エピローグ 夢の終わり
三ヶ月後。 神威データシティは、厚い氷と雪に閉ざされていた。 政府は「大規模なシステム障害と冷却材漏洩事故」として処理し、施設を永久凍結した。半径二〇キロ圏内は立ち入り禁止区域となっている。 ギガスのメインフレームは、地下深くの凍土の中で、今も眠り続けているはずだ。
東京、秋葉原。 電子部品とサブカルチャーが混在する雑踏の中に、剣崎の姿があった。 彼はあの日以来、エンジニアを辞めた。 右目には黒い眼帯をしている。デジタルの深淵を直視した代償として、右目の視力と、色彩感覚の一部を失ったのだ。 今の彼には、世界が少しだけ「ズレて」見える。 ビルの看板の文字がルーン文字に見えたり、交差点の群衆が不定形の影に見えたりする。 だが、それは幻覚ではない。 この世界の「裏側」にある真実の姿なのかもしれない。
彼は路地裏にある小さな古書店に入り、カウンターでコーヒーを淹れた。 そこへ、松葉杖をついたサラが入ってきた。リハビリは順調のようで、顔色は良かった。
「いらっしゃいませ。……今日はどんな本をお探しで?」
剣崎が店主の顔で微笑む。 彼は今、古書店を営んでいた。 電子データではなく、紙の本を扱う仕事。 そこには、「書き換え」も「ハッキング」も存在しない、確かな質量と歴史がある。
「冷やかしかもしれませんよ、店長」
サラは悪戯っぽく笑い、カウンターに座った。
「……ギガスは、本当に眠っているんでしょうか」
ふと、サラが真顔になって尋ねた。
「ああ。俺がかけた『サイレント・シンフォニー』は、無限ループの鎮魂歌だ。外部から誰かが干渉しない限り、永遠に夢を見続けるだろう」
剣崎は眼帯に触れた。 眼帯の下の右目が、微かに疼く。あの深淵の感触を思い出して。
「だが、人間がいる限り、いつかまた誰かが『扉』を開けようとするだろう。知識への渇望は、どんな恐怖よりも強いからな。……パンドラの箱は、いつだって人間の手で開けられるんだ」
店内に流れるジャズの音色が、不意に歪んで聞こえた気がした。 テケリ・リ……。 空耳だ。 剣崎はコーヒーを飲み干し、苦笑した。
「その時はまた、俺たちの出番だ。……バグ修正は、終わらない仕事だからな」
窓の外。 電子広告の光が溢れる東京の街は、巨大な電脳空間のようにも、あるいは極彩色の神話世界のようにも見えた。 人とAI、そして神。 境界線はすでに曖昧になり、溶け合っている。 剣崎は、その混沌とした世界を、残された左目で見据えながら、静かに本のページをめくった。
(完)
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。




