一発目
東堂政信が受話器を置くと、滝川雄二が椅子から身を起こした。八月十五日。昨夜刺された若い衆は、まだ病院にいた。命に別状はないという返事を聞き、東堂は机の端へ置いてあった煙草を取った。
「カシラ。もうええやろ」
東堂は答えなかった。煙草を咥え、火をつける。滝川は、その手が下がるのを待って続けた。
「親父殺られて、岩城んとこに張り付いて、それでも待った。昨日は若い衆まで刺された」
「死んでへん」
「死んでへんかったらええんか」
部屋にいた若い衆が、二人へ目を向けた。電話の近くに立っていた男も、奥へ行きかけた足を止めた。誰も滝川を宥めず、東堂が何を返すのか待っていた。
東堂は煙を吐いた。病院からの返事で、今すぐ命を落とすことはないと分かった。それで昨日のことを済ませるつもりはなかったが、昨夜から聞き直した話には、最初の報告になかったものがあった。
向こうから絡まれ、武藤のことを言ったら刺された。それだけではなかった。こちらも言い返し、殴り合っていた。誰がどこまで正確に話しているのか、まだ確かめなければならなかった。
「昨日の件、こっちからも手ぇ出しとる」
「向こうが親父のこと舐めたからや」
「そういう話ちゃう」
「ほな、いつまで待つんです」
東堂は滝川を見た。昨夜、座れと言われて腰を下ろした時と同じ目だった。若い衆が助かると分かっても、その怒りは変わっていなかった。
「相手間違えたら終わりや言うたやろ」
「いつまで証拠探すんです」
滝川は引かなかった。椅子の肘掛けから手を離し、膝へ置いた。
「岩城が親父殺った証拠が出るまで、何人刺されたらええんですか」
東堂の手元で、煙草の先から灰が落ちた。机に散った灰を見ても、払わなかった。
岩城が武藤を殺したとは、まだ分かっていない。だが、昨夜こちらの若い衆を刺した者はいる。滝川にとっては、それを分けて考える理由がなくなっていた。親父を失い、その仇と疑っている組から、今度は身内が刺された。
東堂には、何人まで待てという答えはなかった。誰も刺されずに済む方法を、今ここで示すこともできなかった。
それでも、行けとは言えなかった。
「勝手なことすんな」
滝川は返事をしなかった。東堂を見ていた目を机へ落とし、そのまま黙った。
近くにいた若い衆が、止めていた足を動かした。扉が開き、閉まった。部屋には二人の声を聞いていた者が残ったが、誰も今の話を口にしなかった。
◇◇◇
事務所の明かりが消え、二人の男が外へ出てきた。鬼塚組傘下の事務所だった。一人が扉を閉め、もう一人が近くに停めた車へ向かった。
少し離れた路地に、一台の車が停まっていた。中には兵頭組の若い衆が三人いた。東堂も、滝川もいなかった。
「出てきたぞ」
運転席の男が言った。助手席の男は、二人を見ていた。後ろに座った男も顔を上げ、前の座席の間から外を窺った。
昨日、仲間が刺された。今朝になっても病院にいる。命に別状はないと聞いた時は、三人とも少し息をついた。だが、そのあとに残った話は、また待つということだった。
武藤は死んだ。岩城は殺していないと言い、証拠は見つかっていない。だから手を出すなと言われた。その間に、若い衆の腹へ刃物が入った。
助手席の男は、車へ向かっている二人を見た。こちらの存在には、まだ気づいていなかった。
「行くぞ」
扉が開いた。三人が車を降り、二人の方へ歩いた。
鬼塚組側の一人が、靴音へ顔を向けた。近づいてくる男を見て、隣の者へ手を伸ばした。
「おい」
兵頭組の男が走り出した。声を上げた相手へ殴りかかり、もう一人も後ろから続いた。鬼塚組側の男が腕を上げ、拳を受けた。襟を掴み返し、そのまま壁際へ押した。
怒鳴り声が路地へ響いた。車へ向かっていたもう一人が戻ろうとすると、兵頭組の男がその前へ入った。肩がぶつかり、押し合った身体がよろめいた。
男が一人、足を取られて転んだ。手をついて起き上がろうとする。その横で、もう一人が壁へ追い込まれた。
乾いた音がした。
五人の動きが止まった。壁際の男が顔を下げ、腹へ手をやった。指の間から血が流れた。
兵頭組の男が、拳銃を握っていた。その腕を伸ばしたまま、相手を見ていた。誰かに腕を押されたわけでも、取り上げられたわけでもないのに、自分から下ろすことができなかった。
「……おい」
近くにいた男が呟いた。撃たれた男の膝が曲がり、壁に背中を擦りながら落ちた。
「逃げるぞ!」
声を聞いて、拳銃を持った男が動いた。隣の者に肩を引かれ、車へ向かった。転んでいた男も立ち上がり、三人が扉へ飛びついた。
エンジンがかかった。扉を閉める音が重なり、車はタイヤを鳴らして路地から出ていった。
残された男は、倒れた仲間へ駆け寄った。
「おい!」
肩へ手を掛け、顔を覗いた。返事はなかった。腹を押さえていた手が緩み、その下から、さらに血が広がった。
「おい! しっかりせえ!」
男は上着へ手をやり、どうすればいいのか分からないまま、傷の上へ掌を当てた。指が濡れた。力を入れて押さえても、掌の下から血が出てきた。
声を聞いた誰かが、通りの方から走ってきた。男は顔を上げ、救急車と叫んだ。相手が何か聞き返したが、答えるより先に、もう一度同じことを叫んだ。
遠くで、別の人間が救急車を呼ぶ声がした。男はそれを聞きながら、仲間の名前を呼び続けた。
返事は戻らなかった。その男が、再び目を開けることはなかった。
◇◇◇
「兵頭です」
岩城宗次は、報告に来た男を見た。近くにいた若い衆も顔を向けたが、誰も先を尋ねなかった。
「ウチのモンが、一人殺られました」
岩城は煙草を持ったまま動かなかった。昨夜の報告と違い、男は病院へ運ばれたとは言わなかった。
「拳銃です」
煙草の灰が落ちた。岩城の膝へ散ったが、本人は目を落とさなかった。
監視され、後ろへ車をつけられた。街で顔を合わせ、殴り合いになり、こちらの若い衆が刃物を出した。その報告を聞いた時にも、岩城は怒っていた。
それでも、死人は出ていなかった。
「親父」
一人が立ち上がった。
「やらせてください」
別の男も続いた。
「このまま黙っとったら、鬼塚組の看板が終わります」
岩城は目を閉じた。武藤を殺していないと、何度も言った。道で車を止めて言い、葬儀の入口でも言った。兵頭組は信じず、見張りも続いた。
今は、その話をしている間に、自分の下にいる者が一人死んだ。武藤を殺したのが誰か分からなくても、今夜、誰がこちらへ銃を向けたのかは分かっていた。
岩城は目を開けた。
「……誰が殺られた」
「野村です」
その名前を聞き、岩城は報告の男から目を離した。長く自分の下にいた男だった。事務所で顔を見れば分かる。名前を呼べば、返事をする声も思い出せた。
煙草を灰皿へ押しつけた。消えてからも、指を離さずにいた。
「家には?」
「まだです」
「先に家行け」
男が顔を上げた。岩城は立ち上がり、椅子の背へ掛けていた上着を取った。
「親にワシから話す」
「親父」
「それからや」
岩城が顔を向けると、若い衆は口を閉じた。上着を持ったまま、岩城は部屋にいる者たちを見た。
「兵頭に返すんは」
誰も動かなかった。さっき立ち上がった男も、その場で岩城を見ていた。
「一人殺られて、何もせんわけにはいかん」
男たちが頭を下げた。岩城はその前を通り、扉へ向かった。
野村の親へ、自分で話さなければならなかった。誰に撃たれ、どこで死んだのか。顔を見て、それを伝えてからだった。
◇◇◇
翌朝、鬼塚組傘下の男が射殺されたという知らせは、天龍会の中を走っていた。
兵頭組では、昨日刺された報復だと言われた。鬼塚組では、兵頭が戦争を始めたと言われた。刺された若い衆は生きていたが、その報復で撃たれた男は死んだ。
東堂が勝手なことをするなと言った、その日の夜のことだった。三人の若い衆が車を降り、一人が拳銃を抜いた。岩城は、自分の側の死を聞き、兵頭へ返すと言った。
武藤和正を誰が殺したのか。その問いには、まだ答えがなかった。
だが、野村を殺した相手はいた。昨夜、事務所の外で会い、拳銃を向けた兵頭組の男だった。野村のそばにいた者は、それを見ていた。
武藤の仇だという言葉で車を降りた三人が、別の男の仇になった。
武藤の死について何が分かっても、野村は帰ってこない。その名を口にして兵頭へ向かおうとする者を止めるには、もう、岩城が武藤を殺した証拠はないという言葉だけでは足りなかった。




