39.ホットミルクと抱き枕
僕は何も言わなかった。
ナオトは深くため息をついたのち、ブランデー入りのホットミルクを飲みほした。
「とっとと飲みなさい。お子様はもう寝る時間なんだから」
そう僕に言ったナオトの顔は、いつもの人当たりのいいおネエの顔だ。僕も手の中のカップを空にした。
「……聞かないの?」
「何をよ」
じろり、と横目で睨んで、ナオトはカップを取り上げる。
「僕に聞きたいこと、あるんじゃないの?」
水の音がする。カウンターの内側に入ったナオトは、二つのカップを洗って水切り籠に伏せると戻ってきた。
座ったままでナオトを見上げると、両手を腰に当てたナオトは眉根を寄せて僕をにらんだ。
「今さらでしょ? ここにアタシがどれぐらいいるのか知らないけど、もう今さらよ。……引っ張りこまれた当時は恨んだわよ。カミサマとやらをね」
ナオトの言葉に、僕は俯くしかない。
「でも……もう終わるんでしょ?」
のろのろと顔を上げると、ナオトは苦笑を浮かべていた。
「アタシにだってわかるわよ。……何があったかは知らないし、どうしてアタシがここにいるのかとか、リオが誰なのかなんて、わからないしもう聞きたくもない。でも……あれほど怖がっていた『カミサマ』が消えて、アンタが出てきて。……ここは変わったわ」
そうだ。――遊人が落っこちてきてから、この世界は変わった。
僕が宮殿から出るなんて、リオのための空間に僕がいるなんてあり得なかった。
リオが――誰かのために宮殿に戻ってくるなんてことも。
「……遊人が最後なんでしょう?」
たぶん。
僕じゃない誰かの意志で、遊人は呼ばれた。それはリオなのか、それとも、リオを大事に思う――僕を神様に仕立て上げた人なのか。
「もう、誰も落ちてこない。……そう思っていいのよね?」
ため息をついて小さくうなずくと、ぽんと手が頭の上に乗せられた。
「……寝るわよ」
ナオトの声に僕は腰を上げる。するりと握られた右手にびっくりして顔を上げると、ナオトはほんの少し微笑んでいた。
◇◇◇◇
ベッドは遊人の部屋のモノと比べたら倍の大きさで、十人で寝ても余裕だろう。
ナオトはさっさと潜り込むと明かりを暗くした。僕は、戸惑いながらソファに腰を下ろす。
僕は身長も低いし、ソファで十分だ。
ころりと横になると、衣擦れの音がした。
「なんでベッドに来ないのよ」
「え、でも」
「……なぁに? 遊人と一緒はよくて、アタシと一緒はだめだっていうの? それともアタシがアンタを食べるとでも思ってんの?」
顔を上げると、仁王立ちしたナオトがソファの背もたれの向こう側に立っていた。
いきなり両脇に手を入れられたかと思うと、ひょいと持ち上げられた。
「なにするっ!」
「あら、ほんとに軽いわねえ。リオと同じぐらい? でも肉付きはやっぱり男の子ね、がっしりしてる」
などとナオトは言いつつ、僕をぽいとベッドに放り込んだ。ベッドのスプリングが良くて、転がりそうになる。
なんとかもがいて起き上がったところで、頭から毛布をかぶせられる。
「おとなしく寝なさい。……子供が遠慮なんかすんじゃないわよ」
「遠慮なんか」
「じゃあ、やっぱりアタシと一緒じゃ寝られないっていうわけ?」
「違うっ」
ぶんぶんと首を横に振ると、ナオトはにやっと笑った。
「じゃ、問題ないわね。寝なさい」
ベッドに押し戻され、しぶしぶ僕は体を横たえた。せめても、とナオトに背を向けると、不意に頭と枕の間に腕が突っ込まれて、毛布ごと後ろから抱き込まれた。
「な、なにっ」
「寝付けないお子様対策よ。ほら、体の力抜いて」
そんなことを言われても、リラックスできるはずがない。しばらく体をこわばらせたまま横になってると、ナオトは小さな声で子守歌まで歌いはじめた。とんとんと子供をあやすみたいに手を動かしてる。
「ナオト?」
「……アンタ、リオの弟になれなかったって言ったわね」
あやすように優しく布団の上から僕を撫でる。
「あの子の両親は黒髪だった。……きっとあの子は生みの親に引き取られたのね。だから、三人で来ることはなかった。旦那さんが荒れるようになったのも、きっとそのせい」
「……うん」
ナオトの手が優しく髪の毛を撫でていく。
「アタシねえ、あの子のまぶしいほどの笑顔、好きだったのよ。初めて店に来たときってまだまだ小さいころだったんだけど、店の客やアタシにまでにこにこ笑ってくれてね。……一番つらかったときにあの子に慰めてもらったこともあったわ。あの子の笑みは、アタシにとっても救いだった」
「うん」
そう、ナオトはリオの笑顔に救われた一人だ。そして、ナオトの微笑みも――リオの救いになっていたことを、ナオトは知らない。
僕も言わない。
髪の毛と目の色が両親と違うことで悩んでいたリオは、自分の髪と目が嫌いだったこと。いっそのこと黒くしたい、と思っていた時に、ナオトにきれいだと褒められたこと。
それを、今もリオは大切に覚えている。――その言葉をくれた人のことは忘れても。
「……まさか、あの子がリオだったなんてね。アタシも焼きが回ったもんだわ」
「え?」
頭を撫でていた手が止まる。
「客商売の基本は客の顔を覚えることだっていうのに、リオがあの子だったなんて、今の今まで思い出しもしなかったなんてね」
子供はあっという間に成長する。だから気が付かなくても仕方がない。今のリオは現実のリオとも、ナオトの覚えているリオとも違う姿だし。
「それにしても、アンタも惜しいわねえ」
「え?」
「五年後のアンタの姿、見てみたかったわぁ。きっと誰もがうらやむイケメンに成長したに違いないんだから。アタシがもう少し若くて、アンタがもう少し成長してたら、ヤバかったわ」
別にこの姿から変われないわけじゃない。ただ、時の止まったリオと同じ年齢にとどめているだけだ。
それにしても、ヤバいって、なんだよ。
「……見せてもらえたりしない?」
「見て何するつもり」
「そーねえ……抱き枕にしても、今のアンタじゃちっさいんだもの。抱き心地のいい枕ならいいなあ、と思っただけよ」
そう僕の耳元で囁いたナオトの声はあまりにも妖艶で、僕は身を縮めた。
「あらやだ、緊張してる? やーねえ、冗談だってば。もう寝なさい」
柔らかく髪の毛を手が梳いていく。そのほんの少しのふれあいさえ、ぞくりと背筋が震える。
そのあとナオトが寝落ちするまでひたすら寝たふりで過ごした僕は、完全に熟睡したナオトの腕から抜け出そうともがいたものの、がっしり抱き込まれていて、結局夜が明けるまで抱き枕にされることになった。
……今度部屋で眠れない事態になったとしても、ナオトと一緒に寝るのだけはやめておこうと思った。




