プロローグ
彼のまぶたが、ゆっくりと震えながら開いた。
天井はなかった。
空もない。
地面もない。
ただ――果てしない闇だけ。
もう一度まばたきをする。
視界はぼやけ、意識は鈍い。まるで、終わらなかった夢の底から無理やり引き上げられたようだった。
身体が漂う――いや、違う。
漂っているのではない。
宙に、止まっている。
無重力。
足の下に感触はない。
肌に触れる空気もない。
温もりも、冷たさもない。
何も――ない。
腕を動かす。
しかし、その動きすら奇妙だった。
存在しない場所をかき分けているような感覚。
抵抗はない。
音もない。
呼吸のかすかな気配すら、存在しない。
目を慣らそうとしながら、周囲を見渡す。
――完全な暗闇。
首を傾ける。
落ちているような感覚。
それでいて、昇っているようでもある。
まるで重力そのものが、上下の概念を忘れてしまったかのように。
(暗い……夜よりも、ずっと……何も見えない)
唾を飲み込む。
――違和感。
喉の乾きがない。
肺に空気が入っている感覚もない。
そして――気づく。
空気が、ない。
風もない。
地面もない。
音もない。
立っているわけでもない。
落ちているわけでもない。
――浮いている。
声を出す。
だが――
響かない。
反響しない。
消えていくことすらない。
ただ――消滅した。
鼓動だけが、自分の声よりも大きく響き始める。
呼吸は乱れる。
だが、その息すら感じられない。
恐怖が胸を引き裂く。
その時――
閃光。
遠くに、小さな光が一つ現れた。
彼は動きを止める。
もう一つ。
さらに一つ。
――そして、また一つ。
闇の中に、小さな光が次々と灯り始める。
まるで遠い星々が、生まれていくかのように。
かすかに揺れ、点滅し、
存在するべきか迷っているかのように。
虚無は、もはや空ではなかった。
それは――広大で、果てしないもの。
そして――
見ている。
その時――彼は“それ”を見た。
無限に広がる闇の中心。
そこに浮かぶ、小さな球体。
夜よりも黒い。
周囲の空間よりも、さらに深い闇。
その表面は歪み、渦を巻き、
周囲のわずかな光すら飲み込んでいく。
ただ暗いのではない。
光を――喰らっている。
奇妙なエネルギーが、その球体の周囲を渦巻く。
静寂に閉じ込められた嵐のように。
白と紫の閃光が走る。
暴れ狂い、生きているかのように蠢く。
周囲の星が、歪む。
引き寄せられるように。
彼は、何かを感じた。
ゆっくりと振り返る。
息が止まる。
身体が、わずかに回転する。
そして――理解する。
これは夢でも、幻でもない。
確かに、感じている。
現実だ。
夢であろうとなかろうと。
――これは、現実。
それは――
ブラックホールだった。
完全な闇。
そして――沈黙。




