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第18話 柔らかな感触の朝

 最初に感じたのは、後頭部を包む柔らかさだった。羽根枕みたいに、ほどよく沈んで、ほどよく押し返す。次いで鼻先をかすめる煙草の甘い残り香、乾いた木の匂い、陽の気配。まぶたの裏に、薄く赤が透ける。

 うっすらと目を開けると、天井の半分くらいが見えなかった。薄暗い木梁の手前に、黒い何かが覆いかぶさっている。布──いや、布に張りのある、曲線の影。目が覚めるほどの現実味で、視界の手前に揺れていた。


「ようやくお目覚めかい? ベイビー」


 その黒い影の向こうから、こちらを覗き込む視線と、八重歯の覗く悪戯っぽい笑みが見えた。

 ルヴィアだ。彼女の顔が逆光で縁取られ、黄金色の瞳が猫のように細い。

 彼女の視線の角度から、自分の姿勢を察した。後頭部にあった柔らかさ──それは彼女の太ももだ。視界の半分を覆っていた黒いものは、彼女の着ている黒色のクロップドタンクトップに収まった豊かな双丘に違いない。

 ……ロウは、ルヴィアの膝枕で眠っていたのだ。


「うわっ! ──(いて)てっ」


 慌てて上体を起こした瞬間、こめかみの内側で雷がはぜた。

 世界が少し遅れてついてくる。胃の奥で小さく火が回り、舌の根に残った火酒(スピリッツ)の匂いが蘇る。額に触れる空気まで重く感じた。


「クソ、酷い二日酔いだ。ここはどこだ? あれからどうなった?」


 声の調子が自分の耳にも頼りない。

 周囲を見回すが、身に覚えがない場所だった。

 狭いが清潔な部屋、壁には釘が打たれ、簡素な棚と机、二つ折りの寝台。小さな窓から、晩午前の白い光が差し込んでいた。

 床板の端に、見慣れた大きな背嚢が鎮座している。〝マッドドッグ〟の荷だ。

 覚えているのは、火酒(スピリッツ)の瓶が卓を渡ったところまで。そこから先は、見事なまでに真っ白だ。途切れた記憶の縁を手探りしても、指は宙を掴むだけだった。


「ギルドの空き部屋さ。あんた含め軒並み潰れて飲み会はお開きになって、さっさと帰れってギルドの連中から言われたんだけどよ。宿を取ってないっつったら、あのクソ眼鏡がここを貸してくれた」

「……なるほど」


 査定官に面倒をかけたらしい。借りがひとつ増えた。あとで礼を言わないと。

 昨夜、ギルドマスターも顔を出した気配があったが──そこから先は霞がかかったように曖昧だ。


「それから、クソ眼鏡から伝言だ。〝マッドドッグ〟への裁定は今日の正午に下されるから、あたしらにも顔を出すように、だとよ」

「もう下されるのか。早いな」


 昨夜の模擬戦で、流れは決まっていた。

 虚偽の報告、救難義務違反、ギルド規定に照らしても重い処分になるだろう。とはいえ、この町に一つしかないSランクパーティーだ。判断にはもっと時間がかかると踏んでいた。


「ちなみに、あと一時間ほどで正午だ。顔は洗っておいた方がいいぜ? 涎の跡が残ってる」

「え、もうそんな時間なのか!? それならもっと早く起こしてくれよ!」

「あたしもそうしようと思ってたんだけどな。あんたがあんまりにも気持ちよさそうに寝てるから、気が引けたんだ。あたしのここは、そんなにも寝心地がよかったかい?」


 ルヴィアが自分の太ももをぽんぽんと叩く。

 岩をも砕く脚力の持ち主なのに、どうしてこんなにも柔らかいのか、理屈では説明がつかない。脳の奥までとろけるような心地よさが、二日酔いの痛みを薄めていく。

 ロウは慌てて立ち上がり、礼を言いかけて、喉の奥で言葉を丸めた。何か間違えると、余計にいじられる。

 よろよろと扉まで行き、ギルドの廊下に出た。空き部屋が並ぶ静かな棟だ。角を曲がった先に共同の洗面場があり、その奥に井戸が据え付けられている。柄杓で力任せに水を汲み、両手ですくって顔に叩きつけた。

 冷たい水が皮膚の下の熱をさらっていく。額から首筋へかけて流れる筋が、二日酔いの膜を薄く剥いでくれた気がした。何度か繰り返し、口をすすいで、深呼吸。

 鏡代わりの窓ガラスに自分の顔を映す。あからさまにげっそりとした表情をしていた。

 頬を軽く叩いてから、空き部屋に戻った。

 窓際では、ルヴィアが片肘をつきながら外を眺めていた。指から煙草の細い煙が立ちのぼり、風に溶ける。背に流れる髪と小さな翼が、光を切り分けていた。


「あー……ルヴィア?」

「あん?」

「俺は、何か変なことを言ったりやったりしてなかったか? 全く記憶にないんだ」


 ここまで記憶が飛ぶほど飲んだのは久しぶりだ。

 正直、ここまで酔っぱらった時はろくでもない記憶しかない。〝マッドドッグ〟に入ったばかりの頃、ガリウスに無理矢理飲まされて潰れかけた夜。吐き気と自己嫌悪が混ざる感覚が、喉の手前まで来る。

 あの時も、リナに迷惑を掛けてしまった。もしリナにしていたようなことをルヴィアにもしていたら、と嫌な汗を背中に感じたとき、彼女が口の端を上げた。


「思い出さないままの方がいいんじゃねえか?」

「お、おい……俺は一体何を」

「案外可愛いとこあるじゃねえか、なあ? まさか、あんたがあんなにも甘えん坊だったとは思わなかったよ」


 くっくっと笑いを堪えながら、彼女は煙草の灰を落とした。


「……心に決めた。一生思い出さないでおく」

「冗談だよ、冗談! ……多分、な?」


 最後の一言をわざと重くして、背中をばんばん叩いてくる。

 彼女の笑いは、からかい半分、救い半分だ。真剣に気遣うよりも、こうして笑いに混ぜる方が、自分には向いているとわかっているのだろう。


(……もうルヴィアと飲み比べは一生しない。神に誓って)


 ロウは深く息を吐き、気持ちを切り替えた。

 こんなことをしている場合ではない。今日の正午、向き合うのは過去への清算だ。淀みを残したまま行くわけにはいかなかった。

 身なりを整え、背嚢の紐の緩みを確認していると、扉が軽く叩かれた。

 間を置かず、見慣れた灰色の上衣が現れる。薄い眼鏡の奥で、冷たい光が控えめに瞬いた。


「む、お目覚めでしたか」

「何とか、ですかね。頭の中で豚がラッパを吹いてますけど」


 ロウは自嘲混じりに返す。査定官は小さく鼻を鳴らし、口元をわずかに緩めた。それは笑みと言っていいのかもしれないが、彼の顔では判断が難しい。


「……まあ、良いでしょう。間もなく裁定が始まります。ギルドの受付までお越しください」


 きっちりと用件だけを告げ、踵を返す。廊下の空気が、彼の背中に合わせて引き締まる。

 扉が閉まる前に、ロウは思い出したように口を開いた。


「あ、そうだ」

「ん?」

「部屋の件。ありがとうございました。それから、酒場の諸々のことも」


 声に振り返りはしなかったが、査定官の手がほんの一瞬だけ止まった。わずかに頷いたような気配があり、そのまま足音は遠ざかる。

 無愛想だが、律儀だ。彼にとっても、今日の裁定はギルドとして腹を括る大仕事になる。気を抜ける瞬間はないのだろう。

 ロウは肩紐を背負い直し、ルヴィアと目を合わせる。

 彼女は煙草を窓の外へ軽く弾き、紙筒が白い弧を描いて落ちていくのを見送った。


「そんじゃ、奴らの泣き喚く顔でも拝みにいこうぜ」

「ああ。ちょうど良い酔い覚ましになる」


 そんな軽口を交わして、空き部屋を出る。

 廊下には朝と昼のあいだのざわめきが流れ、遠くの受付からは、紙の擦れる音と硬貨の触れ合う音がかすかに届いていた。

 ロウとルヴィアは、査定官の後ろについて歩みを進めた。

 足音が石床に吸い込まれていく。

 ひとつの答えが、これから出ようとしていた。

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