第9話 隣町の鐘
最初に異変を知らせたのは、鐘の音だった。
朝の治療所で薬を飲み終えたとき、開け放たれた窓の向こうから、低く濁った響きが届いた。
村の鐘にしては遠く、いつもの時刻を告げるものにしては間隔が不揃いで、音が途切れるたびに、誰かが次の一打をためらっているように聞こえた。
「……今のは?」
「ラウネの鐘だろうな」
包帯を確かめていた老人が、窓へ目を向けた。
ラウネは西の街道を進んだ先にある町で、村から歩けば半日ほどかかるという。
「朝から鳴るものなんですか」
「祭りでもなければ、あんな鳴らし方はせん」
「何かあったんでしょうか」
「さあな。鐘の音だけじゃ分からんよ」
老人はそう言って窓を閉めかけたが、通りを走る足音に気づき、手を止めた。
外では荷車を引く男が二人、広場へ向かって駆けていく。
一人は肩から上着を脱ぎかけたままで、もう一人は何度も西の空を振り返っていた。
「先生! ラウネが燃えてる!」
声が届いた瞬間、老人の顔つきが変わった。
薬棚の上に置いていた布を掴み、戸口へ向かう。
「お前さんは動くな。傷が開いたら、それこそ人手を取られる」
「分かりました」
返事をしたものの、寝台へ戻る気にはなれなかった。
窓の隙間から見える西の空は晴れているのに、地平に近いところだけが薄く灰色に濁っていた。
雲にしては低すぎるその影が、時間とともに少しずつ広がっていく。
*
昼前には、ラウネから逃れてきた人々が村へ到着した。
馬に引かれた荷車には焼け焦げた荷物が積まれ、その隙間で幼い子どもが母親の袖を握りしめている。
裸足の男は片方の足を引きずり、頬に煤をつけた女性は、何も入っていない籠を両手で抱えていた。
治療所はたちまち人で埋まった。
老人が負傷者を診る横で、リシアは湯を沸かし、汚れた布を洗い、火傷を冷やすための水を何度も運んだ。
まだ森で痛めた足を庇っていたが、その動きに迷いはない。
「そこの布、取っていただけますか」
「これでいい?」
「はい。ありがとうございます」
差し出した布を受け取ると、リシアは一度だけこちらの顔を見た。
少し前に同じ部屋で話したことを覚えているのか、ただ怪我人が手伝っていることに驚いたのか、その表情からは判断できない。
「肩、大丈夫なんですか」
「重いものは持てないけど、これくらいなら」
「無理はしないでくださいね」
彼女はそう言って負傷者のもとへ戻った。
呼び止めれば何かを確かめられたかもしれないが、今はそのための時間ではなかった。
奥の寝台では、少年が何度も同じ言葉を繰り返していた。
「お父さんが、まだ向こうにいるんだ」
「分かってるよ。町へ戻った人たちが探してくれてる」
「でも、あの鐘が鳴ったとき……」
少年はそこで言葉を切り、唇を震わせた。
付き添っていた女性が肩を抱き寄せると、彼はそれ以上話さず、顔を伏せてしまった。
その背中を見つめながら、鐘が知らせたのは火災だけではないのだと思った。
家を失った者も、家族と離れた者も、まだ何が起きたのか理解できていない者もいる。
その一人ひとりにとって、あの音は別々の意味を持っていた。
*
夕方、負傷者の手当てがひと段落したころ、井戸端で水を飲んでいた中年の男に声をかけた。
腕には軽い火傷があり、袖口の焦げた上着を肩にかけている。
「ラウネから来たんですか」
「ああ。市場の近くで荷運びをしてた」
「火事は、いつ頃始まったんでしょう」
「夕方だよ。昨日のな」
男は水桶を置き、遠くを見るように目を細めた。
「最初は市場の裏で煙が上がったって聞いた。俺が見たときには、もう南の通りまで火が回ってたよ」
「ずいぶん広がるのが早かったんですね」
「風が強かったからな。いや……あのとき、風はどっちから吹いてたんだ?」
男は眉を寄せ、首を振った。
記憶を確かめるように何度か口を開いたが、結局、答えは出なかった。
「すまん。頭の中がまだぐちゃぐちゃだ」
「いえ、こちらこそ。大変なときに」
謝って立ち去ろうとすると、男が呼び止めた。
「鐘は聞いたか」
「今朝、村でも聞こえました」
「そうか。俺は昨日も聞いたんだが……妙な気がしてな」
「妙、というと?」
「鐘が鳴ったから逃げたんだと思ってた。でも、逃げ始めたときにはもう鐘が鳴り終わってたような気もする」
火事の最中に時刻を正確に覚えている人など、そう多くはないだろう。
それでも男の戸惑いは、単に順番を思い出せないというより、自分の記憶に知らない継ぎ目を見つけたようなものだった。
「ほかの人にも聞いてみたんですか」
「ああ。三度鳴ったって言う奴もいれば、一度も聞いてないって奴もいた」
「同じ町にいたのに?」
「火事場じゃ、そんなもんなのかもしれん」
男はそう結論づけようとしたが、納得できない様子で手の甲を擦った。
火傷の赤い部分に指が触れ、顔をしかめる。
「それより、あんたも怪我人だろ。こんなところで立ってていいのか」
「……あまりよくないですね」
「だったら戻りな。俺みたいなのに話を聞いたって、まともな答えは出ないよ」
その言葉には疲れが滲んでいた。
礼を言って治療所へ戻ると、日が落ちる前の空は煙の色を薄く残したまま、静かに暗くなり始めていた。
*
翌朝、村の広場にはラウネへ運ぶ食料と水が集められていた。
焼け残った町で使える井戸は限られているらしく、荷車には水桶が隙間なく積まれている。
ガルドも手伝っていたが、こちらを見つけると気さくに声をかけてきた。
「おう、旅の人。傷はどうだい」
「少しずつよくなってます」
「そりゃよかった。森で大怪我をしたって聞いたからな」
彼の口調に、以前何度も話した相手への親しみはなかった。
けれど今は、覚えていないことを確かめるより、目の前の荷車に何が積まれているかのほうが気になった。
「ラウネへ行くんですか」
「ああ。向こうはまだ大変らしい。食い物だけでも届けないとな」
「火事の原因は分かったんでしょうか」
「まだだ。魔石灯が破裂したって噂もあるが、見た奴の話がばらばらでな」
魔石灯。
以前、ノルドが見せてくれた小さな火の魔石を思い出した。
炎を生む仕組みがある以上、扱いを誤れば火事の原因になり得るだろうが、町の一角を焼き尽くすほどの火がどう広がったのかは分からない。
「市場には魔石灯が多かったんですか」
「夜でも商売する店があるからな。倉庫にも置いてあったはずだ」
「そうですか」
ガルドは水桶を持ち上げながら、少し声を落とした。
「ただ、妙な噂もある。町の時計がいくつも止まったんだと」
「時計が?」
「火で壊れたんだろうが、針の位置が似てたって話だ。誰が言い出したかも分からんし、あまり真に受けるなよ」
それだけ聞けば、熱で壊れた時計が偶然同じような位置を指していたという話にすぎない。
しかし、鐘の音をめぐる証言の食い違いと重なると、無視することもできなかった。
「ありがとう。気をつけて行ってきてください」
「おう。あんたも無茶するなよ」
荷車が動き出すと、車輪が石を踏む音が広場に長く響いた。
その後ろ姿を見送りながら、森で見た白い亀裂のことを考えていた。
あの瞬間にも、何かの音がした。
鐘ではなく、紙をめくるような、薄く乾いた音だった。
*
治療所へ戻る途中、リシアが井戸のそばで子どもに水を飲ませていた。
ラウネから来た少年で、昨日、父親の名を呼んでいた子だった。
今日は泣いていなかったが、両手で杯を握りしめる指には力が入りすぎていた。
「お父さんのこと、まだ分からないの?」
リシアは急かさずに尋ねた。
少年は首を振り、杯の水面を見つめる。
「帰ってきた人が、探してくれてるって」
「うん。今はその人たちを待とう」
「……鐘が鳴らなかったら、逃げられなかったかもしれない」
少年の声がかすれた。
「僕、最初の鐘は聞いたんだ。でも、お父さんは『まだ鳴ってない』って言ってた」
「聞こえる場所が違ったのかもしれないね」
「同じ店にいたのに?」
リシアは答えを急がなかった。
少年の髪を撫で、ただ隣に座っている。
離れた場所で話を聞いていると、少年がふいにこちらを見た。
「お兄さん、時計って、火がつく前にも止まるの?」
「……どうして?」
「お父さんの店の時計が、止まってたから」
胸の奥が冷えた。
「いつ止まったか、覚えてる?」
「分からない。でも、僕が気づいたとき、まだ煙は見えなかった」
少年は慌てて付け加えた。
「壊れてたのかもしれないよ。前にも遅れたことがあったから」
「そうか。教えてくれてありがとう」
それ以上は尋ねなかった。
今の言葉を証拠として扱うには、確かめなければならないことが多すぎる。
それに、父親の帰りを待つ子どもに、火事の瞬間を何度も思い出させたくなかった。
リシアが少年を連れて治療所へ戻るとき、少しだけこちらへ振り向いた。
「無理をしていませんか」
「大丈夫。今日はあまり歩いてない」
「それなら、よかった」
彼女は穏やかに笑った。
その表情に、森で守ろうとした命が今ここにあることを確かめながら、同時に、ラウネで失われたものの重さから目を逸らしてはいけないとも思った。
*
夜、日記を開き、分かったことと分からないことを分けて書いた。
ラウネでは昨日の夕刻に大きな火災が起こり、複数の家屋が焼け、多くの人が村へ避難してきた。
火元は不明で、魔石灯が原因という話もまだ噂の域を出ない。
鐘については、聞こえた回数や順番が証言者によって異なり、時計が止まったという話もある。
『火災と森での出来事に関係があるという証拠はない』
一度書き、少し考えてから、その下に別の行を足した。
『ただし、時間の異常を思わせる証言が複数ある』
森でリシアを助けたとき、空に白い亀裂が走った。
あれが何だったのか、今も説明できない。
だからといって、遠くの町で起きた火災まで、そのせいだと決めつけるわけにはいかなかった。
窓の外から、かすかな鐘の音が聞こえた。
今度は村の鐘で、夜の時刻を知らせるいつもの穏やかな響きだった。
音が消えるまで待ち、日記の端に短く記した。
『ラウネへ行き、火災の経過を確かめる』
右肩はまだ痛み、脇腹の縫い目も歩くたびに存在を主張する。
それでも、町へ向かう道があることは分かっていた。
誰かを救ったことで、別の誰かが傷ついたのだとしたら。
そこまで考え、筆を止めた。
まだ確かめていない仮定で、誰かの不幸を自分の物語に取り込んではいけない。
明日、治療所の老人に相談しよう。
それから、ラウネへ向かう荷車を探す。
日記を閉じると、外はすっかり静かになっていた。
それでも耳の奥には、遠い町の鐘がいつまでも残っていた。




