最終話:銀の厄災は今日も囁く。平和の訪れは新たな胃痛の始まり
夕日が強く輝く中、リオンが大声で号令をかけ、駆けつけた衛兵たちがなおも喚き散らすベイルを引き立てていく。
その狂信的な叫びも、やがて庭園の静寂へと消える。
「……ふぅ。僕、生き残っちゃった。陛下、残念でしたね」
ロビンが、どこまでも間の抜けた、それでいて神経を逆撫でするような声を出した。
片方の靴を失くしたまま、ブランコに揺られているその姿は、死地を脱した直後の人間とは思えない。
リオンの額に再び青筋が浮かび、聖剣の鞘がカタカタと鳴った。
だが、リオンはギリ、と奥歯を噛み締め、柄から手を離す。
「……お前など、いつでも切り捨てられる。ただ、今は……そんなことをすればまたセルシュに負担がかかるかもしれない。……だから見逃してやる」
その声には、妻をこれ以上苦しめたくない思いが滲んでいた。たとえその守るべき対象が、自分を最高に不快にさせる義弟であっても。
「……それで殺さないんだ。ほんと、蟹の身より甘いね。陛下」
ロビンは、呆れたような顔で首をすくめる。
(……兄上。愛されてますね。うえぇ……重い)
リオンはしばらく無言で立ち尽くしていたが、やがて、苦虫を噛み潰したような顔で口を開く。
「……ロビン。……お前は、セルシュを心労で病院送りにし、王族であるキルミスを崖から投げた。おまけに……」
リオンが、ぎゅっと目をつぶる。
「……あろうことか、私の腕の中で、セルシュの腰に似た感触を思い出させた」
「他はともかく、最後のは本当に僕が悪いの? 」
「黙れッ!!」
カッと目を見開いてロビンを睨みつけるリオン。だが、その瞳の奥にある険しさが、一瞬だけ和らいだ。
「……だが。今回だけ、このストーカーをおびき出したこと……礼を言う」
ロビンは少しだけ目を丸くした。
だがすぐに、いつもの虚無の瞳に戻り、手を振る。
「礼はいりません。……それより陛下、ご褒美ください」
「……なんだ。何が欲しい?」
「僕の新作、蟹大福、食べてください」
「絶対に嫌だ!!!」
渾身の拒絶が、王宮の片隅に響き渡った。
その時、植え込みの影からぴょこりと金の髪が覗く。
「……終わった?」
キルミスが、ルイスに手を引かれて歩み出てくる。
リオンはすぐに膝をつき、息子を抱き寄せた。
「終わった。もう大丈夫だ」
「……ベイル、あいつが母様に酷いことしてたの?」
「そのようだな。詳細は尋問で吐かせる」
キルミスはこくりと頷き、それから安心したようにリオンの胸に飛び込んだ。
「……父様、一つ聞いていい?」
ふと思い出したようにキルミスが視線を上げ、真っ直ぐ、リオンを見つめた。
「なんだ?」
「浮気してた?」
「……浮気だと? 誰がそんな……。あいつか」
リオンの視線が低く据えられる。キルミスは無言で頷き、ロビンを指差した。指を差された当の本人は、悪びれる様子もなく視線を逸らしている。
「キルミス、よく聞きなさい。私が視察で各地を回っていたのは、国境付近で魔物の活性化が確認されたからだ。それに、現地で密会していた相手は、魔導具の闇取引を摘発するための内通者と、セルシュのために安眠草を育てさせている薬剤師だけだ」
リオンの厳格な説明を背中で聞きながら、ロビンはのんびりと脱ぎ捨てた靴を探し始める。
「へぇ、お疲れ様です。でも結局、僕と陛下がラブラブになって、王子を崖から突き落とすまで問題は解決しなかったわけですよね? 意味のないお仕事お疲れ様です」
「……貴様、やはり今この場で叩き切ってやる……!!」
リオンの背後から再びどす黒いオーラが膨れ上がるが、しかし、その殺伐とした空気を切り裂いたのは、キルミスの小さな一言だった。
「母様に、早く会いたい」
その言葉に、リオンの怒気は霧散し、ロビンも靴を探す手を止めた。
リオンの腕に、ぎゅっとキルミスの力がこもる。
「……ああ。私もだ」
リオンはキルミスを抱きしめ返す。
ロビンはその親子の背中を眺め、ぼんやりと夕焼けを見上げた。
(……兄上)
病室で眠っているだろう顔を思い浮かべる。昔より細くなった輪郭。
(早く起きてください。僕の代わりに働いてくれる人がいないと困るんです)
「ロビン様」
ルイスが静かにロビンの靴を持って後ろから声をかけた。
「お疲れ様でした」
「別に何もしてないよ。ブランコに乗って陛下をおちょくってただけ」
ルイスの差し出した靴を履きながら答えた。
「崖から王子を投げ、ブランコで陛下に腰を触らせ、ストーカーを燻り出しました。不敬回数は、死罪九回分くらいの大変なことをしています」
「九回分?十を超えてる予定だったのに」
ルイスは小さく溜息をつき、それからほんの少しだけ口角を上げた。
「ロビン様。……カニの餌やり、行きましょう。チビが腹を空かせている」
「そうだね。エサ、高級ベーコンに格上げしてあげようかな」
その背中に、キルミスの幼い声が飛んできた。
「ロビン」
振り返ると、父の腕の中から、青い瞳がまっすぐこちらを見ていた。
「……また、屋敷に行っていい?」
ロビンは少し考えた。
「蟹の餌やり、手伝ってくれるならね。あと、新作菓子の試食係」
「うん。手伝う」
「なら、今度は母様とおいで」
ロビンはひらりと手を振り、歩み出した。
キルミスは父の胸に顔を埋め、小さく呟いた。
「……敵じゃなかった。変な人だけど、面白かった」
「……そ、そうか。………でもセルシュをあの屋敷に連れて行かないで欲しい……」
リオンの切実な呟きに、キルミスはクスクスと笑う。
「大丈夫。母様はちゃんと守るから」
春先の冷ややかな風が、庭園を通り抜けていく。
◇
三日後の朝
王宮病院の特別室。
差し込む朝の光の中で、セルシュはゆっくりと瞼を持ち上げた。
白い天井。
次に、感覚の戻ってきた自分の指先。
そして、その手を両手で、包み込んでいる男の姿。
「……リオン」
声は掠れた。
リオンが弾かれたように顔を上げる。その目の下には、寝不足をはっきりと物語る濃い隈があった。
セルシュは、その顔を見た瞬間、なぜか泣きそうになった。
「……目が覚めたか、セルシュ」
その声も、ひどく掠れていた。
「……ずっと、そばにいてくれたのか?」
「……出来る限りは」
「正直だな。『片時も離れなかった』って嘘をつけばいいのに」
セルシュが微かに笑うと、リオンは包み込んでいた指先にそっと唇を寄せた。
しばらく、どちらも何も言わない。
リオンは繋いだ手を見つめたまま、低く、ほとんど独り言のように呟いた。
「……君が笑うと、ほっとする」
セルシュは天井を眺め、身体の内側を蝕んでいた「重いモヤ」がきれいに消えていることに気づいた。心も体も、驚くほど軽い。
「……キルミスは?」
「ロビンのところへ押しかけていった。巨大な蟹を召喚する魔術の実験をするらしい。……どうやらロビンを『面白い生き物』だと認識し始めたようだ」
「ふふ、それは大変だ。……………………………………………変な影響を受けなければいいけれど……」
小さく笑ってから、セルシュは少しだけ真剣な面持ちで尋ねた。
「……リオン。俺が眠っている間、一体何があったんだ?」
リオンは視線を逸らす。
そのまま、握っていた手を――今度は逃がさぬように、指を絡めた。
「……私は、近いうちに『蟹大福』を完食する約束をしてしまった」
「…………」
セルシュは、さらに不安そうな顔をして、愛する夫を見つめ返した。
「……本当に何があったんだ……」
「……あとで、全部話す。今は――
お前のそばに、いさせてくれ」
セルシュは何も言わず、繋がれた手に、少しだけ力を込めた。
窓の外、春の陽光が揺れている。
セルシュの病室の窓に、かすかな春の花の香りが舞い込んだ。
完
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