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封印された記憶の扉

研究施設は、街の中心から少し外れた静かな地区にあった。かつては大学病院だった建物を改装したものらしく、古い外観に最新式の自律ドアが組み合わされたその姿は、どこか奇妙な違和感をまとっていた。


 玄関前には、自動追従型の電動車いすや、介助ロボットが穏やかに動いていた。誰も声を荒げず、誰も急がず、ただプログラム通りに滑らかな動作を繰り返している。


 私は受付端末に個人IDを読み込ませ、呼び出しを待った。待合室には、同じく高齢者と思しき人々が数人座っていたが、どの表情にも共通していたのは――空虚な静けさだった。


 生きることが義務になった時代に、人は「感情」をどこに置き忘れてしまったのだろう。


「黒崎想太さん。第二ラボへどうぞ。」


機械音声の案内に従って立ち上がる。

歩くたびに、人工骨格が微細に反応し、筋肉の動きを補助した。


便利だ。だが、便利すぎると、生きている実感は鈍る。


廊下を進むと、透明な窓越しに未来社会の断片が見えた。


 ある部屋では、感情調整プログラムを受ける若者が椅子に座り、幸福ホルモンの人工投与によって無表情のままうっすらと笑っていた。


 別の部屋では、亡くなった家族のデータをAR投影し、会話する老人が泣きながら「ありがとう」「また明日ね」と語りかけている。


 私は目をそらした。

 優しい世界だ。

 だが、あまりにも優しすぎた。


 第二ラボに入ると、そこには白を基調とした設備と、ひとりの青年研究員が立っていた。


「黒崎さんですね。お待ちしていました。」


 青年は私よりずっと若く、三十代前半ほどに見えた。

 やわらかい口調でありながら、瞳はくっきりと澄んでいる。

おそらくこの時代を象徴するような人間――争いも痛みも知らずに成長した世代だ。


「こちらへどうぞ。」


 案内されながら、私は問いかけた。


「……ひとつ聞いていいですか。」


「もちろん。」


「この装置で、私は――戻れるんですか?」


 青年は数秒、言葉を探した。

その沈黙がすでに答えなのだと理解しながらも、私は待った。


 やがて彼は静かに言った。


「正確には、“戻る”のではありません。

 記憶を辿り、脳内に残された情報から可能な限り鮮明な追体験を構築する――それが装置の役割です。」


「……つまり幻覚か。」


「幻覚ではありません。」

 青年は首を振る。

「あなたの脳が本来持っていた現実です。

 あなたが忘れたもの、封じたもの、捨てたもの。

 それらを再び――生かすという行為です。」


 私は言葉を失った。

 代わりに胸の奥が、ひどく疼いた。


「ひとつ確認があります。」


 青年はタブレットを操作して、私に画面を向ける。


 そこには電子カルテの記録があった。


《記憶抑制・選択的消去処置 実施済》

対象:感情起因性トラウマ記憶

処置時年齢:17歳


 私は知らず息を呑む。


「これが……私の?」


「ええ。

 黒崎さんは17歳の頃、強い精神ショックによって社会生活の維持が難しいと判断されたため――自らの意思で記憶消去を希望している記録があります。」


 青年の声は淡々としている。

 だが、その静けさこそが胸を締め付けた。


「忘れたかったんですね。

 ――どうしても。」


 私は静かに目を閉じた。


 忘れたかった。

 その事実すら、私は忘れていた。


 どれほど残酷な記憶なのか。

 どれほど逃げたかったのか。

 なぜ私は、その選択をしたのか。


 答えはどこにもない。

 ――あるとすれば、“あの日”の中だ。


「黒崎さん。」


 青年の声で意識を戻す。


「今から装置に入る前に、確認します。」


 彼はわずかに表情を曇らせた。


「追体験の過程で、封印された記憶領域へアクセスする可能性があります。

 そこには苦痛、後悔、喪失、トラウマ――あなたが消したはずのものが残っています。」


「……でしょうね。」


「途中で耐えられなくなった場合、装置は強制的に意識を戻します。

 ――ですが。」


 青年は言いにくそうに続ける。


「“思い出してしまった痛み”は消せません。

 装置が止まっても、記憶はあなた自身の中に残ります。」


 その言葉は、警告ではなく選択肢だった。


 逃げるか。

 向き合うか。


 過去を再び抱えて生きるのか。

 それとも、知らないまま延命された未来を進むのか。


 私はゆっくりと息を吸った。


「――構わない。」


 青年の目がわずかに揺れる。


「私はもう十分だ。

 空っぽのまま延命される人生の方が、よほど苦しい。

 たとえ思い出すのが地獄でも――私は知りたい。」


 青年は小さく頷き、装置を起動した。


 白い光が室内に満ちていく。

 音が遠のき、世界が柔らかく溶けるように静かになる。


 意識が沈んでいく最中、私はふと――

 聞こえるはずのない声を聞いた。


 「――呼んだよ、想太。」


 少女の声だった。

 懐かしい、しかし名前のない記憶。


 私はその声に引き寄せられながら、真っ白な深淵へと落ちていった。


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