三話 薬師の家
玄関の扉が静かに閉まる。
外では風が木々を揺らしていたが、家の中は驚くほど穏やかだった。
棚には色とりどりの薬草を入れた瓶。
乾燥させた花束が天井から吊るされ、窓辺には小さな鉢植えが並んでいる。
どれも丁寧に手入れされていた。
「どうぞ、こちらにお掛けください。」
リュカは木の椅子を引き、七瀬へ勧める。
「ありがとうございます。」
七瀬は緊張しながら腰を下ろした。
椅子も机も手作りなのだろう。
木の温もりが心地よい。
リュカは暖炉へ薪を一本くべると、小さな鍋に水を入れた。
「お茶を淹れます。」
「少しお時間をいただきますね。」
「はい。」
部屋には薪が燃える音だけが響く。
沈黙なのに、不思議と居心地が悪くない。
七瀬は部屋の中を見回した。
壁一面には本棚。
並んでいるのは、薬草図鑑や魔導書らしき分厚い本。
机の上には開きかけの本と銀縁の丸眼鏡。
何枚もの紙には細かな文字がびっしりと書き込まれている。
(勉強家なんだろうな……)
そんなことを思っていると、
「お待たせしました。」
リュカが木の盆を持って戻ってきた。
湯気の立つ木のカップが二つ。
ふわりと花の香りが広がる。
「こちらは”ルーナリーフ”という薬草のお茶です。」
「気持ちを落ち着かせる効果があります。」
「ありがとうございます。」
どんな味だろう?と少し躊躇していると、
リュカは少しだけ笑って言った。
「苦くないですよ。」
「実は僕も苦いものは得意ではありませんので。」
「そうなんですか?」
「薬師さんって、苦いものでも平気なのかと思っていました。」
「よくそう思われます。」
リュカは少し照れたように笑う。
「ですが、苦い薬は飲むたびに覚悟が必要です。」
その答えに、七瀬は思わず笑ってしまった。
「ふふっ……あっ」
慌てて口元を押さえる。
「申し訳ありません。笑ってしまって。」
「いえ。」
リュカも小さく笑う。
「笑っていただけて安心しました。」
「森でお会いした時は、とても辛そうなお顔をされていましたから。」
その言葉に、七瀬は少しだけ俯いた。
「……すみません。ご迷惑をお掛けしてしまって。」
リュカは静かに首を横へ振る。
「迷惑だなんて思っておりません。」
「困っている方を助けるのは当然のことです。」
「それに…」
少しだけ言葉を選ぶ。
「ナナセさんは、お一人なのでしょう?」
七瀬は小さく頷く。
「はい。」
「気づいた時には、この森にいました。」
「どうしてここへ来たのかも分かりません。」
「帰る方法も……」
声が震えた。
俯いた視界に、一滴だけ涙が落ちる。
慌てて拭う。
泣くつもりなんてなかった。
けれど、張り詰めていた心が限界だった。
「申し訳ありません……。」
「人前で泣くなんて……。」
リュカは少しだけ困ったような表情を浮かべる。
そして、ポケットから白い布をそっと差し出した。
「お使いください。」
「……ありがとうございます。」
七瀬は布を受け取る。
真っ白なハンカチだった。
ほのかに薬草の優しい香りがする。
涙を拭くと、不思議なくらい気持ちが落ち着いていく。
「少しだけ、お話を聞かせていただけますか。」
リュカの声は穏やかだった。
尋問ではない。
七瀬を知ろうとする優しさがあった。
「もちろん、お話ししたくないことは無理にお聞きしません。」
「……はい。」
七瀬はゆっくり息を整える。
そして、自分の世界のことを少しずつ話し始めた。
リュカは一度も話を遮らなかった。
驚きながらも、静かに耳を傾けている。
「……信じられませんよね。」
七瀬が苦笑すると、
リュカはゆっくり首を横へ振った。
「いいえ。」
「ナナセさんが嘘をついているようには思えません。」
その一言に、七瀬は目を丸くする。
「信じてくださるんですか?」
「はい。」
迷いのない返事だった。
「この世界には、不思議なことがたくさんあります。」
「でしたら、七瀬さんがお話しくださった世界が存在しても、おかしくはありません。」
七瀬は胸が熱くなるのを感じた。
否定されない。
信じてもらえる。
そのことが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。
しばらくして、リュカは静かに口を開く。
「……一つ、お伝えしなければならないことがあります。」
その声音は先ほどまでより少しだけ真剣だった。
七瀬も姿勢を正す。
「この森は、王国の北にある『精霊の森』です。」
「そして、この世界では…」
リュカは一度言葉を区切る。
「ごく稀に、ナナセさんのような『迷い人』が現れるという伝承があります。」
七瀬は息を呑んだ。
「……迷い人?」
「はい。」
「ですが、それは何百年も前のお話です。」
「実際に迷い人を見たという人は、今ではほとんどおりません。」
リュカ自身も、その話を本で読んだことがあるだけだった。
だからこそ、目の前の七瀬が本当に”迷い人”なのか、まだ確信は持てない。
それでも一つだけ、彼の胸に引っかかることがある。
森で見た、あの光景。
七瀬の周りを嬉しそうに舞う精霊たち。
(あれは……何だったのでしょう。)
その疑問を口にすることはなかった。
まだ、七瀬を不安にさせたくなかったからだ。
暖炉の火が静かに揺れる。
その穏やかな時間を破るように…
コン、コン。
玄関の扉を叩く音が響いた。
リュカは時計を見る。
「……こんな時間に?」
この森を訪ねてくる者は、滅多にいない。
彼は七瀬へ安心させるように微笑む。
「少々失礼いたします。」
そう言って玄関へ向かった。
七瀬は木のカップを握りしめたまま、その背中を見送る。




