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夏へ還る意識

蝉の声が、世界を埋め尽くしていた。


 耳鳴りのように続くその声は、うるさいはずなのに心地よい。

 湿った空気が肌にまとわりつき、鼻の奥に夏草とアスファルトの匂いが刺さる。


 ――暑い。


 こんな感覚、何年ぶりだろう。

 未来の世界では、汗をかくほどの季節は存在しない。

 常に快適で、常に均一で、人間の体温に寄り添うような空調が働いていた。


 だが今――私は汗をかいていた。

 額を伝う一滴が顎先まで落ち、地面に吸い込まれる。

 その小さな音すら、鼓膜が鮮明に拾った。


 私はゆっくり目を開けた。

 視界の先には、見覚えのある坂道が広がっていた。


 古い電柱。

 歪んだアスファルト。

 軒先の風鈴。

 洗濯物から漂う柔軟剤の香り。


 そして――少年の身体。


 指を握ると、骨張った細い手が応える。

 足は軽い。

 視界は低い。

 心臓は音を立てずに全身へ血を送っている。


 私は――十七歳に戻っている。


 その事実は、言葉より先に身体が理解していた。


 遠くから足音と自転車のベルが近づく。

 軽くて、弾むような音。


「想太ーーー! また寝坊した?」


 その声を聞いた瞬間、胸が強く掴まれた。

 私は振り返る。


 そこに――彼女がいた。


 花村玲。


 短く整えられた黒髪が風に揺れ、日差しの反射で青みを帯びて見える。

 笑ったとき、目尻にほんの小さな皺が寄る。

 制服の袖から覗く腕には、うっすら日焼けの跡。


 そして――

 その笑顔は、私が忘れてしまった世界のすべてだった。


「どうしたの?ぼーっとしてたじゃん。」


「……いや、ただ。」

 声が震える。

 けれど誤魔化すように続けた。

「ちょっと夢みてた。」


「ふーん。」

 玲は目を細め、じっと私を覗き込む。

 その瞳の奥には、光と影が宿っていた。


「変なの。まあいいか、行こ。」


 彼女が歩き出す。

 私は反射のようにその隣に並んだ。


 校舎に着くと、廊下を走る足音、教室のざわめき、黒板の粉、机の傷、誰かの筆箱の落下音――

 そんなありふれたノイズが、胸の奥に突き刺さるほど懐かしかった。


 授業中、教科書の文字は頭に入らない。

 チョークの音すらやけに大きく感じる。


 窓の外では入道雲が膨らみ、風鈴の音が微かに聞こえる。

 玲は前の席で背筋を伸ばし、真面目にノートを取っている。


 その横顔が眩しすぎて、私は何度も視線を逸らした。

 ――未来の私は、こんなにも近くにいた彼女を忘れたのか。


 胸が痛む。

 けれど理由は言葉にならなかった。


 昼休み。

 屋上に続く階段の踊り場で、二人並んでパンをかじる。


「ねぇ、想太。」


「ん?」


「今日さ、空すごく綺麗じゃない?なんか――落ちちゃいそうなくらい。」


 玲は空を見上げながら笑った。

 その笑顔がふと陰り、ほんのわずか――影が差す。


 私は息を詰めた。


「……なに?」


「んー?なんでもない。」


 玲はまた笑った。

 けれど、その笑みの奥に、未来を知っている目が一瞬だけ宿った気がした。


 私は聞こうとした。

 けれど、声にならない。


 放課後。

 夕陽に染まる帰り道。


 蝉の声はまだ続いていたが、どこか遠く感じた。

 普段よりも静かで、まるで夜の訪れを待っているかのようだ。


「ねぇ、ちょっと遠回りしよ。」


 玲がそう言って歩き出す。

 私はそれに従う。


 住宅街を抜け、小さな公園の前を通る。

 ブランコの鎖が風で揺れ、微かな金属音が響く。


 そして――見慣れた横断歩道が現れる。


 信号は赤。

 二人は並んで立つ。


 玲が口を開く。


「ねぇ、想太。」


「……なんだ。」


「もしさ、明日世界が終わるって言われたら――

 なに、したい?」


 その声は優しいのに、痛みを含んでいた。

まるで、未来を知っている誰かが、もう一度同じ道を歩いているみたいだった。


 私は喉が詰まりそうになる。


 けれど、それでも――言わなければならない言葉があった。


「……俺は。」


 息を吸う。

 心臓がうるさい。


「玲に――伝えたいことがある。」


 玲が振り向く。

 夕陽に照らされた瞳が揺れる。

 その瞬間、胸が熱くなった。


「俺は――お前が好きだ。」


 言葉は震えていた。

 でも確かだった。


「ずっと前から。

 たぶん、未来の俺も。

 ずっと。」


 玲は驚いたように目を瞬かせ――そして、ゆっくり笑った。


 その笑顔は、涙のように美しい笑みだった。


「……うん。」


 彼女は小さく頷く。


「言ってくれて、嬉しい。」


 その声は、まるで――別れの言葉のようだった。


 信号が青に変わる。

 玲が一歩、前へ踏み出す。


 そして世界が――軋んだ。


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