人々がゆっくりと会話しながら歩いている。


 公園では、昨日と同じようにヒューマノイドが子どもの相手をしていた。

 けれど、私はその光景を見て初めて気づいた。


 ――子どもの笑顔は偽物ではなかった。


 笑っていた。

 遊んでいた。

 世界に触れ、今を楽しんでいた。


 それが人工か本物かなんて、最初から関係なかったのだ。


 世界は変わった。

 でも、人間の痛みも愛も消えなかった。


 私が忘れただけだった。


 ベンチに腰を下ろすと、胸の奥にあの声が蘇る。


 「聞けてよかった。」


 玲の声だ。


 未来の音声合成では届かない、

 不器用で、震えた、あの瞬間の声。


 私はゆっくり呟いた。


「玲。

 俺は……あの日のまま止まっていたんだな。」


 そう思うと、不思議と恐怖はなかった。

 ただ、胸の奥が温かい痛みで満たされていく。


 ふと、となりのベンチに座っていた老人が話しかけてきた。


「良い天気ですね。」


 私は少し笑った。


「ええ。……悪くない。」


「天気を褒めるのは、心に余裕がある証拠ですよ。」


 老人は優しい目で空を見た。


「思い出しましたか?」


 私は驚き、老人の横顔を見る。

 だが、彼は私を見ない。

 ただ空を見たまま、静かに続ける。


「この時代には、“忘れたまま死んでいく人”が多いんです。

 痛みを避けるために、記憶を消し、感情を薄め、苦しみのない人生を選ぶ。

 それもひとつの幸せでしょう。」


 彼は微笑んだ。


「でもね――思い出すというのは、生まれ直すことです。」


 私は息を飲む。


「痛みを抱えたまま立ち上がる人間は、美しい。

 それは苦しみではなく、証明なんですよ。

 “生きた”という証明だ。」


 老人は立ち上がり、杖を軽くついた。


「忘れたくなる日も、また来ます。

 けれど――忘れなくてもいい日が、今日なんです。」


 そう言い残し、老人は去っていった。


 私は座ったまま、その言葉を胸の奥でゆっくり噛みしめた。


 ポケットに手を入れると、小さな紙切れが触れた。


 研究所で渡された古いペンと空白のメモ帳。

 「必要なら使ってください」とだけ言われたもの。


 私は開いた。


 ページは白紙だった。

 それは空白ではなく――始まりだった。


 ペンを握る。

 手が震えた。

 だが、その震えを止めようとは思わなかった。


 そして、書いた。


「花村玲という少女がいた。」


 文字は不器用で、震えていた。


 だが、その一行を書いた瞬間、胸の痛みが波のように広がり――

 やがて落ち着いていく。


 私はまた書く。


「私は彼女を愛していた。

 忘れていた時間より、思い出した今の方が、ずっと生きている。」


 ページに文字が積み重なる音が、世界で一番美しく聞こえた。


 私は書き続ける。


 泣きながら。

 震えながら。

 それでも、ペンは止まらなかった。


 やがて、ページの端に小さく影が落ちた。

 風が吹いたわけでもないのに、本当に微かな気配だった。


 私は微笑んだ。


「……ありがとう。

 もう、忘れない。」


 返事はない。


 けれど――

 沈黙そのものが返事だった。


 私は立ち上げ、未来の街を歩き出す。


 痛みとともに。

 記憶とともに。


 そして――


生きるために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ