41.父親似
どこからかおいしそうなにおいがする。水の音、包丁で何かを切る音。
キッチンでだれか料理してるんだろうか。鼻歌も聞こえる。
宮殿にはほかに誰もいないのに。
そこまで考えて、僕ははっと目を覚ました。
そうだ。
ここは宮殿じゃない。
起き上がると、上にかぶせられていた毛布がずり落ちる。
目に入ってきたのは白い壁、白い天井。
誰もいない、広いベッド。
そうだった、ここは――『神々の戯れ』。
「あら、起きた?」
足音がして戸口にナオトが現れる。そうだった、昨夜はナオトの部屋で、ナオトと一緒に寝たんだっけ。
でも、なんでだろう。ナオトが目を真ん丸くして僕を見ている。
「おはようございます……」
挨拶を返して、妙に声が低いのに気がついた。こんな低い声じゃなかったはずなのに。
それに、なんだか服がきつい。
「ああああああ、アンタ……誰。ううん、違う。……ハル、よね?」
「え、はい」
僕がハル以外の何だというんだろう。遊人にもらった名前。初めての名前。
「嘘……ちょっと、ねえ、嘘でしょ?」
恐る恐る近寄ってくるナオトの顔が赤く見えるのは気のせいだろうか。
それとも、僕、なんかおかしい……?
ふと気になって自分の手を見る。
がっしりした手首、大きな手のひら。肉のついた二の腕。骨ばった拳――まるで、遊人やナオトみたいな手だ。
「え……」
おかしい。僕の手はぷにぷにで手のひらもちっちゃくて、力仕事なんか全然できなくて。
昨日の部屋の片づけだって、重たいものを運ぶのは全部ナオトと遊人にしてもらって。リオと一緒に運べる軽いものだけ運んでたはずだ。
手さぐりで自分の体を確認する。
分厚くなった肩、広くなった肩幅。窮屈なのは当然だ。子供用の服が食い込んで痛い。胸も腹も、引き締まって硬い。
「なんで……」
「どうしたの、ハル。……まさか、昨夜のアタシの願い、かなえてくれちゃったわけ?」
昨夜のって……抱き枕にしたいとかヤバいとか言ってた気がする。まさか、そのせい?
いや、むしろ部屋の片づけしてて、非力な自分を呪ったせいじゃないだろうか。
にしても、どうして。
僕の体はリオのサイズに合わせたはずなのに。
「とにかく、着替えないと。その恰好じゃ外も歩けないわ」
僕が返事に窮してる間にナオトはすでに次の行動に移っていた。なんだかうれしそうな表情で、ワードローブから服を選び始めてる。
「あとでちゃんとした服、仕立てるからとりあえずの着替えだけでいいわね」
「はあ……」
服なら自分で作り出せる、と言いかけて思い出した。ここは僕の空間じゃなかったんだった。右手を振っても何も変わらなくて、素直にナオトに借りておくことにする。
程なくして、シャツとズボン、靴と下着とかを一式、ベッドの上に出してくれた。
「とにかく着替えてからキッチンにいらっしゃい。……その髪もなんとかしなきゃね」
髪、と言われて初めて自分の目の前に揺れている金の糸に気が付いた。
いつもは首にかからないように短くしているのに、なぜか前髪が顔を覆うほど長い。
キッチンに引っ込んだナオトに感謝しつつ、窮屈な服を脱ぎにかかった。
◇◇◇◇
キッチンに出ると、ナオトは再び顔を赤くしながら僕を上から下まで見て、あちこち触ってゆがみを直してくれた。ネクタイなんて、自分で巻いたことないんだし、仕方ないだろ?
「これでいいわ。……それにしても、ほんとドストライクねえ。アタシ好みじゃないのぉ」
そんなことをうっとりとした目で言われても、反応に困る。
自分が自分でないみたいに感じているのだ。自分自身は何も変わってないのに。
「そこ座って」
昨夜みたいにソファに座らされる。今日は鏡はせりあがってこなかったが、ナオトはブラシを手に僕の毛をくしけずり始めた。
「食事のときに邪魔でしょ? ほんとは切りたいとこなんだけど、アンタのこの変化がいつまで続くのかとか、どうして変わったのかとかわかんないから、手を出せないのよねぇ」
そんなことを言いながら、手早く僕の髪の毛をまとめて束ねる。実に手際が良い。
「よし、できあがり。……遊人とリオが見たらびっくりするわね」
そういわれても、僕は自分の姿をまだ一度もきちんと見ていない。手や足のパーツは見えるけど、どう見えているのか。
「ナオト、鏡、だしてもらえませんか」
「え? あ、そうか。自分の顔、見てないんだっけ。ちょっと待って」
じきに目の前に鏡がせりあがってくる。昨日、風呂上がりにみたあれだ。
そして、そこに映っている人の顔を見て、僕はため息をついた。
目や髪、肌の色は変わってない。服はいつものじゃなくてラフな格好になってる。
そんなことよりも。
――鏡に映っている僕は、大人の姿をしていた。
ソファから立ち上がってみる。鏡がぐんと大きくなって、全身が見えるように変化した。ちらりとナオトを見ると、ウインクをしてよこす。ナオトの仕業らしい。
背丈はナオトほどはない。でも、たぶん遊人ぐらいはありそう。横に並んでみないとわからないけど。
がっしりした男の体に、少し凛々しくなった僕の顔が乗っているって感じだ。腕を動かすと、ちゃんと鏡の中の男も同じ行動をする。
どこかで見た顔だとじっと眺めていたが、それがあの、葬式の時に見た遺影そっくりだということに気が付いた。あれよりはかなり若いけど。
「なんで」
「そりゃアタシのセリフよぉ。まあ、アタシとしちゃ目の保養になるし、嬉しいことづくめだけど。どうせなるなら夕べなりなさいよね。せっかく抱き枕にできるチャンスだったのにぃ」
そう口走るナオトの表情を見て、僕はぞくりと身を震わせた。
「ま、冗談はこのくらいにしておいて、昨夜何かあった?」
「何かって、何もないですよ。……添い寝したあんたが何もしてなきゃね」
冗談じゃすまないっての。そう思ってナオトをじろりと鏡越しににらみつけると、ナオトは肩をすくめた。
「別に、何もしてやしないわよ。抱き枕にしただけで。その証拠に、昨夜と同じく毛布でぐるぐる巻きだったでしょ? それに、どちらかというとアンタの問題なんじゃないかと思うんだけどねぇ」
チクリと胸が痛む。
おそらくこの姿は、現実のリオと同じ年齢に育った状態の僕の姿だ。本来ならこの姿でいたはずだった。
今更この姿に戻るなんて。
リオは僕が同じ年齢ぐらいだからと警戒せずにいたのかもしれないのに。
もしかして、ナオトの支配する空間で、ナオトに言われたせいなのか……?
「あんたの言葉に引きずられたのかもしれないな。……一度宮殿に戻って姿戻してくる」
腰を上げたものの、両肩に乗せられたナオトの手がぐいと僕をソファに引き戻す。
「いーじゃない、今日一日ぐらい。アタシの眼福のためにさ」
「知りませんよ」
「それに、遊人とリオを驚かせたくない?」
その言葉に僕はちょっとだけ心を揺さぶられた。
リオは怖がるかもしれない。いや、たぶん怖がるだろう。……もし記憶の奥底に残っていれば、もしかしたら記憶を暴くカギになるかもしれない、この父親似の顔を。
遊人はどうだろう。彼も、父親の顔を知っている。何かを思うのだろうか。
少し考え込んで、でもやはり首を横に振る。
片付けには大人の体のほうがやれることが多い。それはわかってる。でも、これは。
余計な刺激になる可能性が高い。
「遊人とリオはまだ?」
「ああ、昨夜潰したから今日は遅いと思うわよ」
「じゃあ、一旦宮殿に戻ってから来ます」
「えー、もったいなぁい。せめて今日一日ぐらい」
「無理です。……とにかく帰りますから」
腰を上げると再びソファに押し戻される。
ここが自分の空間でないことを悔やんだ。いや、ここでこの姿になったこと自体が想定外なのだ。
部屋に戻れば、あの部屋の中なら自分の好きにできる。
とにかくナオトの手を逃れて、部屋に戻ってしまえば宮殿に戻れる。
捕まえようとするナオトの手を掻い潜ろうとして、がっつり襟首をつかまれた。体のサイズ感が違うのだ、とようやく気が付く。このくらいの追いかけっこならするりと抜けられたのに、大人の体はなんと大きくて、硬くて、邪魔なのだろう。
「逃げても無駄。アンタの部屋の権限、書き換えちゃった」
えへ、と笑うナオトに、体の力が抜けた。だめだ、ナオトの支配下にある場所で、ナオトに勝てる方法が見当たらない。
がっくりうなだれた僕を見下ろすナオトは、満面の笑みを浮かべていた。




