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一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?  作者: 入多麗夜


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112. 今できることから

 北部を発った馬車が王宮の正門をくぐったのは、午後の日差しが少しずつ傾き始めた頃だった。長旅を終えた馬たちが速度を落とし、蹄と車輪が石畳を踏む音もゆっくりとしたものへ変わっていく。窓の向こうには見慣れた王宮の尖塔や長い回廊が見え、門を守っていた兵士たちが帰還した一行に気づいて姿勢を正した。


 アリシアは窓から離れると、腕の中で眠っているエレナを抱き直した。移動中に何度か目を覚ました娘は、王都へ入る少し前から再び眠っている。北部でも帰りの馬車でも大きく機嫌を崩すことはなく、今も規則正しい寝息を立てていた。


 馬車が王宮の玄関前へ止まり、同行していた兵士が扉を開ける。アリシアはエレナを起こさないよう足元を確かめながら降り、出迎えに集まっている者たちへ目を向けた。その中に見覚えのある金髪を見つけ、思わず足を止める。


「ローゼン?どうしてここにいるの?」


 まだ執務をしている時間のはずだった。出迎えのためだけに仕事を中断してきたらしいローゼンは、問いに答えるより先にアリシアのもとへ歩いてくる。彼の視線は最初に妻の顔へ向かい、怪我がないことを確かめるように旅装姿を見たあと、彼女の腕の中へ落ちた。


「帰ってきたと聞いたから来たんだ。体調は? エレナも変わりないか?」

「私は大丈夫よ。エレナも元気。馬車の中でもよく寝ていたわ」


 ローゼンはその答えを聞いて、張っていた肩からわずかに力を抜いた。眠っているエレナの顔を覗き込み、頬の色まで確かめてから、ようやくいつもの落ち着いた表情へ戻っていく。それでもアリシアを見る目には、普段より慎重なものが残っていた。


 北部へ行くことを隠したつもりはない。エドガーに手紙を託し、護衛として王宮の兵士も借りている。危険な場所へ一人で向かったわけでもなく、アリシア自身は必要な準備をして出発したつもりだった。


「……アリシア。心配したんだぞ」

「手紙は残したでしょう?兵士だって連れていったわ」

「分かっている。手紙も読んだし、護衛を連れて北部へ向かったことも確認した。それでも、君とエレナが王宮からいなくなれば心配する」


 責めるような言い方ではなかった。北部へ向かった判断を咎めることもなく、ローゼンは帰ってきた二人を前に、自分が感じていたことをそのまま伝えている。


 アリシアは一度唇を開きかけ、それから言葉を選び直した。自分では十分に安全を確保していたつもりでも、王宮に残されたローゼンまで同じように安心できるとは限らない。まして今回はエレナも連れていたのだから、心配するなと言う方が難しいのだろう。


「……ごめんなさい。次からは、もう少し詳しく話してから行くわ」

「ああ。そうしてくれ」


 ローゼンはそこで話を終えた。眠っているエレナの頬へ指先で触れると、今度は護衛として同行した兵士たちへ向き直り、長い道中を無事に送り届けたことを労う。兵士たちが礼をして下がっていくのを見届けてから、アリシアと並んで王宮の中へ戻った。


 正門から続く広い廊下には、夕方の光が長く差し込んでいた。数日離れていただけの王宮は出発した時と変わっていないのに、北部の街道や警備隊の詰所を見てきたあとでは、その静けさが妙に印象に残る。行き交う侍従や文官がアリシアの帰還に気づいて頭を下げ、そのたびに彼女は軽く応じながら自室へ向かった。


 部屋へ戻って旅装を解き、エレナの世話を済ませたあと、アリシアは娘を連れてローゼンの執務室を訪れた。移動の疲れは残っていたものの、北部で見てきたことを何日も置いておく気にはなれない。現地へ行ったからこそ考えられたこともあり、それについては自分の言葉で伝えておきたかった。


 執務室では、窓から差し込む夕方の光が床の上へ伸びていた。机には途中になっている書類が何枚も残されており、アリシアを迎えに出たことで仕事が止まっていたことが分かる。ローゼンは書類を脇へ寄せ、向かい側の椅子を勧めた。


「それで、北部まで行って何を確かめてきたんだ?」


 アリシアは自分の名を使って売られていた薬について話し始めた。かつて北部で薬師をしていた自分が作っていたものだと称して売られ、それを口にした者の中から体調を崩す人が出ている。売った者や仕入れ先については、アルノーたち北部警備隊が引き続き調べていた。


 ローゼンは口を挟まず、アリシアの報告を最後まで聞いていた。北部へ向かうきっかけとなった薬について一通り伝え終えると、アリシアは膝の上のエレナを支え直し、今度は向こうで考えてきたことを話し始める。


「それでね、ローゼン。関所を増やせないかと思っているの」


 予想していなかった話だったのか、ローゼンがわずかに眉を上げた。アリシアは北部でアルノーと広げた王国全体の地図を思い浮かべながら、自分たちが考えた案を順番に伝えていく。


「そこで荷物を確認する人を、民間から募集するの。必要なことを教えて、書類や荷物の確認を任せる。何か問題を見つけた時には警備隊に知らせてもらえばいいと思うの」


 関所を増やせば、そこで働く人間も必要になる。新たに人を雇うことができれば、それぞれの地域に働き口を作ることにもつながる。北部には街道の発展とともに人が集まっており、王都から人員を送り続けるより、現地で働きたい者を募る方が長く続けやすいのではないかとアリシアは考えていた。


「それなら新しい働き口にもなるでしょう?北部には人も増えているし、関所を置く地域ごとに募集できれば、王都から全員を連れていく必要もないわ」


 ローゼンはそこで小さく頷いた。アリシアはさらに、アルノーから指摘された問題についても話す。民間から雇った職員を長期間同じ関所へ置けば、頻繁に通る商人と顔馴染みになり、確認を甘くしたり、金銭を受け取って荷物を見逃したりする者が出る可能性がある。


「だから、定期的に働く関所を変えるのはどうかと思っているの。同じ人と同じ商人がずっと顔を合わせなければ、少しは防げるでしょう?」


 考えを口にしながら、アリシアは北部で見た地図を思い返していた。関所が一つだけなら配置を変えることはできないが、街道に沿って複数設けるのであれば、その間で働く者を入れ替えることもできる。どの程度の間隔で変えるのがいいのかまでは、これから考える必要がある。


 さらに、この仕組みを北部だけのものにする必要もない。アリシアの頭には、つい先日まで王宮で話し合われていた新しい街道のことがあった。アリスの母国との間で道を整備すれば、人の往来だけではなく、国境を越えて運ばれる商品の量も増えていく。


「北部だって、道が便利になって人や荷物が増えたでしょう? これから新しく道を整えるなら、同じことが起きる前に関所も一緒に考えておいた方がいいと思うの」


 そこまで話し終えると、執務室はしばらく静かになった。ローゼンはすぐには答えず、机の上で両手を組んだまま考えている。アリシアも結論を求めることはせず、腕の中で服を握っているエレナの小さな指を見ながら待った。


 関所を増やすという一言だけなら簡単でも、実際に形にするとなれば話は変わる。場所を選び、建物を用意し、働く者を集めなければならない。給金や採用の基準も必要になり、荷物を確認させるなら、何を見ればいいのか教える仕組みも整えなければならない。


 アリシアも、自分が北部で考えてきた案をそのまま明日から始められるとは思っていなかった。現場で見つけた問題への一つの答えとして持ち帰ったものであり、国全体で行うならローゼンや文官たちが確かめるべきことは数多くある。


 やがてローゼンが顔を上げた。


「アリシア。君の考えはよく分かった。考慮しようと思う。ただ、少し先になりそうだ。その場しのぎにはなるが、人員なら増やせるがどうだ?」

「北部警備隊の人数を増やすの?」

「ああ。少なくとも今の負担を減らすことはできる。関所を新しく作って、人を雇って、教育して、配置するとなれば、明日から始められる話ではないからな」


 アリシアはすぐに答えず、北部で過ごした時間を思い返した。自分たちが制度について考えている間にも、街道を通る荷物は増え続けている。新しい仕組みを作るために時間が必要だからといって、その間の負担を放置していい理由にはならない。


 先々まで使える仕組みを整えることと、今すぐできることを始めることは両立できる。ローゼンが提案した増員は根本的な解決にはならなくても、少なくとも新しい制度が形になるまでの時間を作ることはできる。


「……そうね。仕組みができるまで待っている必要はないもの」

「必要なら王都からも人を出せる。北部だけで増員するより、その方が早いだろう」


 ローゼンは現在の人員配置を確認し、北部へ回せる者がどれほどいるか調べるつもりだった。新しい制度が整えば再び配置を見直すことになるとしても、今できる対応を先に進めておけば、現地にも多少の余裕を作ることができる。


「だったら、何人必要なのかはアルノーにも聞いてみて。私たちだけで人数を決めるより、今あそこで働いている人に聞いた方がいいと思うわ」

「そうだな。北部警備隊へ確認させよう。どこへ人を増やすのがいいかも、向こうの意見を聞いてから決める」


 話がまとまると、アリシアはようやく椅子の背へ身体を預けた。北部へ向かった時には、自分の名前を使った薬が売られている理由を確かめるつもりだった。そこから考え始めた関所の仕組みについても、すぐに実現するわけではないとはいえ、王宮へ持ち帰ることができた。


 ローゼンは机の上に残っていた書類へ目を向けたあと、向かい側に座るアリシアを見る。北部への増員について確認する仕事が新しく加わったことになるが、その表情に迷いはなかった。


「まずは増員を進める。関所の方は、街道整備の話と合わせて考えよう」

「ええ。それでお願い」


 返事をしたアリシアの腕の中で、エレナが小さく身じろぎした。眠りから覚めかけているらしく、閉じていた瞼がゆっくりと開く。しばらく母の顔を見上げていたエレナは、そのすぐ向こうにローゼンを見つけると、小さな手を伸ばした。


 ローゼンが椅子から少し身を乗り出して指を差し出すと、エレナはそれをしっかりと握った。つい先ほどまで北部へ送る人員について考えていた国王の表情が柔らかくなり、アリシアはその様子を眺めながら口元を緩める。


「それじゃあ、私はエレナを連れて戻るわ。ローゼンも仕事を増やしすぎないでね」

「ああ。アリシアも今日は休んでくれ。帰ってきたばかりなんだから」


 アリシアはエレナを抱き直して立ち上がった。扉へ向かう途中で一度振り返ると、ローゼンはすでに机の書類へ手を伸ばしている。おそらく北部へ回せる人員についても、今日のうちに確認を始めるつもりなのだろう。


 北部で考えた新しい仕組みが形になるのは、まだ先になる。それでも、今すぐ動かせる人と、今すぐ減らせる負担はある。アリシアが北部から持ち帰った話を受けて、王宮でも新しい動きが始まろうとしていた。

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