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告白と喪失

その瞬間――音が消えた。


 蝉の声も、風鈴も、人々のざわめきも。

 すべてが急に遠ざかり、世界が薄いガラス越しになったように感じた。


 玲は横断歩道の真ん中に立っていた。

 歩幅は小さく、まるで何かを確かめるようだった。


 夕陽が彼女を照らし、影が長く伸びる。

 その姿は、どこか運命を受け入れた人間の背中に見えた。


「玲――?」


 呼ぶ声が震えた。

 だが、彼女は振り返る。


 笑っていた。


 その笑顔は、まるで


「ここで終わりだと知っていた」


そんな表情だった。


 胸が締めつけられる。

 足が動かない。

 世界が色を失い、時間が少しだけ遅くなる。


 次の瞬間――


 右から、ブレーキ音が炸裂した。


 金属が軋み、タイヤがアスファルトを焼く匂いがした。


 視界の端で、ヘッドライトが暴力のような光を放つ。

 思考が追いつくより先に身体が動いた。


「玲!!」


 叫び、手を伸ばす。

 指先が彼女の制服に触れた――


 だが間に合わなかった。


 轟音。

 衝突音。

 世界が破裂する。


 玲の身体が空中に投げ出される。

 その瞬間、空気の中で時間が伸びた。


 風に揺れる黒髪。

 血の滴が空で弧を描く。

 制服の裾が翻る。

 夕陽がその全てを赤く染める。


 その光景は――美しくて、残酷だった。


 音が戻ったとき、私は地面を走っていた。

 膝をアスファルトに擦りながら、彼女の元へ転がるように近づく。


「……玲……玲……!」


 手が震える。

 声が掠れる。

 呼吸が熱いのに、体温が凍るようだった。


 彼女は横断歩道に倒れていた。

 白と赤が混じり合い、世界が歪む。


 玲の指先が、微かに動いた。


「……想太……?」


 かすれた声。

 その声が、胸を裂いた。


「大丈夫だ、救急車呼ぶ……すぐ……すぐだから……!」


 震える手でスマホを探す。

 だが、彼女は弱く首を振った。


 その動きは、やさしい拒絶だった。


「……泣かないで。」


 笑っていた。

 痛みに耐える顔なのに、笑顔だった。


「ねぇ……言ってよ。」


「……な、にを……」


「さっきの……もう一回……」


 その意味に気づいた瞬間、喉が詰まった。

 声にならない。

 涙が視界を滲ませる。


「……玲。

 俺は……ずっと……

 ――お前が、好きだ。」


 その言葉が届いた瞬間、玲の表情が柔らかくほどけた。


「……そっか……」


 息とともに、言葉が零れる。


「聞けて……よかった……」


 瞳が揺れ、焦点が少しずつ遠ざかっていく。

 その姿があまりにも静かで、あまりにも綺麗で、私は恐怖すら忘れていた。


「やだ……やだよ玲……!」


 叫びが喉から漏れる。


「戻ってこい……お願いだから……!

 まだ……まだ言ってないことがある……!」


 玲の唇が微かに動く。

 最後の声は――風より小さかった。


「……ありがと……想太。」


 その瞬間、彼女の瞳から光がふっと消えた。


 世界が止まった。


 音が消え、風が止み、夕陽が沈むのを拒むように空に留まった。

 私は動けなかった。

 ただ、彼女の身体を抱きしめたまま震えていた。


 胸の奥で何かが壊れた音がした。


 救急車のサイレンが遠くから近づいてくる。

 周囲の声が徐々に聞こえ始める。

 誰かが叫び、誰かが泣き、誰かが運転手を責めていた。


 だが、そのどれもが私には遠い。


 私はただ――

 玲の冷えていく手を握り続けていた。


 その夜。

 病室の白い天井を見つめながら、私は医師に問いかけられる。


「記憶消去処置について、ご本人の意思確認が必要です。」


「……消す……?」

 自分の声が他人のもののように聞こえる。


「忘れれば、あなたはまた生きられる。

 痛みも喪失も、何一つ残らず。」


 医師の言葉は優しかった。

 だが、その優しさこそが刃だった。


「こんな記憶を抱えたままでは――あなたは壊れてしまう。」


 沈黙。


 そして私は――


「……忘れたい。」


 その言葉を、自分の口で言っていた。


 手が震えていた。

 涙は乾いたままだった。

 声はただ、空っぽだった。


「全部……なかったことにしてくれ……

 ――あの横断歩道も……玲の声も……俺の告白も……俺の夏も……」


 その瞬間――

 世界は閉じた。


 そして、私は未来へ進んだ。


何も知らない老人として。

何も失っていないふりをしたまま。


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