61.カミサマ
そう思った途端、視界が再びブラックアウトする。
でも今度は意識まではなくならなかった。
真っ暗な部屋の中。上も下も、自分の体があるのかさえわからなくなる。
俺はどこにいるのだろう。死んだのか? 今度こそ。
――やはり、お前もダメだったか。
頭の中で声が響く。どこかで聞いたことがある。どこだったか思い出そうとしたが、記憶が霞んで思い出せない。
さっきまで見ていた夢も、ぼんやりといい夢だった気がする、程度に溶けていく。
忘れちゃいけないことがあったはずなのに。
まだ何かブツブツ言ってる声を意識の外に追い出して、消えていこうとする記憶のかけらを追いかける。
一つ一つのかけらが、輝いて見える。手を伸ばすと、パチンと弾けて消えた。その刹那、銀髪が視界を横切った。
「っ……」
とっさに呼ぼうとしたけれど、俺の中にはその単語がなくて。
隣り合った銀の粒が手に触れて弾けた。耳元で俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。
忘れちゃいけない。
そうだ、俺は何のために……どうしてここにいるのか。
記憶のかけらたちは引き合うように次々と俺の方に飛んでくる。まるで思い出せと言ってるみたいに。
プニプニのほっべ。さらりと風になびく銀の滝。涙に濡れた紫の宝玉。
前歯を全部見せてニカッと笑ういい感じの笑顔が、夢に重なった。
「 」
声にならない言葉が喉から飛び出した途端に、周りに集まってきたかけらが輝きだした。視界が銀色に覆われて、眩しくて目を閉じてもまだ瞼の裏に光が張り付いて。
消えかけていた夢の記憶がしっかりと自分の中に根付いていく。
子供の時に俺たちは出会わなかった。
中学の時も、高校の時も、ばーちゃんちには帰らなかった。
ばーちゃんちに幼馴染はいなかった。
ましてや銀髪に紫色の目の女の子なんて。
もし会っていたのなら……忘れるはず、ないだろう?
だから、これは夢なんだ。彼女を忘れないための。
俺たちが出会ったのは……あの世界。
いけ好かないバーテンダーのいる、あの世界だ。
カミサマなんていない。
いたのはただの、姉思いの弟で。
「リオ」
今度ははっきりと声に出た。
銀色の光の中で、リオが笑っている。
それが嬉しくて、胸が詰まる。この笑顔を守るためなら、俺は、カミサマだろうが怖くない。
――思い出したか。
声が響く。
当然だ、忘れるはずがない。忘れないと約束したんだからな。
――今までの者たちは皆、夢を渡る途中で忘れてしまった。
声の主は落胆の色を隠さない。どこにいるのか知らないが、どうせ喋るなら目の前に出てくりゃいいのに。どっちに向かって喋りゃいいかわからねえよ、これじゃ。
――それでもあの子の笑顔を知る者ならばと一縷の望みをかけたが、戻ってきた彼らは夢と忘れ去ってしまった。
まあ、そりゃそうだよな。
人生のどこかでほんのちょっとだけあの子に笑いかけ、あの子が笑みを見せたってだけの相手だろう?
あの子の道と交わらないのに、無理ってもんだ。
……まあ、俺なんかその最たる者だけどな。
声の主はため息をつき、そのまま沈黙した。
おいおい、このままここで待機ってか? 俺は帰りたいんだよ、一刻も早く。
リオを探し出さなきゃならねえんだから。
――お前は、変わっている。帰りたいと思わなかったのか。会いたい人はいなかったのか。
思わないはずがない。放りっぱなしの仕事も心配だし、冷蔵庫の中身……は入院前に片付けたからいいとして、あの様子だと親にも連絡行ってるだろう。
家族にも会社の奴らにも心配かけっぱなしなのは申し訳ないと思うよ。
でも。
それよりも大事なものが目の前にあるんだ。帰ろうとは思わねえよ。
――だから、見失わずに済んだ、か。
リオが残ってくれと言えば、きっと俺は残ったろう。その結果がどうなるかはともかく。
リオは帰りたがった。俺と会うために。
俺は。
「リオを見失うくらいなら、こっちに戻ってこない」
声に出して呟くと、風が変わった。暗い空気がどこかへ流れていく。
その先に目をやれば、黒い霧のように見えるそれが一つの形になった。金色のたてがみをした、ライオン……のぬいぐるみ。
ぽす、と間抜けな音を立ててぬいぐるみは床に落ちる。
……まさかと思うけど、これが、カミサマ?
ぬいぐるみのライオンに表情などないけれど、なんか照れてるようにも見える。この姿を晒すつもり、なかったんじゃねえ?
――笑えばいい。
「いや、笑わねえけど……」
どことなく薄汚れて、耳や尻尾はいくつも修繕の跡がある。大切にされてきたのだろう。
どうしてそんな姿なのか、聞くのはやめた。俺にとってはこれはカミサマだ。……それ以上でも以下でもない。
だから、おれが頭を下げるのも、約束をかわすのも、リオの父親だけだ。
これじゃない。
――酷い言われようだ。だが、もっともなことだ。
そのままうなだれて座り込む。こんなところでぬいぐるみの相手してる場合じゃねえってのに。
「用がないなら行っていいか。急いでんだ」
イラっとしてたからちょっと語気が荒くなったのは認める。でも、なんだよ。そんな物悲しそうな顔で見るなよ。てか表情筋動かないぬいぐるみなのに、なんでそんなことがわかるんだろう。
踵を返してふと足を止める。
……こいつは知ってるんだろうか。ハルのことを。
じっと見つめると、ぬいぐるみは姿勢を正した。まあ、あちこちワタが足りなくてフニャフニャなのはご愛嬌。
「名前。……考えてたんだろ」
その言葉だけでわかったのか、それとも俺の頭の中を読んでるからなののか、ぬいぐるみはじっと俺を見る。
それから、首を横に振った。
――すでにあれは名を得、名付け親のお前に縁付いた。
縁付いた、という言葉の意味がわからない。が、ぬいぐるみはそれ以上説明するつもりはないようだ。
リオの檻の中に閉じ込められたハルは、解放されたんだろうか。
別れ際にリオと何かを約束していた。きっとあれは生まれ変わる約束。
どんな形になっても、きっとリオになら見つけられるのだろう、となんの根拠もなく思う。
こんなこと、以前なら笑い飛ばしてたのに。
――子らを頼む。
すっとぬいぐるみが首を垂れる。
俺はぬいぐるみに頷くと、歩き出した。




