第8話 白紙になった未来
ほんの少し短めです
朝の光が差し込んでも、熱はまだ引いていなかった。
寝台の脇に置かれた水差しへ手を伸ばすと、右肩の奥が鈍く軋んだ。
昨夜より少し軽くなった痛みに安堵しかけたところで、脇腹の縫い目が引きつれて息が止まる。
「顔色が悪いね」
薬草の束を抱えたリシアが、戸口に立っていた。
昨日も見舞いに来てくれたはずなのに、目が合った瞬間、彼女の表情には初対面の遠慮が浮かんでいた。
「……昨日も来てくれたんだ」
「あの、ごめんなさい。私、また何か忘れているみたいで」
責めるつもりはなかった。
それでも、言葉にした途端、彼女の眉が曇るのを見て後悔した。
「いや、気にしないでくれ。薬草を持ってきてくれたんだろ」
「はい。先生に頼まれて」
リシアはほっとしたように笑い、寝台の足元へ籠を置いた。
包帯の下にある傷を見つめる視線には、見知らぬ患者に向けるものとは違う痛ましさがあり、彼女自身もその理由を説明できずにいるようだった。
「森のことは、覚えてる?」
問いかけると、リシアは頷いた。
「大きな魔物が出て、誰かが助けてくれました。それから村へ戻って、人を呼んで……そこまでは、ちゃんと覚えています」
「助けた相手の顔は?」
彼女は首を横に振った。
「思い出そうとすると、そこだけ霧がかかったみたいになるんです。でも、声は……」
一瞬、胸が高鳴った。
「声?」
「優しかった気がします。怖がるなって言ってくれたような」
実際にどんな言葉を口にしたのか、もう曖昧だった。
死の恐怖の中で叫んだ声は、きっと優しさより切迫に満ちていたはずだ。
「そうか」
「それで、あの……あなたも森で怪我をしたんですよね?」
「うん」
「助けてくれた人と、同じ場所にいたんでしょうか」
彼女の問いに、すぐには答えられなかった。
目の前にいる相手と、命を救った相手が結びつかない。
それが今の彼女にとって、何の矛盾にもなっていないことが悲しかった。
「……同じ場所にいたよ」
嘘ではなかった。
けれど、それ以上のことを告げる気にはなれなかった。
*
昼過ぎ、治療所の老人が包帯を替えに来た。
「熱は下がり始めておるが、まだ寝ていろ。傷が塞がるまで、森はもちろん、畑仕事も禁止だ」
「分かっています」
「分かっておらん顔だな」
老人は鼻を鳴らし、縫い目の周囲を薬液で拭った。
痛みに肩が跳ねると、容赦なく押さえつけられた。
「生き残っただけでも運がよかった。これ以上、運を使うな」
運がよかった。
あの白い亀裂を思い出すたび、その言葉が喉の奥に引っかかった。
何かが間違ったと告げるような声を、確かに聞いたのだ。
「先生。この村には、未来を占う人がいるんですか」
老人の手が止まった。
「……どうしてそんなことを聞く」
「森へ入る前、誰かが危険を知っていたんじゃないかと思って」
「魔物が出るという噂なら、村中の者が知っとる」
「それだけじゃなくて」
言いかけて、口を閉じた。
定められた死などという言葉は、まだ誰にも話していない。
そもそも、それが事実なのかさえ分からなかった。
老人は新しい布を巻き終えると、しばらく黙っていた。
「東の外れに、占いをする婆さんがおる。病人の容体や、畑の雨を見立てる程度だがな」
「その人が、何か?」
「……昨日から、妙なことを言っておるらしい」
「妙なこと?」
「書いた覚えのあるものが、見つからんとな」
老人はそれきり話を打ち切り、薬を飲んで眠るよう言い残した。
*
翌朝、ようやく熱が落ち着いた。
寝台から立ち上がると脚が震え、壁に手をつかなければ数歩も歩けなかったが、老人に頼み込んで治療所の裏庭まで出る許しをもらった。
薄い日差しが頬に触れるだけで、閉じた部屋の空気から解放された気がした。
庭の柵越しに、リシアが薬草を選り分けているのが見えた。
声をかけようとしたところで、彼女が一人の老婆と話していることに気づく。
老婆は黒い布を頭に巻き、片手に木箱を抱えていた。
小柄な身体に似合わないほど大きな箱で、歩くたび中から紙の擦れる音がする。
「……だから、書いたのよ。あの日の朝に」
老婆の声が風に乗って届いた。
「でも、今は何もないんですか?」
リシアが尋ねる。
「何もない、というより……最初から書いていなかったようになっているの」
聞き覚えのある違和感だった。
思わず柵へ近づくと、老婆がこちらを見た。
「あんた、森で怪我をした旅人かい」
「ええ。少し話を聞かせてもらえませんか」
リシアが心配そうに顔を上げた。
「歩いて大丈夫なんですか?」
「長くは無理だけど」
老婆は足元から顔までじろじろと眺め、それから箱を抱え直した。
「話なら座ってお聞き。立ったまま倒れられても困る」
*
庭の古い長椅子に腰掛けると、老婆は箱の蓋を開けた。
中には細長い紙片が何十枚も収められていた。
どれも端が擦り切れ、日付らしき数字と、短い文章が記されている。
「私はセナ。昔から、村の者に頼まれて兆しを読む仕事をしている」
「兆し?」
「火の揺れ、水の濁り、星の並び。そこに少しばかり、私の術を足す。何でも見えるわけじゃないし、外れることもある」
そう言って、一枚の紙を抜き取った。
『北の畑、三日のうちに強い雨。収穫を急ぐこと』
「これは先月のもの。雨は二日目に降った」
別の紙には、家畜の病気を警告する言葉があった。
予言というより、経験と小さな魔法を重ねた見立てに近いらしい。
「それで、なくなった記録というのは?」
老婆は箱の底を探り、一枚の薄い紙を差し出した。
そこには日付だけが書かれていた。
ほかの紙片と違って、下半分が不自然に広く空いている。
「この日に、何を書いたんですか」
「それが思い出せない」
老婆は悔しそうに唇を噛んだ。
「ただ、あの子を止めなきゃならないと思ったのは覚えてる」
視線の先には、リシアがいた。
彼女は薬草を持つ手を止めた。
「私を?」
「森へ入るな、と言っただろう」
「……はい。言われました」
リシアは頷いたが、困惑しているようだった。
「でも、魔物が出るからだと思っていました」
「そう言ったのも確かさ。だけど、もっとはっきりした何かがあったはずなんだよ」
老婆は空白の紙を撫でた。
「占いの結果を見て、胸が冷たくなった。書き留めて、誰かに伝えようと思った。そこまでは覚えているのに、肝心な言葉だけが抜けている」
紙には、削り取った跡も、濡れた跡もない。
書かれたことのない紙のように、繊維が均一に白かった。
「別の紙に写したりは?」
「そんな大事なことなら、写しておくべきだったね」
老婆は苦く笑った。
「でも、私は一枚しか書かなかったと思う」
その返答に、胸の奥が沈んだ。
宿の帳簿から名前が消えたときは、レイという人間の記録が狙われたのだと思った。
だが、この紙に記されていたのは、どうやら別のことだ。
リシアの未来。
あるいは、森で起こるはずだった出来事。
「その日のことを、もう少し教えてください」
「何をだい」
「リシアを止めようとしたときのことです」
老婆は目を閉じた。
「朝、家を出て、あの子を見つけた。森へ行くと言うから止めたんだ。でも、途中で……」
「途中で?」
「急に、家の火が心配になってね。火なんて消してきたはずなのに、どうしても戻らなきゃいけない気がした」
そう言われて村人たちが次々に同行を断念したことを思い出す。
誰かが急に仕事を思い出し、別の誰かには家庭の用事ができた。
そのときは不運が重なっただけだと思おうとした。
「戻って、火はついていましたか」
「いいや。炉は冷えていたよ」
老婆は首を振った。
「戻った理由が、自分でも分からないんだ」
リシアが小さく息を呑んだ。
「セナさん、私のせいで……」
「違うよ。あんたが悪いんじゃない」
老婆は彼女の手を取った。
「生きて帰ってきてくれて、よかった。それだけは本当だよ」
二人の手が重なるのを見つめながら、別の問いが胸を刺した。
もし、この紙に彼女の死が書かれていたのだとしたら。
その記録が消えたのは、予言が外れたからなのか。
それとも、書かれていた未来そのものが、どこかへ押しやられたからなのか。
*
老婆が帰ったあとも、空白の紙が目に焼きついて離れなかった。
治療所の老人に事情を話すと、顔をしかめられた。
「セナの占いは当たることもあるが、絶対じゃない。怪我人が余計なことを考えるな」
「でも、紙に書いた内容まで忘れることはありますか」
「年を取れば、いろいろ忘れるさ」
「紙の方まで白くなるのは?」
老人は答えず、薬の瓶を棚に戻した。
否定できないから黙ったのか、それとも相手にするのが面倒になっただけなのか。
その表情からは読み取れなかった。
午後、リシアが一人で見舞いに来た。
「セナさんの話、気になりますか」
「……少し」
「私もです。でも、占いが当たっていたら、私はここにいなかったかもしれませんよね」
冗談にしようとしたのか、彼女はかすかに笑った。
その笑みがあまりに頼りなく見えて、言葉を探すのに時間がかかった。
「占いが何を示していたとしても、今ここにいるのは本当だ」
リシアは目を伏せた。
「そうですね」
窓の外では、子どもたちが何かを追いかけて走っていた。
誰かが転び、別の子が手を差し出す。
あまりにも普通の光景だった。
「助けてくれた人にも、そう伝えたいんです」
リシアがぽつりと言った。
「生きていますって。ちゃんと、ここにいますって」
喉の奥が熱くなった。
「……きっと、伝わるよ」
「そうだといいんですけど」
彼女は微笑み、薬草の束を置いて帰っていった。
扉が閉まるまで見送ってから、ようやく息を吐いた。
*
夜、日記を開いた。
セナの話を忘れないうちに書き留める。
占いの方法、日付だけが残った紙、森へ行くリシアを止めようとしたこと、理由もなく家へ引き返したこと。
『セナは、リシアに関する重大な兆しを記したと考えている』
『その内容は思い出せず、紙には日付しか残っていない』
書き終えてから、筆を止めた。
この記述には、ひとつ危ういところがある。
空白の紙に本当に死が予言されていたのかは、誰にも分からない。
本人さえ覚えていない以上、こちらの想像を事実として扱うべきではなかった。
少し考え、別の行を加えた。
『死亡の予言だったという証拠は、まだない』
その慎重さが、今は必要だった。
世界が何かを隠しているように見えるからといって、すべての偶然をひとつの答えに結びつければ、見えるはずのものまで見失ってしまう。
ふと、宿の帳簿を思い出した。
名前が読めなくなっても、部屋を借りた事実は残った。
ところが今回、セナの紙からは日付以外の内容が消えている。
消されるものは、名前だけではないのかもしれない。
その可能性を記すと、背中に冷たいものが走った。
もし、何かが未来の記録にまで手を伸ばせるのなら、リシアを救ったことで変わったものは、あの森の中だけに留まらない。
窓の外で鐘が鳴った。
村の夜を告げる、いつもと同じ音だった。
最後に、空白の紙の形を日記の隅へ描いた。
上には日付を写し、その下に、セナが覚えていたことだけを書き添える。
『リシアを森へ行かせてはいけないと思った』
一度目を閉じ、再び開く。
文字は残っていた。
安心しかけたところで、ふと奇妙な考えが浮かんだ。
消えた予言が示していたのは、リシアの死ではなく、彼女が生き残るはずのない理由だったのではないか。
答えのない問いを抱えたまま、日記を閉じる。
紙の端が指先をかすめ、小さな音を立てた。
その音が、森で聞いたページをめくる音と、ひどくよく似ていた。




